◇SUMMER VACATION  〜8月5日〜
夏海さま作


 乱馬はゆっくりと目を開いた。
 相当疲れていたのだろう。
 窓から射し込む朝日を見て、乱馬は目を見開いた。
 殆ど丸一日寝ていたようだ。
「こりゃあ相当体力落ちたな。」
 乱馬にとってはそれは深刻な問題だ。
 畑仕事は体力がなければ出来ない。
 しかしこの分ではしばらくは少しずつ慣らしていくしかなさそうだ。
 以前のようにいきなり一人で三人分の働きを、なんて事は無理そうだった。
 乱馬は状態を起こすと、首を右左と曲げる。
 コキコキと鳴らして、思いっきり伸びをした。
 朝一で考えた事はまず畑の事。それは別にいつもと別段変わりない。
 それよりも驚いたのはその次に、特に良く知らないあかねの事を考えた事だ。
「天道さん、また顔見せてくんねぇかな。」
 ポツリと呟いた。
 あの時少し震えていたあの声は、普段をどんな声を出すのか話して確かめてみたい。
 あの時少し強ばっていたあの顔は、普段はどんな表情を形作るのか会ってみてみたい。
「やべっ。まるで一目惚れしてみたいだ、俺。何考えてんだか。」

 そんな乱馬の独り言を実は紗耶香が聞いていた。
 今日は良牙もお見舞いには来ない。毎日なんて畑の方があって無理だ。
 その点紗耶香は同じ村だから、空いた時間に好きに来れた。
 紗耶香は今日、浮かれていた。
 乱馬が目を覚ましてから二人っきりで話した事はない。
 まぁ、大抵は良牙もいるので以前もそれほど二人だけで話した事はなかったのだが。
 だが今日は良牙が居ないのだ。
 だから今日は乱馬と二人でたくさん話せるかもしれないという期待に胸膨らませてきた紗耶香。
 しかしそこで聞いたのは天道という聞き覚えのある名字。
 紗耶香は覚えていた。あかねの事を。
 紗耶香は自分の中でどす黒い嫉妬の炎が燃え上がるのを感じた。
 持ってきた朝御飯の差入れの入った弁当箱をギュッと強く掴む。
「乱馬は渡さないよ・・・。誰にも。」
 弁当箱を掴む力以上に強く強く紗耶香は決意した。


 あかねは今日もおばあさんの手伝いとして畑に出ていた。
 目はまだ少し赤かったが腫れはなんとか引いた。
 トウモロコシ畑の中で、あかねは昨日見た夢の事をぼんやりと考えた。
(初恋の男の子。その子との約束。場所は・・・あの屋敷の所。そしてあの男の子は・・・。)
「乱馬だった・・・。」
 おさげが、男の子の後ろで揺れていた。
 村中、それに隣村まで会わせてもお下げ髪の男の子なんていないだろう。
「惹かれるのはいつも同じ人なんてね。」
 あかねは苦笑した。
「向こうが忘れて居るんだったら、もう一度あたし達は出会えばいい。今日は畑仕事が終わったら会いに行こう。」
 昨日おばあさんに言って貰った言葉が胸に響いた。
 逢えなくなるなんて、死んでしまう以外はないんだって。
 絶対に逢える・・・。
 ましてやこんなに近くに居るんだから。
 あかねは流れる汗を拭った。


「ぷはーッ!うめぇな!」
 弁当箱の中身をすっかり平らげた乱馬は満足そうにお腹をさする。
「お粗末様。」
「紗耶香はきっといい嫁さんになるぞ。なんてったって器用だし、料理うめぇしな!」
 何も考えずに言った言葉は、紗耶香を赤くさせるには十分だった。
「バーカッ!」
 プイッと顔を背ける紗耶香。
 でも嬉しかった。乱馬に言われて。
「あ、そうそう。紗耶香は覚えてっかな?」
「何を?」
「天道あかねっていう子。良牙の話しでは小さい頃一緒に遊んだ事のある子だって言うんだけどさ。」
 紗耶香は右手をギュッと握った。
「覚えてるけど・・・でも名前ぐらいしか。」
「そっか。でな。その子なんだけど、もしここに来たら入れてやってくれよ。」
「どうして?乱馬は覚えてるの?」
 手足が震えた。
 覚えていると言ったらどうすればいいのか。
「いやこれが全く!だけどほら、一応幼なじみになる訳だし話してみてぇななんて思ってな。」
 紗耶香はコッソリと安堵しながら答える。
「でも畑もあるし、その子が乱馬の事覚えてるとも限らないじゃない。それに乱馬が入院していることでさえ知ってるかどうか。」
 密かにこの場にいないあかねに優越感を感じた。
 しかし次の瞬間それは見事に崩れ去る。
「昨日良牙と来てくれたんだ。でも昨日は俺が目を覚ましたばっかりで俺と良牙二人で話したいだろうからって遠慮してすぐかえっちまったんだよな。ま、向こうも俺の事覚えてねぇみてぇだけどな。」
 無意識に、だろうか。
 乱馬の顔が緩んで、遠くを見るような目つきになった。
 この病院の部屋じゃない、もちろん側にいる紗耶香でもない。
 その視線の先はきっとあかね。
 それが分かって悔しくなる。
(あたしの方が側にいる!東京から来たあかねちゃんよりもずっとずっと、今日まで十六年間、あんたの側にいたのはあたしよ!なのにどうして!?)
 心が悲鳴を上げた。
「もう一度、会いたいなーって思ってさ。せっかく来てくれたのに例の一つも言えてねぇし。」
 その理由は紗耶香には取って付けたようにしか聞こえなかった。
 乱馬の態度はどう見ても恋する者のソレだった。
(乱馬が行ってしまう!あの子に会わせたら、乱馬はあたしから離れていく!・・・絶対に会わせてやるものですか!)


 夕方まで特になにも起こらなかった。
 事件らしい事件は、隣村から帰ってきた良牙が今日の昼頃になってようやく家に辿り着いたこと。
 その辺はみんな慣れてしまっている。
 だから近所の人達はみんな揃って「早かったね。」と声を掛けていた。
「おばあちゃん、あたしちょっと行って来るね。」 
 日が沈み始めた頃、あかねは早々に切り上げて一旦家に戻ってから自転車で隣村まで飛ばした。
 ぐんぐん風を切って進む。
 少し強めの追い風のお陰で、隣村までの距離は近く感じた。
 昨日来た病院にもう一度あかねはやって来た。
 この辺では珍しい二階建ての建物。
 乱馬は二階の三号室。
 手ぶらで来てしまった事に今更気が付いて、気後れし始めたがそこで止めたらあかねはもうここには来れなくなってしまいそうで、一握り残った勇気と膨らみ始めた恋心で自分の気持ちを奮い立たせた。
 病院の中に入って一歩一歩着実に階段を上る。
 その足取りがだんだんとゆっくりになったのはあかねの気のせいではなかった。
 しかしその歩みを止める事はしなかった。
 気が付いた自分の気持ちの為にも、あかねは会いたい、会わなければと思った。
「ここね。」
 早乙女乱馬と書かれた個室の前に立って、やっぱり帰ろうかという気弱な考えがよぎった。
 それを追い払うようにあかねが首を二三度振り、それからドアをノックしようと右手を挙げたときだった。
「あかねちゃん!?」
 突然名前を呼ばれて、出鼻を挫かれたあかね。
 なんとかドア叩けそうだった右手は動きを止めてしまった。
「あかねちゃんでしょ?覚えてる?あたしよ、竜崎紗耶香!」
 あかねは小首を傾げる。
 聞き覚えがあるようでないような・・・そんな名前。
「やっぱり忘れてる?良牙に聞いたわ!あかねちゃんが帰って来てるって。あかねちゃん、可愛くなったね。」
 親しげに話しかけてくる紗耶香に、少々面食らう。
「あの、良牙君と知り合いなの?」
「もちろん、良牙とあたし、それから乱馬は同い年だからいっつも三人つるんでたの。あかねちゃんとは良牙を通して会ったのよ。懐かしいなぁ・・・。そうそう、姉御とかすみ姉は元気?」
 紗耶香がハキハキとあかねがあまり覚えていない過去を喋り出す。
「姉御って?」
「なびきさんよ。あたしよりも一つ上で、それなのに随分としっかりしていたから尊敬してたの。だから姉御って呼んでたの。・・・覚えてないか。」
 少し寂しそうに紗耶香が言った。
「ごめんなさい。」
「ううん、いいの。それより乱馬のお見舞いでしょ?昨日も来てくれたって聞いたの。あんな奴の為にありがとう。」
「気にしないで。あたし、昨日は失礼な事しちゃったから謝りに・・・それにお見舞いに何か持ってくれば良かったのに忘れちゃって。」
 だが紗耶香は「いいの、いいの」と手を振った。
「ちょっとそこで待ってて。乱馬に教えてくるから。」
 紗耶香が病室に滑り込む。あかねはその場で待っていた。

 乱馬はぐっすりと眠っている。
 それはそうだ。
 乱馬が先ほど酷い頭痛に襲われたので、頭痛薬を飲んだところ。
 その薬のせいで睡魔に襲われ、ついさっき横になったばかりなのだから。
 紗耶香は知っていた。
 乱馬は一度眠ったらしばらくは起きない事を。
 紗耶香はニヤリと笑ってから外に聞こえるように言った。
「やだ乱馬!いきなり着替え始めないでよ!」
 外にいたあかねはギクリとした。
 普通、いくら仲のいい友達関係でも女の子の前で着替え始める男はいないだろう。
(普通の友達じゃないの?この二人は。)
 紗耶香の声はまだ続く。
「ねぇ、乱馬。あかねちゃん来たの。ほら昨日来てくれたって言ってた。・・・そう天道あかねちゃんよ。」
 なんだかさっきの紗耶香の声より少し甘えた声。
「さっき薬飲んだせいで眠い?せっかく来てくれたのに。途中で寝ちゃってもいいから会いなさいよ。・・・馬鹿。」
 最後の馬鹿は嬉しそうだ。
「あたし以外の女に寝顔見られたくないなんて、子供じゃないんだから。」
 あかねはそれを聞いてその場から離れた。
 紗耶香が扉の向こうで、あかねが立ち去る音を聞いていた。
「ごめんね、あかねちゃん。だって乱馬は渡せないのよ。乱馬は・・・どうしても。どんな卑怯者になったって、悪者になったって、それでも乱馬だけは・・・。」
 呟きは誰にも聞かれなかった。

(あの二人は恋人なんだ。)
 あの会話は普通じゃなかった。
 普通の会話じゃない、あれは付き合っている者同士の会話にしか聞こえなかった。
(もう乱馬には会えない。)
 弾丸のようなスピードで自転車を漕いだ。
 向かい風になった風はあかねの涙を吹き散らしていく。
 横流れの涙は宙を舞い、それから雨のように落ちた。
 あかねは自分の村へ戻ってくるとそのまま神社の前で自転車を投げ出した。
 自転車が倒れたが、それは放っておく。
 そのまま神社を駆け上がる。
 誰もいない境内。
 そこから見た夕日は今にも沈みそうだ。
 あかねは知った。
「おばあちゃん、逢えなくなるのは死ぬ時だけじゃないよ。」


            『それは逢う気がなくなった時』




つづく




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