◇君の失われた風景(後編)
みのりんさま作
教室に入ってみると、乱馬のいた席には他のクラスメートが座っていた。
あかねは乱馬のもう一人の許婚、久遠寺右京の姿を探した。
「あっ、右京。」
ちょうど入って来たばかりの右京の元へ、あかねは向かう。
「ねぇ、右京。右京は覚えているわよね。あなたの許婚の乱馬。」
同じ許婚である右京ならひょっと覚えているんじゃ、とあかねは小さく期待をした。
ところが、右京は2、3度瞬きを繰り返し、眉を顰めた。
「……乱馬?誰やのそれ?それに、うちには許婚なんておらへんで。」
『いきなり何言うんや、コイツ。』っと、その顔は言っている。
「そう……。」
あかねは俯きながら席に戻った。
ホームルームが始まり、ひな子先生がやって来て、出席をとり始めた。
「宇津美くん、榎木くん、工藤くん、紫界堂くん、皇くん…………。」
ひな子先生が読み上げる名前の中に、『早乙女乱馬』の名前はなかった。
「キャ―――っ!下着泥棒ぉ―――――っ!」
女子更衣室から悲鳴が上がった。
毎度おなじみ、八宝斎の下着泥棒である。
飛び出して行った八宝斎を追って、ブルマ姿の女生徒が集団で走って行く。
「待ちなさいっ!おじいさん!!」
あかねもその一団に混じって追いかける。
「げへへへへ、鬼ぃさんこっちら。」
ピンク色の下着を振り回しながら、八宝斎はまっすぐ校門の方へ逃げて行く。
「えいっ!」
あかねが手に持っていた箒を八宝斎に投げつけた。
「ひょいっ、とな。」
すばしっこい八宝斎は易々とそれを交わした。
「また逢おう、乙女の諸君っ!」
振り向きざまにサッと片手を挙げ、あかね達を振り切って、八宝斎はあっという間に逃げて行ってしまった。
いつもなら、乱馬がボールなどを放り投げ、八宝斎の動きを止めているのだが……その乱馬は、ここにはいない。
あかねは息を切らし、校庭で立ち止まった。
「はぁはぁ……もぉ――――こういう時、アイツがいてくれたら……。」
――アイツ?
どうしても、あかねは乱馬の顔が浮かんでしまう。
昨日、クッキーめちゃくちゃにされて、あんなに泣きじゃくったというのに……。
下校時、あかねが靴箱を開けると、大量のラヴレターが入っていた。
差出人は、全て『早乙女乱馬』。
−もうっ、お姉ちゃんたら余計な事してくれてっ!
あかねは即座にそれらを近くのゴミ箱の中に放り込んだ。
本物の『早乙女乱馬』は、どこに消えてしまったのだろう?
妙に苛々した気分で、あかねは靴箱から靴を取り出し履き替えた。
帰りがけにあかねは猫飯店に立ち寄った。
「乱馬?誰ねそれ。」
岡持ちを抱えていたシャンプーはきょとんとした顔で、あかねに言った。
「あんた、ずっと付きまとっていたじゃない!女傑族の掟がどうのこうのって言って。」
「女傑族の掟?何を言ってるね?」
「だから、乱馬に負けたから追いかけてきたんでしょ。それで毎日、乱馬にしつこく付きまとって…………。」
「負けた?シャンプーがか?」
カウンターの上にいる、コロンが言う。
「そうよ。武道大会で、乱馬に負けたんでしょ。」
コロンとシャンプーは互いに顔を合わせた。
「変な事言うあるな。女傑族の武道大会で優勝したのは私ね。乱馬なんて知らないね。」
シャンプーはきっぱりと言い切った。
「でも……。」
あかねが言いよどんでいると、コロンは迷惑そうにあかねを見た。
「悪いが今は忙しい。お主の相手などしておる暇は無い。シャンプー、さっさと出前にいかんか。」
「はいね、ひいばあちゃん。」
そう言って、シャンプーはで岡持ちを抱えて出て行ってしまった。
猫飯店を出ると、あかねは小さく息を吐いた。
−みんな、本当に乱馬の事忘れちゃったの……。
あかねは独りトボトボと家路に向かった。
なぜか、虚しい風があかねの心に吹く。
―なんだろう、この喪失感は。
どうして、あたし、こんなにも乱馬の事ばかり考えているんだろう。
天道家に帰って来たあかねは、独り道場で稽古を始めた。
「ふっ!はぁっ!」
あかねは何度も激しく足を蹴り上げ、拳を突き上げる。
―別に、乱馬がいなくったっていいじゃない。
「てぇやっ!」
あかねは高々と足を振り上げる。
―アイツは、あたしが作ったクッキーをめちゃくちゃにしたのよ。
「はっ!」
―あんな奴、いなくなって良かったのよ……。
『けっ。おめぇみてえな、凶暴な女。こっちからお断りだぜ。』
―口だって悪いし……。
『大体だな、かわいくねえんだよ。お前は。』
―本気でお手合わせもしてくれないじゃない。
『やだね。女を相手に本気出せっかよ。』
あかねは、動かしていた身体を止めた。
『どーしたんだ、あかね。変な顔しやがって。』
『ったく、しょうがねえな、お前は…………』
あかねの前に、いろんな表情をした乱馬の姿が、次々と浮かんでは消えていった。
笑いながら、不機嫌な顔しながら、怒りながら乱馬はあかねを呼んでいる。
思いのほか、この道場にも、乱馬との思い出が詰まっていた。
あかねは道場を出た。これ以上、稽古を続ける気には到底なれない。
ゆっくり歩きながら、あかねは自分の部屋に戻る。
−もぅ、どこに行っちゃったのよ。乱馬……。
あかねは自分の机の上に飾っていた、家族写真に目がいった。
写真を持ち上げて見てみると、そこには乱馬の姿だけがない。
……乱馬……。
ポツリと、小さな雫が写真の上に落ちた。
「……逢いたいよ。乱馬に……。」
小さく呟いて、あかねは、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
―あのクッキーだって、乱馬に食べてもらいたくって作ったのに……。
「…………乱……馬…………乱……馬……。」
あかねはベットにうつ伏せになったまま何度も小さく、乱馬の名前を呟いていた。
「あかね、あかねっ!」
揺すり起こされ、目が覚めると、目の前にいつもの見慣れたチャイナ服のおさげの少年の姿があった。
「どーしたんだ、おめえ。さっきからうなされながら、人の名前呼びやがって……って、おい――――――。」
あかねは思いっきり乱馬に抱きついていた。
「ちょ、ちょっと…………。」
いきなり抱きつかれて、顔中真っ赤にしながら、乱馬は当惑していた。
「バカ…………乱馬のバカっ…………。」
そう言いながら、あかねの赤くはれた目から、さらに涙が出ていく。
―良かった、みんな夢だったんだ。
さっきの涙とは全く違う涙を流し、あかねは乱馬の胸の中で、嗚咽を漏らしていた。
そんなあかねを見て、どうすればよいかさらに混乱しながらも、何とか乱馬は言葉を考える。
「えっと…………その…………あのぉ…………さ、さ、さっきは悪かった……。」
「もう……いいのよ……そんな事。」
あかねは乱馬の胸に顔を押し付けたまま言った。
「お、おっ、おふくろから聞いた。お、お前、凄く頑張ってたんだって…………そ、それでな…………こ、これ…………。」
と、乱馬はスーパーの買い物袋をあかねの横に置いた。
あかねは乱馬から手を離して、手で涙を拭いながらその袋を開けた。
「小麦粉、お砂糖……これって…………。」
「そ、その…………よ、よかったら……また……作ってくれねぇか。」
顔を赤くしたまま、人差し指を頬に当て、ポリポリとかきながら乱馬は言った。
あかねの涙は完全に止まった。
徐々に嬉しさが込み上げてくる。
「うん!」
あかねが立ちあがったひょうしに、写真がひらりと床に落ちた。その写真には、あかねの隣にしっかりと乱馬の姿が写っていた。
あかねは写真に写っているのと同じ、最高の笑顔を乱馬に向けていた。
「えっ、おふくろも出かけるのか?」
外出の用意をしていたのどかを見て、乱馬は驚きの声をあげた。
「ええ。急に用事が出来てしまって。」
のどかは申し訳なさそうな顔をしながら言う。
「大丈夫ですよ、おばさま。あたし、おばさまに教わった通りちゃんと作りますから。」
にこやかに笑みを浮かべ、エプロン姿のあかねは言った。
「そう。あかねちゃん、がんばってね。」
あかねにニコリと微笑んで、のどかは出かけて行ってしまった。
「お、おめぇ、一人で作る気か?」
引きつった笑みを浮かべながら、乱馬はあかねに聞いた。
「大丈夫よ。例えおばさまがいなくったって、美味しいクッキー作ってみせるわ!」
あかねはドンと胸を叩いた。
「………………。」
『頼む。クッキー作るの、やめてくれ。』
と、喉から出かかったが、かわいい笑顔を見せるあかねを前に、乱馬は言う事が出来なかった。
出されたやけに味の薄いお茶を啜りつつ、乱馬は一人茶の間で待っていた。
他の天道家の人々は、それぞれ用事があると出かけてしまっている。
ドンガラガッシャ―――――――――ン。
ドガ――ッ!バキッ!
「うぉりゃぁ――――――――!!」
先ほどから、何かが壊れる音やあかねの雄叫びが台所から聞こえてくる。
――何やってるんだ、アイツ。
しかし、乱馬は台所の中の様子を覗く気にはなれない。恐ろしくて、そんな気になれない。一体、中はどんな惨状になっている事やら……。
作ってくれと言ったのは乱馬だ。だから逃げ出すわけにもいかず、ギロチン台を前にした死刑囚のような気分で、あかねのクッキーが焼ける異様に長い時間を待った。
しばらくして、台所から異臭が漂ってきた。
それはクッキーの甘い匂いとはあまりにも程遠い、妙に酸っぱくて嫌な匂い。
「………………。」
コソッと立ち上がり、音を立てないようにそーっと乱馬は茶の間から庭に出ようとした。
「こらっ!待ちなさいよ、乱馬!!」
ビクッと乱馬は動きを止める。恐る恐る台所の方を見ると、入り口であかねが腰に両手を当てて立っていた。
「作ってくれって言ったの、乱馬でしょ。ちゃんと食べてよね。」
しばしの沈黙。
――そして、目に涙を浮かべつつ、肩を落として乱馬は頷いた。
「…………………はい。」
−作ってくれなんて、言うんじゃなかった……。
後悔すれど既に遅し。乱馬は渋々ちゃぶ台の前に戻る。
そしてしばらく待つと、焼き上がったクッキーを持ってあかねがやって来た。
焼けたクッキーがどんなものだったのか――――それは推して知るべし。
――それから1週間、乱馬は腹痛に耐える日々を過ごすのであった。
完
みのりんさまの第2作です。
いかがでしたか?乱馬が突然消えてあかねは・・・ドキドキしながら読み進めました。
あかねちゃんに泣かれて、さぞかし、オロオロしたんだろうな・・・
でも、ちょっと最後は乱馬くんが気の毒になってしまいました。
作ってくれって言うんじゃなかった…のかも。
あかねちゃんのクッキー。皆さんは食べたいですか?
(一之瀬けいこ)