◇屈辱  前編
blue dreamさま作


 板張りの床に正座した足が痛みと痺れを訴えている。だが、そんなことはとっくに意識の外に追いやられている。彼女の五感はすべて目の前に立つ二人の青年に向けられていた。
 二人に共通しているのはわずかな無駄もなく鍛え上げられた肉体を持つということ。しなやかにして強靭、鋼のような、ありきたりだが、そんな言葉がまさに似合う肉体を持つ二人だった。
 二人のうち、片方はまだ顔立ちにあどけなさを残し、少年からようやく青年に上がろうとしていることを感じさせる。伸ばした後ろ髪をお下げにまとめている。
 対して、今一方は、相手よりも幾つか年上、これから急激に成熟してゆくことを予感させる青年だった。向かい合う相手よりも頭一つ分上から物理的な圧力さえ伴って見下ろしてくる。
 過去の実績よりも未来の可能性の方が豊かな者と、双方が均等に存在し、未来への道が見え初めている者との対峙であった。共通しているのはともに未来に豊かな可能性を有する若者という点である。
 若い方の名は早乙女乱馬、向かい合う年上の方は倉橋紅一という名である。
 この二人が向かい合っている理由は一つ、格闘技の真剣勝負であった。
 向かい合う二人を含め道場には十人あまりの人がいるが彼ら以外は皆壁際に正座して二人の様子を一心に見ている。
 静まりかえった道場に長く余韻を残すような澄んだ足音を立てて乱馬が踏み込む。
 膝を折って深く沈み込み、紅一の膝の高さで薙ぎ払うような鋭い回し蹴りを放つ。紅一はこれを跳躍してかわし、同時に足と同じ高さにある乱馬の頭部をめがけ、空中で蹴りを叩き込む。一方乱馬は、その程度は予測の範疇とばかりに余裕さえ見せてガードし、そのまま二人はすれ違い、場所を入れ替えて再び向かい合った。
 次に先手を取ったのは紅一のほうである。さっきの乱馬とは対照的に、上体を垂直に立て、前後に構えを取ったまま足を進める。体の中心線を揺らすことのない、安定した動きに乱馬が警戒を強めた時、彼の視界の中で、紅一の姿がぶれた。
 滑らかに、しかも敏捷に紅一が左右に動いた。幻惑するようにゆらゆらと揺れる動きから唐突に鋭い拳が放たれた。確かに鋭くすばやく、しかも滑らかなその動きは並の格闘家のなしうるものではない。だが、乱馬とて並の格闘家などではない。
 火中天津甘栗拳という技がある。炎の中に手を入れてもやけどしないことを可能にする高速拳である。それを会得している以上、乱馬の動体視力も半端なものではない。その動体視力は紅一の幻惑させる動きの効果を半減させ、唐突に放たれた拳をしっかりと受けとめていた。
 だが、効果が半減したとは言っても、それは完全に破ったということではない。次の瞬間、乱馬が右のこめかみを強襲した拳をかわしたのはまさに間一髪であった。
 そして、三撃目、右膝を蹴り飛ばされるのを防ぐことも、かわす事も乱馬はできなかった。
 しかし、これが非常にハイレベルの戦いであることを示すように、乱馬は蹴り飛ばされた動きに逆らわず、道場の床を転がり、紅一の間合いから抜け出した。
 間を置かず、跳ね起き、構えて紅一と向かい合う。その乱馬めがけて紅一が突進してきた。右に、左に、すばやく動き、乱馬の視線をさまよわせる。
 右側から襲いかかってきたはずの紅一の姿が消え、左後ろに鋭い殺気を感じて、乱馬は体を落とした。頭上を鋭い拳が過ぎ、逃げ遅れたお下げが殴り飛ばされる。
 攻撃が来た方に振り向いた時、すでに紅一の姿はない。気配は後ろにあり、乱馬は振り向かず、前に転がって逃げる。
 まるで妖術でも使っているかのように紅一の動きは変幻自在だった。巧みなステップにより、彼はスピードを殺すことなく、前後左右に自由に動きまわるのである。右と見せて後ろに回り込み、左と思えば正面から襲いかかってくる。
 乱馬はそれに翻弄され、反撃するどころか、攻撃をかわすだけで精一杯である。「スピードならだれにも負けない」と自負するだけあり、紅一のすばやくそして容易には見切らせない攻撃でも、乱馬を確実に捕らえるにはなかなか至らなかった。
 無論、乱馬とて、ただ逃げまわっているだけではない。拳打をかわしながらもその視線は鋭さを失わず、反撃の隙をうかがいつづけている。事実、紅一の攻撃が緩んだ刹那には牽制の拳が乱馬の両腕から放たれることも一再ではなかった。
 しかし、ついに紅一の拳が乱馬の右脇腹を捕らえた。フルスイングなどではなかったはずなのに、重たく熱い痛みが乱馬の体で炸裂した。乱馬の意識が飛びかけた瞬間に勝敗は決していた。
 左肩、後頭部、胸板の中央、左頬、右脇腹、背中、通常の連撃では不可能な流れで次々に拳が叩き込まれる。
 優雅にも見える動きで紅一は乱馬の回りを跳ね回り、乱馬の体に拳を打ち込んでいく。乱馬はもう反撃はおろか、かわすことさえできなくなっていた。一撃ごとに痛みが体を貫き、誇りにしていた敏捷性が失われていく。
 軽い音を立て、紅一が乱馬の正面に着地したのと、重い音を立て、乱馬が両膝をついたのは同時だった。紅一の足が水平に引き上げられた。
 手本通り、完璧という言葉がまさに似合う蹴りを乱馬はまともに受けた。ガードすることさえできなかった。道場の壁まで吹き飛ばされ、そのまま床に沈む。意識こそ失ってはいなかったが、体は全く動かず、戦いにおいて大きな差はなかった。
「勝負あったな」
 静かに下された宣告に返答はなかった。だれも、返す言葉を持たなかった。道場を出、門を出て行く紅一を見送る者はいなかった。紅一が去ったあと、道場には空白が残された。誰一人、動こうとはしなかった。道場に一つだけある時計の秒針の音と、乱馬の荒い呼吸だけが沈黙を刻んでいた。

 その静寂は駆け込んできた一人の人物によって破られた。
「ちょっと、大変よ。看板がなくなってるわ!」
 きれいな黒い髪をボブカットにした若い女性である。普段は冷静で鋭い知的な視線と、幾分冷たい皮肉げな表情を崩そうとしないが、この時ばかりは驚きが先に立っている。
 この天道道場の主、天道早雲の次女、なびきである。道場の中に入った彼女は床に倒れている乱馬と、彼を抱き起こそうとしている父早雲と乱馬の父玄馬を見て、だいたいの事情を察した。
「道場破り……? 負けたの?」
 質問とも確認ともつかないなびきの言葉に、早雲が沈痛な表情でうなずいた。
 無差別格闘流天道道場、そう呼ばれていた道場はすでに存在しない。建物こそ存在しているが、看板を奪われ、名乗るべき流派を失い、無銘と成り果てていた。

 乱馬敗北! 天道道場は流派を失う! その報は乱馬や道場の関係者の間を瞬く間に駆け巡った。それによって起こった反応は様々だったが、大きく3種類に分けることができる。
 1つ目は、天道道場およびそこに生活する者たちと近しい者たちの反応で、見舞いというかたちを取る。もっとも常識的な反応である。
 2つ目は乱馬を宿敵と付けねらう数名の男たちである。九能帯刀、ムース、風林館高校の九能校長らに代表される数名は、乱馬が負傷して寝込んでいる時こそ、勝利を得る絶好のチャンスと思い、乱馬の寝室に襲撃をかけた。が、
「いいかげんにしなさい! 乱馬、怪我人なんですからね!」
「うちの乱ちゃんに手ェ出すんなら相手になるで」
「乱馬、襲う、許さないね」
「乱馬様に手出しなさるとは、いかにお兄様とお父様でも許しませんことよ」
 乱馬の枕元に駆けつけていた女性4人にすごまれ、退散せざるを得なかった。
 こうして、乱馬はさらに怪我を増やし、不名誉の上塗りをすることは避けられたのだが、結果、さらに厄介な問題を抱え込むことになったのであった。
 それこそが今回の一件に対する3つ目の反応である。すなわち、乱馬に恋心をいだき、自らこそがその恋人の座を射止めようとする女性たちである。乱馬にしてみれば、彼女たちの争いの只中に放り込まれるより、満身創痍で男どもを迎え撃った方がましだっただろう。
 だが、事態は彼の望み通りには進まなかった。そして、あかねを除く3名がそれぞれの言い分を持って彼に迫ってきたのである。
「乱ちゃんは負けて無差別格闘流の名を失ったんや。残念やけど、もう天道道場の跡取にはなれへん。よって、あかねちゃんとの許婚の約束も解消や。つうことはつまり、このうちが唯一の許婚よって、乱ちゃんはうちのもんや」
 自信たっぷりの久遠寺右京の宣言に中国娘のシャンプーがまけじと言い返す。
「格闘家の乱馬にふさわしいのは強い女ね。この中で一番強いのはわたしね。ということはつまり、わたしが一番乱馬にふさわしい女ということね」
 もはやすべてが決したかのような口調で言い放つが、高笑いとともに九能小太刀がその言葉に横槍を入れた。
「何を勘違いしていらっしゃるのかしら? 今乱馬様に必要なのはあなたがたではありませんことよ。さあ、乱馬様。今こそ、私とともに道場再興を目指すのです。そのためなら私はなにも惜しみません。必要なものがあれば、何なりとおっしゃってください。夫の望みをかなえるのは妻として当然のことですわ」
 そう言って小太刀の取り出した札束に、涎をたらしながら玄馬が近づき、早雲に首根っこを押さえられるのはもはやお約束の風景と言っていいだろう。
 ともあれ、右京、シャンプー、小太刀がそれぞれの言い分を持って乱馬に迫り、自分に有利な返事を聞くまでは帰らないとの決意をみなぎらせているのは事実である。
 目の前に並ぶ三つの顔に乱馬の頬が引きつる。一難去ってもう一難どころか、一難去って大災難である。
「あんたたち! いいかげんにしなさい! 乱馬、怪我人なのよ!」
 乱馬を襲撃した男どもに向けたのと同じ台詞で三人を一喝したのは天道あかねである。普段からりりしい眉を、急角度ではね上げ、腰に手を当てて、冷や汗を流す乱馬に迫る三人を叱り飛ばした。だが、彼女たちも負けてはいない。
「あかね、わたしたちを遠ざけて、そのすきに乱馬と親しくなる気だな」
「そんな卑怯なこと、許さへんで」
「汚い泥棒猫には、その程度がお似合いですわね。でも、わたしの乱馬様に手出しすることは許しませんことよ」
 今度は三人そろって矛先をあかねに向ける。その勢いにさすがのあかねもたじたじとなるが、そこは彼女も格闘家。
「う、うるさいわね! だいたい、あんたたち、本気で乱馬のこと心配しているの? そうなら、乱馬の具合を悪くするようなことするんじゃないわよ!」
 自分でも気付かないうちに論点をすりかえて、三人を追い出してしまった。とはいえ、結局、彼女の苛立ちの矛先は
「だいたいね、あんたがはっきりしないからこうなるのよ!」
 と、乱馬に向かうのだったが。
 こうして、男どもの襲撃と、女たちの特攻の前に、安静とは程遠い状態ながら1週間が過ぎ、ようやく乱馬は道場に戻ることができたのであった。

 しかし、再び道場の中央に立つ彼の姿は、今までにないほどの鋭い闘気と、張り詰めた気配をまとっていた。
「うっちゃん、シャンプー、小太刀、それにあかね」
 彼の花嫁候補である4名の女性を前に乱馬は口を開いた。
「俺は負けた。それは、もうどうしようもない事実だ。だから、いまさらごまかす気はないし、言い訳するつもりもない」
 そう乱馬が口を開いたとき、あかねだけは直感によって彼が何を言うつもりなのかを悟っていた。その予想が思いの中に浮かんだ時、彼女はそうでなければいいと心から願った。だが、乱馬の言葉は彼女の願いを裏切ってつむがれた。
「みんなにも言いたいことはあると思う。だが、俺はあえて言う。俺は一人の男である前に格闘家だ。普通とは違うかもしれない。それでも、これが俺だ」
 そこまで聞いたとき、あかねは自分の願いがかなわなかったのを知った。
「負けたままでは、俺は自分を許せない。今、俺はだれに対しても強いなどと主張することはできない。だから、俺は、今から修行の旅に出る。強くなったと断言できるまで、もうここには戻ってこない」
 外れてくれればいいと、心から願ったその通りの言葉が乱馬の口から出たとき、あかねは思わず泣き崩れそうになった。それを支えたのは彼女と乱馬以外の人の存在である。とりわけ、右京、シャンプー、小太刀、恋のライバルともいうべき三人がそこにいたことはあかねが感情を表すのを留めた。もし、彼女たちが隣に、乱馬の前にいなかったら、あかねは乱馬にしがみついて旅を止めようとするのを押さえられただろうか。そう、彼女自身が自覚するほどの、強い衝動だった。
 乱馬の心を悟れたことで乱馬との近しさを感じ、乱馬の宣言を聞いて乱馬との距離を意識する。矛盾する思いを必死で押さえ込んだ枷は、あかねが独りになった瞬間はじけ飛んだ。
 ほかには誰もいない自室であかねは泣き崩れた。はじめて、自分が乱馬に恋心を抱いていたことを彼女は知った。自分が乱馬を愛していることをようやく彼女は悟った。修行の旅に出る乱馬を見送り、その姿が視界から消えて始めて彼女は自分が乱馬を愛していたことを知った。
 もはやどうにもならない想いだった。顔を両腕に間にうずめたまま、彼女は動こうとはせず、ただ、背中が小刻みに震えるだけだった。

 翌日、学校から帰って一息入れたあかねは部屋で胴着に着替えると道場に向かった。夕食前の稽古は毎日の習慣である。
 道場の扉を開けた瞬間、あかねは立ちすくんだ。外見は静かだったが、彼女の心の中に暴風が吹き荒れていた。誰もいない道場。それは取りたてて珍しい光景ではなかったが、今のあかねの心に孤独の嵐を起こすには十分だった。
 虚ろな表情のまま、彼女は膝を落とした。膝立ちの姿勢のまま彼女は前を見ていた。
「乱馬……」
 そのつぶやきが引き金になったようにあかねの両目から澄んだ雫がこぼれ出した。泣きじゃくるわけではない。嗚咽に肩を震わせるわけでもない。あかねの中に満ちる思いが行き場を失い、透明な雫のかたちをとってあふれ出しているかのように、誰もいない道場内、虚空の一点を見つめ、ただ涙をこぼしていく。
「乱馬……乱馬……」
 繰り返しても彼女の思い人は姿を表さない。いつもならもう稽古を始めているか、肩の柔軟をしながら歩いてくるのに。その思いが募り、さらに涙をあふれさせた。
 ついにあかねの頭が前に落ちた。肩が下がり、道場の床にすがり付いてあかねは泣き続けた。

 同時刻、天道道場からそれほど離れていない一軒の飲食店。「お好み焼き うっちゃん」の暖簾のかかったその店内に、物憂げな一人の女性がいた。
「もういくら待っても乱ちゃんは来てくれへんのやな……」
 お好み焼きをひっくり返しながら、その思いはいつのまにか、言葉となってこぼれていた。
「どうしたの? 右京ちゃん。考え事?」
 目の前のお客のその声に右京は現実に引き戻された。常連の一人である若い男が彼女の顔を覗きこんでいる。近くのアパートに住む自称作家の男だった。
「あ、あ、すみません。なんでもないさかい、気にせんといて」
 慌てて顔の前で手を振るが、それは客の疑惑を強めるだけだった。
「あれだけの顔をしておいて、なんでもないはないでしょう。それに乱ちゃんとかって聞こえたよ。ひょっとして右京ちゃんのいい人?」
 ストレートに突っ込まれ、右京の顔は一気に真っ赤になった。以前なら動じることもなかったはずだが、やはり心情が微妙なものになっているのかもしれない。
「え、あと、いえ、その、なんというか、だから……」
 もう言葉さえ要領を得ない右京を見て男は屈託のない笑顔を浮かべた。
「焦げるよ」
 短く告げて鉄板を指差した男の意図するところは右京にすぐには伝わらなかった。二、三度瞬きしてから、ようやく気付く。鉄板の上のお好み焼きからは白い煙が細く上がっていた。
「きゃ、あ、す、すみません!」
 慌てる右京の姿に、笑い声が上がる。皮肉も嫉妬もない楽しそうなその声に、右京もいつのまにか笑いを誘われていた。
 小さな店の中に二人分の笑い声があふれた。

 やはり同時刻、別の店でもやはり騒ぎが起きていた。
 中華料理屋、猫飯店。その戸が勢いよく開けられたかと思うと、白を基調としたチャイナ服の男が飛び込んできた。ゆったりとした袖に、裾は足首まで届いている。
「シャンプー!」
 その男はそう言いながら、一人の女性の肩を掴み、その顔を正面から見据えた。
「もう乱馬はおらん。おらとシャンプーの愛を邪魔する者はもうおらんのじゃ。さ、すぐにでも式を挙げに中国に帰るだ!」
 それに応じたのはやけにしわがれた声だった。
「シャンプーは出前に行っとるが……」
 白いチャイナ服の男、ムースはその声に不審なものを感じ、懐から取り出した渦巻き眼鏡をかけた。そして口を付いたのはもはやわざとやっているとしか思えないボケた一言である。
「サルの干物」
 当然の結末としてムースはコロンおばばの一撃を脳天に受け、床に沈むことになった。
 ちょうどその時、猫飯店の入り口が開き、帰宅を告げる声と共にきれいな顔立ちの若い女性が入ってきた。ムースと同じくチャイナ服だが、チャイナドレスではなく、腰までの短い上着とすねまでのパンツルックである。晴れた日の空と同じ色を基調とした服の上から、濃い藍色の豊かな髪が背中を覆っている。腰まで伸ばした髪を風の手にゆだね、彼女は律動的な歩調で店に入ってきた。
「シャンプー!」
 おばばの一撃など何もなかったかのようにムースは飛び起き、彼女の両肩をつかんだ。
「さ、急いで荷造りして中国帰るだ。村に帰って式上げるだ。乱馬はもうおらん。おらとシャンプーの愛を邪魔する者はもうおらんのじゃ」
「お前、なに言ってるか」
 熱く燃えるようなムースの言葉とは対照的に、シャンプーの口調は氷のように冷えきっている。
「わたしはここで乱馬が帰ってくるのを待つね。中国はムース独りで帰ればいいね。私は帰る気ない。分かたか」
「シャンプー……」
 ムースはすでに涙声である。
「どうしておらの気持ちをわかってくれんのじゃ……」
「女傑族の女はより強い男の嫁になるね。お前じゃ乱馬にはかなわないね」
 シャンプーはそう吐き捨てると厨房に入ってしまった。その背中を見送るムースの目が暗い光を帯びた。
「シャンプー。必ずおらの嫁にして見せるだ。覚悟しておくがいいだ」
 暗い情熱を秘めたその声は彼自身にしか届かなかった。
「乱馬は必ず帰ってくる。わたしは信じてるね」
 ムースの声が聞こえたわけではないが、厨房からシャンプーの声が響いた。だが、その声には、どこか虚ろな響きが感じられた。

 やはり同時刻、一件の広壮な邸宅では甲高い女性の声が響き渡っていた。聞きようによって悲鳴にも笑い声にも聞こえるそれは、九能小太刀の声であった。
「乱馬様は私の元に返ってくるために厳しい修行をしておられるのですわ。乱馬様の修行の完成を待ち、花嫁修行に打ち込むことこそ妻としての努め。ああ、なんて健気な私でしょう。乱馬様、小太刀は一途にあなたをお慕いいたします」
 だれに聞かせるわけでもなく、ただ自己陶酔の色の濃いその声は虚空に響き、空に散っていった。

 4人の女性たちがそれぞれの思いを胸に、乱馬のいない生活に慣れようとしているころ、とうの乱馬は山の中にいた。木々の生い茂る森の中、中空を乱馬は奔(はし)る。四肢を前後に広げ、密生した枝から枝へ、地面に足をつけずに、まるで鳥か猿(ましら)のように森の中を奔り抜けていく。
 唐突に乱馬は向きを変えた。真っ直ぐ前に走っていたのが突然、左斜め下に急転回した。脚が地面に積もった木の葉を蹴散らして深い穴を穿ち、彼の体は前に飛び出した。目の前に迫る太い樹の幹を体を傾けてやり過ごし、その幹を踏み台にしてさらに加速する。
 枝の上を渡っていたときには横から伸びていた障害物は今度は縦に、しかも太いものが立ち並んでいる。それらを紙一重でかわし、回り込み、複雑でしかもすばやい動きで彼は今来たルートを逆送していく。
 その腕が別の意思を持つかのように動いた。時折、その腕は蛇が大きな顎と牙を開いて襲い掛かるかのように地面すれすれまで伸ばされて戻る。
 小さなテントの張られた森の中の空き地に出た乱馬は、湿った木の葉を撒き散らしてようやく停止した。その腰の両脇に下げられた籠には、1食分よりも少し多いほどのきのこが納まっていた。

 夕食のきのこ汁を食べ終えた乱馬は肩のあたりに冷たい風を感じて身を震わせた。テントの中の大きなリュックを開け、もう一枚上から着るものを探して手を突っ込んだ。と、その指先に堅く薄い感触があった。堅めの紙か、何かのプラスチックカードのような手触り。入れた覚えのないそれを彼はつまみ、抜き出した。
 指先に出て来たのは一枚の写真だった。写っていたのは一人の少女。首筋で切りそろえたショートカットがよく似合う、目が大きくて笑顔のきれいな子。不意に目の前に現われたあかねの写真を乱馬は黙って見つめた。だれがこっそりあかねの写真を荷物の中に入れたか、心当たりはいくつもあり、だれがやっていてもおかしくない。
 だれか、勝手に気を聞かせた人のおかげで今手元にあるあかねの写真を乱馬は見つめつづけた。やがて、その唇が動き、わずかな言葉をつむぎ出した。
「俺は、絶対に帰るぞ。あいつを倒して……」
 そう言うと乱馬は写真を貴重品を入れているリュックの内側のポケットにしまった。そして、上着を探すべく、もう一度リュックの中に手を入れた。
 その目には、固い決意の光があった。

 そして、季節が一巡りしたころ、東京で大きな変化が生じようとしていた。






一之瀬のコメント
 私の手違いから大幅に掲載が遅れてしまいました。ごめんなさい!
 呪泉洞初投稿のblue dreamさまの登場であります。
 全三篇。
 負けてしまった乱馬。勝つまで勝負にこだわり続ける彼がどう立ち向かうのか。続きも近く掲載しますのでお待ちくださいませ。



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