◇ほつれた糸   序文
Maiさま作



恐怖とは、一瞬で過ぎ去るものであり、同時に極めて根強く人の心に残るものである。
そして、恐怖は日常という平衡を瞬時に破壊し、非日常へと突き落とす。
己の身にいつ起こるとも知れぬ恐怖を、しかし人はそれとなく意識の奥底へと封じ込め、それが"起こってはいけない"と考えつつ、その実"起こるわけがない"と決め付けて毎日を過ごすようにさえなった。
事件・事故・災害などでその"起こるわけがない"恐怖を味わった人々がいくら警鐘を鳴らそうとも、それを体験していない人々にとってはきわめて些細なことであり、日常を生きるためにはとりたてて必要であるとは考えようとしない。
そして――これが一番の恐怖ではあるが――、それはいつ起こるのか誰にもわからないのである。

その日、昼食を摂ろうと広間に集まった天道家に住まう人々は、目の前に広がる料理を目にして凍りついた。そして、広間で皆を出迎えた調理者は、その顔に自慢をいっぱいに浮かべている。
至るところにシミや焦げ跡を作り、その戦いぶりを忍ばせるエプロンを着けたまま、あかねは自慢げな中にどこか挑戦的な笑みを見せながら一同を見渡した。
「さあ、みんないっぱい召し上がれ」
自慢げで挑戦的、そこに挑戦的なセリフが加わり、広間に入った家人は動きを完全に封じられてしまった。
しかし、今回はいつもと様相が違っていた。
皿に盛られた料理のどれもが、かすみが作る天道家の日常的な料理とそれほど変わりがないように見えたからだった。
そしてそれは、かつてあかねが作った料理のどれよりも、いつか彼女が作った"普通のカレー"よりもおいしそうに見えた。
一同の視線は、しばし料理とあかねとを見比べた。
「これ…あかねが作ったの……?」
全員の思いを、なびきが代弁した。
「もちろんよ。今日は、ちゃんと味見したんだから。ねえ、おばさま?」
あかねは、傍らに座るのどかに顔を向けた。
すると、のどかは穏やかな笑みを浮かべながらうなずいた。
「そうよ、今日のあかねちゃんはいつにもまして頑張ったのよ」
のどかの太鼓判が押されたこともあってか、言われてみれば、たしかに今日の料理は紛れもなくあかねが作ったものに間違いなかったが、どこか"おいしそう"だった。料理から漂う匂いも、彼女がかつて作り上げた驚異的な臭気とは違い、"食べられそう"なものだ。
一同はおそるおそる食卓を囲み、湯気の立ち昇る料理を皿に取り分けたが、いざ口に運ぼうとすると、ついためらってしまう。あかね自身が味見をしたと断言してはいるが、油断はできない。どの段階で、何かの拍子に壮絶な変貌をとげている可能性は否定できないからだ。
そこまであかねの料理は、過去に凄惨な歴史を刻んでいた。
ついに覚悟を決めた早雲が、口の中に料理を放り込んだ。
しばしの沈黙のなかに、早雲の咀嚼音だけが響いた。
カッと目を見開く早雲に、一同の視線が集中した。
「う、うまい……」
全員が、その言葉を理解するのに数秒を要した。いや、言葉は理解していたが、その言葉が意味するものを理解するのに時間がかかった。
あかねの…料理が…美味である……
しかも、早雲の顔は、ウソを言っているような顔ではない。彼自身、食したものが本当にあかねが調理したものであることが信じられないような表情である。
ほとんど同じ動きで全員が箸を手に持ち、おそるおそる料理に手を伸ばした。
そして一分後、彼らは早雲と同じように、驚愕の表情を浮かべた。

自分が作った料理がすべて食べてもらえる…それは当事者のあかねにとって至福のひとときであった。
すべての皿がキレイになり、全員が満足そうな表情を浮かべている。
「どう? おいしかった?」
あかねは食べ終えた一同――特に乱馬の感想を聞きたかった。
乱馬は、いまだに疑わしげな目で彼女を見ていたが、ついに観念したのか、本音を口にした。
「うん、うまい……」
小声なうえに、言葉尻がフェードアウトするようにどんどん小さくなっていったため、一番重要な言葉がほとんど聞こえなかった。
「なに? よく聞こえなかったわよ?」
本当は聞こえていたが、彼の口からはっきりと聞きたいあかねは、どこか勝ち誇ったように感想を催促した。
「これは、何か起きるんじゃねえか? 今夜あたり」
再び口を開いた彼の言葉は、あかねが期待したものではなかった。それどころか、例によっての売り言葉であり、今のあかねを逆上させるのに一番の最短距離を行く、もっとも口にしてはいけない言葉だった。
その後の展開は、もはや説明する必要はないだろう。

「何か起きるかもしれない……」
かつてまともなものを口にしたことがないゆえに、何気なく口にした言葉だった。
あかねの料理が美味かったために発した一言だったが、まさにその夜、その"何か"が起こった。
それも、彼らにとってまったく衝撃的な形を持って……

その夜、乱馬は寝付けなかった。
虫の知らせとでも言うのだろうか。いつもなら豪快に寝息を立てているはずの時間帯になっても、なかなか瞼が重くならず、そうとも知らずに横でイビキをかく父親を横目に、窓の外に広がる夜空を眺めていた。
今日は満月のはずだが、厚い雲に覆われているのかずいぶんと暗い。
(眠れねぇな……)
さっきから幾度となく同じ言葉を心の中でつぶやいていた。
枕元の時計を見ると、針が丑三つ時を指し示していた。
「マジかよ……」
思っていたよりも自分は夜更かしをしているようだ。
毎日きっかり七時間寝る体質がある彼にとっては、明日も学校に遅刻するのは確実だろう。
何とかして眠らなければ……しかし、そう思うと逆に目がさえてしまう。
それに不思議と喉が渇いてきた。
水でも飲もうかと布団から起き上がった時だった。

食器が割れるような音が台所から聞こえた。
反射的に布団を跳ね飛ばし、玄馬がどうしたのかと尋ねるのも聞かずに、乱馬は部屋を飛び出していった。
自分が聞いた音は、どうやら空耳ではないらしく、台所の扉が開いており、そこから食器の破片らしきものが飛び散っていた。
ドロボウだろうか?
入口の脇に体をつけて、中の様子を窺いながら乱馬は考えた。
それにしては静か過ぎる……
中を覗き込んだが、誰もいない。中が暗いだけにほとんど見えないのも当然かもしれないが、少なくとも人間の気配は感じられない。
もう逃げたのだろうか?
逃げる段になって物音を立てたとなると、間抜けなコソドロかもしれない。
乱馬はゆっくりと台所に足を踏み入れた。
裸足だったのを忘れていたので、破片が足にチクチクと刺さり、思わず体がビクッと反応した。
自然と足元に視線が行き、そのために床に倒れているそれに気がついた。
誰かが倒れていた。
普通なら危険を感じるべき状況かもしれないが、それでも乱馬は、コソドロがドジを踏んで気絶している姿だと疑わなかった。
電気を点ければ、相手を起こしてしまうかもしれないと思い、あえて電灯のスイッチには触れずに乱馬は歩を進めた。
破片に気をつけながら、彼は相手に歩み寄った。
それと共に、厚い雲に覆われていた月がゆっくりと顔を見せ、台所に白い光が差し込んだ。
徐々に台所の中は青白い光に照らされ、テーブルの向こう側に倒れているその人物の姿も、月光を受けて浮かび上がり、回り込んでその正面に立った乱馬にも、それが誰であるかがはっきりと見てとれた。

目で見たものを認識することを拒否したくなるのはどんな時だろうか。
映画の結末で起こる衝撃の展開。
試験の結果が信じられないほど悪かった時。
または、家族や恋人が予想もしなかった災厄に見舞われた時……
乱馬におけるそれは、目の前に倒れているのが、パジャマの腹部を朱に染めたあかねであることだった。
「あかね……?」
始めは悪い冗談だと本気で思った。
だが、彼女は微動だにせず、息をしている気配すらなかった。
割れた食器の破片を踏んでいるのも忘れ、乱馬はあかねの傍らにしゃがみこんだ。
「おい、起きろよ……」
まだ信じられなかった。信じられないというよりは、本当にタチの悪い冗談であってほしいという願いが頭の中を占めていたからこそ、乱馬は普通にあかねに呼びかけた。
だが、彼女は返事をしない。
苦痛に顔を歪めるでもなく、静かに眠っているようにさえ見える。
しかし、その腹部では、赤い染みが、じわりじわりと確実に拡がっていた。
おもむろにその染みに手を当ててみた。
生暖かく、濡れた生地の感触がはっきりと彼の手に伝わった。
冗談などではない……!
途端に事の重大さに気づき、乱馬はようやく、自分の大切な人が尋常ならざる危機に瀕している事実を痛感した。
「あかね、あかね!」
乱馬は俄然声を張り上げ彼女の名を呼んだ。
すると、ふっとあかねがその目を薄く開いた。
「あかね!」
彼女の反応を見るや、乱馬はその上半身を抱き上げた。
「あかね、何があったんだ!」
乱馬は大きな声で事の真相を尋ねた。
しかし、あかねは小さく口を開け閉めするだけで、何を言っているのか聞き取れない。
乱馬は彼女の口に耳を近づけて、その言葉を聞き取ろうとした。
「……ごめん、なさい…私、あなたの事……何も、分かって……」
あまりに小さくて、乱馬が聞き取れたのはそれだけだった。
それきりあかねは何も言わなくなった。
「おい、あかね! あかね!」
最悪の事態を感じとった乱馬は、あかねの体を揺さぶったが、彼女は視線をあさっての方向に向けたまま、物言わぬ人形のように揺さぶられるだけだった。
やがて家人たちがようやく台所に駆けつけ、天地をひっくり返すほどのパニックが巻き起こった。

それは、事の始まりにおいて最悪の状況を形成していた。



つづく



筆者さまあとがき
前作の投稿からジツに半年近く経っているのを知り、時が経つのはジツに早いものだと感じる今日この頃…久しぶりに投稿させてもらいました。
にしても今回の話、冒頭で事件が発生するというのは、正直なところ気が引けましたが、細かく作りこんでいくとあまりにも長くなる気配を感じたので、あえて直球勝負というか、本作がかなりハードな話であるということを明確に示すために、こういう形にしました。
某所で発表した(これも三年か四年近く昔!)作品以来の長編ですが、何とか完結できるようにしますので、どうぞお付き合いください。
では、次のあとがきに……



うわ〜い・・・久しぶりのMAIさまの作品だい!と思って飛びついて、その衝動的な始まりに「続きプリーズ!」を叫ばれたのは私だけはない筈ですね。
重いです!あかねちゃん!どうしたの?乱馬くん大丈夫?
この続きは今しばらくお待ちください。次回をじっと待つ辛さ・・・なり

(一之瀬けいこ)



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