◇君の失われた風景(前編)
みのりんさま作


 ここに、1枚の写真がある。
 天道家の玄関前で撮影されたスナップ写真。その写真には、天道家に住む人々が写っている。
 あかねの隣に乱馬。その横に肩を組んでピースサインをしている玄馬と早雲。のどか、かすみ、なびきが並び、一番前に八宝斎もいる。
 それぞれが笑顔で、それぞれが幸せそうな表情をしている。
 この写真は、あかねの勉強机の机上に、大切に飾られている。


 ある天気がよい日の午後。
 天道家の台所に、威勢の良い声が響き渡っていた。
「うぉりゃ――――――っ!」
 大きな雄叫びと共に、金属が何度も激しく当たる音がする。
 ガチガチガチ―――――――
 ガシャ―――――ン!
 ドタン、バタン!
 近くを偶然通りかかった住人が、何をやっているのだろうと、天道家をチロッと覗いて行く。
 果たして、台所でどんな騒ぎが起こっているのか?
 道場を経営している天道家のことだから、台所で格闘をしているのだろうか?
 ……まあ、ある意味格闘といっても間違いはないかもしれない。
「あかねちゃん、もうちょっと掻き混ぜる時は優しくしなきゃ。」
「はい。」
 のどかから美味しいクッキーの作り方の手ほどきを受け、あかねは一生懸命ボールの中身を掻き混ぜていた。
 注意されて、ゆっくり掻き混ぜようとするが、どうしても上手く混ざらない。
「てぇ―――――い!」
 再び気合を入れて、あかねが掻き混ぜ始めると、壁や床に小麦粉が飛び散り、辺りを真っ白にしていく。
「後の片づけが大変そうね。」
 チラッと台所の中の様子を覗いた、なびきはそそくさと出かけていった。

 チン!
 あかねがオーブンの扉を開けると、こんがりと狐色に焼きあがったクッキーがプレートの上に並んでいた。
 砂糖と塩を間違えそうになったり、泡だて器を2つひん曲げてしまったり等と、トラブルは多々あった。
 悪戦苦闘3時間。ようやくあかねの手作りのクッキーが焼きあがった。
 皿に移し変えられたクッキーを見ると、あかねが作ったものだと一目で分かる、ある意味芸術的な歪みのある形である。
「おばさま、味見して下さい。」
 あかねはそう言って、のどかに頭を下げた。
 のどかは軽く頷くと、皿に盛られたクッキーの中の1つをとった。それは一応動物の形をしたクッキーらしいが、タコだか火星人だか分からない、妙な形をしている。
「あかねちゃん、これはえ――っと。」
「犬です。」
「…………。」
 どこをどう見れば犬に見えるのか、一瞬のどかは考えたが、深くは考えず口に入れる。
 カリカリカリ……。
 のどかがクッキーを噛み砕く音だけが、静かな台所に響く。
 ジッと真剣な眼差しであかねはのどかの様子に見入っていた。
―どうなんだろう、やっぱり不味いって言われるじゃ……。
 そんな不安があかねの心によぎる。
「どうですか。」
 食べ終わったのどかを前に、改めてあかねは聞く。
 すると、のどかは満面の笑みを浮かべた。
「あかねちゃん。本当によくがんばったわね。とても美味しく出来ているわ。」
 それを聞いて、あかねは思わず泣いてしまった。
 今まで作ってきたものは、ことごとく周りから不味いという評価を受けてきた。それが今回、生まれて初めて、美味しいって言われたのだ。
 表現しようのない喜びが、あかねにはあった。
「このクッキー。乱馬にも食べさせてあげてね。」
 のどかは台所に置かれている手ぬぐいをとり、あかねの涙を拭った。
「はい!」
 あかねもまた満面の笑みを浮かべていた。
―今度こそ、乱馬に美味しいって言ってもらえる。
「待ちやがれ、じじ――っ!」
「噂をすればなんとやらね。乱馬達帰って来たようね。」
 のどかの言った通り、八宝斎を追いかけて、乱馬は天道家の庭にいた。
「へへん、こっこまでおいでー。」
 と乱馬に向かって、尻を向け手でペンペンと叩く八宝斎。
 それでさらに怒った乱馬は、すばしっこく逃げ回る八宝斎を捕まえようと、躍起になった。
「じじ――っ!」
「べぇ―。」
 あっかんべぇーと、舌を出して、八宝斎は乱馬を挑発する。
 家の中に入って行く八宝斎の後に続き、乱馬も家の中に突入する。
 そして、八宝斎は台所からクッキーを盛った皿を持って来たあかねを飛び越えた。
 ドン!
「きゃっ!」
 ガッシャ―――――ン!
 その瞬間、あかねの時間が止まった。
 何が起こったのか、あかねには理解が出来なかった。
 割れた皿、砕け散ったクッキーの山…………。
 時間をかけ、苦労して、やっと焼き上がったクッキーが、一瞬にして床に落ち、砕けてしまった。
「あ、あのぅ……。」
 あかねの尋常じゃない様子に、おずおずと乱馬は声をかけた。
 ビシャ――――――――ン!!
 反射的にあかねは思いっきり平手打ちを放っていた。
 乱馬の左の頬に、赫い手形がくっきり残っていた。
「な、何すんだよ―――――うっ。」
 頬を押さえ、あかねに突っかかろうとした乱馬は、あかねの瞳に浮かぶ涙に気づき、一歩後退った。
 俯いたあかねの頬に、涙が伝う。
「……乱馬の…………乱馬の…………バァカァ―――――――ッ!」
 そしてあかねは、泣きながら自分の部屋に向かって、走って行った。
「――あ、あかね……。」
 残された乱馬は、ただ呆然としていた。

 あかねは自室にドアを乱暴に閉めた後、ベッドにうつ伏せになり、泣きつづけた。
「どうして、こんなことになるのよ。せっかく……せっかく作ったのに…………。
乱馬の…………バカ……。」
 止まらない涙は、いつまでもあかねの頬を伝っていた。


「あかねー、晩御飯よ。」
 階下から聞こえたかすみの声で、あかねは目を覚ました。
 いつの間にか、あかねは泣き寝入りをしていたらしい。
 あかねは自分の目が赤くなっていないか、鏡で確認して、下へ降りて行った。
 ―乱馬の奴に会いたくないな……。
 あかねは俯きながら、茶の間に入った。
「よし、これで皆揃ったな。」
「さぁ、早速飯にしようではないか。」
 早雲と玄馬はニコニコ笑みを浮かべて言った。
 ちゃぶ台の上には、湯気が立ち上る美味しそうな料理が並んでいる。
 あかねが席につくと、皆で手を合わせ合掌する。
『いただきま――す。』
 みんな揃って箸をとり、ちゃぶ台に並べられている料理を食べ始める。
 しばらくして、箸を止めた早雲が、心配そうな顔であかねに言った。
「あかね、どうしたんだい。全然、箸が進んでないじゃないか。」
 あまり食欲がなかったあかねは、茶碗を持ったままボーっとしていた。
「え、ああ。」
 あかねが気づくと、他の面々も心配そうにあかねを見ていた。
「ううん。なんでもない。」
 そう言って、あかねは前にあった冷奴に箸を入れた。
「大丈夫、あかねちゃん。」
 声をかけたのどかもやっぱり心配そうにあかねを見ていた。
そののどかの顔を見ていて、あかねはまだクッキー作りを教えてもらった御礼を言ってない事に気がついた。
「あの……おばさま、今日は本当にありがとうございました。」
 突然のあかねの言葉に、のどかは首を傾げた。
「えっと、何だったかしら?」
「美味しいクッキーの作り方、教えていただいて……。」
 すると、のどかは眉をひそめた。
「あかねちゃん、おばさんクッキーの作り方なんか、教えたかしら?」
「え…………いやだわ、おばさま。今日の昼間、つきっきりで指導して下さったじゃないですか。」
 さっきまで泣いていたのは、その時作ったクッキーが原因である。そして、それは間違いなく今日の事だ。
「あかね。今日は台所の蛇口がおかしいって、お昼からずっと専門の人に見ていただいていたでしょう。」
 言ったかすみは不思議そうにあかねを見つめていた。
「そんなはずは…………。」
 あかねは隣の乱馬に聞こうとして、彼の姿がないことに、ようやく気がついた。
「ねぇ、おじさま、乱馬は?」
「……らん、ま?」
 玄馬は首を傾げながら、のどかと顔を合わせた。
 そして二人とも首を傾げながら、あかねを見る。
「あかねくん。乱馬って、誰の事だい?」
「えっ!?」
 今度こそ、本当にあかねは驚いた。
「おじさま、自分の息子の事、忘れたんですか?」
 驚きに目を丸くしたままで、あかねは聞いた。
「息子?わしには息子なんかおらんよのう、のどか。」
「ええ。あかねちゃん、おばさん達には息子はいないわ。」
 ―うっ、うそぉ!
 あかねは混乱した。
 玄馬とのどかの様子を見れば、それが惚けて言っているのでも、冗談で言っているのでもないのが分かる。
 一体、どういう事なのだろう……。
「ねぇ、お父さん達。お父さん達は乱馬の事、分かるでしょ?」
 あかねは早雲、かすみ、なびき、そして八宝斎に順番に目をやると、誰もが首を横に振っていた。
「さっきからなんだい、あかね。その――乱馬って。」
 ずずぃっと、早雲はあかねに詰め寄ってきた。
「どこの馬の骨なんだ、その乱馬って男は!」
 仁王のような凄まじい形相で、早雲はあかねを睨みつけた。
「……ちょ、ちょっとお父さん。お父さんがあたしの許婚にした、早乙女のおじさまの息子じゃない。」
 早雲の恐ろしい顔に怯えつつ、あかねは言った。
 すると、かすみが心配顔でペタッとあかねの額に手を当てる。
「熱は、ないみたいね……。」
 自分の額にも手をあて、温度を比較しながらかすみは言う。
「さっきも言ったけれど、おばさん達には息子はいないわ。あかねちゃん。」
 と、のどかも心配そうな顔をしていた。
「夢でも見たんじゃないの。毎日ロクでもない連中ばっか迫って来るもんね。
 それで、夢の中で理想の彼氏と仲良くやってたんでしょ。」
 さらりと言ったなびきは、味噌汁を吸い始める。
 ―り、理想の……彼氏?!……仲良くぅ…………。
 乱馬の顔があかねの脳裏に浮かぶ。そして、クッキーの一件も。
「じょ、冗談じゃないわ!誰が、あんな奴とっ!!」
 あかねは食べ残していたご飯を、勢いよく平らげていった。


 翌日、朝食の席には、やはり乱馬の姿はなかった。
 そして、あかねは以前のように、なびきと一緒に家を出た。
『あかねっ。』
 −え?
 呼ばれたような気がして、あかねはいつも乱馬が歩いていたフェンスの上を見上げた。
 でも、そこにはヒラヒラと舞う、蝶々が一匹いるのみ。
「あかね、どーしたのよ、急に立ち止まったりして。」
 言われてあかねは目をなびきの方に向ける。
「だって乱馬が――――。」
 と、ついつい言ってしまってから、あかねは口をつぐんだ。
「……乱馬?ああ、昨日言っていた、あんたの夢に出てきた愛しのダーリン?」
 ニヤニヤしながら、なびきはあかねを見た。
 −だ、ダーリンって……。
 慌ててあかねは首を振った。
「ち、違うって。あんな奴、彼氏でもなんでも無いわよ。」
「ふーん。じゃあどうして、あんた顔赤いわけ?」
 あかねは慌ててなびきから顔をそらした。
「あ、そっか。あんたの理想は東風先生みたいに、あんたより強くて優しい男だもんね。現実になかなかそう言う男っていないだろうし。まあ、夢ん中じゃなきゃ、逢えないわけだ。」
 …………あたしより強くて、優しいっか。
 やっぱりあかねの頭には、乱馬の顔しか浮かばない。
「ほーら、見えて来たわよ。現実の花婿候補たち。がんばってあの中から、相手見つけたら。」
 いつの間にか、二人は風林館高校の前まで歩いていた。
 風林館高校正門には、ずらっと勢ぞろいした、色んなユニフォームを着た男達があかねを待ち受けている。
 乱馬が転校してくるまで、毎日風林館高校で見られていた光景の再現だ。
「あんた達。乱馬に全て託すって、言って引いたんじゃなかったの。」
 あかねは大声で叫んだ。
 すると、男共は互いに顔を見合わせ始めた。
「なぁ、乱馬って誰だ?」
「んな奴いたっけ?」
 と、あっちこっちで、声があがる。
「早乙女乱馬くん。あかねの夢見る理想のダーリンなんだって。」
 あかねの後ろにいたなびきがニヤリと笑みを浮かべて言った。
 すると、周りにいた男共の目つきが変わった。
「あかね君、この僕が、君の早乙女乱馬になってあげよう!」
 一人が声を張り上げて言う。
「いや、俺が君の早乙女乱馬になってやる!」
すると、連鎖反応のように次々と声があがった。
「ほら、僕の胸に飛び込んでおいで、僕が君の早乙女乱馬だよっ!」
「あかねくん。この早乙女乱馬と一緒にラヴラヴな家庭を築こう!」
 そして、『早乙女乱馬を名乗る団体』もとい、『あかねとの交際希望者一同』は、どどっと一斉にあかねに向かって、突っ込んでいった。
 あかねは――なぜか無性に彼らに対して腹が立った。
「何が、『早乙女乱馬』よっ!あんた達、みんなまとめて成敗してやるわっ!!」
 そう叫んで、あかねは襲い掛かってきた連中を次々に片付けた。

少しの経って、あかねは軽く手を叩いた。周りにはあかねに倒された連中が、地面に伏してぴくぴくしている。
あかねが小さく息を吐いたとき、どこからか男の声が聞こえた。
「ふっ。やはりそこらにいるバカな連中には、君のハートを射止めることは出来ないな。」
 声の聞こえた方にあかねが目をやると、木の陰から剣道着を着た久能が現れた。
 キザったらしく、1輪の赤いバラの花を口にくわえている
 あかねはまた小さく溜息を吐いた。
 久能はそのバラを口からとり、あかねに向かって突き出した。
「天道あかね。聞くがいい。久能帯刀十七歳、今ここに宣言しよう。この僕は今日から、君の早乙女乱馬に――――――――。」
「ならんでいいわ――――――――!」
 どか――――――っ!!
 みなまで言わさず、あかねは空に高々と久能を蹴り上げた。
「はぁはぁ…………何なのよ。みんなして、乱馬、乱馬って…………。」
 ―それにしても、どうしたんだろ。みんな乱馬の事を知らないような事言って……。



つづく




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