◇武士道と修羅道
武蔵さま作
其之伍 『禅馬』
―――山奥―――
日が落ち、辺りは闇に包まれようとしていた。車の音もなく、虫の鳴き声までもが聞き取れるほどに静まり返っていた。
「親父〜〜、まだなのか〜〜?」
山を登ることは肉体的に問題はないが、ただひたすら登り続けるという単調な作業が精神的に疲労感を倍増させていた。
『……着いたぞ。』
プラカードを出した玄馬がそのまま指した方向には確かに僅かなりとも明かりが見えた。
近づくと、そこには建物があり、人が生活していることを表していた。小屋というには少々大きめであるように感じるその家には、らんま達がおしかけても十分な余地があると思えた。
安心したらんま達。しかし玄馬(パンダ)だけは落ち着かない様子で冷や汗をかき続けていた。
「ごめんください」
のどかが数回ノックをしたが、返事はなかった。
『留守か……ならば帰ろう』
パンダはそう言うとそのまま小屋に背を向けたが、毛むくじゃらのわき腹をガッシリと掴まれた。
「ここまで来たのに帰れるか!いねーんなら待てばいいだけの話だろ!」
ショボンと項垂れるパンダ。その表情は悲哀感を漂わせていた。
「あら、何か御用ですか?」
家の前で待つこと数分、暗い雑木林の中から一人の女性が現れた。年の頃はのどかよりやや年上という感じが見られた。
「お義母様、お久しぶりです」
のどかが一礼して挨拶する。すると女性は驚いたようにのどかを見ると、同じように頭を下げた。
「本当に久しぶりですね、のどかさん」
『お義母様』そうのどかが呼んだからには、目の前にいる女性は玄馬の母親、即ちらんまの祖母にあたる人物ということだ。しかしその見た目はとてもそうは見えず、若干白髪混じりということを除けばのどかの姉といっても通じるほどだ。
「あらあら、今日は大勢ね。そちらの女性方は?」
女性はのどかの隣にいるらんま達に目を向けた。
「こちらは息子の許婚の天道あかねちゃん、これはペットのパンダちゃん、そして―――」
のどかはらんまを女性の目の前に立たせた。
「私の息子の『早乙女乱馬』です。」
女性は驚いたようにのどかを見て、次にらんまを見た。
「あなたが……乱馬……」
女性はらんまに近づき、肩に手を当てるとまじまじとらんまを見つめた。
「ついに会うことができたのですね。もっと男らしい子を想像してたけど、見た目は女の子みたいなのね。」
女性は微笑ましく笑うとのどかとらんまを交互に見た。
「のどかさんによく似ているわ。よかったわね」
『どういう意味じゃ!』とパンダがプラカードを出しながら癇癪筋を浮かべていたがそんな訴えは誰も見ていなかった。
「いや、俺は男―――」
らんまが説明しようとしたのを女性はそれを遮るように一歩引いた。
「自己紹介が遅れたわね。私の名前は時雨(しぐれ)、『早乙女時雨』、あなたのお祖母ちゃんですよ」
冗談を言うように時雨と名乗る女性はクスクスと笑いながらお辞儀をした。
「もうすぐ主人も戻ってくるわ。家にお入りなさい」
時雨の有無を言わさないペースに飲まれ、らんま達はおとなしく家の中で待つことにした。
らんまが時雨にお湯を頼んで数分した頃であった。
ガラッ
戸が開き、外から隻眼で巨躯な男が入ってきた。見た目は時雨と同じくらいの年に見える。男はらんま達に目をやると、所狭しといったように中へ入った。
「あなた、おかえりなさい」
「……ああ」
時雨が出迎えると、男は無愛想に答えた。言葉の簡潔さとは裏腹に、今の状況がわからずにいると言ったところだ。らんまはその男に見覚えがあった。つい先ほど川で遭遇した男と見て間違いなかった。
「あんたはさっきの―――」
らんまの言葉に視線を向ける男。片目だが、鋭い眼光を持つ男は睨むようにしてらんまを見た。しかし男は視線をすぐに外すと、何事もなかったように時雨に何かを渡した。どうやら食料のようだ。その体格と比較すると小さく見えた籠には大量の魚や木の実やら野菜が入っていた。
「ご苦労様。ところで今日はのどかさん達があなたに用があってわざわざいらしてくださったのですよ」
無視された事に不快を感じていたらんまはようやく話の流れがこちらに向いた事に安堵した。パンダは隅で震えていた。
「あんたが禅馬で間違いないんだな?」
震えて頭を抱えているパンダに確認を取ったところで無駄だと思ったのか、らんまは直接男に訊ねた。
「これ、らんま。あなたのお爺様ですよ!なんて口の利き方をするんですかっ!」
礼儀を重んじるのどかに叱られて少し困った顔をするらんま。緊張感が失われてこちらから言葉は言えず、相手の返答を待った。
「如何にも。で、おまえは何だ?のどかに小娘二人、そして珍妙な獣1匹でここまで来るあたり、只者じゃあないのぅ」
確かに普通の人ではここまで辿り着くなど到底不可能な道のりに、女三人ペット1匹で来る人間たちを普通とは言えないだろう。らんまにはそれが褒められたというよりはむしろバカにされたという印象を受けた。あながちそれは間違いではなく、禅馬は嘲笑すら浮かべていた。
「くっ!」
ただでさえ身に災いが掛かっていて精神的に不安定になっているらんまにとって相手の行動は全て癪に障るものであった。そんならんまを制して言葉を続けたのはのどかであった。
「これは私の息子の乱馬です」
のどかの言葉を聞いた禅馬は隠すことなく大笑いした。
「がっはっは、どう見ても女子(おなご)の身体なのに息子か」
それは無理もないのだが、らんまに取っては不快のほかなかった。すかさずまだ火にかけていた湯を頭からかぶり、男の姿になって禅馬の目の前に立った。
「俺は男だっ!」
変化するその様子を見て時雨は驚きを見せた。
「あらあら、まあまあ」
しかし禅馬はすこし眉を動かしただけであった。
「面妖な身体だな。しかしそれでも何も変わらん。で、他は?」
もう乱馬には興味がないと言った様子で禅馬はのどかに目をやった。
「こちらは天道あかねちゃん。乱馬の許婚ですよ」
「許婚?ふん、小僧も色欲だけは一人前だな」
まるで乱馬を挑発しているかのように呟く禅馬。今にも飛び掛ろうとする乱馬を必死で抑えるあかね。そして残ったパンダをのどかが紹介しようとしたその矢先である。
「おい、そこの熊モドキ!」
ビクッと肩を震わせるパンダもとい玄馬。禅馬に睨まれて小刻みに震えだした。
「てめぇからはわしの嫌いなやつと同じ気配がする……」
どうやら気の質を探ったらしい。つまりは玄馬がどれほど嫌われているかがよくわかった。
「ちょうどこのところ魚も少なくなってきたとこだ、獲物としては当分の糧になるな」
恐ろしい事を言い出した禅馬を宥めるように時雨が口を挟んだ。
「だめですよ、あなた。それに恐らく玄馬のことを言っているのでしょうが、子供の前で父親の悪口はいけませんよ」
「父親ぁ?」
時雨の言葉に禅馬は首をかしげた。
「すると何か?この小僧、あの胸くそ悪い玄馬の息子か!?わしはてっきりのどかが新しい家庭を持った報告だとばかり―――」
どうやらパンダから意識が逸れたらしい禅馬は乱馬の顔をじろじろ見つめてきた。
「ちっ、道理で根性のなさそうな面してやがる。そんな小僧が一体わしに何の用だ?」
父親と比較されたことはまだいい。しかし父親と一緒にされた事が乱馬にとっては怒りの臨界点を超えるには十分であった。
「てめぇ……さっきから聞いてりゃ好き放題言いやがって……根性がねーかどうか、てめぇで試して見やがれっ!俺の無差別格闘早乙女流の技を見せてやる!」
乱馬はそう言って立ち上がり、禅馬に食って掛かった。
「ほぅ、面白い。ならば付いて来い」
禅馬は立ち上がると同時に襖を開けると、奥の一室を促した。
一室向こうには手作りの道場があった。道場は如何にも手作りといった感じではあったが、とても広く、禅馬も心置きなく相手ができると言う事で移動したのだが、道場に入るや否や戦闘は始まった。
「はぁっ!」
猛攻を仕掛ける乱馬。しかし禅馬はその巨体に似合わぬ素早い動きでそれを軽くいなしていた。
乱馬は本気である。しかし傍目から見た玄馬やあかねにとってもそれは十分な力に感じられなかった。ただでさえ気が使えない状態の乱馬、相手は七十を超えたとはいっても見た目はまだ十分若く、肉体に計り知れない剛力を持つ禅馬。勝敗は誰の目にも明らかであった。
(どうする……考えろ!)
乱馬自身、このままやっても100%勝ち目がないことは承知していた。だからと言ってこちらから嗾(けしか)けた以上、簡単に負けを認めるわけには行かない。
氣が使えない今、頼れるのは己の肉体と体術を駆使した技だけであった。
そして乱馬の脳裏にいくつかの技とその効果が浮かんだ。
敵前大逆走 :ただの敵前逃亡
猛虎落地勢 :ただの土下座
魔犬慟哭破 :ただの負け犬の遠吠え
徒手孝行乱打:ただの肩叩き
猛虎一撃態 :頭上からの不意打ち
狼牙襲背態 :背後からの不意打ち
蛙轢死態 :油断させて不意打ち
(……)
(……………)
(…………無差別格闘早乙女流、使えねぇ〜〜〜〜〜〜っ!!)
「どうした?無差別格闘早乙女流とやらの技を見せてくれるんじゃなかったのか?」
ガックリと項垂れる乱馬の内心を見抜くように発した一言が、誘発剤となったのか、乱馬は我武者羅に立ち向かった。
「動くなっ!」
怒号の叫びと共に乱馬の攻撃が始まった。両手で禅馬の両腕を外側に開き、右足を突き出すように繰り出した。山千拳の猛虎開門破である。しかし、蹴りは空を切り、肩をポンと軽く叩かれた。振り向くとそこには余裕の顔をした禅馬がいた。
動きを捉えることすらできなかった乱馬の驚きは、莫迦にされたという行為に対する怒りで掻き消された。
「……っんのやろう!」
無数の拳が禅馬に突き出される。火中天津甘栗拳である。しかし、その攻撃も同じく空を切ることになった。
(くそ……でけぇ図体しやがってなんて素早さだ……)
納得がいかないといった様子の乱馬だが、相手の力量はそれだけでも理解する事ができた。
(迷ってる暇はねえ!)
乱馬は怒りで満ちた感情を沈めるために息を大きく吸った。気を感じられない乱馬にとって、今の状態がどの程度闘気を含んでいるのか知る事はできないが、乱馬は望みを次の一撃にかけた。飛竜昇天破、数々の強敵を破ってきた秘奥義である。乱馬はこの技に工夫を重ね、途中までの過程を大方省く事に成功した。螺旋のステップを刻むのにはそれだけ時間を費やす事になる。ましてや技を知っているものがそれに気付けば成功することすら困難に陥る。闘気の渦を生み出すには、その技の引き金であるスクリューアッパーを打つ際に、自分の闘気と冷気を螺旋状に放出する事で螺旋ステップを必要としなくする方法である。しかし現在の乱馬にはそれが使えない。となると螺旋ステップが必要とされるわけであるが、禅馬は先ほどから全く攻撃を仕掛けてこない。冷静な相手に対してこの技は成功しない。しかし、戦いが始まってから周囲には熱気がこもっていた。乱馬が禅馬におちょくられるにつれて発散された怒気である。氣が使えない乱馬にとっても感情は別物である。その怒気を闘気の代わりに使用しようとしたのだ。
怒気は闘気に及ばない。如何に冷静になろうとも冷気を発するには至らない。飛竜昇天破もかなり威力は激減するであろうが乱馬にはもはやこの技しか残っていなかった。
(問題は、冷気が出せるかどうか…)
クリスと闘った際に微風すら起こらなかった事実が思い起こされる。ふと足元を見ると、先程川で汲んできた水の入った水筒が見えた。中には良く冷えた水が入っている事は先刻水に浸かった乱馬には分かった。すかさず足先で水筒を蹴り上げ、先端に軽く打撃を与える。器用にも水筒のキャップが外れ、中から水が零れ出した。冷気を使えない乱馬にとって唯一の温度差を利用できる方法である。
宙を舞う水流に向けて、乱馬は拳を突き出した。
「これで終わりだ!飛竜昇天破ぁっ!」
確実に当てるために水平撃ちの飛竜昇天破を禅馬に向かって放った。若干竜巻は極小ながらものの、人間の意識を刈り取るには十分なものであった。
(決まった!)
禅馬に技が迫る。禅馬は回避行動すらとっていない。乱馬は確実に技が命中したと思ったときである。
「喝っ!」
禅馬が一喝した瞬間、飛竜昇天破の渦は掻き消されてしまった。
「うそ……だろ……?ただの気合で―――」
言葉を失ったのは乱馬だけではなかった。周囲のものも唖然としていた。
「ふぅ、では次はこちらの番だな」
そういって禅馬は乱馬に向かって構えをとった。
「……ここは?」
目を覚ました乱馬が最初に見たものは、今まさに手ぬぐいを額に乗せようとしていたあかねの顔であった。
「あ、気が付いた?乱馬、気絶してたのよ」
状況が理解できていない乱馬に説明するようにあかねは言った。
「俺は……負けたのか?」
気絶していたと言う事はそういうことなのだろうと乱馬は察した。
「まあ、相手が悪かったわよ。あそこまで強いなんてあたしも思わなかったわ」
慰めるように言うあかね。しかし乱馬にとってはそれは自分が惨めに思えるだけであった。
「どんな技で俺はやられたんだ?」
禅馬が構えた後の記憶がさっぱりない。それほどまでに素早く、それも意識を失うほどの強力な技でやられたのか、乱馬には想像も付かなかった。
「えっと……」
何故か言葉を濁すあかね。視線は意図的に乱馬から逸らされていた。乱馬は上体だけを起こすとあかねを問い詰めるように目を見た。
その時に不思議に思った。大技を喰らったにしては体に怪我はない。問題なく体も動く。唯一痛む場所といえば額の一点がズキズキするだけだが、それも大した痛みではなかった。
「小突かれたのだ、おまえは」
言いあぐねているあかねの代わりなのか、襖を開けて玄馬が姿を現した。
「技が技だけにあかね君も言いづらかっただろう。だがそれほどまでにあの人は強いのだ」
玄馬はそう言うと人差し指を弾いて見せた。つまりその動作だけで乱馬はやられてしまったということを意味しているのだ。
「親父……」
パンダの姿をやめている玄馬を見て乱馬は驚いた。あれほどまでに禅馬を恐れ、正体を隠し続けていた玄馬が堂々と姿を現していることもあったが、それ以上に、変形した顔面と、痣だらけの体を見て驚いたのだ。
「一体……どうしたってんだ?」
言葉に詰まる玄馬。今度はその代わりにあかねが答えた。
「バレちゃったのよ、おじさま」
痛々しそうな顔を背けながら、玄馬は頷いた。あかねが言うには気絶した乱馬を運び終えた所を、時雨が乱馬のために持ってきた微温湯(ぬるまゆ)とタオルを受け取る際に、パンダの爪が引っかかって湯を頭からかぶってしまったのだ。その時、時雨は驚いただけであったが、その背後には乱馬と手合わせしたときとは見違えるほどの殺気を放った禅馬の姿があった。
そして事が終わった道場に連れて行かれ、今に至ったのだ。しかも乱馬のように瞬間的に意識を断ち切るような事はせずに甚振った(いたぶった)らしい。
「むっ、気が付いたか小僧」
ヌッと巨躯な姿が襖から出てきた。禅馬はギロリと玄馬を日と睨みすると乱馬の方を向いた。自分の力加減をわかっているのだろう。乱馬が起きる頃合を見計らって様子を見に来たのだ。
「俺には乱馬って名前があんだ!小僧扱いしねーでくれ!」
負けた手前あってか視線を合わせ難かったが、乱馬はそんな様子を悟られないように禅馬の言葉を指摘した。
「はっ、わしに触れる事すらできぬ奴が何をほざくか。貴様には小僧で十分だ。己の力量がわかったのならばさっさと山を降りて精々無差別格闘早乙女流とやらの修行に励むがいい」
吐き捨てるかのような禅馬の言葉、しかし言われて黙っている乱馬ではない。
「俺は認めねぇ!氣が使えればあんな結果にはならなかったんだ!」
やはり乱馬自身、負けを認めたくないのだろう。言い訳と分かっていても口に出さずにいられなかった。
日も既に落ち、周囲は暗闇に包まれていた。部屋の中にあるのは炎の光だけであり、その場はまるで乱馬の心情を描くように静寂に満ちていた。自分は強い、そう思ってきた乱馬にとって、いくら氣が使えないからといって圧倒的に体術で負けたのはとても辛い事であった。
「お義父さま、本日参ったのは他でもない、この乱馬のことなのです」
乱馬の言葉を継ぎ足すようにのどかが言った。
「左様、この乱馬が先日……暴走しました」
次いで玄馬が説明するように言った。禅馬は初め興味のなさそうな素振りであったが、玄馬の言葉に含まれる一語に過剰な反応を示した。
ジロリと乱馬を覗き込む。片目しか見えないのにまるで眼帯に覆われた目も駆使して凝視するように乱馬を見た。その目は至って真剣であり見られている乱馬も言葉を発してはいけない感覚に捕らわれたほどである。
「……暴走だと?」
玄馬は昨日のできごとを禅馬に聞かせた。乱馬自身、己の行為を第三者視点で再び認識する事となった。
禅馬は乱馬の胸倉を掴むと、無理やり体を引き起こさせて問い詰めた。
「いつから予兆はあった……!?」
「……数ヶ月前、中国で闘ってからだ。氣が使えなくなったのはほんの数日前だ」
「暴走したときの事は?」
「……全く覚えてねえ」
問答を繰り返し納得したのか、禅馬は乱馬から手を放した。
「左目が疼いたのはそういうわけか……」
一人納得して禅馬は乱馬を見て言った。
「小僧……おまえ武術を辞めろ」
「え……?」
何を言われたのかわからずに、乱馬はただ呆然とした。
つづく
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