◆インベーション 中編
原作 芽生さま
文章 一之瀬けいこ



三、波乱


「あー食った食った…。もう食べられねー。」
 シャンプーにたらふく中華料理を御馳走になった後、乱馬は御機嫌で店を辞した。
「でも…ウっちゃんのあの豹変…一体全体、何だったんだ?」
 首を傾げて歩き出す。
 途中、右京の店に立ち寄って、一体どうしたんだと問い質してみたかったが、案外小心なこの男は、昼を過ぎても客が引かない右京の店の様子を見て、止めた。
 直情的に踏み込んで、右京に邪険に扱われると、己のプライド、今度こそズタズタになりそうだったし、喧嘩しているあかねにあらぬ誤解を与えるのも痛い。

「お腹も一杯になったし…。また明日の補習授業の後で、ウっちゃんの店に立ち寄って確かめたら良いや…。」
 と自分の心へと言い訳して、その場は、そそくさと帰宅した。



 夕なずむ、天道家。

「ふふふ…ようやく帰って来ただな…乱馬。」
 その様子を、影から見詰めていた妖しい影。それはムースのものだった。
「くふふふふ…。見てろ…。乱馬。貴様の弱点はあかねじゃ…。じゃから、隙を見て、この反転宝珠を逆位置であかねにつけてやるだ。」
 そう独りごちながら、天道家の庭に身を潜めていた。
 その手にはしっかりと反転宝珠が握られている。
「乱馬よ…右京の次はあかねに嫌われたら良いだ…。散々あかねに雑言を浴びせかけられ弱ったところを、ガツンと一発入れてのしてやるだ…。ふふふ…我ながら完璧な計画じゃ…。」
 
 どうやらムースは、反転宝珠を使って、憎き乱馬を粉砕しようと、ここに忍んでいるようだった。よく考えれば、そう上手くゆくような計略では無かったが、最早ムースは復讐という文字にとらわれ過ぎて、冷静に物事を判断する能力が削がれてしまっていた。いや、その計略に陶酔してしまっていた。ある意味、短絡思考男子なのであった。



 いや、短絡思考にかけては、乱馬もムースに負けていまい。

 乱馬は夕飯を済ませると、そのまま道場へと籠ってしまった。
 勿論、日課の修行をこなす訳ではなかった。
 どちらかというと、瞑想にふけるために道場へと籠ったのだった。
 そうだ。邪念を追いだすための瞑想…というよりは、邪念だらけの瞑想…と表現した方がしっくりくる。
 乱馬もムース同様、いやそれ以上に、短絡思考男子なのであった。



「うーん…。ウっちゃんは何であんなに機嫌が悪かったんだ?
 ウっちゃんに嫌がることをしたとか……ねーよなあ…。
 セクハラもした覚えはねーし…。
 やっぱ、タダでお好み焼きを食べさせてもらってたことが悪かったかなあ…。
 でも、いつも誘ってくれるのはウっちゃんだし…。
 ってか…このまま、ウっちゃんのお好み焼きが食べられなくなるのは嫌だぜ…。
 ウっちゃんの焼くお好み焼きは絶品だしなー…
 うーん、困った…。」

 短絡的な思考が止めどなく、脳内から湯水のように溢れ出て来る。


「ただいまー。」
 玄関先で声がした。

 その声を聞いて、ムースの瞳が妖しく光った。
 声の主はあかねである。
「しめしめ…あかねも帰って来たようだな…。」
 隙を見て、反転宝珠を逆位置にあかねにつける気満々で、夜陰に紛れて天道家へと侵入していたのだ。ムースは短絡思考の塊でもあり、また、執念の男であった。
 手にぎゅうっと反転宝珠を握りしめた。
「間違っても正位置につけてはいけないだ…。逆位置は、こっちだな。」
 月明かりの元、眼鏡を凝らして、念入りに宝珠の顔の向きを確かめる。


 あかねは台所に居たかすみに乱馬の居場所を尋ねた。
「かすみお姉ちゃん、乱馬知らない?」
「乱馬君なら、道場に籠っているわよ…。」
 夕飯を仕込みながら、かすみが言った。
「そう…道場に居るの…。」
 あかねはそのまま、道場へと入って行く。
 その右手には一通の手紙が握りしめられていた。どこにでもある、白い縦型の封筒に入った手紙だった。
 「天道あかね様」。
 封書の表書きにはあかねの名前がしたためられていた。決して達筆ではないが、年代物の万年筆が使われていた。
 その手紙を片手に道場の入口で立ち止まって乱馬の後ろ姿を見詰めながら、あかねはじっと考え込む。
「どうやって、切り出そうかしら…。この手紙のこと…。」
 喧嘩したまま、まだ仲直りもできていない乱馬に、どう口火を切るか…。あかねはあかねで迷っていたのだ。

 昨日からの痴話喧嘩のせいで、丸一日殆ど口はきいていない。
 夕食の時も、お互いむっつりと黙ったままだった。

「思い悩んでいても、仕方がないわね…。ここは一つ、素直に頼んで見るのが良いわよね…。」
 深呼吸を一つ。お腹に息を吸い込んで、吐き出すと、意を決してあかねは道場の中へと足を踏み入れた。

「乱馬…、あのー、あのさー…ちょっと…話があるんだけど。」

 もじもじしながら、乱馬の背中に近寄ると、ためらいがちに声をかけた。

「あん?あとにしてくれねーか、今、俺、ウっちゃんのことで頭がいっぱいなんだ。」

 短絡思考男は、何の気なしに、ポツンと返答を返した。

「え…?ウっちゃん? 」

 それに対して、戸惑ったのは、あかねの方だった。
 突然、乱馬の口から右京の名が漏れたからだ。予想だにしなかった、乱馬の返答だった。
「ウっちゃんと何かあったの?」
 思わず、返す口で、問いかけていた。

「うるせーな! あとでにしてくれよ。俺にとっては、…死活問題なんだよ…俺の好きな…豚玉…もう、食べられないのかもしれねー瀬戸際なんだ…。」
 短絡男のたわ言だった。

「な…何よ…それ…。」
 あかねが戸惑っていると、ガタタッと道場の入口の引き戸が揺れた。

「乱馬ー、覚悟するだー!」
 
 響いてきたのはムースの声だった。
 唐突に姿を現したムースは、二人に向かって突進してきた。
 無論、二人には、何故ムースがここに乱入して来たのか、わかる筈もない。
 訳もわからぬまま、突入を許してしまった。

 反転宝珠を素早くあかねに、逆位置でつける。その一念でムースは乱入してきた。
 手早く、反転した顔の宝珠を、ターゲットにくっつける。どこでも良い。とにかく、あかねにくっつける。その一念で、行動していた。
 
「してやったりじゃあーっ!」
 ムースは勝どきの声を張り上げた。
「じゃ、そういうことだから…。再現(ツァイツェン)!」
 そう言いながら、ムースはすぐに二人から離れた。

(天道あかねに反転宝珠を逆位置でつけてやっただ。これで乱馬はあかねに嫌われるだ…。ふふふ。好い気味じゃ!)

 少なくとも、ムースはそう思っていた。
 だが、生憎、ムースはど近眼男。眼鏡を使用しても、実は見えていないことの方が多い。
 しくじることの方が、圧倒的に多いのが玉の傷であった。

 そう、この時も、お約束通り、しくじってしまったのだ。
 
 反転宝珠を「あかね」ではなく、「乱馬」の背中へとつけてしまったのである。…それも逆位置で。

 どうなるかは、一目瞭然。

 態度が豹変するのはあかねではなく、乱馬の方だった。
 当然、それはそれで、あらぬ騒動の引き金となる。

「あかねっ!いつまでここに居るつもりなんだ?おめー、邪魔なんだよ!さっさと出て行けよっ!俺はウっちゃんとのこれからのことを考えてる真っ最中なんだっ!」

 結果、乱馬は望まぬ雑言を、思う存分、あかねに対し浴びせかけてしまうことになってしまった。
 …とどのつまり、それは乱馬があかねを好きでたまらないということの裏返しになるのだが…当のあかねはそう思えまい。しかも、さっきから「ウっちゃん」の名前を連呼しているのだ。

「とにかく、邪魔だっ!とっとと、こっから出て行けーっ!」
 乱馬の怒声が響き渡る。

「邪魔してごめんなさい…。」
 と、乱馬に言い置くと、その場から逃げるように駆け出した。

「ふふふ…。好い気味じゃ…早乙女乱馬。」
 どこまでも目出度いど近眼男のムースは、泣きながら立ち去ったのがあかねではなく、乱馬だと思い込んでいた。

「ムース…何やってんだ?こんなところで…。」
 あかねが視界から消えると、平常心に戻った乱馬は、ムースへと声をかけた。
「何用じゃ?天道あかね…。」
 乱馬をあかねと思っていたムースは、そう声をかけた。
「俺は乱馬だ、あかねじゃねーっ!あーんなずん胴女と一緒にするなーっ!」
 
 どっかーん!

 哀れムースは、反転宝珠のせいで、天道あかねという名前に激しく反応した乱馬に、思いっきり蹴りあげられてしまった。

「な…何でオラがこんな目に合うだ―――?」
 月明かりの下、ムースは夜空へとはじき飛ばされて、空の星になって消えて行った。



四、あかねの決意

「乱馬は右京が好きだったのね…。」
 道場から駆け出したあかねは戸惑っていた。
 反転宝珠のせいで、乱馬が豹変したことなど、彼女の思考の範疇には無い。

 何故だか涙まで溢れて来る。悔し涙というより、失恋の失意の涙。

「どうしよう…これ…。」
 あかねの手には、例の白い封書が握られていた。

「仕方無いわ…。あたし一人で行くしかないわね…。
 それに、こんな気持ちのまま、ここに居るのも嫌だし…。
 気持ちの整理をつけるにも良い機会になるかも……。」
 
 案外、短絡思考なのは、あかねも同じかもしれない。
 あかねは、意を決っすると、荷物を作り始めた。

 
 そして、みんなが寝静まったころ、真っ赤な目のまま、こっそり家を出た。
 無論、家族には内緒だった。
 


『明日からちょっと一人旅に出ます。家出ではないので安心してください。
 学校が始まるまでには必ず帰ります。心配しないで下さい。 あかね 』 

 残した置手紙には、そう書いてきた。


 次の朝、当然、天道家は大騒ぎになった。

 朝ご飯に起きて来ないあかねを、心配したかすみが、様子を見に行った。
 無論、ベッドはもぬけの殻だった。
 
 「愛娘たち命」の父、早雲はおろおろと落ちつかない。
「あかねがいない!あかねえーあかねー。父さんを置いて、どこに行ったんだ?」
 顔面蒼白になって、家の中を徘徊している。

 早雲が騒ぎ出した声に起こされた乱馬は、寝ボケ眼をこすりながら階下へと降りて来た。
「何だ?何かあったのか?」
 熟睡中にたたき起こされた彼は、ボーっとした顔を手向けながら、話しかけた。

「あかねが居なくなっちゃったのよ…。置手紙を残してね。」
 なびきがさらっと説明した。

「あかねが居なくなった?何で…。」

 当然、乱馬は、寝巻に着替えたところで、反転宝珠の影響下からは逃れている。つまり、夕べのすったもんだのことは記憶からすっぽりと抜け落ちているのであった。

「乱馬君、心当たりはないの?」
 かすみが心配そうに乱馬の方へと尋ねかけた。
 あかねが置手紙など残して出て行ったとなると、主たる原因は、喧嘩相手の乱馬にあるのではないかと、思ったのだ。それはそれで、懸命な判断だろう。
「さあ…。」
 乱馬は首を傾げながら、考え込んだ。
「夕べ、道場で何かあったんじゃないの?」
 なびきが横から突く。
「あん?」
「あたし、見ちゃったのよねー。あかねが泣きながら道場から出て来るの。」
「あかねが泣きながらだあ?」
 キョトンと乱馬がなびきを見返した。
 乱馬からは、記憶が完全に削げ落ちていた。

「悪い…何も思い出せねー。道場で瞑想をしていた記憶ならあるけどよー。」
 首を傾げながら乱馬が言った。

「家出じゃないって手紙には書いてあるから…そのうち帰って来るんじゃないのかね?」
 と、置手紙を見ながら玄馬が言った。

「でも、それじゃあ、お父さんが承知しないかも…」
 なびきはおもむろに、早雲の方を指差した。

 早雲は、蒼白な顔を巨大化させて、うろたえていた。明らかに心そこにあらずの様子だった。。

「乱馬くぅーん…、昨日道場であかねと何があったのかねえ?」
 と、乱馬に突っかかって来た。
「だから…俺…記憶にありませんって…。」
「じゃあ、何であかねは泣きながら道場を駆け出て来たの?」
 なびきが問いかける。
「し、知らねーよ!こっちが聞きてーよ!第一、昨日は朝からあかねとは口利いてねーよ…。」
 乱馬は焦りながら答えた。
「もしかして、おとといからの口げんか、まだ続けてたの?」
「ああ…。まだ、仲直りしてねー。」
 バツが悪そうに、乱馬はなびきの問いかけに答えた。
「そう…。確か、昨日、あの子は、同級生たちと買い物に出かけてたわねえ…。たしか、ゆかさんとさゆりさんと…。」
 一つ一つ丁寧に、あかねの行動を振り返って行く、なびき。さすがにこの辺りは、長けている。
「なら、そのあかねの友達に電話してみてくれないかね…。乱馬君。」
 早雲が、乱馬へと命じた。
「お、俺が…ですか?」
 困惑げに、問い返した乱馬に
「何か知ってるかもしれないだろう?…それに、あかねの友だちと接点があるのは、君しかいないだろう?ほら、早くぅー、早くぅ!ねえ、乱馬君。」
 化け物じみた巨大な顔を揺らせながら、乱馬へと催促を始めた。

 これは、電話しないと、いつまでも付きまとわれそうだ…そう悟った乱馬。

「わ…わかったよ…おじさん。電話すれば良いんだろ?」
 渋々、電話をかけ始めた。
 勿論、携帯電話とは無縁な乱馬だ。使ったのは天道家の家の電話だ。


「もしもし、ゆかか?乱馬だけど、朝早くわりい。あかねがいなくなっちまったんだけど、どこに行ったかなんか訊いてないか?親父さんがすげー心配してるんだ。昨日一緒に買い物行ってたよな?何か心当たりねーか?」
 受話器に向かって、一気にたたみかけた。

『あかね、家出したの?!』
 受話器の向こう側からゆかの声が零れてきた。
 天道家の面々は、じっと息を飲んだまま、一斉に受話器へと耳をそばだてる。

「置手紙には家出じゃあないって書いてあるみたいだけど…どこへ出かけたかはさっぱりわかんねーんだ…。おじさんとか、皆心配しててよー…。」

『……。』

 受話器の向こう側で、ゆかはしばし沈黙した。
 心当たりでもあるのか、言うべきか言わざるべきか迷っているようだった。

「なんか心当たりあるんなら、何でもいいから教えてくれ!」
 乱馬は懇願した。

『わかったわ…。』

 ゆかは言葉を選びながら話し始めた。

『昨日、さゆりとあかねと三人でバーゲンへ行ったのは知ってるわよね…。』

「あ…ああ。夏服が欲しいとか言って、出掛けたんだろ?」

『うん…そうなんだけど…。』
 ゆかは、ゆっくりと話し始めた。
『バーゲンでいろいろ漁った後さあ…あかねが本屋に寄りたいって言い出したのよね…。』

「お…おう…。欲しい本でもあったのかな…。」
 相槌を打ちながら、乱馬はゆかの言葉へと耳を傾ける。

『で、本屋まで足を伸ばしたのよ…。私も欲しい雑誌とかあったしね。で、あかねってば、どこのコーナーに行ったと思う?』

「ファッション雑誌…いや、あいつはあんまりそういうのは読まねーよな…。漫画とかもあんまり…文庫本とか新書のコーナーかあ?」

『どれもはずれよ…。』

「あたしとゆかははっきり見ちゃったのよね…。あかねがずうっと妊娠出産コーナーのとこにいて、そこの本を一冊買ったのを…。」

「あん?」
 乱馬の思考が一瞬途切れた。と、すかさず、ゆかがズバッと斬り込んで来た。

『だからさあ…乱馬君の方こそ心当たりって言うか身に覚えあるんじゃないの?』

 ゆかが言わんとしていることに気付いた乱馬。

「おい…まさか、おめー…。」

『だから…あかね…出来ちゃったんじゃないの?』

「なっ!何言い出すんだよっ!んなわきゃ、ねーだろっ!」
 と一言吐き出すと、ガシャンと受話器をたたきつけた。

 天道家の面々は、乱馬の方へ視線を注いだまま、身動き一つしない。
 そこはかとなく、微妙な空気が漂い始めた。
 と、その時だった。

「あー!」
 かすみが何かを思い出したように叫んだ。

「どうしたんだい、かすみ…。」
 早雲がまだおろおろしている。

「そういえば、二、三日前ににあかねちゃん宛に手紙が届いてたの…思い出したわ…。」

「手紙?それが何か?」
 きょとんと言葉を返したなびき。
「…ちょっと変わった文字だったから、差出人を見たんだけど、流幻沢のおじいちゃんってなってたの。流幻沢って前に乱馬君ともめた時、あかねが妖怪退治に勝手に行っちゃった所でしょ?」

「べ…別にあんときも、もめてねーけど…。」
 乱馬は苦笑いしながら、答えた。

「そう言えば、流幻沢に行くのとか行かないのとか、乱馬君に相談がどうの…とか、口走ってたわ…。」
 おっとりとした口調で、かすみが言った言葉に、乱馬の直感が走った。

『あかねは流幻沢に居る。』
 
 あかねの手紙には行き先が流幻沢とは書かれていなかったが、乱馬は何故か、そう直情的に思った。


「俺、流幻沢まで、探しに行ってきます。」
 慌ただしく二階へ駆け上がって荷物をまとめ始めた。

 流幻沢。そこは乱馬にとって特別な思い出がある場所だった。
 今もその時のことを思い出す度に胸をえぐられる様な痛みを感じる。
 一時ではあったが、あかねにふられたと思いこまされた場所だ。

(どうしてまた、あかねは流幻沢に行ったんだ…。)
 言葉を噛み殺しながら、荷造りを進めていると、かすみが乱馬の傍に立った。

「あのね、乱馬君。」
 乱馬へとぼそぼそと話しかけて来たのはかすみだった。
「かすみさん?」
 乱馬が後ろを振り向くと、かすみはエプロンのポケットからそれを出して来た。
「これ…。何かわかるかしら?」
 戸惑い気味に乱馬へと刺しだした物。それは、「反転宝珠」だった。
「こいつは…反転宝珠…。」
 無論、乱馬には見覚えがあった。ずっと前に、こいつのおかげで、ひどい目にあったことがあるからだ。これを付けたことにより、騒動に巻き込まれたのだ。「身から出た錆」だと、散々後で言われた。
「何でまた、そんな物騒な物をかすみさんが持ってるんです?」
 当然の疑問である。
「今朝、お洗濯した乱馬君のお洋服の背中の部分についてたのよ…それ。」
 かすみが間髪入れずに答えた。
「俺の、服に?ついてた?…これ(反転宝珠)が?」

 相当数の疑問符が、乱馬の脳天へと一斉に点灯した。
 当然である。こんな物騒な物を身に付けた記憶など一切ない。
 背中についていたということは、誰かが故意につけたものであろう。
 では誰がつけたのか…。

「そう言えば…ムースの奴が居たっけ…。」
 昨夜のことは一切、記憶から削げ落ちている。が、ムースを蹴り飛ばした記憶だけは微かにあった。
 違和感が乱馬を突き抜けて行く。

「まさかムースの奴が、俺にこれを…。」

 点と点が線で結ばれて行く。

 洋服にこれが付いていたということは、もしかして、ムースが乱馬の背中にくっつけたのではないかと思ったのだ。
 もし、これを付けていたのだとしたら…あかねに対して、何かリアクションを起こしたのではないか…。ぞのリアクションに傷ついて、あかねは道場から駆けだしたのではないか…。
 そういう、考えが乱馬を廻り始めた。
 無論、己には一切、記憶は無い。
 あかねが正位置でこれをつけて己に対した時も、一切の記憶が無いと言っていたことを微かに思い出す。

 推察するに、逆位置でつけていたのではないか…?

 有り得る話だと思った。
 もしかすると、極限に冷たい態度で、あかねに臨んだのかもしれない。それが、引き金となっていたとしたら…。

「かすみさん、それって、俺の服にどっち向きでついてました?…笑った顔、怒った顔…。」

「えっと、怒った顔に見えたわ。」

「やっぱり…。」

 乱馬は反転宝珠をかすみから受け取ると、ポケットにしまい込んだ。
 どこをどうやって自分につけられるにいたったのか、全く記憶に無かったが、自分の服についていたというのなら、冷たい態度をあかねにとってしまったに違いない。
 それが、泣きながらあかねが道場を出て行った…というなびきの目撃談とも合致するではないか。

(でも…、だったら、何で行き先が流幻沢なんだ?)
 まだ大きな謎は残されたままだ。

(とにかく…このままじゃ不味い…。あかねを探し出して、色んなことをはっきりさせねーと…。)
 乱馬は大急ぎで荷物を作りあげると、天道家を飛び出して行った。



「乱馬君、よろしくたのむよー。」と、早雲が巨顔を揺らせながら見送る。
「パフォパフォ」と手を振るパンダ親父。
「乱馬君。おみやげよろしくねー。」と、なびきは元気よく叫ぶ。
「乱馬君、気をつけてねー。」おっとりとかすみが微笑みかけながら手を振る。

 たくさんの疑問を心に浮かべながら、複雑な顔をして門戸を出て行く乱馬の背中に、天道家の人々は、屈託なく声をかけて見送った。



五、疑惑

 とにかく、一分一秒でも早く、流幻沢へ行かねばなるまい…。
 あかねの身に、一体全体、何が起こっているのか。
 確かめなければ!

 
 その一心で天道家を飛び出して来た乱馬だった。


 そんな乱馬を、頭越しから呼びとめる、甲高い声。
 
「乱ちゃんーっ!」

 聞き覚えのある声だった。
 ハッとして顔を上げると、にこやかな瞳と、眼が合った。
 暖簾を上げる前に、店先を掃除していた右京であった。

「いやー嬉しいわあっ!朝からうちの店に、お好み焼き食べに来てくれたんか?」
 昨日とは打って変わって、ホウキが飛んでくる訳でもなく、御機嫌の右京だった。

(そういや、ウっちゃんも、昨日は変だったな…。)

 乱馬は右京が変だったことを思い出した。
 自分に対してつれない態度。ツケを払えとまで言い出した昨日。けんもほろろに店を追いだされた事を思い出す。
 それから考えれば、信じられないほどの、右京の上機嫌ぶりだった。

(まさか…ウっちゃんも…。反転宝珠を身につけてたんじゃあ…。)

 乱馬は急いでいた歩みをその場で一旦止めた。  
 そして、おもむろに懐から反転宝珠を取り出した。
「なあ、ウっちゃん、これに、見覚がねーか?」
 反転宝珠を右京へと差し出して見せながら、尋ねる。
「あ…それ、昨日ウチが拾ったブローチと同じやん…。なんで乱ちゃんがそれを持ってるねん?」
 思い通りの答えが返って来る。
「もしかして乱ちゃん、うちとおそろいでつけたいとか思ってるんか?せやったら、大歓迎やわーっ!」
 瞳をキラキラさせながら、右京は答えた。

「やっぱり…。こいつのせいか…。」
「やっぱりって?」
「いや、こっちの話だ。」

 これで、昨日邪険に扱われた謎が解けた。
 右京は反転宝珠をつけていたのだ。しかも、逆位置で。
 それで、自分に対し冷徹なまでに冷たかったのだ。十中八九、この反転宝珠を身につけていたからの所存に違いあるまい。

(好かった…ウっちゃんに嫌われた訳じゃなかったんだ…。これからも、お好み焼きを食わして貰える…ってことだよな…。)
 乱馬は、ホッと胸をなでおろした。
 この短絡思考の男にとって、右京の焼くお好み焼きをタダ食らいできないとなるのは痛かった。
 勿論、天道家の食卓事情が悪い訳ではない。あかねがご飯を作らない限りは大丈夫である。
 が、青春はとにかく腹が減る。たとえ三食たらふく食わせてもらえたとしても、青春の小腹の空きはそう易々と満たされなかった。
 しかも、親子揃って居候の身の上。そういつもいつもおやつをねだってばかりもいられない事情もあった。
 決まったアルバイトをしている訳でもなく、かといって、お小遣いもたくさんある訳ではない。一高校生にとって、タダ飯を食える右京の店は手っ取り早く食欲を満たせるパラダイスだったのだ。
 

「まーええわ。それより、スペシャルお好み焼き、焼いたるさかい、店に寄って行きーや。」
 当然のように右京は乱馬の袖を引っ張り始めた。
 その行為は嬉しいが、今は、お好み焼きを食べさせてもらっている場合ではない。
 あかねをとっとと探しに行かなければならぬ、使命がある。
「昨日は猫飯店へ行ったんやてなあ…。今日は逃がさへんでー。お好み焼き食べるまで、帰らせへんでー。」
 右京は嬉しそうに乱馬の腕へとまとわりついた。
 強引に振り切るのも、気が引けて、乱馬。些細な事でまた、右京から邪険な扱いをされるのも嫌だった。そんな彼が取った最終手段。

「あー、空飛ぶお好み焼き!」
 唐突に空を指差して叫んだ。

「空飛ぶお好み焼き?」
「ほらほら。あそこっ!」
「どこどこ?どこや?」
 つられて空を見上げた右京の気が削げた瞬間、すいっと乱馬は彼女の腕からすり抜ける。

「悪いっ!ウっちゃん。今、急いでるんだ!また今度ゆっくりと食わせて貰いに来るぜっ!」
 ピースをすると、そのまま、駅へと猛ダッシュでかけ始めた。

「あん、乱ちゃんーっ!」
 猛スピードで行ってしまった乱馬を、残念そうに右京は見送った。無論、彼女の記憶の中には、反転宝珠の魔力のせいで乱馬に邪険に接していた記憶は全て欠落している。
「もう…ほんまに、乙女心がわからんのやから…。ま、ええわ…。商売や商売…。」
 そう言うと、右京は暖簾を取りに店の奥へと入って行った。




(ウっちゃんに嫌われた訳じゃないってことはわかったが…。)

 駆け乗った電車に揺られながら、乱馬は考えを巡らせて行く。

(多分、あかねの奴、反転宝珠を身につけていた俺に、冷たくあしらわれたんだろうなあ…。それで、夕べ、道場を駆け出して…。
 
 いや…待てよ…。

 ゆかの奴、電話で変な事を言ってたよな…。
 あかねが、出産関連の本を買ってたとか…。
 お…おい…。俺には身に覚えなんて、一切ねーぞ!
 許婚ったって、まだ、身体を合わせたこともねーし…。

 ……。

 まさか…。あかねの奴…他の男と…。

 九能先輩とか…。有り得ねーか…。
 良牙とか…あいつは俺より純情だからもっと有り得ねーか…。

 でも、出産関係の本を買ってたってーのは…一体…。

 やっぱ、妊娠した…させられたのか?
 まさか、やんごとなきことになって、それで、昨日の晩、俺に相談を持ちかけようとしたところを…反転宝珠のせいで邪険になってた俺に思い切り冷たくされて…。

 んー…。
 だとしても、なら、何で流幻沢に行ったんだ?

 …ま、まさか、あかねを孕ませた奴って、し…真之介…かあ?)

 軽快な、レールの音と共に、都会から田舎へと変化していく車窓の景色。
 焦点定まらぬ視線に流れる景色と共に、一定の方向へ向かって、乱馬の短絡思考が流れて行く。
 しかも、プラス方向ではなく、マイナス方向へ。

(あかねを孕ませた奴が、真之介だったとしたら…。
 流幻沢へ行ったのも、頷ける話だよな…。
 かすみさんが見た、親書の主が、真之介の爺さんってのも納得が行く。
 お腹の子を、父親の真之介と共に、流幻沢で産み育ててくれって誘い…の手紙なのかも…。)

 どんどん膨らむ、マイナス思考の妄想。

(畜生!何で、あかねの妊娠に気がついてやれなかったんだ?
 真之介の奴、絶対許せねー!!
 俺のあかねに…手を出しやがってっ!)


 何故に、そういう方向へ思考が流れていったのかはわからないが、流幻沢に着く頃には、すっかり、乱馬の頭の中に、変な思考が、しっかりと固定されてしまっていた。
 短絡思考の妄想ほど、厄介な物は無い。疑念は思い込みへと取って変わられてしまうのだった。






つづく







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