◆あかねの日記
凛子さま作


きのう、あかねは死んだ_...。
享年61歳。そう思いたかった。だってあかねは16歳なのだから。

一ヶ月ほど前、あかねはその激痛に耐えかねて小野接骨院へ向かったのだった。その日、あかねは帰らなかった。
そのまま大型病院へ入院したのだ。“検査入院”。
一週間後、検査結果がでた。診断結果は残念ながら、原因不明。
しかし末期のものには違いなく、あまりいい状態とはいえないのも事実だった。
診断は、天道家その他居候を含めみんなで聞きに行ったが、診断を受けたあかねに、驚きの色は見られなかった。
いや、正確に言えば、驚いた顔をして、「えっ!?」とまで声を上げたのだ。
でも、乱馬には気配でわかった。あかねはずっとずっと前から、自分が重病にかかっていることに気付いていた...と。
その日、あかねは家に帰ってきた。
あかねが懇願したわけでも、家族が強要したわけでもなく、医師がそうするように勧めたのだった。
あかねは入院中の一週間よほど緊張していたのか、自宅療養という言葉に、安堵の色を隠さなかった。

それから一ヶ月間、あかねは見る間に衰弱していった。元気で、快活だった彼女は影を薄めてゆく。
そしてきのう、あかねは目まぐるしい病魔との闘いの中で、穏やかな眠りの中で、永い永遠の眠りについたのだ。

最期にあかねと言葉を交わしたのは、乱馬だった。乱馬はこれまで、衰弱していくあかねの前でも、ごく普通に接していた。
そしてまたあかねも、強烈なパンチこそ飛ばさなくなったが、口だけは達者にふるまっていた。
きのうも、乱馬はいつものように、あかねの部屋のドアを開けて、「おやすみ」と...。いつものように、あかねも、か細い声で「おやすみ...」と笑顔をかわしたのだった。


乱馬は、主人の居なくなったあかねの部屋に居た。新調した黒い服を着て。

あかねはいつから、そんなそぶりも見せずに病気を抱えていたのか。乱馬はずっと気になっていた。
いつからあかねは...。乱馬はあかねの学習机の引き出しに手をのばし、日記を開いた...。

 ―数日ぬけているのは、中国に行ってた分。―

中国に日記帳を持っていかなかったのがすぐにわかってしまうこのメモに、あかねらしいなと、少し笑ってみた。文字は、とても几帳面に綴られている。あかねらしく、彼女らしく。
バラバラと適当にページをめくって、乱馬はもうひとつ、同じような文を見つけた。

 ―この一週間は病院に入院していた分。―

 ―今日、やっと帰ってこれた。やっぱり原因不明だって。私はなんとなくわかってた。重い病気なんだ。って。
   私は知ってたけど...。このこと聞いて、乱馬はどう思ったかな...?―

自分の名前が出てきて、乱馬は驚いた。この文に、返事を返さなければならない気さえしてきた。
俺は...悔しかった。誰にもお前を傷つけさせないようにしてきたのに、病気からは守ってやれなかったんだから...。

診断結果を聞いたあと、乱馬はこっそり医師と面談していた。皆が帰ったのを確認して、もう一度診察室へ押しかけたのだ。
あかねの病気は、自分のせいではなかったのか...と。信じてはもらえぬだろうと思いながらも、中国で体の水分が蒸発してしまったということも伝えた。...が。医師から返ってきた言葉は、予期せぬものだった。
「もう二、三年も前から病気にかかっていたようだったよ...。」
二、三年前。乱馬とあかねが出会って、まだ一年も経っていない...。乱馬はなぜか、一人で帰った道の上で、無力感や脱力感を背負いながら、一歩ずつ歩みを進めた。
せめて、俺のせいであったほうがよほど良かったのか...。自問自答をやめることは出来なかった。

日記を追う目はかすかに涙で滲んだ。ページを最初まで戻り、乱馬は立ったまま読み始める...。
様々なことが...様々な二人の出来事が...乱馬とあかねの記録が、そこにはあった...。

窓から射していた光も力を失い、乱馬はふと顔を上げた。電気の紐に手をのばし、蛍光灯を灯す。
疲労がたまっていたのか、足はベッドの方へ向き、腰をおろした。きのうまで、あかねが寝ていた布団の感触...。
日記の次のページをめくると、久しぶりに病気のことが書かれていた。

 ―最近すごく体が軽い。けっこう前からなんだかおかしいなって思ってたけど...。乱馬と話してると元気になる。なんか
   嬉しい。もっと...このまま側に居たいな...。―

いっきに赤面する自分がいた。乱馬はまともに文字を見れなくなってしまった。あかねの素直な気持ちに触れて、今までつっぱっていた自分を悔いた...。本を見ないままでページをめくったら、日付がかなり飛んでしまっていた。検査入院から帰った日の日記だった。

 ―先生は三ヶ月って言ってたけど、多分もっと死期は近そう...。わたしそんな気がする―
指先から身体まで凍りついた。
あかねは知っていたんだ...。自分の命の短さを...。そう思ったら、涙が止まらなくなってしまった...。

しんとしていた部屋の外から、かすみの呼ぶ声がした。
「乱馬くーん?なびきー?あかねが...出棺です。降りてきてねー?」
「はい!!」
乱馬が返事をした後も、隣のなびきの部屋は、相変わらずしんとしていた。妹の死は、やはりこたえるのだろう。
いそいで涙を拭い、日記を机にしまった。

 ―...出棺。―
死ぬな...なんで死んだんだよっ...あかねのバカ野郎っ!!勢いよく引き出しを閉めて、部屋を後にした。

一階でも...時の流れは静けさに満ちていたらしい。それぞれに皆、泣き疲れた表情をしている。白い花で飾られた祭壇の上のあかねだけが弾んだ笑顔を見せていた。乱馬が愛したあの可愛い笑顔は、もう冷たい頬をしている。
一体いつから...。
せめて好きだと伝えておけばよかったと、頭の中がくらくらした。

「お姉ちゃん...コレ。あかねの日記...。一緒に入れてあげよう...。」
「なびき...!?」
さっきまで自分が読んでいた日記。突然現れたなびきに乱馬は一瞬躊躇した。やはり、なびきも一人で泣いていたかったのだろう、白目がピンク色をしていた。乱馬が机の引き出しを閉める音で気が付いたと言われ、複雑な気分になった。
「あちらでも日記をつけたいかもしれないものね。」
かすみが手を差し出し、なびきが手渡そうとしたが、寸でで距離が足らず、日記帳は足元へ舞い落ちてしまった。
バササッという音は、普段より大きく聞こえた。
「あら。」いけないわ。といった調子でかすみが呟く。赤いハードカバーの日記帳が最期の文字のページを開いていた。それは乱馬への言葉。誰もが一瞬にしてそう理解した。そして乱馬本人も。

 ―好き―

涙腺が締まらなくなってしまった。乱馬の目から大粒の涙がつぎつぎ溢れてくる...。目を瞑ったら、嗚咽が洩れて肩が
震え出してしまった。何故だかわからないが、自分を責めたくてしかたがない。乱馬は畳に崩れ落ちて泣いた。それをとがめる者など、誰一人居ない。すっかり息があがってしまった乱馬をのどかが優しく撫でてやっていた。

そのうち、黒塗りの車が門の前でブレーキをかけた。あかねを乗せていくための車だ。乱馬が立ち上がろうとすると、早雲が声をかけた。
「乱馬くん、無差別格闘流は君に継いでもらうからね。」
「おじさん...。」
力強い言葉に、身体が救われたような気さえした。あかねが居なくなって、これでもう乱馬には本当に格闘しか残っていない。
意識が朦朧としていた乱馬の目の前に、紅い炎がゆらめいた。
点火のときだった。
乱馬の背中に焦燥が駆けめぐっていく...!!もう...守れない...。

「あかね――――!!!!」



「どうかしたの?...悪い夢?」
あかねのやわらかい声で乱馬は覚醒した。
アイボリーのカーテン、白すぎて落ち着かないシーツ、少し高いまくら、薬品っぽい匂い。まぎれもなく病院のベッドの上だった。
「あ...いや...。」
先日、乱馬は原因不明で倒れて緊急入院した。本当に病気だったのはあかねではなく、乱馬だったのだ。

よほどさっきの夢に緊張していたのか、汗びっしょりになって横たわっていた。のどかが隣でタオルを硬く絞っている。夢の中の優しく背中を叩く手は、のどか本人のものだったのかもしれない。
さっき、大声で「あかね」と叫んだのを聞かれてしまったのだろうかと、二人をかわるがわるみつめたが答えは出なかった。
台の上に置いてあったはずの、あかねの赤い日記帳が床に落ちていた。
日記をつけていたあかねが、自分を覗き込むときに落としてしまったのだろうか、と乱馬はひとりで考えていた。
開いているページに何か書いてある。

 ―......―

日陰になっているのも相まって、視力の落ちた今の乱馬にその字は見えなかった。
「平気?」
心配そうなあかねの声が頭の上に降ってくる。
今の病状を自力で把握できない乱馬は、充分元気なつもりなのだが、体の方がいうことを聞かない。とりあえず“気”は元気な乱馬は、心配そうにしているあかねの方を心配したかった。
「あぁ...。んなに心配すんなって...」

きっと彼女は私も残りたいと申し出て一歩も引かず、夕べはここに泊まったのだろう。お袋と一緒に...。春休み中だから、
かすみも許しを出したと見える。
寝覚めにくたびれた息子に、のどかが一声かけた。
「乱馬、汗をかいて喉が渇いたでしょうから何か飲み物を買ってきてあげるわね。」
乱馬はうなずいて返答した。
「おばさま、私が行って来ます!」
「いいのよ、あかねちゃん。日記の続きでも書いていて。」
そう言って、あかねに日記帳を渡しのどかは病室を出て行ってしまった。
あかねは少し申し訳なさそうな顔になった。お袋は夕べ寝ていないのかもしれない。
「おばさま...。」

「あかね...死ぬんじゃねーぞ...。」
「えっ...!?」
口に出してしまってから、乱馬はしまったと思った。言うつもりも無く、頭に浮かんだ言葉が思いがけず声となりはててしまった。
さっきの夢が頭に焼き付いて離れようとしない。
その言葉を聞いて、硬まってしまったあかねの手から、また日記帳が床へとすべり落ちた。さっきと同じページが開いている。
何度も開いてくせがついているように、そのページを開いて日記帳は落ち着く。
やわらかい正午の日差しはあかねの呆然とした顔を照らした。乱馬は日記帳を拾い上げる。

 ―好き―

日陰から出た瞬間、その二文字が乱馬の目に飛び込んだ。...さっきの...。乱馬はとっさに思った。
「あか...ね...。」
「...へ?...」
視線を乱馬へと戻したあかねは、自分の見慣れた字に赤面する。絡み合ったままの視線は、心地好い緊張を生み出した。その
あたたかい静寂を破るように、乱馬が声を発した。夢の中のような後悔はしたくないから...

「あかね...好きだ...。」
「っ...乱...馬...。」
「俺はもういつ死んでもおかしくねーんだろうから...死んじまう前に...伝えときたかったんだ。」そこまで言って乱馬は微笑んだ。
すんなり言えてしまったことにも、驚けた。死期が近いんだろうか...。
「だから...守ってやれなくてゴメンな...他にイイ奴見つけて」
「居なくなっちゃ...イヤよ...」
「あかね...。」
見詰め合ったままの彼女の大きな瞳に、泪がひかっていた。

『死ぬのがあかねじゃなくて...良かった...。』あかねと出会ったところから、走馬灯が回り始める。そこで記憶が途切れた。
最近は、一日に一時間も起きていられない。さっき夢を見たのもずいぶん久しぶりのことだった。


「やぁ。起きたかい。」
気がつけばもう月が昇っていた。早雲が心配そうな面持ちで乱馬を見ていた。電気はついていない。消灯の時間さえすっかり回ったようだ。玄馬はベッドの端で熟睡している。
あの後のあかねの様子が思われて、落ち着かないでいると「あかねなら、ちゃんと家に帰ったよ。」と返事が返ってきた。
それを聞いてやけにほっとした。
思いがけず指先に力が入ると、手にはまだあかねの日記帳が抱かれたままだった。

昼間の出来事と、哀しい夢がかわるがわる胸を突いて苦しい。
あかねが死ぬのも、自分が死ぬのも辛さにさほど差が無かった。結局、愛しい人を守ることは出来ないのだから。
顔をうつむけたまま、知らずにため息が出た。

「乱馬くん、」月を見上げた早雲が呼びかけた。
青白い光はこんな傷身にも綺麗に見えるのだな、と乱馬は早雲の伸びた影を目で追いながら思った。月は、満月に見えた。
「無差別格闘流は君に継いでもらうからね。」
わけの分からない緊張が乱馬を一瞬のうちに呑み込んだ。自分にそんな力(モノ)は残っていない。瞬き出来なくなってしまった瞳から、涙がこぼれた。“どうして”と問う気力さえ奪われてしまった。
ただひたすら涙を流している乱馬に、もう一つ言葉が降ってくる。
「天道道場(うち)へ帰れることになったよ。そろそろ病院も飽きたろう。」
月を見たまま早雲が優しく告げた。

死を予告する言葉だと、乱馬は悟った。もっと恐ろしいかと思っていたが、意外と簡単なものだと思った。
それよりも怖かったのは、あかねの涙だった。これからどうすればいいだろうか。泣く顔に送られて逝くのは気が引ける。
乱馬は夜ごとあかねを笑わせる方法ばかり考えていた。そんな自分が滑稽に思えてくる。たまにひとりで笑った。

朝日がやけに赤かったように思う。
まだ誰も起きていないような時間に、乱馬は一度目を覚ました。夕方のような光が、東の窓から溢れてくる。白い昼白光に変わる頃には、乱馬はまた眠っていた。そう、きのうからずっと、あかねの日記をにぎりしめたままで。


『うちに...帰れるのか...。』



乱馬の耳に、障る音が響いた。天道家の朝の音だ。あかねが階段をのぼってくる。もっとおしとやかなら可愛げもあるのに...。

バシッ!!!
勢いよくふすまが開く。まったく、病人に対して気兼ねがなさ過ぎる。と乱馬は思った。
「休みだからっていつまで寝てるのよぅ!」
苛立ったあかねが乱馬の布団をひっぺがす。
一瞬時計が目に入った。AM8:32。次にあかねと目が合う番。
「病人にはもっと優しくしろよ...。」眠気まなこでまくらにしがみつきながら声を発する。
「誰が病人よ!誰が!!」

あかねの空気によく反響する声が、頭の中で爆発した。

「......。」
「ちょっと乱馬!?」
「...夢...。」
「夢?」
「そうか、夢だったのか!!」
そう、あの哀しい二つの出来事は全て幻だったのだ。
それが分かったら嬉しくて、気がついたときにはもうあかねの両手を掴んでいた。
「ちょっ、ちょっと乱馬?」
何がなんだか理解できないあかねは不思議そうな顔をしている。とたん、目が合って、繋がっている手が熱を持った。
二人で、振り払うように手を離して、背を向け合う。

「...なんのつもりよ。」
「......死ぬんじゃねーぞ。あかね。」
あかねの視線が、背中に刺さった。
「乱...馬...?」
あかねが、愛しい。

「勝手に...殺さないでよね?迷惑よ。」
「めいわくだと...?」
「そうよ」

「これから先、ずっとあんたの面倒見ていくのはあたしなんだから!先に死んでやるもんですか!」
「俺だってなー―!!先に死んでやるもんかっ!!」
もう一度目が合った。と、どちらからとなく笑みがこぼれた。緊張していた筋肉が緩んでいく。

「ごはんですよー――?」
かすみのやわらかい声が届いた。


「早く行かないと、朝ごはんなくなっちゃうよ?」

やさしいほほえみが目の前にあった。


「ああ...。」
あかねが、可愛い。








作者さまより

長い長い駄文に最後まで付き合っていただき、本当に有難うございます。
始めの葬式のシーンに多少時間的無理があったと思うのですが、乱馬くんの夢だったということで、お許しいただけたら幸いです。

時間が空いたら、サイトにもちょくちょくお邪魔したいと思っているのでその時にはよろしくお願いいたします。
最近では、お邪魔するたびに素敵に変身している呪泉洞ですから、私が次にお邪魔できるときのことを思うと、期待で胸が膨らみます☆☆

凛子


 のっけは、いきなり「あかねちゃんがあっ!」…でしたので、どうなることかとハラハラしながら読ませていただきました。
 「良かった!夢で。」と思われた方も多いのでは?
 いわゆる「ダーク系」は余程でない限り、受けないと公言しておりますので、さすがに「呪泉洞」へはこの手は投稿が少ないのですが…。
 二次創作には「もし…だったら。」という原作より突っ込んだところを書いたり読ませていただく楽しみもあります。

 私も一本、長編でそのあたり(死生観)を突っ込もうと、かなり以前からごそごそ、プロットの練りこみをやっているのですが…。一筋縄でいかない状況です。
 夢とはいえ、乱馬の心情はたまらなかったのではないかと思います。

 凛子さまも、なかなか、ネットに集中できる環境ではないということで、なかなか筆が進まないご様子ですが、それでも、「呪泉洞」へ継続してお書きいただきありがとうございます。
(一之瀬けいこ)