◇恋模様帳簿  其の壱
マルボロシガーさま作


「ったく、ほんっっとにかわいくねえ女だなお前は!」
「何よ!シャンプーに抱きつかれたときのあんたのだらしない顔を見せてやりたいわよ!」
「そんな顔してねえ!」
「いーや、してました」

いつものごとく乱馬とあかねが罵り合っているこの光景も、見慣れた者にとっては面白くも何とも無い。
何度やってもどちらの言い分にも進歩が見られないのだ。

「もう・・・相変わらずなんだから、この二人は」

この人物、たびたびこっそりと窓から忍び込んではその様子を傍観しているこの少女にとっても同じ感想のようだ。
ケンカをしている当人たちより周りで見ている方が先に飽きてしまう。
結局、この日も彼らは意地の張り合いに終始したあげく、ツンとしてしまった。


「あかねのやろ〜」
憂さ晴らしとばかりに、乱馬はランニングに出掛けた。
しかし、そのイライラは収まらない。
道端に転がっていた空き缶を思いっきり蹴飛ばした。
「あの、乱馬君!」
「あん?」
乱馬が後ろを振り向いた。
が、誰もいない。
「上、上よ!」
乱馬が空を見上げる。
が、やはり雲以外には何もない。

「きゃあっ」「いてっ」

どかっ、と音を立てて乱馬は誰かとぶつかった。
相手のほうはその勢いで転んでしまった。
「いた〜い」
見ると、その女性、というより少女は子供のように涙ぐんでいる。
「ごっ、ごめん!大丈夫か?」
乱馬はすぐに謝り、手を貸してその体を起こしてやった。
「ふーん」
と言って、少女は乱馬をまじまじと眺めた。
「怪我してねえか?服は汚れてない?」
と乱馬が言った。
どうやらよそ見をしていた自分が悪い、と思っているようだ。
「平気よ。それより・・・」
「何だ?」
「乱馬君って普段は女の子に優しいのね」
「へ?」
乱馬は少女の顔を見た。
嫌いなタイプではないが、全く見覚えがない。
しかし、相手は自分のことを知っている。
「あの・・・どっかで会ったことあるのかな?」
おそらくそうだろうと思い、乱馬は頭をかきながら言った。
すると、少女がくすっと笑った。
「ええ、私はあなたのことは何でも知ってるわよ。あかねちゃんという許婚がいて、水をかぶったら女に変身することも」
その言葉を聞き、乱馬は少女を鋭く睨み付けた。
「誰だ、おめえ・・・」
「ちょっと、そんな怖い顔しないでくれる?今日はあなたたちの恋の手助けに来たんだから」


その少女は、自分のことを七福神の一人、弁財天女と名乗った。
人々に財宝や幸福をもたらすと言われる女神である。
そして、この日は仕事の一環として縁結びをしているのだという。
彼女が言うには、出来上がった恋人の末長い幸福を願うよりも、なかなか進展しないカップルをくっつけることのほうが楽しいらしい。
それで、乱馬たちに目星をつけ、彼らには見えないように姿を隠してその関係を窺っていたというわけだ。

「ねえ、こんなところあかねちゃんが見たらどう思うかしら?」
弁財天女がいたずらっぽく言った。
「そしたら困るのはそっちだろ」
乱馬が言い返した。
確かに、乱馬が見知らぬ女と親しげに話しているのを見たら、あかねがやきもちを焼くのは目に見えている。
縁結びどころの話ではない。
「そうね。でも大丈夫。あなた以外の人には私の姿は見えないわ」
そう言われて、乱馬は道行く人々が自分を奇異の目で見ていることに気づいた。
人間と空気が喋っているように見えるのだろう。
「それでね」
「ん?」
「あたしが奉られてる神社にあかねちゃんと一緒にきて欲しいの。そこにある御神木に二人の名前を書いた絵馬をかけるときっとうまくいくから!」
「くっだらね〜」
「でね、でね、その神社には私の石像もあるんだけど、これがちょ〜ブサイクなの!乱馬君、神主に私の美貌を伝えて建て替えさせてくれない?」
「悪いな。他の奴を当たってくれよ」
乱馬は再び走り出した。
だが、弁財天女は乱馬の上を楽々と飛んでついてくる。
「しつこい奴だぜ」
そのとき、彼女が乱馬の耳もとまで体を近づけて囁いた。
「乱馬君、あなた女の子と付き合ったことないんでしょ」
「なっっっ」
乱馬は明らかに狼狽した。
「べっ、べつに女の一人や二人いくらでも・・・」
「嘘ついても無駄よ。あなたのことは何でも知ってるって言ったでしょ?」
「だ、だったらどうだってーんだよ!」
弁財天女は乱馬の言葉を無視し、何やら思索に耽っている。
(こんな子に女心をわかってもらうには女の子と付き合わせるのが手っ取り早いんだけど、それじゃああかねちゃんに悪いし・・・)
彼女は案外、遠慮深いところがあった。

「そうだ!」
弁財天女が何かひらめいたのか大声を上げた。
そして、ポケットから手帳のようなものを引っ張り出した。
「おい、何なんだよ!」
彼女は黙々と『恋模様帳簿』と表紙に書かれたもののページを繰っていた。
(こうなったら乱馬君には他人から恋愛を学んでもらうわ。きっと彼自身のためにもなるはずだから・・・)
彼女の手が、あるページで止まった。
(よし、この人たちにしよう!・・・ううっ・・・こんなこともあったわね・・・)
弁財天女が思わず涙腺を緩ませた。
「じゃあ、乱馬君」
「何だよ」
「またね」
「はっ?」
そう言って、弁財天女は空高く舞い上がり去って行った。
乱馬にしてみれば、好き勝手喋っておきながら話をはぐらかされて気分が悪い。
「人迷惑なやつだぜ・・・」
そのとき、すでに何もかもが変わっていた。


どこだ、ここは。
乱馬は思った。
方向音痴の良牙ならともかく、呪泉郷への道筋を完全に記憶している彼が道に迷うことはまず、ない。
にもかかわらず、乱馬の目の前には見知らぬ風景が広がっている。
しかも、それがさも当たり前のごとく、一千年も昔から続いているかのようだ。
乱馬の右手を川が流れている。
川にはいくつもの橋が架かり、その両側には木造の町家が建ち並ぶ。
視界の端には、夏の色彩豊かな山が脈々と連なっている。
そんな中でも、乱馬に最も違和感を感じさせたのは行き交う人々の体裁である。
服装はいずれも前時代的なもので、チャイナ服に身を包む彼が普段にも増して滑稽に映る。
中には、まげを結い、刀を腰に提げたいわゆるお侍らしき者もいた。
(どうやら一昔前の世界に来ちまったようだな・・・・・でも、どうしてだ?)
だが、この疑問に対してはすぐに乱馬の中では決着がついた。
(そうか、さっきの女のしわざに違いねえ)
そうとわかればあわてふためくことはない。
災難、珍事に巻き込まれることは彼にとって日常茶飯事だからだ。
そんなことが起こったとしても、結果、元の鞘に収まっている。
だから、このときも乱馬は一風変わった町をのんきに見物することができた。


「何してんだ?あいつ」
民家の陰に一人の男がいる。
そこから道のほうをこそこそ覗き見る様子は、容疑者を尾行する刑事のようだ。
見ると、その視線の先には井戸。
そして、そこで水を柄杓に汲んでいる女がいた。
「ははーん」
乱馬はそろりそろりとその男に近づいた。
ところが、乱馬の影が足下に見えているにもかかわらず、男はそれを蟻程度にしか思っていないらしい。
「よう」
「わっ!」
案の定、男は飛び上がらんばかりに驚いた。
そして、刀に手をかけたが、乱馬が丸腰なのを見るとほっと胸を撫で下ろした。
「さっきから見てるとあんた、あの娘が好きなんだろ」
と乱馬がにやにや笑いながら言うと、男の色白な肌が真っ赤になってしまった。
それだけで答えを言っているようなものだ。
この男、その姿だけ見れば立派な武士なのだが、顔にはまだ幼さが感じられる。
実際、乱馬は同い年くらいだろうと思っていた。
その瞳は黒く、唇には気品があるが、どこか顔色がすぐれないように見受けられる。
「あ、いえ、その・・・わ、私は市中巡察の途中でたまたま・・・」
彼は咄嗟に嘘をついた。
「なーに言ってんだよ。良かったらおれが呼んできてやろうか?」
「やめて下さい」
などと言われると、ますます引きたくなくなるのが乱馬のタチである。
「いいからいいから」
そう言って乱馬は男の腕を掴んだ。
すると、男はそれを振り払った。
このまま立ち去るつもりかと乱馬は思ったが、男はすたすたと女に近寄っていった。

「こんにちは、おゆきさん」
男が言った。
(何だ。知り合いじゃねえか)
おゆき、と呼ばれた女は男の姿を見ると、陽が射すようにぱっと笑顔を輝かせた。
きれいに揃った白い歯が印象的だ。
「こんにちは、沖田はん。何かご用どすか?」
そう言われて、男は一瞬考え込んだ。
特に用があるわけではない。
本当は用がなくても彼女と話していたいのだがそうもいかない。
そもそも、おゆきに彼が自分から話し掛けたのは、あのままでは遠くから彼女を眺めていたことを乱馬に告げ口されるかもしれない、と思ったからだ。
もしそのことが彼女に知れたら、彼の羞恥心には火がついてしまうだろう。
「あの、先生に」
言い終わって、うん、これなら自然だ、と男は思った。
しかし、おゆきの表情は曇ってしまった。
「沖田はん、やっぱりお体の調子が悪いんどすか?」
「いえ、そんなことはありませんよ」
「とにかく、今日は父はんに言ってよう診てもらいますさかい」
男は苦笑いを浮かべながら、女に連れられて一軒の町家に入っていった。
乱馬がその家の看板を見ると、どうやらそこが医者の診療所だということがわかった。


しばらくして、男が出てきた。
それを待っていた乱馬が声をかけた。
「よう、さっきは悪かったな」
男はいぶかしそうな顔をした。
「何か?」
「いや、町の案内をしてもらえないかなー、と思ってさ」
(何者だ?この少年は)
男は思った。
(長州や薩州の息のかかった者ではなさそうだな)
もともと人のいい彼はこの頼みを受けることにした。
「いいですよ」
男が笑顔を見せて言った。
「ありがてえ、恩に着るぜ」
そして、いかにも不釣合いな格好をした二人が歩き出した。


「ところで」
お寺の前に差し掛かったところで男が言った。
「その服はあなたの故郷では当たり前なんですか?私は初めてお目にかかりますが」
「う〜ん。俺んとこでもあんまりこういうの着るやつはいねえな」
「ちなみに、どちらから?」
「未来・・・かな?」
乱馬は正直に答えた。
別に隠すようなことでもなかったからだ。
「はて、みらいですか。存じない地名ですな」
私もまだまだ無知なものだ、と男は反省した。
「いや、そうじゃなくて、今より後のことを言うときに使う未来だよ」
そう言うと、さすがに男は目を白黒させた。
しかし、乱馬が冗談を言っているのだろう、と彼は思った。
「いやだなあ、そんなはずがない」
そう考えて当然である。
乱馬としても、事情を説明するのが面倒だから、その考えを正そうとはしない。
男はにこにこしながら歩いている。
「お名前は?」
そのあと、あわてて男が言い直した。
「いや、これは失礼。こちらから申し上げましょう。私、新選組一番隊隊長、沖田総司という者です」
「何だそれ?何とか組の隊長ってのは」
沖田は思った。
(本当に何も知らないんだな)
今、京では新選組を知らない者は世間のことがわからない稚児くらいのものだ。
たいていの人々はその存在に脅威を感じていた。
沖田自身も「幕府のイヌ」などとも揶揄される新選組の評判が良くないことは知っていた。
だから、そのことに引け目を感じているわけではないが、乱馬が世間ずれしていることは彼にとってむしろ喜ばしいことだった。
「私どもは、京の町の守護をしているのです」
「へえ。警察官みたいなもんか」
だが、その実態の中心的役割は、尊王攘夷思想を持った士の排斥、というものだった。
沖田も幾多の人間を、斬った。
しかし、それは三度の飯より人を斬るのが好き、という狂人じみたものではなく彼の仕事熱心さゆえのものだった。
乱馬としては、この四六時中にこにこ笑っているような男がそんな人物だとは知る由もない。
「あ、おれは早乙女乱馬。無差別格闘早乙女流の二代目だ」
と乱馬が言った。
沖田は、必死にその流派を思い出そうとしたが、やはりわからなかった。


彼らがいろんな話を自己紹介がてらにしているうちに、日が暮れ出した。
「早乙女君、私はね」
沖田がつぶやくように言った。
「この、京の日暮れ時が大好きなんですよ。木々が陽を浴びてキラキラ光る様子や、その逆に路地の暗がりなんかもたまらなく好きなんです」
「ふーん」
残念ながら、乱馬にそのような風流を解する心はない。
「今晩はどこにご宿泊されるんですか?」
沖田もそのことを悟ったのか、話題を変えた。
「いや、今日は野宿でもしようかと思ってるんだけど・・・。どうせすぐ帰るだろうから」
「野宿は危険ですよ。不逞の輩だととられかねません」
もちろん新選組によって、である。
「大丈夫だって」
「だめですよ。私が宿をとりますからそこに泊まって下さい」
さすがにそこまで言われては乱馬も断る理由がない。
「わかったよ」
「じゃあ、今から行きましょう」
そう言って、沖田が乱馬を質素な感じの宿屋に連れて行った。
沖田が店主に事情を話すと、簡単に了解してくれた。
彼の人柄によるたまものである。
「すまねえな、わざわざ」
「早く未来に戻れるといいですね」
沖田が冗談めかしてそう言った。
「ああ」
「では、失礼します」
そして、沖田は妙な音のする咳をしながら去って行った。
そういえば、ここにくる最中にも彼が何度か咳込んでいたのを乱馬は思い出した。


沖田が新選組の屯営所に戻ったころには、すっかり夜も深まっていた。
「総司」
沖田の姿を見つけるなり、異様に眼光の鋭い男が声をかけた。
「あ、土方さん」
「珍しいじゃねえか。こんな時間までどこをほっつき歩いてやがった?」
新選組副長、土方歳三。
それぞれが一流の使い手とはいえ、悪く言えば寄せ集め、烏合の衆である新選組を局長の近藤勇とともに鉄の隊規によってまとめあげてきた男だ。
沖田とは試衛館道場時代からの同志である。
「それが、おかしな人に会いましてね」
「ほう」
「自分のことを未来から来た、なんて言うんですよ」
土方が不審に思って言った。
「そりゃ結構なことだが、間者(スパイ)じゃあねえだろうな?」
「まさか。本当に何も知らないんですよ、彼。きっと土方さんにも、『よう』、なんて話し掛けるんじゃないですか?」
そう言うと沖田がまた笑った。
「でも」
その彼が、急に真顔になった。
「おそらく、相当できますよ。私の見立てではね」
「名は?」
「早乙女乱馬」
「聞かねえ名前だな」
土方は少しの間考え込んだが、沖田には別の用件があったのを思い出した。
「ところでお前、女でもできたか?」
「え?」
沖田は内心ぎくりとした。
そんなわけではないとわかっていながら。
「監察の山崎が言ってたぜ。お前、医者の娘が気に入ってるらしいじゃねえか」
「だとしても、あの娘は私のことなど何とも思っていませんよ」
沖田は振り返って歩き出した。
「総司、一つ忠告だ」
「何ですか?」
「ちゃんと薬は飲んどけよ」
沖田は思った。
やはりこの人には隠し通せない、と。


乱馬は枕元にある行燈のかすかな光の中、ただ天井を見つめていた。
こういうことには慣れているとはいえやはり、普段からにぎやかな天道家にいるからかひとりぼっちは物寂しい。
次第に不安が募ってくる。
元の世界に帰れるのだろうか。
みんなのところに。
あかねのところに。
その全てを忘れるかのように、乱馬は目を閉じた。



作者さまより
今回の小説は新選組の沖田総司と町医者の娘、おゆきの恋が乱馬をキューピッド役として成就できたらなあ、と思ったわけです。が、どうしてもこの二人がハッピーエンドを迎える、というのは想像できないので別の展開にしました。



 実は・・・私、その昔、高校生から大学生にかけての頃、「新撰組フリーク」でした(笑
 大学時代に知り合った千葉出身の悪友に、引きずられるように、学校があったあちこち京都中の史跡めぐりもしました(笑
 当時非公開だった八木邸も見学しました。定期的に壬生寺へも行って幕末に浸っていました。
 いつか「らんまで幕末時代小説を」という野望だけは持っています。
(一之瀬けいこ)



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