◇SUMMER VACATION  〜8月4日〜
夏海さま作


 緊張した面持ちで、あかねはある個室の前に立っていた。
 隣には良牙が居る。
 その個室の表札に、小綺麗な字で名前が書かれていた。
 『早乙女 乱馬』
 良牙は祈るような気持ちで今日も部屋の前に立っていた。
(乱馬、起きてくれよ。)
「失礼します。」
 慣れたようにノックしてから、良牙がドアを開く。
 あかねはその後に続いて部屋に入った。
「よぉ、良牙!久々だな!」
(・・・え?)
 あかねはその場で立ちすくんだ。
 あんなに昨日探した、あの乱馬が。
 村中探しても見つからなかった、あの乱馬が。
 きちんと自分の身体を纏い、ベッドの上で半身を起こして座っていた。
 バサッと良牙が見舞いの品である花束を落とした音を聞いた。
(身体に戻れたんだ・・・。だから居なかったんだね。)
「このヤローッ!」
 良牙が乱馬のみぞおちにパンチを喰らわせる。
 涙目になりながら笑う良牙のパンチを、同じく笑いながら受ける乱馬。
「いつ気が付いたんだよ!」
「昨日の夕時。お袋と紗耶香に大泣きされて・・・。」
「ったり前だ、馬鹿!本当に心配掛けやがって!大体早く俺に知らせろ!」
「お袋達が今日おめぇに知らせに行くって言ってたんだけどな。」
「遅い!この!友達がいの無い奴め!」
 二人はじゃれ合いながら、乱馬が目を覚ました事を喜び合っていた。
(良かった。戻れたんだね。)
 これで良かったはずなのに、妙にあかねは気が重いのを感じた。
(もう乱馬の事で振り回されたりしないんだ。これであたしもお役御免ね。)
 一言、言ってやろうと思ったあかね。
 『全く、急に消えるから心配したじゃないの!でも、身体に戻れて良かったね。』
 口を開き掛ける、がそれより早く乱馬が声を掛けてきた。
「おめぇ誰だ?」
 開いた口がふさがらないとはまさにこの事だ。
「あんた・・・!」
 散々迷惑掛けておいてその言い草はないでしょう、と言おうとしたが乱馬は本当に何も知らないようだった。
「おい良牙。こいつ、誰だよ。」
「天道あかねさん。ほら、俺の村に天道のおばあちゃんがいるだろ?あの人のお孫さんだよ。」
「ふーん。で、それがなんで俺のトコに?」
 嘘を言っている顔でも、口調でもなかった。
「お前の事聞いて心配してくれて、わざわざ俺と一緒に見舞いに来てくれたんだよ。」
「そっか。天道さん、ありがとうな。なんもしらねぇ他人の俺のために。」
「いいわ・・・別に。あたし、どうせ暇だったし・・・でも、あたし邪魔みたいだから帰るわ。良牙君も久しぶりに乱・・・じゃなくて早乙女君といろいろ話したいでしょ?」
 掠れる声で何とか絞り出すと、あかねは乱馬から逃げるように部屋を出た。
「俺、なんかしたか?」
 どう見ても様子のおかしいあかねが出て行った後で、良牙に尋ねる。
 良牙は首を横に振って答えた。
「いや。でもお前も覚えてないんだな。」
「何を?」
「昔よく遊んだ事だよ。俺とお前とあかねさんと紗耶香の四人で村中至る所を駆け回ってた。でも覚えてるのは俺だけみたいだな。」
「俺、あいつと会った事あるんだ。」
(天道さんか・・・なんか、可愛かったな。)


(なんで覚えてないの!?)
 あかねは混乱状態だった。
 どうして覚えていないのだろう。
 あかねの事も、無くした身体を探すのを手伝ったことも、最後に喧嘩別れしていたことも、まだ仲直りもしてないことも。
 何もかもを忘れてしまっていた。
 嘘をついているとは思えない。
 そう・・・
「あそこにいる彼は、あたしを知らない彼だった・・・。」
 そして、あかねの知らない乱馬だった。
 いつの間にか、乱馬は駆け出していた。
 あかねの知らない遠くの場所へ。
 いや、そこが彼の場所なのだ。
 彼は彼の、元の場所へ戻っただけ。
 そしてあかねも、彼と関わりを持たないあかねの場所へ戻るだけ。
 終焉は、その足音も響かせず駆け足でやってきた。
「ずるいよ、乱馬。あんただけコロッと忘れちゃって・・・。」
 フラッシュバック。
 笑った顔も、素直に自分の無骨な指を誉めてくれたあの声も、苛立ったあの仕草でさえも忘れられない。
「ずるいよ・・・!」
 病院から出た所の木の陰にあかねはしゃがみ込んだ。
 肩を庇いながら、少しずつこぼれていく涙を堪えようと必死だった。
 たった二日の冒険。
 たった二日の思い出。
 それでもあかねには何故かとても大切な、印象深い二日間に思えた。
「乱馬・・・。」
 乱馬に忘れられてしまった事が無性に悲しくて、虚しくて、あかねはやり切れない思いだった。

 早乙女乱馬は、天道あかねにとって風のようだった。
 吹いたと思ったらすぐにやんでしまう。
 掴もうとしても掴みきれない。
 決して一所に留まることのない風。
 自由な、風。
 ただ違ったのは、風が吹いた後の爽やかさを残したのではなかった事。
 残したのは、小さな思い。

 風に取り残された、儚く切ない、思い。


「ハローッ!乱馬!」
 竜崎紗耶香は乱馬の病室に入ってくるなり、乱馬に抱きつく勢いで駆け寄った。
「よぉ!紗耶香じゃねぇか。今日も来たのか?」
「こうして俺達幼なじみが三人で喋るのも久しぶりだな。」
 良牙が言うと、そうだねと紗耶香が相づちを打った。
「全く、心配ばっかり掛けるんだから!」
「お前がいない間畑の方大変そうだったぞ?」
「ほんと!あたしや良牙が手伝って上げたけど・・・全くどっかの誰かさんが木から落ちたりしなきゃねぇ。」
 これ見よがしに言うものだから、乱馬は肩を落としたが良牙がすかさずフォローに回る。
「本当の事なんだから、そんなに気にするなよ。」
「・・・慰めてるつもりか?」
「そのつもりだけどな。」
「下手くそ。」
 乱馬が悪態をついたので、良牙が少しばかり不機嫌そうに言った。
「せっかく人が慰めてやってるのに、その言い草はなんだよ。」
「慰めてくれなんて頼んでねぇよ。」
 苦笑いしながら良牙に言った。

『ああ・・・・・・すか!余計な・・・・・・!』

 誰かの声が聞こえた気がした。
 怒った、誰かの声。
 なんと言っているのか分からないけれど、聞いた事があるような声。
 一瞬誰かの顔がよぎったが、全くと言っていいほど見えなかった。
 乱馬の家の古いテレビが良く映すような砂嵐が乱馬を襲った。
「乱馬?」
 良牙の声が遠くに聞こえた。
 ザザーッ!!
(うるさい!聞こえねぇじゃねぇか!)
 巨大なテレビの前にいるような気がした。
 その画面に誰かが映ってる。
 だけど砂嵐のお陰で、その姿を見ることもままならない。
 声の方も殆ど聞き取れない。
 時折やむ砂嵐の合間にチラリと見えたのは、魅惑的に輝く黒い瞳だった。
 その瞳が宿す怒りの炎。
(何故怒っているんだ。これは誰だ!?)
 ズキン、ズキンと頭が痛くなり始める。
 まるで頭の内側からハンマーを叩かれているようだ。
 狂ったように何度も叩かれる。
 思わず頭を抱えた。

「乱馬!乱馬!」
 良牙が乱馬の両肩を激しく揺さぶった。
「・・・!良牙・・・?」
「乱馬!どうしたのよ、急に!」
 真っ青になった紗耶香が乱馬の手を取り、ギュッと握った。
「なんともない?気分が悪いの?」
 いつの間にか過ぎ去った砂嵐。
 頭の痛みも、少しずつ消え去ろうとしていた。
(何かを思い出しそうだった・・・。)
 深呼吸をして息を整えてから、心配そうに自分の顔を覗き込む良牙と紗耶香に笑顔を向けた。
「ああ、なんともねぇよ。ただ疲れただけだ。」
「そうか・・・?」
 まだ心配そうな良牙の背中を乱馬はバシバシと力強く叩いた。
「心配すんなよ!」
「でも眠った方がいいよ。乱馬体力落ちてるだろうし、ね。」
 二人がかりで乱馬は横にさせた。
 とりあえず横になった乱馬を、今度はなんとか寝かせようと説得する。
 あんまり二人が必死なので乱馬も不承不承目を閉じる。
「なぁ、良牙に紗耶香。」
 部屋を出て行こうとした良牙達に声を掛けた。
「なんだよ。」
「声が、聞こえねぇか?」
 目を閉じたまま乱馬が問う。
 良牙にも紗耶香にも何も聞こえていない。
「聞こえないわよ、そんなもの。」
「聞こえる・・・泣き声が・・・。」
 半分眠り始めているのか、乱馬の声はどんどん小さくなっていく。
「聞こえないぞ。気のせいだ、乱馬。ゆっくりやすんどけよ。」
「ハッキリ・・・聞こえるのに・・・?」
(泣くな・・・。頼む、から・・・。)
 その声はそこはかとなく、砂嵐に襲われた時の人物の声と似ていたような気がした。
 殆ど聞こえなかったせいで自信は全くなかったが。
(泣かないで、くれ・・・。)
 乱馬の意識はそこでプッツリと途切れた。


 あかねのおばあさんはあかねが少し腫れぼったい目をして帰って来ても何も言わなかった。
 縁側に腰掛けたあかねの横に座ってあかねの手をいつまでも優しく優しくさすり続けていた。
 その温かさ、優しさにあかねはまた、少しずつ涙をこぼした。
 何も聞かない。何も言わない。
 それが今のあかねにはどんなにありがたかった事か。
 ただ今のあかねには拠り所が必要だった。
 何も言わずに受け入れてくれる人が欲しかった。
 おばあさんあかねの全てを見透かすかのように、あかねのして欲しい事をしてくれていた。
「おばあちゃん。あたしが、急に泣いたりして驚いたでしょ?あのね・・・実はね・・・。」
 おばあさんがあかねの唇に人差し指を当てた。
 くしゃりと表情を崩して、そのままあかねの涙を拭った。
「いいのよ、あかねちゃん。無理して言う事はないの。ただ泣いて、そして次へ繋がればいいのよ。大事なのは乗り越える事。その為なら、たとえ泣いても、たとえどんなに周りに迷惑を掛けてたっていいの。」
 新たな涙が押し寄せた。
 おばあさんのあかねに対しての深い愛情は、まるでゆりかごのように優しかった。
 そう、優しくて・・・幼くして亡くした母の愛情のよう。
 母が隣に居るようだった。
「おばあちゃん、一つ聞いてもいいかなぁ?」
 涙声で問うあかね。
「逢いたい人と会えなくなったら、どうする?」
「そんな事はないわ。・・・その人が死んでしまわない限り、逢う事は必ず出来るのよ。」
「・・・そっかぁ。」
 あかねはコロンと横になった。
 おばあさんはあかねの頭を自分の膝に乗せて、髪を手で梳き始める。
(乱馬には、いつだって会える。いつだって・・・逢えるんだ・・・。)
 安心したのか、あかねはそのまますぅっと寝入ってしまった。


『帰っちゃうのか?』
 男の子と女の子の二人だけの秘密の場所。
『うん、お父さんがね。明日の朝に、帰っちゃうって。』
 女の子が泣いてた。
『そっかぁ。あかねちゃん、帰っちゃうんだ。』
 残念そうに言った男の子。
『でもさ!また逢えるよ!』
『そうかな・・・。』
『絶対絶対逢えるよ!大きくなったら絶対ここに来て!それでさ、大きくなったら結婚しよ!』
『ほんと?』
『うん!僕絶対忘れないから。だからもう泣かないで。』
『私も絶対忘れないよ。絶対また来るよ!』
『じゃあ約束だ!』
 二人は指切りをかわす。
『『ゆーびきりげんまん、嘘付いたら針千本のーます!指切った!』』
『また、ここで会おうね!』
『今日のこと忘れないでね!』
 夕日の傾く中で交わした約束を、小さな胸に大事にしまって二人は笑顔で別れた。



つづく




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