◇アイデンティティー 後編
久遠未季さま作


2、
 ここに、彼の欠落した経験がある。彼は記憶にとどめているはずなのだが、これらの中には心の中で必死に忘れようとしている事実があるのだ。意識的にしろ本能的にしろ、その事実は己にとって危険なのだろう。
 そんな事実を認めることが出来るだろうか?認めたくないからこそ、消したままでいたいのだろう。良い思い出も悪しき事実も、裏を返せば己を滅ぼし、否定するものだ。



「待ってよ、パンスト太郎!パンスト太郎ったら!」
 そう言いながら、彼を追って走る少女がいた。
 しかし、彼は止まろうとする素振りも見せない。それでもそのユイリィという少女が余りにしつこいので、ついに彼は振り向きざまに立ち止まり、叫んだ。
「その名前を呼ぶんじゃねえ!」
「そんなこと言っても、それがあなたの名前なのだからしょうがないでしょう。」
「回りの奴らに、俺がパンスト太郎だってことが解られちまうじゃないか!」
「この村の人ならみんな、あなたがパンスト太郎だってことを知っているのですよ。あなただって解っているのでしょう?」
「・・・勝手にしろ。」
(まったく、嫌な奴だぜ。)
 パンスト太郎は手近なところにあったバケツの水をかぶり、変身した。
 ユイリィなどに構っていては、目的の場所に着くことなどできはしない。翼をもつこの姿に変身して、手っ取り早く行こうというわけだ。
 ユイリィという少女は幼年時代からの腐れ縁で、事あるごとに彼に付きまとってくる。そんな彼女の行動は彼としては迷惑なのである。互いに何か特別な感情を抱いていると言うわけでもなく、十三歳ともなった今でも、その関係は昔と変わらない。
 彼が翼を広げ、飛び立とうとした時である。
「よいしょっと・・。」
 そんな掛け声と共に、背中の上に何者かの体重がかかることを彼は感じた。
 彼は後ろの方を睨みつけるようにして振り向いたが、彼の上に載るユイリィはそうする事が当然のような顔をしている。
「別にいいでしょう?私もそこに連れて行ってくださいな。」
 そう言うと彼女は頑として動こうとしない。
「・・・・・・。」
 パンスト太郎は何も言わずに(そもそも、変身している今は何も言えないのだが)、飛び立った。今回だけなら、彼女がついてきても害はないだろうと割り切った。いや、むしろ今回のような時こそは誰かについてきてもらいたいという気持ちがあった。

 今回彼が目指したのは中国の本政府である。村の掟では、産湯を浸かわせた者にしか命名権と改名権がないということだが、もっと大きな機関の決まりの中でその権利を実行してしまえば良いのではないか。それが彼の考えであった。
 彼の村は政治的には特区、自治区に指定されていて、それぞれの地域にあわせた条例のようなものなどがあった。『村の掟は絶対』という風潮は、共産主義の中国国内でも例外的に、そして正式に認められたルールなのだ。
 だがそんな村の者達とて、中国という国に住む民である事に変わりない。中国全土で使われるのルールも通用するのだろう。
もし村の者が彼の改名を拒否しても、大きいものには逆らえないはずだ。大体、中国本土あってこその特別区だ。
 彼は法律や政治に詳しいというわけではないが、彼なりに必死に調べて出てきた答えの一つが、これであった。どこにいるとも知れない名付け親を探すよりは現実的だ。
「中国の民法に『氏名権』というものがあって、自己の指名を決定、使用及び規定に伴い変更できる・・・というのを調べたのは私なのですから、付いていって当然でしょう?パンスト太郎一人では、とてもこんな面倒な手続きなどはできないでしょう。だから私も付いていってやるというのです。」
 ユイリィは自慢げに言った。しかしこうもあからさまに言われると腹が立つもので、やはり別の奴を連れてくるのだったと彼は考える。
「それに私が行かなければ、誰もあなたに付いて来てくれる人などいないのでしょう?」
「・・・。」
 悔しいが、ユイリィの言うとおりであった。彼には友達などいなかったし、話し掛けてくれるような人もこのユイリィぐらいしかいない。
 確かに中国の民法では、氏名に対する他人による干渉、盗用、詐称または侮辱、貶めが禁止されているらしいが、そんなことは局所的に見れば全部が全部守られるものではない。ましてや子供と子供の間である。
 彼がいじめという現実に会わないはずがなかったが、彼はその変身能力によってそんな事をする者たちを牽制し、場合によっては必要以上の仕返しをしたりもした。
 それによって彼の目の前で彼を悪く言う者もいなくなったが、構ってくれる者も少なくなった。しかし肯定もなく、否定もないと言うのは、否定される事よりも辛いものである。
 自分の性格が歪んでいるという自覚は当然あった。それがこんな環境に置かれてそうなったということも理解できるし、それで損をしている事もあるということは理解できている。
 それをどうやって改善するべきか、はっきりと判らない。しかし、それを改善しようとも思わなかった。ただ、この忌まわしい名前さえ変えられれば、全てが解決すると思っていた。

 北京上空を見上げ、多くの都会人達はその光景に沸き立った事だろう。その事態に際し、緊急事態宣言さえも発令すべきであろうという者もいた。
 当然である。巨大な体をもった牛頭の飛行生物が、急速に接近しているのだ。オカルトファンならばともかく、一般市民にしてみれば気分の良いものであるわけがない。
 家財用具一式を背負って家を飛び出すものもある。露店を経営している者はすぐさまに店じまいをし、どこ行く当てもないままに走り回る。まさにパニック状態というわけだ。
「なんだか下の方が騒がしいですわね。」
 パンスト太郎の背に乗るユイリィが、市内の慌しさの原因が自分達のためとも知らずに言う。彼女からしてみれば彼の変身は日常の風景であり、別に特異な事に感じていないのだ。
 それはパンスト太郎とて同じであった。もっとも、彼の場合は例え誰かが自分の姿に驚いているのだということに気付いたとしても、そんなことは気にしない性分であるのだが。
 彼はとりあえず適当な場所に着陸しようとしたが、その時になってようやく下が騒がしい理由を知った。
「何だあれは!」
「化け物だぁー!」
「うわぁー!」
 下にいる住民は恐怖に顔を歪めていたが、それがあまりに解り易いようなリアクションで、パンスト太郎達にはそれが滑稽にも見えた。
 大体、かの有名なムンクの『叫び』のような表情で恐怖する暇があるのなら、その恐怖から逃れるために足を動かしているべきなのだ。
 パンスト太郎はちょっとした悪ふざけのつもりもあったのか、わざと逃げようとする人の目の前に着陸して見せた。
「グフフ・・。」
 そうしてみることは、それなりに気持ちの良い事である。思わず笑いがこぼれるが、今の変身している彼の声ではそれも無気味な唸りにしか聞こえない。
「うわぁー。」
「キャァー。」
 上に立った立場から見てみれば、下にいるものが本当に恐怖しているのか、それとも条件反射的にただ叫んでいるだけなのか判別しがたい。それを確認してみたい衝動に駆られるのは当然だろう。
 彼は腕を伸ばして、すぐそこで腰を抜かしている男を摘み上げてみた。
「あ・ああ・・・。」
 恐怖が完全に体を支配しているのか、男は歯をガチガチと震わせながら何も言えずにいた。確かに、この男は恐怖に身がすくんでいるのだと確信できる。
「こら、やめなさいよ。怖がっているじゃないですか。」
 ユイリィがパンスト太郎の頭の上辺りから、ひょっこりと顔を出した。
「脅かしたりしてごめんなさいね。ほら、パンスト太郎も謝りなさい。」
「・・・グフゥ。」
 パンスト太郎は少し機嫌が悪そうに、唸り声を洩らした。どうせ「その名を呼ぶな!」とでも言いたいのだろう。足を踏み鳴らし、不機嫌であるという意思表示をする。
「うわぁぁぁ・・。」
 パンスト太郎は少し逆上していて忘れているが、今彼の手には罪なき一般人が握られている。その状態で激しく体を揺らすという行為は、握られている方からしてみれば大変な恐怖だ。例えるならば、安全確認されていないジェットコースターに乗る以上の危険と恐怖なのである。
 そのことはパンスト太郎の背中に乗っているユイリィにも言えた。もっとも、彼女はそんなことには慣れているから、割と冷静でいられるという違いがあるが。
「どなたか、お湯を持っていませんか?ちょっとパンスト太郎を落ち着かせたいので・・。」
 ユイリィは落ち着いた調子で叫んだ。怪物の背中に乗っていた少女というのも怪しい人物である事に変わりない。
 が、近くにいた住民は、とりあえず怪物に握られた隣人を助けるためならばと、ユイリィの指示通りに湯を探した。
 しかし、この避難の状況が続く中、湯などはどこにもなかった。ただ虚しく救急車とパトカーのサイレン音が遠くの方で鳴り響いている。
「お湯なんてどこにもありませんよ!」
「食べかけのラーメンの汁でも、煮えたぎった油でもいいのです!」
 煮えたぎった油・・・。言ってみた後にユイリィは考えたが、果たして油でもパンスト太郎の変身は解けるのだろうか。やってみた事がないから判らない。
 一方、パンスト太郎の方は『煮えたぎった油』と言う言葉に敏感に反応した。冗談ではない。この女は自分のことを殺す気か、と。
 そして正気に戻って自分の手を見てみると、まだ先程の情けない男を握ったままであった。失神しているのか、心臓の鼓動は感じるが、全身が脱力している。
 ブロロロロッ・・と、そこへいくつもの鍋を吊るして運んでくるヘリコプターが見えた。五百メートルほど離れた広場から運ばれてきたところを見ると、ちょうど鍋料理のイベントでもあったのだろうか。
「あら、本当に煮えたぎった油なんか持って来ちゃっていますね。」
 何を呑気な事を言うのだろうか。煮えたぎった油は、もう彼のすぐ目の前まで運ばれてこようとしていた。大体、彼に油をかけるということはユイリィにもかかると言う事だ。
 パンスト太郎は手にもっていた男を適当なところに放り投げると、素早くその場から飛び去った。

 パンスト太郎達が降り立ったのは北京の市街地とはやや遠い、木々がうっそうと茂る公園であった。適当なところで湯を沸かすと、パンスト太郎はようやく元の姿に戻った。
「ったく、手前のせいでつまらない手間を取っちまったじゃねえか!」
「あら?パンスト太郎が逃げ回る人々の前に立ちふさがったせいでしょう?」
「う・・うるさい!とにかく、ついてくるんなら余計な口出しするんじゃねえ!」
 確かにあんな騒ぎになったのも、油を浴びせられそうになったのも、彼が原因である。それが判っているからこそ、その事で責められると余計に腹が立つ。
「まあ、過ぎた事はいいですわね。」
「あ・・ああ。」
 ユイリィは普通の少女であるのに、なぜかどこか普通とは違った感じのする娘だ。思わず振り上げていた拳を寸でのところで止める。彼女の振りまく雰囲気や空間に、暴力という光景は似合わない。
「さあ、それでは行きましょうか。」
 彼女は赤い表紙の地図帳を広げ、目指すべきところへと歩み始めた。
「まったく、調子が狂うぜ。」
 彼は、彼女はただ単純なだけなのだと考えるようにした。そう考えれば、気にくわない事も上手く納得できる。
 それから改名の手続きをする為の役所へ行くまでの道のりは特にトラブルもなく、難無くこなすことができた。道は広く、超高層ビルが密集して乱立しているわけでもないのだから、地図さえあれば目的の建造物に辿り着くのは容易だ。
 濃緑の観葉植物が隅に幾つか並べられている以外は、特に飾りつけもないロビーだ。
(本当に、こんなところで改名などできるのか・・。)
 そのやけにさっぱりとした風景は、彼のそんな不安を増長させた。あまりに無機質な風景であった。
「さて、それでは行きますわよ。」
 ユイリィは窓口に立った。その間、彼は彼女に全ての事をまかせきっていた。別に信頼しているとか、していないというのではなく、ただ単に面倒くさかっただけなのだ。
 しかし彼女はなんとか手続きを取ろうとしているのらしいが、色々と複雑な事情なので、どうも受付の者では手に負いきれないでいるようであった。
 彼はただ不安であったが、そんな表情を顔に出すのは自分らしくないと思い、ただむすっとした表情で目を反らしていた。
 そしてユイリィが窓口から離れ、ちょっと離れた位置に座っている彼の方に来た。
「パンスト太郎問題は、思ったよりも複雑で手間がかかるようですね。」
「・・・。」
 パンスト太郎という呼び名を出されたので彼は不機嫌であったが、それももうすぐ解決するのだと思うと、まだ我慢する事ができた。
「それで、ちゃんと手続きはできるんだろうな?」
「ええ、解決できない問題ではなさそうですから大丈夫でしょう。とにかく、もう少し待ちましょう。」
 その待っている時間というのも苦痛であるのだが、そんな苦痛もこの呪縛から開放される事と比較すれば、思いのほか楽であった。待っている間はユイリィなどと話している気にもならず、ただぼんやりと役所の白い壁を眺めているだけであった。
 この時こそが彼の生涯の中でも、ゆっくりと時間が流れた瞬間のひとつであったのかもしれない。
 そしてしばらく待っていると担当者が呼ばれ、事の子細を別室で話すことになった。まあ、しばらく間とは言っても、彼にとっては悠久の時が流れていたように感じられていたのだが。
 その担当者だという男が、カツンカツンという音を立てて彼らの方に近づいてきた時には、彼は運命の一つの終局と開始を意識した。
「どうぞ、こちらです。」
 その担当者という男は小脇にいくらかの書類を抱え、二人を役所の奥の部屋へと案内した。
 狭い通路は、普段ここが一般的な人に開放されている空間でない事を示している。照明が、薄暗い。二人はその中の、これまた小さな扉の中へと入っていった。
 丸机を中央にして三人が座ると、担当者と言う男は書類を並べた。
「『パンスト太郎』さん・・・とおっしゃいましたね。」
「・・・。」
「ええ、そうです。」
 彼が名を呼ばれた事に不機嫌になっているので、ユイリィが代わりに答えた。そんな彼のことは気にせず、男は続ける。こういった相手には慣れているといった態度だ。
「出身地と所在地は、ここの村でいいんですよね?」
「・・・ああ。」
 今度は彼が答えた。名前についてそれ以上追及されなかったのが、彼の反発心を和らげたのだろう。
「なるほど、彼らの掟では確かに『産湯を使わせたものに命名権と改名権がある』となっていますね。」
「どうにかならないものでしょうか。」
 男は色々と書類を見比べながら、注意深く言葉を選んでいるようであった。このことの専門家であるにしては、あまり手際良く見えない。がさがさと音を立てて書類を捜す仕草は目障りであるし耳障りだ。
「そうですね・・・。確かに村の掟とあれば絶対でしょう。けれど法律上、彼が中国の自然民であるとすれば、彼の名前は中国の掟の原則である民法にのっとり、改名しても良い権利あるのです。」
「よし、それじゃあ改名できるんだな!」
 ようやく事の核心に触れる言葉が出たので、彼は思わず声を張り上げた。しかし、それを聞いている男の方は表情が暗い。
「私は中国の自然民ならば、と言ったのです。つまり法律上中国国内にいる、公にも認められた人物だということです。」
「何か・・問題でもあるのか?」
 男の表情が翳っている事に気付かない彼でもない。男は書類に何度も目を通しているのだが、それを動かす手があまりに忙しない。
「先程からあなたの村の戸籍を調べているのですが、どこにもないのですよ。・・・あなたの名前がね。」
「何だと?!」
 パンスト太郎はその事を聞くと頭に血が上り、男の胸倉を掴んだ。それをユイリィが必死になだめるのだが、彼が手を放した時には既に男は失神していた。
――10分後――
 ようやく意識を取り戻した男は乱れた襟を正し、軽く咳払いをすると続けた。
 男は幾つか質問してきた。昔からその村に住んでいたかとか、兄弟はいるのかとか、大きな病か何かを患っているかとか・・・。彼にとっては、どれもこの問題と直接結びついている事柄には思えない。
「そんなの知るわけねえだろ。」
 そう答える彼の態度はもはや素っ気無い。しかし、それを聞いた男の表情はますます暗くなるばかりだ。
「そうですか・・。」
「問題でもあるというのですか?」
 もはや自暴自棄になりかけてもいる彼に代わってユイリィが訊き返す。
「戸籍に登録されていないのが、役人側の何らかの致命的な手続きミスであるのなら良いのですが、この調子だと彼の父母が故意に登録を怠っていたというほかないのです。」
「??」
「戸籍がどこにもないということは、彼が法的に保護された者でないということになってしまいますから、当然権利も無いわけです。」
「つまり、改名権もないと言うのですか?」
「ええ、そう言うことになります。」
「・・・・・・。」
 彼はそう言われるだろう事を薄々感づいてはいたが、いざ他人の口から言われると衝撃的である。改名できないだけではなく、戸籍上の保護が無いとは・・。
「もし彼が普通の町で生まれ育ったものというのならば、本当はまだ救いはあるのですよ。ですがあなた方の民族自治区との決まりによるとそれもなかなかに難しい・・・。」
「つまり法律的にも実質的にも、パンスト太郎は八方ふさがりだという事ですね。」
 ユイリィが真顔で言った。そう言う彼女に全く悪気が無いところが、彼にしてみれば余計に腹が立つし、そう感じる自分を虚しくも感じさせる。
 やはりここでも村での掟が大きな障害となっていた。これは俗にいう『原則』である民法の『例外』にあたるものであった。
 掟と言うものの呪縛から抜け出そうと、自己の権利を当てにすればそれがない。それならばとそれを獲得しようとすれば、今度は掟に縛られてそれもままならない。一体、何をあてにしていけばよいのか・・・・。
「救いがあるとすれば・・・。」
 やり場のない怒りと悲しみに沈んでいる彼に、男が静かに言う。
「時が来れば、ある程度この状況を覆せるようになるかもしれないということです。」
「何!本当か!?」
 彼は男のその言葉によって、すぐに立ち直る兆しを見せた。興奮のあまり、男の胸倉を掴んで首を締めてしまっているほどだ。
「く・・苦しいですよ。」
 男がうめいているのを聞いて彼はようやく手を放した。意識を失わない分、先程よりはマシだが、男はそれでも苦しそうにしていた。そして一息ついてからまた続ける。
「でもそれにはまずはあなたが成人して、それから法的手続きによって正式に戸籍を取得する事が必要です。そしてそうしてから、またもう一度尋ねてきてください。」
「そのときには俺の名前は変えられるんだな!」
 喜び勇んでいる彼とは対照的に、男はいたって冷静である。
「すぐに、というわけにはいかないでしょうね。」
 彼の顔から僅かに笑顔が消えた。男はそれでも話を続ける。法律的な話という明確に概念づけられた事を話しているのだ。法律という事実は曲げる事は出来ないのだから、彼の心境の変化に合わせて会話する必要もないのだ。
「それこそ十何年、何十年かかるかもしれません。」
「何十年も・・・?」
 完全に失望したというわけではないが、それでもそんな途方もない数字を出されてしまってはただ脱力するほかない。喜ぶにはあまりに儚い望みであるし、望みが絶たれたわけではないのだから男に八つ当たりをするわけにもいかない。
 突然、目の前に自分の頭の中だけでは処理し切れない、信じられない現実が現れた時に、人は案外冷静でいられるときがある。このときの彼もそんな状態であったのだろう。男の言葉に反抗するでもなく、ただ静かに聞いていた。
「お役所仕事なんてよく言ってくれるもんですけど、こういういざこざは後々まで尾をひくんですよ。大体、民族自治区とは元々特権的、例外的ですからね・・・・・・」
 だが、彼には男の言葉を理解して聞いているという意識はない。ノイズのようでも自然音のようでもある音が、ただ耳から耳へと通り抜けていくだけだ。

 彼はただ呆然としていたのだろう。帰路に着く彼は魂の抜けたように空を飛んでいる。しかし、まだ村は遠い。ここで気を抜いて墜落するというわけにもいかないという思いだけで彼は飛んでいた。
「あまり気を落とさないで下さいよ。そんな調子では、これから長いこと村の掟と戦っていくなんてできませんよ。」
 ユイリィは男の言っていた事を間に受けて、もはや気長に村の掟と対立するように促していた。だが、彼にはそんな悠長な事を言っていられる余裕などはなかった。
 彼らを取り囲む景色はゆっくりと後ろに過ぎていく。波に揺られるが如く上下する視界は眠りにさえも誘いこむ。
「・・・。」
 パンスト太郎は不機嫌ながらも何を言う気にもなれないでいた。改名をする為に何十年もかかるとすれば、最低でもそれだけの期間、この名に縛られ続けなければならないということなのだ。誰にこの苦しみが解るものだろうか。
 その苦しみがどれほどのものかは解らないまでも、この問題がいよいよ深刻になってきているということぐらいは、当然ユイリィにも判ってはいた。
 でもだからこそ、まだある望みに目を向けるべきだろうというのが彼女の意見だ。まあ、ただ、彼女の意見は少々楽観視し過ぎている節がある。そこが彼女の欠点とでも言うべきか、パンスト太郎に嫌がられる点なのである。このときも、そうであった。
「いっそのこと、このままパンスト太郎であっても良いのではないですか?」
 彼女の発言は彼にとってまさに究極的であった。そして突然、景色が揺らいだ気がした。
 パンスト太郎は彼女のその言葉を聞くと体を急旋回させて、広場に着地した。そしてどこから取り出したのか、やかんの湯をかぶり、ユイリィにかみつかんばかりに叫ぶ。
「こんな名前のままなんかでいられるか!」
 先程のへこみようはどこへ行ったのやら、彼は険しい剣幕で手近にあった木を拳で殴った。夕陽に映える濃い緑の葉が、ユサユサと揺れる。
「人に名を尋ねられようとも答えられず、名を知られれば笑いの的になるだけ・・・。こんな俺の気持ちが判っているのか!」
 彼はユイリィが言い返せないだろうと思ってそう言ったつもりであった。彼女が「解る。」と答えればウソになるのだし、彼女の性格からして「解らない。」と答えるとも思えなかった。全く別の話にすり返るようなせこい事さえも出来ないだろうと。
 だが、彼女は彼の期待通りの言動には出なかった。しっかりと彼の方を見据え、逆に諭すような語調で返してきたのだ。
「でも、少なくとも私はパンスト太郎のパンスト太郎という名前は嫌いではないですよ。」
 そんな答えが返って来るとは思いもしなかった。言われてみて悪い気もしない。だが彼はそう感じてしまっている自分が嫌であった。いつもいつもそう言われて彼女のペースに乗せられてしまう、と。
「俺はなぁ!手前のそういう所が嫌いなんだよ!」
 他人とのかかわりが下手な彼が、どういう形にしろ本心を出す事は珍しい事である。ユイリィの表情など見ずに、彼は次々と思いをぶつけていった。
「大体な、パンスト太郎なんていう名前の奴を良く思う奴なんてどこにいる!こんなんだから友達と呼べる奴もいなければ、彼女も当然いないさ!幸いにして俺には強い体があるから馬鹿にする奴らをとっちめてやる事も出来るが、それさえもなかったら俺は何にもない奴だよ、本当にな!」
 感情高ぶって、再び木に拳をぶつける。それなりに鍛えているとはいえ、変身後の体に頼っている彼の拳はどこか弱々しい。赤い筋が木の表皮を伝って流れ落ちているのがユイリィには見えた。
「手前なんかに名前を好かれたとしても・・俺には何の感慨も沸かないんだよ。別に手前と結婚するわけでもあるまいし、面白半分で俺に付きまとってるんだったら余計腹が立つんだ!俺の名前の持っている意味なんて、どうせよく解っていないくせに!」
 彼は咆哮を上げるとユイリィから逃げるようにして森の中に、山の中に駆けていった。夕闇の薄明かりの中、濃緑の中に駆け出していった彼の姿はすぐにユイリィの視界から消えた。
「初めて、本音を言ってくれた・・・。」
 ユイリィはどれだけ責められようと、平然と微笑み返してやれるだけの心の広さがあった。だから彼女は彼が心の内を語ってくれた事だけに、ただ感動する事が出来たのだ。
「でも、自分の名前の意味を本当に解っていないのはパンスト太郎、あなたの方であると言うのに・・・。」
 日は既に沈みかけている。ユイリィは彼の走り去っていった方向を見ながら、ひそかに彼の行く末を案じた。
 きっと、早く立ち直ってくれることだろう。まだ、彼が手っ取り早く改名するための方法はあるのだ。村の掟どおりに名付けの親に改名を頼む事ができれば・・・。



 しかし彼がその方法があった事を思い出し、実行しようと思い立つのにはその後、数年もかかったという。
 名前にも、社会という存在の中にも己を持つ事が出来なかった彼には、もはやことを起こそうとする気も起こらなかったのである。深い傷を癒す為には、嫌な事実を全て失う事しか残されていなかった。
 それが、彼の記憶の欠落の所以であった・・・。
 そして、もう暗い思いはしたくない、激しい思いはしたくないと意思が、さらに彼の心を荒んだものへとしていったのだろう。それが、後の彼の行動や言動によく表れているように思う・・・。








作者さまより

作品の解説というわけでもないですけれど、ここで、この作品のアイディアの原動力となったものを書き添えておきたいと思います。
 まず、私自身、名前や苗字(久遠というのはハンドルネームです)に多少のコンプレックスを持つときがあるからだという事です。
 私の場合はそのことを否定的に考えない分、パンスト太郎の場合とは違いますが、それでも変わった苗字というのは誰よりも名前を意識させるのです。
 そして、一番影響を受けたのが『機動戦士Zガンダム』という作品でしょう。
 元々、私は(中途半端な)ガンダム好きなのですよ。
 このZガンダムの話では、主人公である少年、カミーユが自分の名前にコンプレックスを感じているという設定があるのです。
 実は『カミーユ』とは女名前であるのです。
 このコンプレックスは周囲の環境からくる様々な苛立ちとぶつかり、ついには自分の人生を大きく変えてしまうような事件を起こすまでに至るのです。
 これが何となくパンスト太郎の境遇と似ているではないですか。
 ガンダムの作品の中でもとくにZが好きな私の妄想は膨らむばかりで、パンスト太郎を『らんま1/2の中のカミーユ』と位置付けてしまったのです。

 パンスト太郎がここまでひがんでしまった理由とは何か。過去にあったであろう事とはなにか・・・。それを自己の経験と、Zガンダムという作品に描かれているカミーユの行動を元に、日々妄想したものです。
 そして、その妄想をまとめたのが、この『アイデンティティー』というわけです。

 ただ、自分の感情を作品にこめようとしたために、独りよがりな文章が所々出ているかもしれません。大体、パンスト太郎に感情移入している時点で、私の本来持っている性格が現れてしまっているわけですから(笑)。
彼の過去譚、いかがだったでしょうか?
確か、パンスト太郎は「カッコいい太郎」と改名したがっていたような…。ふとそんなことを思い出し。
顔は美形な鎖骨キャラだっただけに、そのギャップが激しかったですが…。


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