◆初夏の午後
Maiさま作



波乱に満ちた修学旅行から一ヶ月が過ぎた。
修学旅行中に起こった事件については、東京で発行される新聞には記載されていなかったが、地元では、それなりの騒ぎになっていたようだ。
その当事者の一人である天道あかねのもとにも、どういうルートで知ったのか、彼女が事件に関係したという情報を手にした地方紙の記者が、少なからずとも訪れ、事件に関して根掘り葉掘り聞こうとしたが、事件の中心人物ともいえる少年の身の上を案じ、あかねは、事件に関して必要最低限の事柄しか口にせず、その背景にある、少年に降りかかった悲しい出来事などは、一切口にしなかった。
旅行先の友人に対しての、せめてもの恩返しだった(詳しくは『旅行先の友人』参照)。
そんなあかねや、彼女と許婚の仲にある早乙女乱馬を取り巻く状況に興味を示さずに時は過ぎ、暦の上では、季節はすでに夏に入っていた。とはいえ、日めくりカレンダーは六月の中旬であることを示している。この季節特有の湿った空気と陽光が、互いの力を誇示し合うかのようにその数値を高めていき、その時期の関東地方は、例年では考えられない過ごしにくさとなっていた。
さらにこの年は、近年でもまれに見る台風フィーバーの年となった事でも、後世に語り継がれていく事だろう。
五月の下旬に日本に上陸した台風三号をはじめとして、たて続けに四号、五号が、さらに七号が日本を直撃し、六月の初旬に上陸した台風十号に至っては、九州の中南部を縦断し、四国の北部と瀬戸内海沿岸、近畿地方の中央部、東海地方の北部に達したあたりで北へ進路を変え、関東・東北地方の東部を走り、さらには北海道をも貫通したところで熱帯低気圧へと姿を変えるという、まさに日本を縦断した形となり、あまりに早い自然の猛威の襲来に、人々は肝を冷やしていた。
その一方で、台風によってもたらされた水分が停滞しているのか、気温と湿度は確実に上がり、日本全体を蒸気のバリアで覆いつつあった。

日本観測史を塗り替えんばかりの、限りなく不快指数が百パーセントに近い日が続くある日の午後、天道家の家族の憩いの間として、おもに使用される広間には、このいまいましい天気にうんざりする数名の住人が居合わせていた。
一家の長天道早雲と、天道家に居候している早乙女一家の長玄馬の二人は、所要があるとのことで、数時間前から出かけている。天道家三姉妹の長女かすみは、近所の商店街で大規模な安売り市が催されるということで、買い物かごを肘にかけて留守にしている。謎の同居人であり、早雲と玄馬の武道の師匠でもある怪老人八宝斉は、行き先も目的も共に不明のまま数日前から所在不明。居候一家の一人息子の乱馬も、珍しくクラスの悪友と共に、どこにともなく出かけていて家にはいない。
天道家三姉妹の次女と三女、そして早乙女家の母が、広間で空虚な時間を過ごしていた。
とはいえ……
「ああーもうっ、なんでこんなに蒸し暑いのよっ!」
いくら空虚な時間とはいえ、暑いものは暑い。なびきが怒気をはらんだ声を、ため息まじりに吐き出す。
「しょうがないでしょ?ウチにはクーラーなんてしゃれたもの置いてないんだから、お姉ちゃんも少しは我慢しようよ」
自分も一緒になってこの気象状況に対して文句を垂れたいと思いながらも、あかねがなびきをたしなめる。彼女の手元には、完全に溶けた氷と同化している麦茶が入ったグラスがある。
「でも、本当にどうにかならないものかしらねえ、この暑さ……」
と言いつつも微笑を浮かべるのどかの頬や額には、着物を着ているのにもかかわらず、汗一つ滲み出ていない。傍に座るなびきや、正面に向かい合う形で座るあかねは、あまりの蒸し暑さに、他の家族が出払っているのをいいことに、絶対にそのままでは外を歩けないような格好をしているが、着物を着ていることもあってか、まるでのどかの周りだけ、何か境界線が引かれているような気にさえさせられる。
実際に、その日も異常なまでに蒸し暑かった。外では、数メートル歩くのにも滝のような汗が流れ出るといった状態である。用事があると言って出かける家族も、誰一人としていい表情をしていなかったし、たとえクーラーが効いた空間に逃げ込んだとしても、再び外に出なければ家に帰れないし、家でもまた蒸し風呂地獄が待っているために、全員が苦い表情をしているであろうことが、容易に想像がつく。
あかねやなびき、そしてのどかも、二階にいるよりは、一階にいるほうが気温だけでも下がるかもしれないと、わずかな望みを持って広間へとやってきたものの、体感温度が大きな変動を見せることはなく、不快感が増す事はなかったが、肩透かしをくらったような、呆然とした気持ちになるだけで、しゃべればしゃべるだけ蒸し暑くなると思ったのか、三人ともほとんど何もしゃべらずに時間を過ごしていた。
が、たまりかねたのか、なびきが口を開く回数を重ねてきた。そして、その言葉の標的があかねであるために、彼女が口を開く回数も、同じように多くなっていく。
「ねえ、あかね。あんた最近乱馬くんとどうなの?」
「ど、どうなの?って……何がどうなのよ」
暑さのためなのかどうかわからないが、あまりに支離滅裂な質問の意味を、あかねが問い返す。
「だから、あんたたちの恋話の進展具合よ」
明瞭簡潔に言い直した質問の内容に、あかねの頬が赤くなる。
「こ、こいばなしって……そんな、私たちは……」
「ねえ、おばさま。おばさまも知りたいでしょ?乱馬くんとあかねの恋物語」
あかねからのどかへ視線を移し、あかねの許婚の母親に興味の有無をたずねた。
のどかは、当然と言うように首を縦に振る。
「ええ、ぜひ知りたいわ。あの子があかねちゃんにひどい事していないか……」
どこか意味を履き違えた捉え方の反応を見せるのどかに、あかねは慌てたような表情を見せた。
「そ、そんな……ひどいことなんて……」
「あらそう?じゃあ、そうでない話でも聞かせてくれる?」
「どうしてなのよ?なびきお姉ちゃんだって、最近あの九能先輩とくっつくんじゃないかって、もっぱらの噂よ?」
あの、の部分を強調して、あかねは反撃を試みたが、
「別に、九能ちゃんから言い寄って来てるだけだもん」
と、適当に的を外した返答でかわされてしまった。
「で?あんたたちは?」
しつこく言い寄るなびきに、あかねは抵抗の意思を、押し黙る事で表した。
「あら、何も言いたくないわけ?」
「当たり前じゃない。お姉ちゃんのことだもん、絶対に人に言いふらすに決まってるから」
突っぱねるようにあかねが言い放つのも無理はなかった。過去の許婚交代騒動に代表されるように、あかねと乱馬の純粋な恋心をやたらと引っ掻き回した回数では、なびきもシャンプーや右京たちに負けていない。いまこの場で、乱馬との良好な関係を暴露してしまったが最後、なびきのいい金づるになるのは確実だった。
のどかには悪いとは思ったが、二人の社会的立場を考えると、今はあらいざらいしゃべることはできない。あかねはそう思っていた。
「そう、見放されたものね。あたしも……」
開き直った言い方だが、どこか寂しそうな雰囲気を漂わせるなびきの表情に、あかねは一瞬とまどった。
「何もここで聞くこと見ること全部他人に言いふらすほど、あたしは非人情な女じゃないわよ。一家族として聞いておきたいだけ」
同情を誘おうとした割には、結局は聞きたがっているようだ。
「本当に?」
とあかねが念を押すと、
「当たり前じゃない。この目がウソついているように見える?」
と、なびきは余裕のこもった不敵な笑みをたたえる。どう見ても怪しいが、いつまでもキツネの化かしあいのような事をしていても何も始まらないし、終わらない。
結局はこうなっちゃうのよね、と思いながら、あかねは口を開いた。
「……乱馬とは、今はケンカもしてないし、良くも悪くも、お姉ちゃんが期待するような展開にはなってないわ」
ふーんと、なびきは鼻で返事をして、のどかはのどかで、安心したようなホッとした表情を見せた。
「そりゃ、私だって女の子だから、それなりにいい展開を期待したりすることがあるけど、今はまだ、このままの状態を保っておくのが大事だと思うの。何かしようと、自分から動かなければならない時が来るのは分かってる。でも、今の私たちは、まだそういう時期じゃないと思ってる。乱馬に何かを期待するのはちょっと無理がかもしれないけど、私は、今の乱馬が、今の自分が好きなの」
「えらいわ、あかねちゃん」
のどかが感嘆の声を漏らした。
「今の言葉、あの子にも聞かせてあげたいわ」
「や、やだ、おばさま。今のこと、乱馬に言わないでくださいね」
「あら、どうして?」
「そうよ、あかねが言わないのなら、おばさまにあんたの気持ちを代弁してもらった方が、意外と事がすんなりと運ぶんじゃない?」
なびきが、のどかへの援護射撃を開始した。
「あんたたち、例の修学旅行以来、どこかよそよそしい態度ばっかりとってるみたいだし、本当はうまくいってないんじゃないの?」
「そんなこと、ないわ」
あかねが弱々しく反撃を開始した。
「乱馬は乱馬なりに私を気遣ってくれてるのよ。私も、下手に言葉をかけて口喧嘩になるよりは、あまり話をしない方がいいと思ってるし、乱馬もそう思ってると思うの」
「思う思う思うって、根拠があるワケじゃないんでしょ?」
鋭い指摘に、あかねははたと黙り込んだ。確かにそうだった。もしかしたら、自分が思い込んでいるだけかもしれない。乱馬も自分と同じ思いを抱いているという証拠は、何ひとつない。
「大丈夫よ、あかねちゃん」
あかねの気持ちを察してか、のどかが不意に口を開いた。
「あの子は、ちゃんとあなたの気持ちを分かってるわ」
にっこりと微笑みながら、のどかはあかねに話した。
「ちょっと、おばさままで……」
急に二対一の状況に逆転し、なびきは驚いた表情を見せた。現実主義のなびきには、無論精神的な観念などが信じられるわけがなく、目の前の現実を常に見据えて行動するのが彼女のモットーである。以心伝心との言葉に代表されるような精神的な意志の疎通などを信じることは、彼女にとって、そのモットーを捨てるも同然の事だった。それゆえに、精神観念推進委員会の会長のような二人が意見を合致させた段階で、なびきの形勢的な不利は否めなかった。
「私もあの人と一緒に暮らしていると、あの人が考えることがよく分かるようになったものだわ」
玄馬と同棲していた時分を思い出しながら、のどかは感慨深げに話した。ますますなびきにとって不利な状況が形勢されつつあった。
「最初の時期こそ、彼が何をどう思っているのかなんて、これっぽっちも分からなかったわ。でも、同じ家に住んで、同じ食卓で食事をして、そして長い時間が過ぎると、あの人の癖や仕草ひとつで、彼の思いが手に取るように分かるようになってきて、正直怖かったわ」
実際には、乱馬が生まれて二、三年で玄馬が修行の旅に出て行ってしまったために、のどかが玄馬と共に一つ屋根の下で暮らしたのは、わずか数年の間と思われるが、その間に、玄馬の癖などを見抜くあたり、さすが武道家の妻とでも言おうか、その感性はすばらしいものがある。
「だから、なびきちゃんも、いずれ分かる時が来るわ。自分が本気で愛することのできる人と共に暮らしているとね。でも、無理は禁物よ」
のどかの言葉がひと通り終わったところで、玄関の方で扉が開いた音がした。誰か帰ってきたようだ。
「だだいまぁー」
「あら、噂をすればなんとやら、かしら?」
なびきが、玄関から聞こえた乱馬の声に、皮肉めいた笑みをあかねに向けた。
「なによ」
とたんにあかねの顔が強張る。
「まさかお姉ちゃん。今の話、乱馬に本気で言う気じゃないでしょうね?」
「あら、分かる?」
「当然よっ!」
あかねが声を荒げた。それに気づいたのか、乱馬が玄関から声をかける。
「どうした?あかね」
「えっ?べ、別に何でもないわよ」
「そうか……」
わずかに言葉を交わしたきり、乱馬は二階に上がってしまったようだ。
乱馬の足音が二階に到達するのを待って、あかねはなびきに向かって言った。
「とにかく、自分の気持ちは、いつか自分で言うんだから、お姉ちゃんもおばさまも、今日の話はアイツには絶っっ対ないしょだからね?」
二階に聞こえない程度の声で、あかねは二人に念を押した。
「分かってるわよ。あたしもそこまで野暮じゃないわよ」
余計に事を引っ掻き回すのが大好きななびきが、珍しくすぐに折れた。本心から出た言葉なのか怪しいものだが、今はとりあえず信じるしかない。
のどかも、満面の笑みを浮かべてうなずいた。
「でも、あかねちゃん。あの子があなたに何かひどい事を言ってきたら、いつでも相談してちょうだいね」
今の自分たちに、万に一つもそんなことはないだろうと思いながらも、あかねは首を縦に振った。
と同時に、二階に上がっていった足音が、そのひどい熱気から逃げ出すかのように、慌ただしく一階へと下りてきた。
「ひでえなあの暑さは。人が暮らせるような温度じゃねえぞ」
広間に入るなり、乱馬が息を切らしつつ苦言を呈した。
広間にいた三人は、彼を出迎えながら、一人はやれやれといった表情で首を振り、一人は微笑みながらおかえりと声をかけ、一人は、少し頬を赤くして彼を見つめていた。

冗談でなく、熱気によって空気がゆらめく初夏の午後。
沖縄の沖合いには、さらなる台風が接近しているらしい。








作者さまより

あかね、なびき、のどかの三人のみが一緒の空間にいて、何気ない会話を交わしたらどうなるかな?と思い、短編に挑戦してみました。乱馬くんの帰宅で会話が終わってしまうあたり、作者の方が逃げの体勢に入っていることがありありと読めてしまい、もっと精進せねばと思ってしまいます。
会話内容をあまり深く考えずに、思いついたままに文章を打ち込んだために、どことなくはっきりしない部分もあるかと思いますが、どうかご容赦ください(汗)
意外と短編も楽しいもんなんだなと、妙に新鮮な気持ちになりました。今度はかなり長めの文章作品を制作中です。某所で発表したものを大幅にリニューアルしたものですが、構成に手間取っております……年内に発表できればと思ってますので、その時にまた、お目にかかれたらと思います。



あの力作「旅行先の友人」(SEN企画掲載です)の後日譚的作品。
なんとも奥行きのある短編です。ゆったりと過ぎてゆく、初夏の一日。その中に居るあかね、のどか、なびきの三人。そこへ流れ込む乱馬の存在。
言の葉の流れが一瞬止まる時・・・こんな乱あ作品があってもいいのではないでしょうか?
(一之瀬けいこ)



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