◇乱馬のいないクリスマス  前編
みのりんさま作


一、十二月二十三日

 ジングルベルの調べも、そろそろ聞き飽きてきたこの日。
 「クリスマスの飾りつけを手伝う。」って、約束した乱馬はいつの間にかいなくなっちゃって、腹が立ったあたしは、探しに表に出ていた。
 ――きっと、右京のとこか、シャンプーのとこに決まっているわ!
 人が行き交う雑踏にまぎれて、あたしは商店街へ向かう道を行っていた。
「あ。」
 意外と、あっさりと見覚えのあるお下げの後ろ姿が見つかった。
「乱馬!」
 あたしが声をかけたのに、気づかないのか、振り向きもしない。
「乱馬ーっ!乱馬ーっ!」
 大声を出して、乱馬の元へ駆け寄った。
「乱馬っ!聞こえてんでしょ!!」
 なのに、乱馬ったら全然こっちを向かないの!
 サッとあたしは、乱馬の腕をとった。
 やっと乱馬は立ち止まった。
「ったく、何度呼べばいいのよ。乱馬、早く帰るわよ。」
「……乱馬……誰だ、それ?」
「はぁ……何言ってんのよ、あんた。」
 ――そっか、手伝うのが嫌だから、冗談で逃げよって寸法ね!
「乱馬、あんたね。いくら手伝うの嫌だからって、そうはいかないわよ!ほら、さっさと帰るっ!」
「…………帰る?……どこに?」
「うちに決まってるでしょ!」
「うちって……どこだ……」
 乱馬は急に頭を抱えて、座り込んだ。
「ちょっと、乱馬……」
「おれは……誰だ……」
「本当なの……」
 呆然とあたしは立ち尽くした。
 けど、二人してこんな所にいちゃ、ダメだってすぐに気づいた。
「東風先生のところへ、行きましょ。」
「……東風?」
 顔を上げて、乱馬は不安そうにあたしを見る。
 あたしは乱馬の手を取り、とにかく急いで“小乃接骨院”へ向かった。
 先生に事情を話し、すぐに乱馬を診てもらうことができた。
 東風先生は乱馬の頭を触りながら、手を止めた。
「あ、たんこぶができているね。」
 そして、東風先生はあたしに向かって首を横に振った。
「あかねちゃん。頭の怪我の場合は、表面上の傷では分からないことが多い。僕のとこより、総合病院の脳外科に行った方がいい。すぐに保険証を持って、乱馬くんを連れて行きなさい。今日は確か……長田総合病院開いてたっけ……」
 東風先生は新聞を持って来て、広げる。
「うん。緊急当番は長田総合病院だ。できるだけ乱馬くんをゆっくり、転んだりさせないようにして連れて行きなさい。」
「……はい。」
 仕方なくあたしは、乱馬を連れてうちに帰った。
 「乱馬が記憶喪失になった。」と言ったら、皆驚いた。
 けれど、東風先生のアドバイス通り、すぐに早乙女のおばさまとあたしが付き添うことに決まり、電車に乗って、乱馬を連れて二つ向こうの駅の長田総合病院へ行った。

「これは、何かわかりますか?」
 あたしが説明をした後、脳外科の先生は机の上のシャーペンを持ち上げて、乱馬に問うた。
 乱馬は軽く頷いた。
「シャーペン、ですか?」
「では、これは?」
「消しゴムです。」
「じゃあ、これは?」
「メガネです。」
 先生は何かをカルテに書き込んだ。
「日常生活に関することの記憶は、問題ないみたいですね。」
「はあ……」
 おばさまは心配そうに答えた。
「じゃあ、君は誰かな?」
 乱馬は頭をかき始めた。
「おれは……おれは……」
「分からないんだね。」
 乱馬は縦に頭を振る。
「ふ〜む。脳に関する、一通りの検査を行ないましょう。お二人は一旦、外で待っていてください。藤井くん、検査室に彼を案内して。」
「はい。」
 『藤井』と書かれた名札をしている、看護婦さんが乱馬を連れて行く。
 あたしもおばさまも、ただそれを見送ることしかできなかった。
 それから乱馬が戻って来たが、結果が出るまでしばらく時間がかかるとのことで、三人とも黙ったままで、次に先生に呼ばれるまでまった。

「早乙女乱馬さん。」
『はい。』
 その名前に反応して立ち上がったのは、あたしとおばさまだけだった。
「“海馬”いわゆる脳の記憶中枢にですね。そこに何かしらの衝撃を受けたものだと、思われます。」
 検査結果が出たというので、再びあたし達は先生の前に呼ばれた。
「それで、乱馬の……息子の記憶は……」
 おばさまの言葉に、ゴクリとあたしも唾を飲み込んだ。
「それは私にも何とも言えません。こういう症例の患者は何人か見たことがありますが、一日で記憶を取り戻した例や、また十年経った今でも記憶喪失のままという患者もおられます。」
「では、乱馬は……」
 その声は悲嘆な叫びだった。
「お母さん。貴方が希望を失ってはいけません。日常のささいなきっかけで、記憶を取り戻すことができる場合が多いんです。いいですか、なるべく息子さんをいつも行なっている行動をとらせてあげてください。」
「はい。」
 大きくおばさまは頷いた。

「えっと……か、母さん……?」
「何、乱馬。」
 帰りの電車の中、三人で椅子に座っていた時だ。乱馬がおばさまに呼びかけたのは。
 なんとなく、乱馬は戸惑っている表情をしていた。
「……おれ、あなたが自分の母親だって、どうしても……実感がもてねえんだ。」
 おばさまは笑顔で乱馬の手をとった。けれどあたしには、寂しげな顔にしか見えなかった。
「大丈夫よ。焦らなくてもいいの。ゆっくりと、思い出していけばいいんだから。ね。」
「…………はい。」
 乱馬もまた、寂しげに微笑んだ。


二、家に戻れど

「ただいまー」
 玄関を開けると、ドタバタと皆が集まってきた。
「どうでした?」
 代表して、お父さんが聞く。
 皆が息を呑むのが、あたしには分かった。
 早乙女のおばさまは、小さく首を横に振った。
「身体の傷は治せても、頭の中は戻せないと先生はおっしゃられました。」
「そう、ですか……」
「乱馬――――っ!」
 早乙女のおじさまが、乱馬に向かって走って来た。
 ひらりと、乱馬はそれをかわす。
「わ――っ!」
 ドタッと、外で大きな音をさせて、おじさまが倒れた。
「お前!何をする!!」
 おじさまが怒鳴るが、乱馬は困惑の表情を浮かべていた。
「さっ、乱馬。お上がり。」
 おばさまがが乱馬に向かって声をかける。
「はい。」
 それに従って、乱馬は靴を脱いだ。
「じゃあ、とりあえず居間に行こうか。」
「はい。」
 お父さんが言うと、乱馬はおとなしく頷く。
「お茶の用意をするわ。」
 かすみお姉ちゃんも、スタスタと奥に向かう。
「あ、私も手伝う。」
 なびきお姉ちゃんも奥へ行った。
 もちろんあたしも家に上がる。
「…………」
 後ろで倒れ、絶句しているおじさまのことは、誰もが忘れていた。

「覚えていることを、何でもいいから、言ってごらん。」
 そうお父さんが言った。
 乱馬は右手で額を押さえる。
「天ぷら……天丼、エビ天、ところてん、あんみつ、みつまめ、金時、ようかん、ヨーグルト…………」
「……全部食べ物ね。」
 なびきお姉ちゃんのツッコミに、あたしは溜息をついた。
「食い気だけは人一倍だから……」
「……悪かったな。」
 乱馬は顔を赤くして言った。
「じゃあ、この中の誰でもいいから、名前言える?」
 おばさまが言うと、乱馬は一人ずつ顔を見る。
 けれど、誰の顔を見ても反応は無い。
「だ――っ!分からねえ!!」
 乱馬は頭を押さえて叫んだ。
「落ち着いて。」
 そう言って、おばさまは乱馬の肩を掴む。
「まず、貴方自身のことをゆっくりと理解して。」
「…………おれ、自身のこと?」
 おばさまは頷く。
 そして、広告の束から裏が何も印刷されていない紙を取り、鉛筆で字を書く。
 乱馬に見せるように置いたそれには、『早乙女乱馬』と書かれていた。
「貴方の名前よ。」
「おれの……名前。」
 再び乱馬は右手で額を押さえながら、その紙を手に持った。
「……早乙女……乱馬……早乙女乱馬…………」
 何度も乱馬は呟いていた。
 その顔は、見るのも痛々しかった。
 一生懸命、手探りで何かを必死で掴もうとしているのが感じられたから。
 あんなに自身たっぷりの乱馬が、こんなにも弱々しく見えるなんて……

 おばさまは、お父さん以外の皆の肩に手を置きながら、乱馬に自己紹介した。
 乱馬は指差し確認するように、顔と名前を一致させることに懸命になった。
「……あかね。」
「惜しいわね乱馬くん。私はなびきよ。」
 お茶を啜りながら、なびきお姉ちゃんは笑う。
「親父?」
「乱馬くん。わしは天道早雲だって、さっき教えたじゃないか。」
 顔を引きつらせながら、お父さんは言った。
「たく、何でこんなに人が多いんだよ……」
 頭をかきながら、乱馬は言う。
「あんたの頭が悪いだけでしょ。」
 あたしが言うと、乱馬は睨んできた。
「悪かったな……あかね。」
「お、正解!」
 パチパチ……皆は手を叩いた。
「何か、あんまし嬉しくねえ……。」
 それでも、繰り返すうちに名前と顔の一致はできたらしい。
「じゃあ、次。これ分かる?」
 そう言って、なびきお姉ちゃんが見せたのは、でっかく『1+1=』と書かれた紙。
 半ば呆れるような顔で、乱馬は言った。
「それ……小学生じゃねえガキだって、分かるって。答えは“二”。」
 その紙になびきお姉ちゃんは何かを書き足す。
「これは分かる?」
「“天道道場”だろ。」
「じゃあ、これは?」
 なびきお姉ちゃんは地図帳から、日本列島の北を指差す。
「“北海道”」
「北海道と言えば?」
 乱馬は少し考えてから、ポンと軽く手を打った。
「とうもろこしとじゃがいも。」
 なびきお姉ちゃんはさらに指を下へ動かし、近畿地方のとある県の上で止めた。
「ここはどこでしょう?」
「“大阪”」
「では、大阪といえば?」
 乱馬は即答する。
「お好み焼き!」
「他に、思い出すことは?」
 その言葉に、乱馬は首を傾げた。
 ――なびきお姉ちゃん、右京のこと思い出させようとしてるのかしら……
 いつの間にか、あたしのは下を向いていた。
 ――あたしのこと、何も思い出せないのに……右京のこと思い出したら…………嫌、だな。
「たこ焼きっ!」
 ズルっ!
 思わずその回答に、あたしはずっこけていた。
 あたしの思いは、乱馬には伝わらなかったみたいだけど、この食欲大魔人……
 なびきお姉ちゃんも呆れた顔をしていた。
「乱馬、アルバム見つけてきたの。見る?」
 おばさまが手にアルバムを抱えて、居間に入って来た。
「あ、えっとおふくろ?」
 嬉しげな顔をして、おばさまは頷く。
「私にも知らない乱馬のことが、いっぱいあったの。あかねちゃん、なびきちゃん。教えてくれないかしら。」
「ええ、いいですよ。」
 あたしは即座にOKした。
 ひょっとしたら、乱馬の記憶に何か揺さぶりをかける“何かがあるかもしれない”。
「私も、かまいませんけど。」
 そう言ってなびきおねえちゃんは、おばさまからアルバムを受け取る。
 乱馬の前にアルバムは置かれた。
 表紙を乱馬がめくると、天道家の前で皆で撮影した写真があった。
「これ、確か乱馬くんたちが来た記念に撮ったやつよね、あかね。」
「うん。」
 真ん中に乱馬と早乙女のおじさま。あたしはまだ髪が長いままで、乱馬の横にいる。なびきお姉ちゃんはあたしの左隣。その横にかすみお姉ちゃん。お父さんはおじさまの隣にいた。
 その写真に乱馬はじっと見入っていた。
「これ……あかねか?」
 あたしを指差しながら、乱馬は聞いてきた。
「ええ。昔は髪を伸ばしていたの。」
「どうして、今は短いんだ?」
 乱馬は不思議そうに聞く。
「それは……」
 あたしが言いかけたのを、なびきお姉ちゃんがさえぎった。
「あんたと良牙くんの喧嘩に巻き込まれたせいで、あかねの髪が切れちゃったのよ。」
「……良牙?」
 新しく出てきた名前に、乱馬の頭は混乱を始めたらしい。また、頭を抱え始めた。
「うっ…………」
 畳に倒れこんで、苦しそうにもがき始める。
「今はいいから、ね。」
 乱馬を抱きしめながら、おばさまが言った。
「……うん。」
 ゆっくりとその手の中で、乱馬は頷いた。
 しばらくそのままでいたが、「もう、大丈夫です。」そう言って乱馬はおばさまの腕の中から出た。
 乱馬は座りなおして、もう一度、アルバムに向かって指を指し始めた。
「なびき、かすみさん、天道のおじさんに親父。」
「その通りよ。乱馬。」
 おばさまは笑顔で言った。
「そして……おれ……」
 最後に指差した自分自身を、乱馬は凝視する。その顔の輪郭を指でなぞる。
「鏡、貸してしれねえか。」
 誰に向かって言ったのか分からなかったが、あたしは自分の部屋へ走った。
 手鏡を取り、急いで乱馬の元に戻る。
「はい、鏡。」
 乱馬に渡すと、「ありがとう。」と笑顔で言われてしまった。
 こんなこと……中々ない。
 あの自信家で、素直さの欠片も無い乱馬に。
 あたしは驚くとともに、ショックだった。
 乱馬に視線を戻すと、彼は自分自身が映る鏡を真剣な眼差しで見つめていた。
 意識して顔を歪ませたり、笑ったり、怒ったりしている。
「これが……おれ……」
「うん……」
 あたしが答えると、「おれって、カッコいーな。」ってニヤケながら乱馬が言った。
 ――……やっぱり、乱馬だ
 ホッとあたしは息をついた。
 乱馬はアルバムの次のページをめくる。
「次は、何か変な写真だな。」
「格闘新体操で、あたしの代理で出場した時のやつね。」
 リボン片手にらんまは小太刀と対峙している。
「この女、誰?」
 あたしがおばさまの方を見ると、おばさまもあたしを見ていた。
 おばさまが軽く首を振ったのを見て、あたしも頷き返した。
「……今はおいといて、次いきましょう。」
 そう言って、あたしはアルバムのページをめくった。
「何だよ。気になるじゃねえか。」
「いいの、いいの。乱馬くん、ポテチ食べる?」
 なびきお姉ちゃんも気を利かしてくれた。
「うん。食う。」
 単純な乱馬は、ニコリとポテチが入っている袋をなびきお姉ちゃんから受け取った。そしてパクパクと、食べ始める。
「これは格闘ペアスケートね。」
「何か、さっきから“格闘”“格闘”って続くな。」
 乱馬は首を傾げながら言う。
「まあ、色々あるのよ。」
「ふ〜ん。」
 続く写真も、何だかの格闘競技に参加しているものばかり。
「あ――っ!何だ、これ?!」
 乱馬が驚きの声をあげたのは、皆が入り乱れて、メチャクチャになった“ロミオとジュリエット”の写真だった。
 呆然と乱馬はあたしを見つめた。
「何で、おれとおめえがき、き、き…………キス、してるんだ……」
「これは、これは……ガムテープ越しにやったのよっ!」
 慌ててあたしが声を上げた。顔がほてっているのが分かる。
 乱馬から目をそらした。
「そうそう、この時の乱馬くん。おもしろかったわね〜」
 クスクスとなびきお姉ちゃんが笑った。
 ――もう、当事者じゃないんだから。
 あたしはこの場を離れたくなった。
 けれど、なびきお姉ちゃんのことだ。何だかんだと、妙なことを乱馬に吹き込まれてはたまらない。
 恥ずかしいのをこらえて、必死になってあたしはこの場にとどまった。
 そうして、次の一枚、一枚と思い出をなびきお姉ちゃんと交互に乱馬に教えていく。
 残念だったのは、どの思い出を話しても、全く乱馬が反応しないことだった。
 「ふ〜ん」とか「は〜」とか言って、まるで他人の話を聞いているみたい。
 仕方なく、アルバムは片付けられた。
 するとおもむろに乱馬が立ち上がり、居間の襖を開け、廊下に出た。
 どこかへ行こうとしたらしいが、すぐにこちらに顔を向けた。
「あの……便所って、どこだっけ……?」
「トイレ?」
 乱馬はふぅ……と、小さく息を吐いた。
「いつも暮らしている家なら、身体が覚えてんじゃねえかって思ったんだけど……ダメだった。」
 あたしは乱馬の不安を払拭できるように、必死に笑みを浮かべた。
「連れて行ってあげる。」
 乱馬も微笑を浮かべた。
「サンキュ。」
 用をたし終わるまで、あたしはトイレのドアの前で待った。
 流れる音とともに、乱馬が出て来る。
「何か、便所の前で待ち伏せされてるって、あんまいい気しねえな。」
「そう?」
 あたし達は一緒に居間に向かう。
「明日は学校でしょう。」
 カレンダを見たおばさまが言った。
「あ、そうですね。」
 あたしもカレンダを見る。
「でも大丈夫じゃない。どうせ式だけだし。」
 なびきお姉ちゃんが言う。
「そうよね……」
 明日は十二月二十四日。クリスマス・イヴだ。

 ――夜。
 ベッドに横になったが、中々寝つけなかった。
 言いようの無い不安が、独りになると襲ってくる。
 ――ずっと乱馬がこのままだったらどうしよう。
 そんなこと……無い。首を横に振るが、ダメ……怖い。
 今日の出来事が、全て夢だったらいいのに……そしたら、乱馬は何事もなかったように言うの。「おめえ、かわいくねーな。」って。
 あたしは目を瞑った。
 ――お願い。そうであって……



つづく




一之瀬判断にて、また勝手に前後編に分けて掲載させていただきました(邪悪



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