◆初夏の午後 再び
Maiさま作


今年もいまいましい季節がやってきた。
毎年のように年間の平均気温が上昇している極東アジアの小国だが、今年はどういうワケか、去年のこの時期と比べるとかなり肌寒い日が続いている。
いや、肌寒いだけでなく、大陸から流れ込んできた台風クラスの低気圧が関東地方に長期停滞しており、それによる嵐のような雨が毎日のように降り続いていた。傘や雨合羽などが爆発的に売り上げを伸ばし、反対に、この時期に販売実績を伸ばしてなんぼの日焼け止め関連の商品が、過去数年の売り上げと比べて驚異的な低迷ぶりを見せていた。
一部の人間のあいだで、世に言う『風林館高校占拠事件』で、生徒の中でただ一人犠牲となった少年が、この世に未練を感じ続けているからではないかという噂がまことしやかにささやかれている中、早乙女玄馬は、この時期になるといつも早雲と将棋で火花を散らす縁側で、何をするともなくボーっとした表情で座り庭を眺めていた。
テレビを見ることもなく、本当に、ただボーっとしていた。
玄馬や早雲は、時おりこうして物思いに耽っているような様子で縁側に座り込むことがあるが、実のところは何も考えていない事が多い。
精神統一をしているのかとも思ってしまうが、その表情を見ると、どうもそうとは思えない。
まさに惰眠を貪る中年オヤジの図を的確に表した好例と言える。

久しぶりに雲の間から日の光が差し込む天気となった初夏の午後、家には玄馬と天道家三姉妹の長女のかすみしかいない。
珍しく他の家族が全員所用で出かけていた。玄馬の妻のどかは昔の顔なじみが集まる同窓会に、天道家三姉妹の次女なびきは九能家の長男帯刀を金づるにした買い物へ、玄馬の息子乱馬と三姉妹三女のあかねは、なびきと同じように買い物へ、そして天道家の長早雲は町内会の寄り合いへと、朝からこれでもかと言わんばかりに次々と家族や同居人が出かけていき、気がつけば何も用事のない玄馬とかすみの二人が、この広い家の中に残るだけとなっていた。
ジメジメとした日が続いていた中の久しぶりの晴れ間に、かすみは忙しそうに洗濯物を庭の物干し竿に干している。その様子は、忙しそうではあるが、さすがは天道家の家事全般を一手に担っているだけあって、その手際のよさは目を見張るものである。
玄馬は先ほどから目の前で展開するかすみの魔法のような手さばきを感嘆のまなざしで見つめていた。玄馬にとって、かすみはまさに、若かりし頃ののどかそのものだった。ふと、かすみが彼の方を振り返って、
「ひさしぶりのお日さまですね」
と、微笑みながら話し掛けたが、玄馬はうつろな視線をさまよわせたまま、返事すら返さずにいた。夫婦になりたてののどかの姿をかすみに重ねていて、かすみが声をかけたのに気づいていないのだ。
「おじさま、大丈夫ですか?」
さすがに危ないと感じとったのか、かすみは洗濯物を物干し竿にかける手を止め、玄馬の方へ歩み寄った。
「どこか具合が悪いんじゃないですか……?」
「ん…?ああ、すまない、大丈夫だ……」
ようやく我に帰った玄馬は、顔を赤くしながら手を横に振り、作り笑いを浮かべた。さすがに、妻の姿と君の姿を重ね合わせていたなどとは、口が裂けても言うことはできない。
その真意がつかめないかすみは、首をかしげながら「そうですか…?」と、釈然としないような顔で作業を再開した。
しばらくして、茶でも飲もうと思い、玄馬はかすみに声をかけようとしたが、目の前でてきぱきと家事をこなすかすみに「茶が飲みたい」などと言って台所へ足を運ばせるのは、いくら同居人とはいえあまりにも無礼なものだ。これまでに縁側からかすみに茶を要求した事はあったが、それは彼女が台所にいるからであって、彼女が台所にいない時にそんな要求をした事はない。そんな時は自分で台所から茶を調達していた。
今回も同じように台所へと足を運ぼうと腰を上げたところを、かすみが呼び止めた。
「おじさま、どちらへ?」
「いやぁ、ちょっと茶を飲もうと思ってな」
「そうですか、すみません、いま手が放せなくて……」
「ああ、いやいや、気にせんでくれ、かすみさんの手を煩わすことじゃないよ」
そう言うと、玄馬は台所へと向かった。

この時期になると、台所の冷蔵庫の中には二リットルほどの大きさのペットボトルに、麦茶が満タンにして置いてあるのだが、今日に限ってその姿が見当たらなかった。
あたりを見回してみると、流し台に逆さになったペットボトルが干してあった。ちょうど麦茶は売り切れているようだ。
仕方なく湯を沸かそうとして、玄馬はヤカンを探し始めた。
水をかぶってパンダに変身したあと、人間に戻る時にしょっちゅう使っている割には、台所のどこにしまってあるか知らないのに彼は気づいた。パンダから人間に戻る時は、台所のテーブルに置いてあるものを常に拝借していただけに、棚などにしまわれているとなると、それを探すのに一苦労してしまう。
かすみが台所に戻ってきても、玄馬はまだヤカンを探していた。
「おじさま?」
「ん?」
「何かお探しですか?」
「いやぁ、茶を沸かそうと思ってヤカンを探しとるんだが……」
ここにきて玄馬は、自分が予想していたより長い時間をヤカン探しに費やしていたことに気づき、恥ずかしさに顔を赤くした。
「どこにあるのかさっぱり分からん……」
赤い顔のまま腕を組んで憮然とした顔になった玄馬を見て、かすみは思わず吹き出した。
「……何かワシの顔についているかの?」
「いえ、おじさま、ヤカンはそこに……」
かすみが指さす方向を追う玄馬の眼に飛び込んできたのは、ガスコンロに乗ったヤカンだった。不覚にも、ヤカンが棚の中にしまってあると勝手に思い込んでいたため、こんな至近距離にある目標の姿を完全に見落としていたのだ。
灯台下暗しとでもいうべき失態である。かすみは申し訳なさそうに、しかし彼女なりに大笑いしていた。こうなるともう笑うしかなかった。玄馬も恥ずかしさを紛らわすために、真っ赤な顔で自慢のダミ声を張り上げ、二人でしばしの間笑い続けた。

「はい、お茶ですよ」
「すまないねぇ、結局かすみさんに手間をとらせてしまって……」
縁側にかすみが茶の入った湯のみを持ってきたのは、二人で大笑いして少し経ってからだった。
「いえ、気にしないでください」
玄馬が面目なさそうに頭を下げたが、かすみはやんわりと受け止めた。
玄馬は湯飲みをかすみから受け取り、おもむろに透き通った緑色の液体を覗き込んだ。
緑色の自分の顔が湯飲みの中でゆらゆらと揺れていた。
お茶に映った自分は、ずいぶんと疲れたような表情をしている。
思えばここ数年の間、風呂場や洗面所でも自分の顔と向かい合うことがかなり少なくなった気がする。
鏡をはさんだ自分との対面は、時に自分の内面に潜む別の自分の存在に気づかされることがある……そんな話を聞いた覚えがあるが、今の玄馬はそんなことを考えてはいなかった。
「おじさま?」
湯のみとにらめっこをしているような玄馬が気になったのか、かすみが彼に話しかけた。
「ん?」
「何かお茶に入ってましたか?」
玄馬の仕草がそう見えたので、かすみは素直に尋ねた。
「ああ、いや、別に何でもないんだ……」
玄馬は苦笑いを浮かべて答えた。なんだかずいぶん前にも同じようなやり取りをした気がする。
確かに十分ほど前に似たようなやり取りはあった。だが、それよりもさらに、そう、あれは妻との間に息子が生まれる直前のこと――

「あなた、どうかなさったんですか?縁側でぼんやりとして」
「ん?あ、ああ……」
「今日もいい天気ですね……」
「ああ、そうだな……」
「……」
「ん?何をこらえてるんだ?」
「だって、なんだかいつものあなたじゃないみたい」
「そうか……?」
「いつものあなたなら、今夜の夕食の献立てを聞いてきそうなものなのに、さっきからボーっとしているからおかしくて……」
「そ、そうかの……?」
「子供が生まれるから気が気ではないんじゃないですか?」
「うーむ、そうかもしれん……」
「それじゃ、わたしお夕飯の支度してきます」
「……ちょっと待て、のどか」
「はい?」
「ああ、その、なんだ……ワシも手伝うよ…その…晩メシの用意……」
「え?でも……」
「今まで気がつかなんだが、その体ではさぞ辛かろう。一人でやるより二人でやる方が早くできるだろうし……」
「それはそうですけど……」
「よし、じゃあ、さっそく台所に行くぞ」
「……はい……」

自分が初めて妻の仕事を手伝った瞬間であり、まさか居候先でのやり取りでそれを思い出すとは思わないものだった。
そして今まさに、玄馬の目の前で、かすみがあの時ののどかと同じように台所へ向かおうとしていた。
思えば、なぜ声をかけたのか、玄馬には分からなかった。
「なあ、かすみさん……」
「はい?」
もうここまで言っていたら、やることは一つだけだった。


「ただいまぁ」
「ただいま」
「はぁー疲れた……」
「ただいま戻りました」
「かすみー、戻ったよー」
出かけていた家族らも驚いたことだが、用事を終えて帰宅した彼らは、門の前で見事に鉢合わせするかたちで、ほとんど同時に家の中に入ってきた。
近所の家々で夕食の準備が進められている脇を通って帰ってきたので、彼らは夕食の支度をしている最中のかすみが、台所から出迎えに出てくるのを想像した。この時間帯に帰宅するといつもそうであったからだ。現に、台所からはまな板と包丁が奏でる規則的な音や、鍋のふたが立てるカタカタという音が聞こえてきている。
しかし、音は聞こえていても、かすみは姿を現さなかった。
「おかえりなさい」と、いつものおだやかな笑みと共に出迎えてくれるかすみの姿を想像していた帰宅族は、しばしの間玄関に呆然と立ち尽くしていた。
どうかしたのかと思いながら、乱馬、あかね、なびき、のどか、そして早雲の五人は、靴を脱いで台所へと向かった。
「おじさま、そろそろお味噌汁にお豆腐を入れてください」
「うむ、わかった」
近づくにつれて、台所からはかすみと玄馬であろう聞き覚えのある声が耳に入った。
かすみが台所にいるのは納得できるが、玄馬が一緒に台所にいるというのは、どうも腑に落ちない。この時間には、玄馬は概して縁側でボーっとしているか二階の自室でゴロゴロと寝転んでいるか、そのどちらかである。
五人の常識ではなかば考えられない光景が、彼らの頭に浮かんだ。
まさかと思いつつ、五人は台所を覗き込んだ。

ガスコンロに乗った二つの鍋。
台所中央のテーブルには二つのボウルと、すでに出来上がり皿に盛られている料理。
そして流し台で不要になった調理道具を洗うかすみ。
と、そこまではよかった。
五人にとって問題は、ガスコンロの傍に立ち、手のひらで器用に切り分けた豆腐を鍋に入れる玄馬の姿だった。
しかも、事もあろうに玄馬はエプロンを着用さえしている。
「お、おやじ……」
「あなた……」
まず声を発したのは、玄馬の息子と妻だった。
「さ、さ、早乙女くん……」
「おじさま……?」
次に声を発したのは、玄馬の親友とその末娘だった。
「熱でもあるんじゃないの?」
最後に声を発したのは、玄馬の親友の次女だった。
「あら、みなさん、おかえりなさい」
ようやく、かすみが台所の入り口で信じられない顔をしている面々に気がつき、いつもの穏やかな声を出した。
そして、エプロン姿の玄馬もそれに続き、台所の入り口を振り返った。
「おお、みんな一緒だったのか、もうすぐできるから広間で待っていてくれ」
玄馬がさも自分が夕食を作るのが当然とでも言わんばかりの調子で声をかけてきたので、五人は彼の行動を咎めることもできず、その言葉に従い、それぞれのこまごまとした用事を済ませ、数分後には全員が広間へと集合していた。

「どういう風の吹き回しかしら……」
「おじさま、熱でもあるんじゃない?」
「俺に言うなよ……」
「ワシらが出かけてる間に何かあったのかねぇ」
広間に集まった外出組の面々は、ほぼ全員が同じような意味合いの思いを口にした。
早乙女父子が天道家に居着いてからというもの、玄馬が食事の準備の手伝いなどしたことがなかっただけに、彼らの驚きもまたひとしおだった。
微笑みを浮かべつつ、玄馬の行動に驚きを隠せずに居間に座るのどかも、まさか夫の行動の一因が自分にあるとは気づくはずもなかった。
そこへ、人数分の皿と料理を盆に載せた玄馬が入ってきた。








作者さまより

あとがき
 ……何だか別にどうでもいいような内容になってしまったような…(汗
 乱あ推奨サイトであるにもかかわらず、たまに乱あにほど遠い小説文を投稿しているワタクシですが、今回もご多分に漏れず、玄馬中心の文章を叩き出しました……本音を言えば乱あを書くのが苦手でして……さらに言えば二人を取り巻く面々を使った話を作る方が好きだったりして……(苦笑)
 あと、冒頭付近で『風林館高校占拠事件で、生徒の中で唯一の〜』というとんでもない一節がありますが、これについての弁明はいずれお話しいたしますので。
 それでは、まだ見ぬ次回作でお会いいたしましょう……


 乱馬×あかねの投稿作品が多い中でも一際目立つ作品。でも、底辺に流れるものは愛すべきキャラクターたち。
 玄馬さんを中心に据えた作品を読ませていただくのも、また、投稿いただくのも初めてです。
 この作品の奥行きは筆舌しがたく。

 ちこっと一之瀬からの解説
 『風林館高校占拠事件』について
 裏乱馬様管理の「らんま1/2的小説工房」というサイトに掲載されていたのがMaiさまの長編作品です。残念ながら、閉鎖となり、現在、そちらの作品を読めません。
 読んで字の如く、ハードボイルド的な素晴らしいらんま的小説でした。テロリストたちが風林館高校を占拠して…怪我をしながらも必死であかねを守った乱馬のお話です。
 初めてMaiさまの作品をここで読ませていただいて、実は唸っていた私です。
 「呪泉洞」に初投稿していただいたとき、ほくそえんでいたのは内緒(笑

 一緒に投稿していただいた、素敵なイラストは「一期一会メモリアル」所蔵の天武館に飾らせていだたいております。
 こちらも是非どうぞ!必見です!
(一之瀬けいこ)



Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.