◇屈辱  後編
blue dreamさま作


 春、桜の花が一斉に開き、すべてをピンク色に染めるころ。各地の学校で卒業式が行なわれる時期である。そして、それは風林館高校でも同じである。

「3年D組代表、天道あかね」
「はい!」
 心地よく響く声で返事をしてあかねはステージの上に上がった。燕尾服と頭のやしの木がミスマッチのこれ以上ない見本になっている校長の前に立ち、卒業証書を受け取る。
 深く礼をするあかねを後ろで天道早雲はボロボロと涙をこぼしながら見ている。その隣には対照的に凛とした雰囲気をまったく崩すことなく早乙女のどかが背筋をまっすぐに伸ばして座っていた。
 式は続き、卒業生が一人ずつ名前を呼ばれて立ちあがっていく。だが、その中に「早乙女乱馬」の名はなかった。

 しばらくして、卒業生たちが3年間の高校生活を終え、外に出てきた。笑い声、泣き声、再会を約束する声。父母の正装もあり、風林館高校の前庭には一気に華やかな雰囲気があふれた。
 あかねがそれに気付いたのは家族のいるところまで歩いてきて足を止めた時だった。妙な気配を感じ、あかねは校門の辺りに目を向けた。そこには人間一人分だけ、まったく違う空間があった。華やかでどこか浮ついた空気とは異なり、冷たく、重苦しく、寂しげな空気があった。
 その源はそこに立っていた一人の人物である。ぼさぼさに伸びた髪、ボロボロになった服、伸びきった不精髭。体格的に男と思われるその人物は背中に大きなリュックをしょっていた。
 あかねとその男との距離はおよそ10m。それだけの距離を置いてもあかねの心を鷲掴みにする何かがその男にはあった。家族に背を向け、あかねはその男に向かって歩き出した。それを気にする者はいない。家族皆がその男に注目していたからである。
「ら……ん……ま……」
 あかねの口から言葉が漏れた。微かなうめき声にも近いそれが聞こえたはずはないが、男は顔を上げた。ぼさぼさの髪の奥に見える瞳は以外にも力強く、澄んでいる。
 二人の視線が合った。あかねの背に電流が走った。手にした卒業証書を投げ捨て、あかねは走り出した。同時に男も足を踏み出した。あかねに向けて。
「乱馬!」
 叫び声と一緒にあかねは男の胸に飛び込んだ。男の胸にしがみつき、ボロボロと涙をこぼす。
「乱馬、乱馬……乱馬……」
 しゃくりあげながらそれだけを繰り返した。2年間、道場で、登下校の時に、勉強中に、幾度となく繰り返した分を取り戻そうとするかのようにその名だけを呼びつづけた。
「すまない、ずいぶん遅くなった」
 乱馬はそれだけを言うとあかねを抱き締める腕に力をこめた。優しさと力強さの両方を感じながらあかねは泣きつづけた。
「明日、奴のところへ行く」
 乱馬のその一言があかねの涙を止めた。
「来てくれ」
 わずかな中に無限の思いを込めたその言葉に、乱馬の腕の中であかねはしっかりとうなずいた。

 その二人を見つめる一対の瞳があった。伸ばした黒髪を首の後ろでまとめ、珍しいことに高校の制服に身を包んだ右京が離れたところから二人の様子をじっと見ていた。
 そして、ついに抱き合う二人から目をそらした。この瞬間、全てが決した。周りにいた友人たちが声をかけるのをためらうほど沈痛な表情で、右京は目を伏せ、乱馬とあかねに背を向けた。
 静かに踏み出す足は一歩ごとに抱き合う二人から離れていく。それは彼女と乱馬との心の距離でもあった。その瞳からこぼれた雫が春の風に乗り、桜の花びらと一緒に散っていった。

 その夜、久しぶりに天道家に帰ってきた乱馬は風呂に入り、髭をそってさっぱりした姿でみんなの前に現れた。だいぶ伸びた髪は首の後ろで一つにまとめている。
 全員がそろった部屋に乱馬は入ると正座をし、畳に手をついた。
「2年もの間連絡もしなかったこと、申し訳ありません」
 そう言って深く頭を下げる。
「で、修行はうまくいったのかね?」
 早雲が重みのある声で尋ねた。
「はい、奴を倒すだけのものは身につけてきました」
「なら、よろしい。いちいちわびるまでもない。よろしいですね?」
 最後の一言はのどかのほうを向いてである。
「無論です。乱馬、格闘家としての高みに向かう努力を母は嬉しく思います。ただし、一人だけ、しっかりと謝るべき人がいることはわかっていますね」
「はい」
「なら、わたしからいうべきは何もありません」
 その言葉を受け、顔を上げた乱馬の全身を包む雰囲気が以前とまったく変わっていることに早雲は気付いた。単に山に篭っていたのではなく、いずれかの道場で修行してもいたのだろう、武人として風格と威厳のある立ち居振る舞いはそう感じさせるものだった。それを見て早雲は相好を崩した。
「では、堅苦しい話はここまでにしよう。乱馬君の帰還祝いと、明日の勝利の前祝といいたいところだが、乱馬君も疲れているだろう。宴会は明日、戦いが終わってからということにしよう。かすみ、食事の用意を頼む」
「はい、お父さん」
 台所へ立つかすみにのどかが続く。それを見送って乱馬は右前に座っている人物に目を移した。肩の下まで髪を伸ばしたその人物はさっきから乱馬と目を合わそうとせず、目をそらしたまま、もぞもぞと落ち着きのないようすだった。
「あかね、ちょっといいか」
「う、うん」
 ぎこちない様子で出ていく二人の成長のなさに、半ば呆れ顔で見送った天道家の面々だった。

 二人は道場にいた。乱馬は落ち着きなく手を動かしたり足を踏み変えたりしているし、あかねはあかねでじっとうつむいて足元を見たまま動こうとしない。その上、どちらも切り出そうとしないのは以前とまったく変わっていない。
「あ、あのさ、あかね……」
「うん」
 ようやく乱馬が切りだし、あかねもそれに応えたものの、その先が続かない。
「あの、この、明日の、戦いがさ、その、もし、いや、きっと、ええと、もし、勝ったらさ……」
「うん……」
 そして再び訪れる沈黙。
『何やっとる。大切な場面だろうが!』
『がんばれ、乱馬君』
『あかねももっとしっかりしなさいよ』
『やっぱり乱馬君って奥手なのね』
『なんて男らしくない乱馬。このままでは切腹かしら』
 道場の入り口からのぞき込む天道・早乙女家一同の心の声である。さすがに思っても状況をはばかって口には出さないだけのデリカシーの欠片が残っていたが、一人、デリカシーなどとはまったく縁のない人物がいた。
「乱馬、貴様、一体何をやっとるんじゃ!この愚かもん!」
といって飛び出した小さな影一つ。言わずと知れた八宝斎である。
「わしに任せてみるがよい。あっかねちゃぁぁぁぁん!!」
 そう言ってあかねめがけて飛んできた八宝斎だったが、乱馬の手がその顔を正面からつかんでいた。そのまま無言で八宝斎を軽く放り上げ、右足で蹴飛ばす。ところが驚いたことに、八宝斎の小さな体がまだ間合いの中にある間に乱馬は体を半回転させ、伸びのある後ろ回し蹴りを続けて放った。一瞬の間に2発の蹴りを受け八宝斎は屋根を突き破って彼方に消えていった。
 そのまま乱馬は怒りのこもった視線を道場の入り口に向けた。
「あ、あたし買い物行かなきゃ」
「早乙女君、縁側で将棋でもどうかね」
「ああ、いいな」
「おば様、そろそろお夕食の支度をしないといけませんね」
「そうね、今日は何にしましょうか」
 そそくさと去っていく面々を見て乱馬は大きく息を吐いた。どうやら一度爆発したことで何が吹っ切れたものがあったらしい。覚悟を決めた顔で乱馬はあかねを正面から見た。
「あかね、明日俺が勝って、名前を取り戻したら」
 そこまでいって大きく二回息を吸う。
「俺と、俺と一緒になってくれ」
 一気に言うと乱馬は荒い息をついた。
「うっちゃんも、シャンプーもみんな大切な仲間だけど、あかね、お前は特別だ。俺のこの2年間はお前のためにあった。一緒に天道道場を、無差別格闘流を継いでいきたい」
 乱馬を見上げるあかねの瞳から透明な雫が零れ落ちた。そして、あかねは乱馬の胸に飛び込んだ。抱き締め合った2人は日が落ちるまでそうしていた。

 翌日、乱馬、あかね、早雲、玄馬、八宝斎の5人は電車で20分ほどのところにある別の道場へ出かけていった。
「空皇(くうおう)拳倉橋道場」と看板の出た道場の入り口を入ると、そこに立っている木に無数の看板がぶら下がっていた。1枚の例外もなく逆さである。
「たのもう!!」
 乱馬の声に右手の方にある道場の戸が開き、一人の青年が姿を表した。乱馬より5〜6歳年上、つまり20代半ばぐらいだろう。名は倉橋紅一。乱馬にとって、いや天道道場の全てにとって忘れられない男だった。
「なんだ」
 横柄な調子で聞く。
「看板を返してもらいに来た」
 乱馬のほうも闘気を隠そうともしない。
「どの看板だ」
「あれだ」
 乱馬の指の先に「無差別格闘流天道道場」の看板があった。
「入れ」
 返して欲しければ俺を倒せという自信を裏付けるような余裕のある態度で紅一は一行を道場内に入れた。道場は門下生で一杯だった。その誰もが入ってきた部外者に好奇と蔑みの視線を向けている。
「おい、また看板を返してもらいに来たらしいぜ」
「師範代にかなうはずないのに馬鹿だな」
 あからさまな笑い声が響く。それを無視して乱馬は道場の真ん中に進み出た。
 紅一が手を振ると稽古中の門下生たちは左右の壁際に下がった。よくあることで慣れているのだろう。開いた道場の真ん中で二人は向かい合い、構えた。
 立会人はいない。「始め」の声を発する者はいない。だが、まるで示し合わせたように二人は同時に動いた。
 乱馬の連続蹴りが紅一の左のこめかみを襲い、紅一の下から突き上げるような蹴りが乱馬の顎を狙う。紙一重で二人はそれぞれの攻撃をかわし、跳んで離れた。
 今度は双方の拳が互いの急所を狙い、どちらもダメージを与えることなく再び位置を入れ替えた。

 戦いが始まって10分以上が経過した。蹴りが空を裂き、拳が見えない牙をむき、闘気がぶつかり合い、汗が宙に舞う。二人の実力はまさに伯仲し、互いに決め手を欠いていた。
 いや、そう見えた。
 もう何度目になるだろう。互いに踏み込み、技を繰り出し、相手の技を防いで再び離れる。そこから乱馬はもうひとつ後ろに飛んだ。そしてやや広がった間をおいて乱馬は構えた。それまでの一般的な構えではない。腰を低く落とし、左足を前に伸ばし、右の拳をこめかみの脇でまっすぐに紅一に向けた。左手は五本の指を広げて前に伸ばされている。あからさますぎるほど右の拳を重視した構えだった。それを見て紅一の顔にあざけりが浮かぶ。
「そんな変な構えで俺が倒せるか。下らねえ」
「やってみなければ分からないだろ?」
「やったところで変わらねえよ」
 乱馬はそれには応えず不敵な笑みを浮かべて全身の筋肉をたわめ、攻撃の体勢に入った。紅一もそれを見て胸の前のガードを固める。
 そして乱馬が走った。
 超低空で足の力を可能な限り上ではなく前に向けて爆発させ、ロケットのような加速を見せた。その加速のまま、スピードのすべてを乗せた拳が突き出された。
 その拳に秘められた威力に気づいた紅一は慌てて左に転がり、殺人的な威力の攻撃から逃れた。
 たくみに足を踏んで突進の勢いを螺旋状に宙へ駆け上るラインへ転化した乱馬は優雅にもみえる動きで床に降り立つ。
 その背中で拳圧を受けた羽目板が一枚はじけ飛んだ。
 おきあがる紅一の顔に驚きがある。だが、それはすぐに嘲笑へと変わる。
「とんでもない威力だが、実戦むきじゃねえな。接近戦で役に立つのは拳銃であって、大砲じゃねえ」
「なるほど、うまい例えだな」
 乱馬の右の頬がゆがむ。にやりと言う擬音が聞こえような笑みを浮かべ、不敵に言い放つ。
「だけど、それを言うなら、むしろマシンガンのほうが役に立つと思うぜ」
 言うなり彼は上体を前に倒し、前傾姿勢から突進した。さっきと同じ高速の機動技である。そして、紅一を間合いに捕らえようとした瞬間、彼自身と観客の数名を除き、その場にいた者の視界から乱馬の右腕が消滅した。
 火中天津甘栗拳。乱馬の十八番である、炎の中に手を入れても火傷しないことを可能にする神速の連撃拳。それなりの動体視力があっても霞んで見えるその高速拳を、乱馬は、高機動技に乗せて放ったのである。すでに見切るという芸当ができる速度ではない。
 かすめただけでも致命的な拳の暴風を、紅一は転がって逃れた。傍らを通りすぎた乱馬が床と壁を蹴って方向転換し、上から襲いかかってくるのを気配だけで察してさらに横に逃げる。
 そして再び襲いかかる無数の拳。獲物に襲い掛かる鷹のような乱馬の攻撃は紅一を捕らえ切ることはできず、床板を粉々に砕いただけに留まった。
 床板の破片を踏みしめ、乱馬はようやく身を起こした紅一を正面から見据えた。気負いは無い。殺気をあふれさせているわけでもない。だが、実力に裏打ちされた揺るぎ無い自信をたたえ、闘気を纏うその姿は見ているだけで息が苦しくなるほどの圧迫感を伴っていた。
「名を聞いておこうか」
「早乙女乱馬」
 紅一の問いに、一瞬の逡巡の後、乱馬はそれだけを答えた。
「そうか、乱馬、お前には資格があるようだ。見せてやる。我が流派が誇る天空の四皇(しおう)の一体、雨皇(うおう)を!」
 その言葉で門下生たちの中にどよめきが広がる。歓声と声援を無視し、紅一は両手を左右に開いた。肩を開き、肘は軽く曲げ、結果として堅く握り締めた拳は正面を向く。右足を軽く引き、左下にひねり込むように上体を回す。右の拳は肩の上、幾分後ろ側、左の拳は腰の下、少し前。
 一見しただけで全身のばねがたわめられ、一瞬でその力を解放する力強い構えなのがわかる。構えの形からいって、起点は右の拳、左も同様に構えられているところからして、恐らく左右の連撃拳。
 構えから乱馬はそこまでを読み取った。紅一が高速連撃拳でくるというなら、それを迎え撃たない理由は乱馬に存在しない。左右の足を肩幅に開き、紙一枚が入る程度に踵を浮かせて、体重はつま先にかける。左右の拳を握り締めながら肩を開き、肘をたたみ、拳が落ち着いたのはわきの下。力をため込むその位置で拳はぴたりと静止した。
 大きく雄大で力強い構えの紅一と、コンパクトながら隙のない構えの乱馬。二人の戦士は向かい合い、そして静寂が訪れた。
 両者の間の空間に目に見えない何かが満ちていく。左右から押し込まれ、あふれそうなのにあふれず、ただ満ち、圧力が高まっていく。そして、限界点に到達した時、それははじけた。
 裂帛の気合を叩きつけ、二人は跳んだ。交錯は一瞬。拳撃は無限。刹那の接触に続いて二人はバランスを崩し、床に投げ飛ばされた。受身を取り、身を起こしたのは全く同時。再び床を蹴り、空中で激突する。互いの拳の圧力で投げ飛ばされ、床に転がっては再び牙をむく。
 そして四回目の交錯で異変が起きた。乱馬が身を起こすのがわずかに遅れた。神速の域の戦いでそれは致命的なほどの遅れである。無数の紅一の拳が乱馬の体に打ち込まれ、乱馬は吹き飛び、道場の壁に叩きつけられた。
 見ていたあかねの胸中に2年前の光景がよみがえる。相手も、乱馬の体勢も同じである。あの時と同じになる予感に息が詰まる。だが、このとき、2年前とは決定的に違うものがあった。
 倒れこむのをこらえ、床に手を着いた乱馬は下から鋭い視線で紅一を見上げる。四つんばいに落とされてなお闘気を失わないその姿は、手負いの獅子か虎を思わせる。傷つくほどに猛り、吼え声を上げる猛獣の姿を。床に手をついたまま肩を大きく上下させる乱馬を、紅一は雨皇の構えのまま見据えた。だが、勝利をほぼ確信した紅一を見返した乱馬の目に、敗北感は欠片もない。その目は2年前のあのときにはなかったものである。虚勢ではなく、自信に支えられたその気迫。乱馬の呼吸音が収まり、闘気のこもった目が細められる。乱馬の左右の手が道場の床を力強くつかんだ。
「甘い」
 乱馬のその声を紅一は吹き飛ばされた空中で聞いた。その声が発せられたのは乱馬が自分の視界から消える前だったこと、両足に加え、両手をも使った常識はずれの機動力の前に、反射神経が完全に敗北したことを悟ったのは乱馬が叩きつけられたのと反対の壁まで吹き飛ばされ、床に完全にへばりついてからだった。
 だが、紅一は身を起こした。先ほどの乱馬と同様、その目に敗北はない。むしろ怒りと闘志が激しい炎を上げている。そしてダメージを無視して立ちあがった紅一のその炎を乱馬の炎が飲み尽くそうと襲いかかった。
 再び高機動技からの火中天津甘栗拳。無数の拳の一つ一つが暴風と闘気の炎を纏い、圧倒的な圧力と破壊力を伴って紅一に殺到する。
 僅かな回避の遅れが勝敗を分けた。数える気になどならないほどの拳を受け、紅一の防御は完全に粉砕された。それでも紅一の闘気は消えはしない。
 静かに身を起こし、真正面から乱馬を見据える。乱馬もまた、紅一が呼吸を整えるまで仕掛けようとはしない。
 二人の視線がぶつかり合う。共に気の弱い者なら1秒と目を合わせられないであろう力の篭った目だった。
「空皇拳師範代、倉橋紅一、参る!」
 雨皇の構えを取り、紅一は咆えた。
「無銘、早乙女乱馬! いざ!」
 無差別格闘流ではなく、あえて無銘と名乗ったのはかつて負け、未だ勝ってはいない相手への礼儀だろう。そして、「必ず勝つ」という決意の現われでもあった。
 いずれにせよ、次の一瞬で決着はつく。全力で当たる以上仮にまだ立てたとしても敗者がそれに異を唱えることはしない。それは双方が無言のうちに自らに課した誓約であり、武人としての誇りの表明である。
 そして、二人の足はまったく同時に床を離れた。交錯の刹那に何が起きたかを正確に知り得た者はいない。乱馬と紅一の闘気の炎が燃え盛り、互いに相手を飲み尽くそうと猛り狂い、噛み合った。火中天津甘栗拳と雨皇。高速連撃拳同士の正面からの打ち合いである。
 刹那の交錯のさらに何分の一かの間の均衡。それが崩れたのは乱馬の右拳と紅一の左拳の接触だった。ぶつかり、そして弾き飛ばされたのは紅一の拳。力ではなく、接触の角度の狂い、それが結果の差をもたらした。
 神速域の戦いにおける僅かな角度の狂いは戦い全体の帰趨を変化させる呼び水となった。均衡の狂いの増幅と再建、生じた流れを加速しようとする意思と止めようとする意思。瞬きの数分の一の時間で繰り広げられる駆け引き。
 わずかな接触が生んだ傾きは乱馬の左拳が紅一のあごをかすめた一打によって決定的な流れとなった。
 一撃の差は数撃を招き、数撃は百撃に連なる。乱馬の剛拳が紅一の全身を打ち据え、空中へ跳ね飛ばした。しかし、紅一とて無数の看板を持ち帰り、逆さ吊りにする実力者である。足場のない空中で体勢を立て直し、見事に着地してのけた。
 鋭い痛みが全身に走っているはずだが、それを微塵も感じさせず、あまつさえ反撃の態勢さえとって着地した紅一が見たのはあきれるほど低い体勢で構えた乱馬の姿だった。彼が早乙女乱馬という名を聞こうという気になった、その始まりである高機動技。
「雷鱗の火竜」
 技の名であろうその言葉は紅一の意識には届かなかった。さっきは紙一枚といえかわしてのけ、一度は食らっても立ち上がった技だが、今度はそうは行かなかった。粉砕。乱馬の剛拳はその二文字がまさに似合う勢いで紅一を叩きのめした。
 吹き飛ばされた勢いそのままに背中で道場の壁を叩き割り、木屑とともに床に這った紅一に再び立ち上がる力は残っていなかった。
「俺の、勝ちだ」
 乱馬の宣言に応える声はなく、沈黙だけが帰ってきた。道場を出る彼に無差別格闘流の面々が従う。
「あかね」
 その声の後を追って天道道場の看板が飛んできた。二年もの間、掃除されることもなく風雨にさらされた看板は埃が染み付き、ざらついている。だが、それでも看板は帰ってきた。乱馬と天道道場と無差別格闘流は屈辱の時を乗り越えたのだ。
 思わず看板を抱きしめたあかねの周囲で男たちの歓声が爆発した。
 無差別格闘流の新たな伝説が始まった。





 五年ぶりに完結させていただきました。(感激)
 続きが気になっていた作品の一つが、こうして完結を迎えて、嬉しいのは私だけではない筈。
 屈辱を乗り越えた乱馬の次に来る新たな伝説も読んでみたいような…。
(一之瀬けいこ)




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