◇屈辱  中編
blue dreamさま作


 その日、10月16日、あかねは久しぶりに猫飯店を訪れていた。彼女だけではなく、家族全員が一緒である。戸を開けた彼らを向かえたのは元気はあるが、聞き覚えのない女の子の声だった。
 見れば、脇にかかる程度の黒髪を二本のお下げにした子がウエイトレスとして走りまわっている。鼻の頭にそばかすがいっぱい浮いた顔はあかねより少し幼く見えた。
「シャンプーちゃんは出前?」
 注文を取りに来たその子にかすみが聞くと、ウエイトレスの子は首を振った。
「いいえ、シャンプーさんはだれかを探しに行くといって、二ヶ月くらい前から出かけています。シャンプーさんのこと知っておられるんですか?」
 あかね、右京、シャンプー、小太刀、彼女たちの接点であった乱馬がいなくなったため、彼女たちが顔を合わせることも自然と少なくなっていた。新しい娘が入ったこと、シャンプーが出かけたことを何ヶ月も知らなかったことに気付き、あかねは少なからぬショックを受けたが、それ以上に気になったのはシャンプーが探しにいった人物である。乱馬であることに間違いはないだろう。
 驚くと同時に、強い怒りがあかねの心の中に湧きあがってきた。自分だって我慢して家で乱馬を待っているのに。乱馬を自分から探しにいくなんてルール違反じゃない。そんな思いが募ってくる。
 何を頼んだかも分からないまま注文を終え、味など感じないまま食事を口に運んだ彼女が店を出ようとした時、コロンおばばの声がかかった。
「気持ちは察するが、シャンプーの事、分かってやってくれぬか」
 店の裏手にあかねたちを呼び出したおばばは前置きもなしにそう切り出した。
「あの子にはもう時間がないのじゃ。あと一月、いや、もう切っておるな。それだけしか時間がないのじゃ」
「どういうことなんです。おばあさん」
「おきてじゃよ」
「おきて?」
 オウム返しに聞いたあかねの言葉にコロンは大きくうなずいた。
「女傑族には、18歳の誕生日までに結婚相手を決めなければならないおきてがあるのじゃ。式を挙げる必要はないが、婚約までは交わさなければならない」
「でもさ、女傑族の女戦士って、自分より強い男と結婚するんじゃなかったの? それに、シャンプーの婿殿は乱馬君に決まってなかったっけ」
 なびきの横槍にコロンは再びうなずいた。
「その通りじゃ。じゃから、おきては、18までに婚約者が決まらなかった時は、誕生日を過ぎて以後最初に負けた男と結婚すること、となっておる。無論、過去には一度も負けず、生涯独身を貫いた女戦士の伝説もある。が、シャンプーの場合、婿殿と婚約を交わしたわけではないため、このおきてに当てはまってしまう。しかも、ムースがそのチャンスを狙っておる」
「そうか、乱馬君が帰ってこないまま、ムースがシャンプーと勝負して勝てば、シャンプーはムースと結婚しなければならないのね」
「そのとおり。来月の12日がシャンプーの18歳の誕生日じゃ。それまでに婿殿を探し出して婚約しなければならないのじゃ」
 沈痛な表情で語られた事実にあかねは返す言葉を持たなかった。シャンプーが彼女より一つ年上であるということにさえ気付かない。うつむいたままかすみに背中を押され、店を出る。
 シャンプーの行動は彼女に少なからぬショックを与えていた。乱馬が帰ってこなかったらどうなるのか。今まで考えた事もない、いや、考えようとしなかったその問いが彼女の頭の中で渦を巻いていた。流派は、道場は、そしてあかね自身は。
 その日から、あかねは独りになると物思いに沈むことが多くなり、稽古もそれまで以上に熱心に行なうようになった。
 そして、様々な人の思いと望みを抱えたまま日々は移ろい、11月の12日が訪れた。
 帰って来たシャンプーは独りだった。

 恋敵とはいえ、シャンプーが望まぬ道を「おきて」という鎖によってひかれていく様はあかねにとってつらいものだった。だが、そこから目をそむけることは彼女には許されなかった。予想通りムースが申し込んだ決闘の立会人に、シャンプーがあかねを指定したからである。
 こうして11月15日。あかねは道場で向かい合うムースとシャンプーの前に立っていた。
 シャンプーは青いチャイナ風の上着にパンツで、長さ2メートルほどの棒を携えていた。様々な武器を使うムースに対抗するためだろう。棒を一直線にムースに向けて構えている。
 一方のムースはいつもの袖が大きく裾の長いチャイナ服である。暗器を使うムースの服の袖は腕の5本くらいは余裕ではいるほどの太さがあり、指先までを完全に隠すほど長い。だが、それでも服がだぶついて見えないのは、肩や裾の丈などは彼の体型にあっているからだろう。腕の動きを太い袖で完全に隠し、左右に広げた態勢でシャンプーを見据えている。
「あかね。よく見ておくね。わたしはムースなんかに負けないね。ムース。わたしを簡単に手に入れられると思ったら大間違いある。絶対負けないね」
「シャンプー。おらは確かに乱馬には勝てなかっただ。三つの時おぬしにも負けただ。じゃが、今のおらは今のシャンプーより強い! おらはこの戦いに勝ってシャンプーを嫁にするだ!」
「やれるものならやってみるある!」
 二人の体に闘気が満ち、道場内の熱が急に上がる。二人の鋭い視線を受け、あかねは心が握りつぶされるような痛みを感じながら、右手を真っ直ぐに上げた。
「構えて!」
 二人が筋肉をたわめ、戦闘態勢に入ったのを確認し、あかねは上げた右手を振り下ろした。
「始め!」
 号令と共にシャンプーが突進した。ためらいの間も、フェイントの揺らぎもなく、ただ一直線に突き進む。先手必勝、うまく行けば初撃で倒す。その意図が明らかだった。どのような手を隠しているかわからないムース相手には正しい戦法である。少なくとも手数の勝負になれば、シャンプーの勝ちはきわめて難しい。
 ムースはシャンプーが突進してくるのを見ると、すっと後ろに下がって間を取り、両腕を勢いよく振り出した。シャンプーに正面から向けられたその両の袖口から10を超える数の票が飛び出した。
 票とは掌に隠せるほどの小降りのひし形をした刃物で、暗器の一種である。もともと投げて使うものだったが、いつからか縄をつけ、自在に操って使われるようになった。無論、ムースが放ったものも縄がつけられ、袖の中と繋がっている。
 接近する票の群れにシャンプーの脚が一歩だけ逡巡したのにあかねは気付いた。だが、次の脚はすでに迷いなく、むしろさらに勢いよく踏み込んでいた。
 票の攻撃は直線、しかも先端にしか攻撃力はない。コントロールされ、戻ってくることがあるにしても、その前にムースを倒せばいい。しかも、票と両手がつながっているムースは両腕が使えない。そう一瞬で判断を下したのである。
 票の群れが左右の肩をかすめるのもかまわず、彼女は踏み込み、ムースを指呼の間に捕らえた。彼の両腕は左右に広げられ、胴はがら空きである。
 あと数歩踏み込み、手の中の棒をムースの防ぐものもない胴体に叩き込めばすべてが終わる、そうシャンプーが確信した時、ムースの唇が吊り上がり、笑いを形作った。
 体の左右に伸びるいく本もの縄に波が走った。先端の票に指示が飛び、それらはムースの思い通りに動く。いつも乱馬の拳に簡単に倒されていたため、目立たなかったが、10以上の票を同時に操る、ムースの暗器使いとしての力量は非常に高い。あかねは、そしてシャンプーもそのことを始めて知らされた。
 理屈ではなく、直感でシャンプーは自分がムースの手の中に飛び込んでしまったことを悟った。背筋に走る悪寒がはっきりとそれを伝えてくる。攻撃力を持つ票は後に過ぎ、ムースは無防備な姿で目の前にいるというのに、自分が完全にムースの術中に嵌まったことをシャンプーは知った。
 そして、そこからの唯一の脱出路を求め、シャンプーは棒を突き出した。いや、突き出そうとした。そして、できなかった。
 シャンプーの手の棒がムースに到達する直前でムースは左右の腕を胸の前で交差させた。袖から伸びた縄が二人の間で交差し絡み合う。複雑に折り重なった縄の上を細波が伝わっていく。そして、ムースが再び勢いよく両手を開いた時、
「くあぁぁぁっ!」
 シャンプーの咽喉から苦鳴がほとばしった。絡み合った縄の中央に彼女はいた。天井、床、そして壁に突き立った票とムースの袖とをつなぐ縄はシャンプーをその中心において複雑に絡み、完全に彼女の自由を奪っていた。全身に縄が絡みつき、動きを封じられた彼女の足は床に届いておらず、空中に浮かんでいた。その様はまるで、蜘蛛の巣にかかり、絡め取られた蝶を思わせた。
 勝敗は誰の目にも明らかだった。シャンプー自身さえそれを否定することは出来ない。それを悟った彼女の目から、透明な雫がこぼれた。
 空中で身動きの取れないシャンプーにムースはゆっくりと近づいた。そっと伸ばされた手は彼女のあごの下に当てられ、涙に濡れた顔を持ち上げた。シャンプーは悲しみと口惜しさを瞳にたたえながらも、それに抵抗しようとはしなかった。
 切ない表情を浮かべるその顔をムースは無言で眺め、そして突然、身をかがめてシャンプーの唇に自分のそれを合わせた。
 誰一人身じろぎすらしない、長い数秒が過ぎ、ムースは顔を上げた。解放されたシャンプーの顔には紛れもない怒りが湧きあがってきた。しかし、ムースはそれを全く気に止めない様子で一歩後ろに下がると、袖の中から一振りの剣を取り出した。
 銀光が二度走り、シャンプーを捕らえていた縄を切断すると、彼女は解放され、床に投げ出された。たった2ヶ所を切っただけで、シャンプーの体を完全に解放する縄目の見事さに気付いた者はいなかった。床にへたり込んだ彼女の前に剣が置かれた。
 シャンプーの前に抜き身の剣を置いたムースは黙ったまま背を向けた。そのまま道場の出口へ向かい、そこで立ち止まり、背中ごしの言葉を投げかけた。
「シャンプー。今の口付けの意味はおぬし自身で決めるだ」
 空白があった。その言葉を聞いただれもが意味を理解できず、動けないでいる間にムースは道場から出ようとした。
 その時、シャンプーの脳裏に閃光が走った。唐突にムースの言葉の意味を悟り、彼女は目の前に置かれた剣の柄に手を伸ばした。
 女傑族の口付けには二種類の意味がある。恋人に送る愛情の表明としての口付けと、憎しみを込めて行なう「死の接吻」である。ムースはそれを選べといったのである。シャンプーが乱馬を待ちつづけるためには、勝負に負けなければよい。もし負けてもその相手がいなくなれば負けなかったことと同じである。
 どうしても乱馬を待ちつづけたければ、今の口付けの意味を「死の接吻」として、自分を殺せとムースは言っているのである。
 シャンプーが殺意のこもった表情で剣をつかんだとき、あかねもこれに気付き、そして戦慄した。かなわぬ恋なら死ぬことさえも受け入れるムースの狂おしいほどの思い。強さを求め、厳しく、過酷で、妥協を受けつけない女傑族のおきて。愛を貫くために死の刃を振り下ろすことさえもためらわないシャンプーの思い。そのすべてがあかねの理解を超えていた。
 しかし、シャンプーの手の剣がムースの血にまみれることはなかった。ムースは後ろから振り下ろされた剣を受けとめ、あっさりと跳ね返した。激情のままに振り下ろされた剣であり、勢いこそあれ、シャンプーらしい技量は見られなかったこともその一因だろう。
 いかに、シャンプーに道を見せたとしても、唯々諾々と殺されるつもりはムースにはなかった。そうすることは彼自身とシャンプーと双方の誇りを傷つけることになるからである。
 空気が停止した。戦いの中央にいた二人も、それを見ていた全員も、すべての者が動きを止めていた。その沈黙を破ったのはシャンプーだった。うつむいたその顔を透明な雫が下り、それに応じたかのように、彼女の膝が落ちた。
 跳ね飛ばされた剣を取ることもなく、彼女は道場の床に座り込んだまま、涙をこぼしていた。そのシャンプーの方を振りかえることもなく、ムースは天道道場を後にした。
 ムースの姿が消えてから、たっぷり5分が経過したころ、シャンプーはのろのろとした動きでようやくたちあがった。
「シャンプー……」
 あかねが口にできたのはその一言だけだった。自分を見る視線に気付いたシャンプーは振り向き、視線を床に向け、そして、低い声でつぶやくように言った。
「わたしは……負けたね……」
 その言葉があかねの怒りに火をつけた。
「じゃあ、なに? あんたは乱馬に負けたからおきてにしたがって乱馬と結婚すると言って、今度はムースに負けたからおきてにしたがってムースと結婚するの? あんたにとって結婚する相手はそんなに軽いものなの? ふざけないでよ! これじゃ、あんたとまともに張り合ってきたあたしたちがバカみたいじゃない!」
 耳朶を鋭く打つその非難の言葉に、一度は力を落としたシャンプーの眉が鋭く跳ねあがった。
「うるさい! あかねには関係ないある!」
「関係ない? そんなわけないじゃない! あたしだって乱馬が好きなんですからね!」
 言い終えてから一瞬の間を置いて、自分が何を言ったかに気付いたあかねの顔が真っ赤になる。
「と、とにかく、本気で乱馬が好きなら簡単にあきらめるんじゃないわよ!」
 そう言い捨て、あかねはシャンプーの脇を通りぬけて道場から出ていってしまった。残されたシャンプーは後を追うこともせず、ただじっとその場に立ち尽くしていた。

 そして、一ヶ月が過ぎたころ、あかねは見送りのために港に来ていた。
 中国に帰るシャンプーとムースの見送りである。結局、シャンプーはムースとともに中国に帰る決断をしたのである。彼女の心の中にどのような葛藤があったのかは知りえないが、その苦能が並大抵のものでなかったことは容易に想像がつく。実際、あかねのもとに帰国の連絡があったのはわずか二日前のことである。
 積極的で、明るく活発だった彼女が、うつむいたままほとんど口をきくことなく、たたずんでいる様は、あかねにも、そしてその隣でやはり見送る右京にも哀愁を感じさせるものだった。赤を基調とした華やかなチャイナドレスに身を包んでいるが、それでも、いや、だからこそ余計に彼女の沈んだ様子は際立っていた。
 フェリーに乗り込もうと連絡橋に足を踏み入れる寸前で、シャンプーは二人の方を振り向き、顔を上げた。その目元に光るものを見、あかねと右京は息を飲んだ。あの気の強いシャンプーが泣き顔を他人に見せるなど信じられなかった。
 何も語らず、ただ、涙を浮かべ、透明な視線で二人を見つめた。その時、見送る側の二人は確かにシャンプーの思いを知った。彼女の乱馬に対する想いの熱さ、強さ、それが確かに伝わってきた。それは二人のうちにもそれと同じものがあるからにほかならない。
 それを感じた時、あかねは叫び出したくなるほどの激情に駆られた。恋敵であっても理不尽なことには怒りを覚える彼女の正義感が、シャンプーの無念に反応して燃えあがった。
 だが、あかねが口を開く前にシャンプーが一言だけ言葉を発した。
「サヨナラ」
 微妙に違うイントネーションで放たれたその言葉があかねの口と脚を止めた。寂しそうで、突き放したような雰囲気の中に、どこかほっとしたような空気が感じられたのはあかねの気のせいではないだろう。
 それを感じた時、あかねはシャンプーの積極性の裏側にあるものを見たような気がした。
 きっと彼女は直感で乱馬の本当の目が自分を向いていないことに気付いていたのだ。だからこそあれほど必死に乱馬の目を自分に向けようとしていたのだろう。思いに答えてもらえないかもしれないという不安を抱えた日々は、シャンプーにとって過酷な時間だったに違いない。
 シャンプーはムースとの結婚により、乱馬への思いとともにその不安な日々をも捨て去ることにしたのだろう。
 すべてはあかねの直感に過ぎない。だが、彼女はこの推測が間違っているとは思わなかった。そして彼女はその選択が今や自分の前にもあることに気付いた。
 それに気付いたとき、シャンプーの姿は連絡橋の中に消えていた。結局、あかねはシャンプーの最後の言葉に対して一言も返すことができなかった。

 数時間後、お好み焼き屋「うっちゃん」の店内であかねと右京はカウンターを挟んで向かい合っていた。港からの帰りに続き、二人とも口を開こうとしない。他に客のいない店内は静まり返り、鉄板の上で焼けるお好み焼きの音だけがやけに大きく響いている。
「ねえ」
 沈黙を破ったのはあかねだった。
「もし……もし、乱馬が帰ってこなかったら、右京はどうするの?」
 全身全霊でつむぎ出した問いに、即答はなかった。再び静寂が降りる。
「そんな……そんなこと、考えたくあらへん」
 考えたくなくても考えなければならない問いであることを二人とも知っている。最低でも二人のどちらかは心痛を経験しなければならないのである。そして、二人ともそうなる可能性は決して小さくはないのだ。
 うつむき、またしても沈黙と静寂の中に沈み込んだ二人の意識を突然の音が破った。
 思わず二人を飛びあがらせたのは、店の戸が開く音だった。見れば、クラスメートの女子が二人、不思議そうな表情で彼女たちを見ていた。
 はじかれたようにあかねは立ちあがり、バッグを掴んで店の外へ飛び出していった。後に残された三人の女性はそれぞれの表情でその後姿を見送った。

 家に帰ったあかねは自室に飛び込んだ。後ろで閉まったドアの音が彼女の自制の最後の糸を断ち切った。閉じたドアを背に彼女は泣き崩れた。自分でも驚くほど涙があふれて止まらなかった。拳を握り締め、肩を震わせ、嗚咽を漏らしながらあかねは泣き続けた。
「乱馬……乱馬……」
 思いと心の全てをかけて愛するたった一人の人の名を繰り返しながら、こぼれる涙を止める術を彼女は知らなかった。
「早く、早く……帰ってきてよ……」
 乱馬が道場破りにやってきた倉橋紅一に破れ、名を失い、修行に出てからすでに一年が過ぎている。その間、1本の電話、1通の手紙さえない。目の前から失うことによって目覚めたあかねの思いは限界に達しようとしていた。
 行き場のないまま燃え、あふれる思いのやり場を彼女は知らなかった。
 泣きつづけるあかねの後ろでドアがそっとノックされた。不意討ちのようなそれにびくりと身をすくめ、振りかえるその視線の先で静かに開いたドアの向こうにいたのは一番上の姉のかすみだった。
「あかねちゃん。大丈夫?」
 根掘り葉掘り聞くことなく、柔らかな表情と口調でそれだけを聞く。おっとりしているかすみだが、その実、他人の心の機微にはさとい。怒りであろうと悲しみであろうと喜びであろうと相手の感情をそのまま受け止める大きさを持つこの姉があかねは好きであり、そして頼りにしていた。
「おねえちゃぁん!」
 声になったのはそれだけだった。そのままあかねはかすみの温かい胸の中に飛び込み、すがりついた。かすみはあかねの背中を抱き、その髪を優しくなでながらあかねが泣き止むまでそうしていた。
 気がすむまで泣いたあかねは、涙の後は残るが、だいぶすっきりした顔を上げた。だが、その顔から不安はまだぬぐわれてはいない。
「ねえ、かすみお姉ちゃん。もし、乱馬が帰って来なかったらどうしよう」
 ぶつけた不安はかすみの温かい笑みに吸い込まれた。帰って来たのは穏やかで、しかもしっかりとした声だった。
「大丈夫。乱馬君のこと信じなさい。負けっぱなしですます子じゃないのはあかねが一番よく知っているじゃない。きっと乱馬君はずっと強くなって帰ってきてくれるわよ」
 わずかな言葉だったが、それは間違いなくあかねの心の中の柱となっていた。うなずいたあかねの動作には確信が回復し、再び力が感じられるものとなっていた。
「ありがとう。お姉ちゃん」
 そう言ってあかねは立ち上がった。
「道場行ってくる。乱馬は強くなってもあたしが成長していなかったら格好悪いもんね」
 言葉が終わるころにはあかねは部屋に飛び込んでいた。かすみはそれを笑顔で見送り、閉じられたドアを見て、安心したように一つ息を吐くと背を向けた。稽古でお腹をすかせてくる妹のために、おいしい夕食を用意しなければならなかった。
 
 一方、久遠寺右京は思いにふけったり、泣き崩れたりするひまはなかった。自らの持つお好み焼き屋「うっちゃん」の客の対応をしなければならなかったからだが、特に一人の客のせいでもあった。
「右京ちゃん、どう? いいだろ、一回ぐらいデートしてくれても」
「うち、なんべんも言うてるやろ。うちには許婚がおるねん。せやからデートはできんて」
「けど、聞いたところによると、その許婚って、もう何年もこの街に帰ってきてないんでしょ。そんなやつに操を立てる必要なんかないって」
「そ、そんなこと……」
 右京の店の常連の一人である自称作家の男は、以前から右京に気があることを隠そうともしない。それどころか、乱馬の事を知った後でさえ積極的にアプローチしてくる。その積極性がこの時、右京の弱点をついた。
 もしかしたら乱馬はもう帰ってこないかもしれない、自身の抱えるその不安を他人に指摘されることはそのネガティブな気持ちを加速する。事実、右京の反論は急に弱々しいものになっていた。
 右京を救ったのは彼女自身の力ではなく、そばにいた小夏である。右京を一途に慕うこの男くの一には自分の思いはあっても欲望は極端に少ない。右京を慕いながら、右京の乱馬への思いを応援さえしている。それだけに、他の男になびきそうになっている右京の姿は小夏には耐えられなかった。
「だめです! 右京さま! 乱馬さまのこと、忘れてはなりません!」
 小夏の声で我に帰った右京は店を彼に任せ、住居になっている2階に駆け上がった。
「うち……うち、どうしたらええねん……」
 思いをかろうじて押さえつけていた、義務という名の堤防がついに決壊し、彼女の思いが澄みきった雫のかたちをとって溢れ出した。
「うちは……ずっと乱ちゃんのことを思ってきたんや。いまさら捨てることなんてできないやんか」
 右京の動きが停止した。自分のつぶやいた言葉の中に答えがあることに気付いたのである。
「そうや、うちは10年も乱ちゃんのことを追いかけてきたやんか。そうや、いまさら1年や2年、どってことあらへん」
 いつのまにか彼女の瞳には鋭く、強い光が戻っていた。涙の痕跡はあるが、それより決意に力のほうがはるかに強い。
「うちは負けへん。何年だって、乱ちゃんのことを待つで。自分からあきらめたりはせえへんで。うちが負けるのは乱ちゃんが応えてくれへんかった時だけや」
 右京の胸の内に再び炎は燃え盛った。容易なことでは消えることのない炎が。

 右京とあかね、強い意思と思いを伴う二人の女性の決意は強い。だが、状況がすぐに動くことはなかった。二人の思いを試すかのようにただ時間が過ぎていく。
 二人の思いをのせて時の車輪は回り、不安の念を強くしながら日々は過ぎていく。やがて冬が訪れ、春が過ぎ、夏は秋に変わり、再び冬が去って行った。
 一年以上の時間が過ぎ去り、変わらぬ日々についに変化が生じるのは桜の花が開くころになってからであった。



つづく



 シャンプーとムースなら、こういう形で自分たちの立場(愛情?)に決着をつけたかもしれません。
 ムースがシャンプーにベタぼれしているのは一目瞭然んでした。乱馬を追いかけているときでも、シャンプーも少しはムースの動向を気にしていたフシはありました。ムースに邪険にされるとシャンプーの方が怒っていましたから。
 で?あかねは?乱馬は?後編につづく!
(一之瀬けいこ)




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