◆NO REASON
Kobayashiさま作


 夏休みがいよいよ明日と迫った日のことだった。風林館高校では、ホームルームがはじまろうとしていた。教室内は心地良い弛緩というべき雰囲気につつまれていた。皆のほとんどは、夏休みの過ごし方を話題にしているようである。
 あかねもゆかやさゆり、涼子と雑談をしていた。内容はもちろん夏休みの計画についてである。
「はあ〜、いよいよ夏休みね」とさゆりが言った。
「ねえねえ。今年の夏休みはどうする?」とゆかが言い出した。
「今年は旅行とかの予定もないし。かといってやることはないし。暇になっちゃいそう」ちょっと憂鬱そうにさゆりは言った。
「あ〜あ。ボーイフレンドでもいてくれたらなあ…」ゆかもため息まじりに言う。
彼女らはまとまった休みの前になると2人は必ずこの言葉を口にしていた。
「そうそう、あかねと涼子はいいわよねえ。あ、そうか。あかねの場合はボーイフレンドじゃあなくって、許婚だものね」と、ゆかが羨望の眼差しをあかねと涼子にむけた。
さゆりも同様のことをした。
「ちょ、ちょっと…」とあかねがムキになりかけたところを、涼子が「まあまあ」と制した。
 すると、ゆかが何かを思い出したらしく、さゆりの肩をポンポンとたたいて言った。
「ねえ、さゆり。この前さ、乱馬くんと話していたあの人のことなんだけど…」
「ああ、あの先輩のこと?」
彼女らの言う「あの人」とは1学年先輩の、コバ少年のことだった。
「あの人、よく見るとけっこうカッコイイんじゃない?」
「うんうん、そういえばそうかも。背も高いし、頭良さそうだし。あたしのタイプかも」
この前は「近寄りがたい」とか「気難しそう」などといっていたくせに、このかわり様はいったい何なのだろうか。
 あかねは涼子と顔を見合わせ、思わず苦笑してしまった。

 そのとき、教室のドアががらりと開けられて担任の教師が入ってきた。
「ホームルームはじめるぞ!!」の声を合図に、生徒たちはしぶしぶながらも着席した。
 教師は座ったのを見はからい、プリントを配り始めた。全員に行き渡ったところで、話し始めた。
「えーと。明日から夏休みとなるわけだが、問題行動など起こさないように。何かあったら学校に連絡すること。
電話番号はプリントに明記してあるからな。だらけた生活をしないように体調管理にも気をつけること。え〜、他は特に無し。楽しい夏休みを。よし、じゃあ今日はここまで」
 教師の言葉を合図に、生徒たちはめいめい帰り支度をして教室の外へ颯爽と飛び出していった。あかねもクラスメートとあいさつをかわすと、乱馬と連れ立って帰路についた。

 外は晴れていた。正午までにはまだ2時間以上もあった。
「きょうはいい天気ね〜」とあかねはおでこに掌を水平に当てて、ひさしをつくる仕草をして見せた。
「帰ったら、シャワー浴びて、冷たい飲み物だな」乱馬はそう言ってあかねの方を見た。
「うんっ」とあかねは微笑んで頷いてみせた。
 家に帰ってみると、すでになびきが帰っていた。
「あら。あんたたち今帰ったの?」シャワーでも浴びてきたのか、さっぱりした顔だった。
「シャワーでも浴びてきなさいな」とだけいうと、彼女は二階の自室へ引っ込んだ。
 乱馬が言った。「さて、あかねから浴びてきたらどうだ」
「レディーファーストってやつね。お言葉に甘えるわ」とあかねは言って風呂場へ向かった。乱馬は居間に腰を下ろした。
 彼女があがったのは、それから20分後のことだった。居間にいた乱馬にバトンタッチして、彼女は冷たい麦茶を飲んだ。暑い日のシャワーの直後に飲む冷たい飲み物は、砂漠に水がしみこむように、渇ききった喉をしめらせていく。ここは喉をならして一気に飲み干すのが、一番美味しい飲み方だと思う。彼女は「一番美味しい飲み方」そのままに麦茶を飲み「ふう〜」と一息ついた。
 そして、玄関ががらりと空けられる音がして「こんにちは〜、郵便で〜す」という声が聞こえてきた。
「はーい」といってあかねが玄関に出て行くと、郵便局員が1枚のはがきを彼女に手渡して、出て行った。
 あかねは「ご苦労様でした〜」といい、はがきが誰に宛てられたのかを確認した。そこには「天道なびき様」と
記されているのを確認すると、すぐに二階の姉の部屋へ向かった。2〜3回ノックすると、Tシャツにショートパンツ姿の姉がでてきた。
「なあに、あかね」
「お姉ちゃん宛てにはがきが来ているわ」とあかねは持っていたはがきを差し出した。
 なびきは「あたしに?」と人差し指を自分の顔の前に持ってきた。あかねはこっくりと頷いて「だって"天道なびき様"って書いてあるんだもん」と言った。
 なびきは、あかねからはがきを受け取ると、裏表をそれぞれ10秒ほど見ていた。すると、何か思い出したらしく「ああ〜、はいはい。アレが当たったのね」と微笑んだ。
「何が当たったの?」とあかね。
「コーラがたっっくさん当たったのよ。確実に100%当たるっていうから。これでジュース代もかなり浮くわね。うっふふふ」なびきが嬉々とした表情をうかべて言った。
「コーラって、あの…飲み物の?」とあかねがきょとんとした様子で言った。
「そうだけど。あんた寝ぼけてるの?」といってなびきはケラケラと笑い出した。
あかねは「で、どれくらい当たったの?」と聞いてみた。
「う〜ん、教えてもいいけど、知ったら腰ぬかすわよ。ありがとう」といってなびきは部屋に引っ込んだ。

 あかねも二階にきたので、自室に戻った。暑かったので、窓を開け放って風をいれると、なんとなく音楽が欲しくなった。ラジオのスイッチを入れてFM放送に選局した。ウィークデイの午前中におけるラジオ放送は、あまり聞いたことはなかった。
 男性パーソナリティーがひっきりなしにしゃべっている。
―はい、じゃあ次のリクエストにいきましょう。Mailでいただきました。東京都にお住まいの、ラジオネーム、ガルシアさんからです。曲は桑田佳祐で「波乗りジョニー」。これはコーラのCMでかなり前から流れていますよね。聞けば「ああ、あの曲か」と思う方もいることと思います。僕も、この曲は大好きです。CDも好評発売中。ガルシアさん以外にも、たくさんのFAXやMailで寄せられました。ありがとうございます。それじゃあ「波乗りジョニー」です。どうぞお聞きください―
 2、3秒の静寂ののち、イントロが流れ始めた。パーソナリティーが言ったとおり、この曲はコーラのCMソングとして随分前からオンエアされていた。彼女もこの曲は気に入っていたナンバーだった。
 彼女はラジオのヴォリュームを少しあげた。
―だから 好きだといって 天使になって そして笑ってもう一度 せつない胸に波音が打ち寄せる いつか 君をさらって 彼氏になって 口づけあって 愛まかせ―
「サビ」の歌詞がとても印象的な曲だ。

 10分ほどラジオを聴いた後、部屋を出て居間に行くと、なびきがちゃぶ台に頬杖をついて、文庫本を読んでいた。あかねも、テーブルに頬杖をつき、物思いにふけった。
 しばらくそうしていると、なびきがキリのいいところまで読んだのか、そのページにしおりをはさんで本をパタンと閉じてちゃぶ台の上に置いた。彼女は、立ちあがって台所へいき、冷蔵庫をあけて、がさごそとなにかを探し始めた。彼女がそうしている間、あかねは何を読んでいるのか気になったので、カバーがかかっている文庫本の表紙を一瞬めくってすぐに閉じた。
 タイトルは「はつ恋」で、作者はツルゲーネフと書かれていた。ロシアの作家、イヴァン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフは1818年に生まれた。1843年発表の長詩「パラーシャ」が激賞され、農奴体制化の農民の生活にスポットをあてた「猟人日記」で不動の名声を得た。ちなみに、この「はつ恋」は1860年に発表された作品である。他の代表作品には「父と子」などがある。
 なびきは、よく冷えたコーラのビンを左手に、栓抜きを右手に握っていた。
「あれ、いまどきビンも売っているの?」あかねはビンのコーラが珍しいらしい。
「きのう、出かけたときにあるお店で偶然見つけたの。値段もすごく安かったから」といい、栓抜きで「シュポン」とビンの蓋を栓抜きであけて飲んだ。「シュポン」という感覚も今となっては懐かしい。
「ふ〜ん」とあかねは言いながら、さっきラジオで流れていた曲はとても良かったな、と思っていた。
なびきの飲んでいるコーラは、その曲がCMソングとして使われているものだった。

 あれ、あたしお姉ちゃんに何か言わなきゃならないんじゃなかったかな。
とあかねは何かを思い出そうとしている。
「う〜んと何だったかな?」ひとりごとが出てきてしまった。
なびきは本に目を落としたままで、あかねに対しては何の反応も示してはいない。
 突如として、それは思い出された。
「ああ、そうそう!!」あかねは手をポンとたたいて、思わず大きな声を出していた。
「何よ、大きな声出して。うるさいわね」なびきがしかめ面で本から目をあげた。
「あのね、お姉ちゃん。マスターがね、よろしくって言っていたの」
 なびきは最初「えっ?」という顔をして、考える素振りを見せると「ああ〜、はいはいはい。そういえば、しばらく行っていなかったな」と何度か頷いた。
「知っているの?」あかねは質問をぶつけた。
「自慢じゃあないけど、行きつけているお店」なびきは言う。
「そう。実はね、乱馬がつれてってくれたの。あいつ、前にいったことがあったみたいで」とあかね。
「へえ〜。乱馬くんがあのお店を知っているだなんて」なびきは意外な表情を顔に浮かべた。
「もしかして(乱馬くんに教えたのは)コバ君かな?」半ばひとりごとのように言った。
「うん、その人もいた」あかねは頷いた。
「あたしもコバ君に、ね。彼、そこのマスターとは知りあいだったから」
 あかねは、ちょっと思案した後で彼について話してみることにした。クラスメートであるうえ、ニックネームで呼んでいるあたり、多少は彼のことを知っているのかもしれない、と思ったからだ。
「ねえお姉ちゃん」
「何?」となびきはコーラを一口飲み、あかねの方を向いた。
「その人って、どういう人なの?」
「コバ君のこと?」となびきは聞き返してきた。あかねは、こくりとうなずいた。
「ははあ。あんたまさか、コバ君のこと…。だめよ二股は。乱馬くん聞いたら怒るわよ」となびきはニヤニヤ笑いだした。
「ちがうわよ、お姉ちゃん。純粋にどんな人なのかなってこと」あかねはいった。
「悪い人じゃないってことは確かよ。そうそう、あかねは憶えていないだろうけど、コバ君は小さいときに時々家に遊びに来ていたのよ」となびきは言う。
「えっ、そうなの。全然覚えがないなあ」あかねは目を丸くした。
「あたしたちのお母さんと、コバ君のお母さんが学生時代に同級生でね。すごく仲のいい友達だったらしいわよ。まあ、それだけの話なんだけれどね」となびきは付け加えた。

 ふた呼吸くらい後、不意になびきがポツリとつぶやいた。
「でも、コバ君を好きになるのはちょっと…って感じね」
「え?」とあかねは聞き返した。
「財力は結構あるけど…。彼はひとりでいるのが好きな人なのよ。極端なこといえば、孤独を愛する人。自分のことにツカツカ入り込もうとする人を嫌うフシがあるのよね」
「孤独を愛する、か。なんだか"ムーミン"にでてくるスナフキンみたいね」とあかねが言った。
 なびきは続けた。
「けど、コバ君はな〜んでも知っているの。サッカーのこととかね。他にもいろいろ。頭もすごくいい。あたし、なぜか彼とはウマがあうのよね。別に何とも思っていないけれど」
 なびきは、ちょっと首をかしげると、再度本をひらき、しおりをとると黙々と読み始めた。それっきり、彼女の口からはコバ少年の話題は出ることはなかった。
 あかねは居間をはなれて部屋に戻ることにした。

 それから5分くらいして、乱馬が居間にはいってきた。そして、まだそこで本を読んでいたなびきに「あかねは?」と声をかけた。
「知らない。部屋じゃあないの?」彼女はそっけなく答えた。
 乱馬は、冷蔵庫から冷たい麦茶を出し、コップに1杯「一番美味しいのみ方」そのままにのみ干したあと、縁側にごろんとあおむけに寝転がった。
 彼の服装を見たなびきは言った。
「まったく、無頓着もいいところよ。少しはファッションに気を使ったらどうなの?」
「そういわれても、これが俺の好きな服なんだぜ。別にいいじゃねえか」今度は彼がそっけなく答える番だ。
「指輪やネックレスとかっていうのはしないの?」
「俺はああいう…なんていうかその…光り物っていうのかな。ああいう類の物は興味ねえや。だいいち(値段が)高いんだろう?」
「へえ、乱馬くんって案外カタいのね。(値段は)ピンからキリまで。まあ、メンズだと結構するものもあるわね」
「メンズって?」と乱馬。
「男性用ってことよ」なびきはそんなことも知らないのという顔をして言った。
「ふ〜ん。まあいいや」と言い残し、彼は居間を出た。
 ようやくひとりになったなびきは、やれやれとばかりに首を振って、コーラを一口飲んで再び黙々と読み始めた。台所ではかすみが包丁を操っていた。お昼まではもう少しだろう。

 昼食後は、思い思いに過ごす時間。きょうは早お昼だったので、まだ12時前だった。昼食の後片付けは済んだばかり。
「そうそう、(マスターとの)約束があるんだったな〜」乱馬は半分ひとりごとのように言った。
「あ、そうだったわね。あたしも今思い出したわ。きのう行こうかなって思っていたけど乱馬いなかったから、やめた」とあかね。
「そうか。じゃあ、早速、きょうにでも行こうか?」と乱馬は聞いてきた。その表情は「もちろん行くよな」と言いたげである。あかねは迷うことなく頷いた。
「よし、決まり!」と乱馬は微笑んだ。あかねもつられて微笑を返した。
 2人は玄関で靴をはいた。
「かすみお姉ちゃん。ちょっと出かけてくるからね〜」と大きめの声で聞こえるように言い、連れ立って外出した。

 外へ出ると、乱馬の言ったとおり、きのうほど気温はあがってはいなかった。きのうは気温が何度あったことだろう。
「きのうみたいに暑いと冬に逢いたい、なんて思うな」とあかねがつぶやいた。
「でも、冬になりゃあなったで寒いから夏に逢いたい、なんて思うんじゃねえのか」乱馬が反応した。
「そうかもね。春と秋が一番良い季節ね」
 そういったやりとりをしていると、例の喫茶店の前に来た。店内に入ると、馴染みになったマスターの顔が目に飛び込んできた。
「おお〜。2人とも待っていたよ。さあ座った、座った」と、その店のマスターは笑顔で出迎えた。
「さて、ご注文は?」
「この前と同じやつを。アイスコーヒー」と乱馬がいう。
「あたしは、アイスカフェオレを」あかねがメニューを見ながら言った。
「はい、かしこまりました」とマスターは歯切れの良い声で言った。
 注文したものはすぐに出てきた。2人はそれぞれ注文したのものを飲んだ。店内はクーラーがちょうど良いくらいにきいている。
 マスターが会話の口火を切った。
「テストは終わったのだね?」
「はい、ようやく終わりました」乱馬が顔いっぱいに安堵の表情を浮かべて言った。
「ほう。ようやく、かね。わたしも学生時代、テストは嫌だったな。点もいいとはいえない点数だったね」マスターはそういった後、ちょっと苦い笑いを浮かべた。
「まあ、何にせよ終わればいい。終わりよければすべてよし、ですよね」乱馬が妙に明るい声で言った。
「うん。まあ、そういうことだね」マスターはいうと笑い声をあげた。乱馬とあかねもつられて笑い出した。

 そのとき店の扉があいて、入ってきたのは背の高い男だった。白い長袖シャツのボタンを3つあけて胸元に金のネックレスを、右手小指には金の、薬指には銀の指輪を光らせている。左腕にはアナログ時計で、下は合成皮革の黒いパンツで、同じ色の革靴(甲のあたりには正方形の銀の金具がついている)をはいていた。この人はいつもスタイリッシュね、とあかねは密かに心の中で感嘆していた。
 彼は「どうも」とだけいい、(乱馬とあかねの間に2つ席をあけておいて)席に腰をおろすと「いつものやつを」といった。彼もマスターとは顔なじみなので挨拶は簡単でいいのだろう。
 マスターがホットのキリマンジャロをさしだしながら、いつもの調子でコバ少年に話し掛けた。
「君もテストは終わったね」
「はい。終わりました」とコバ少年は頷いた。
マスターは店に来た3人に対してこういった。
「まあ、テストも終わったし。約束どおり、わたしが奢るからね。きょうはゆっくりしていって欲しい」
マスターの言葉に3人は微笑んで「はいっ」と返事をした。
 不意に乱馬が言い出した。「さあ、夏休みだな〜」
「そうだね」とコバ少年が相槌をうつ。
 コバ少年がマスターに話しかけた。
「そういえば北海道って梅雨がないですよね」
「ああ、そうだな。わたしも一度は行きたいよ、北海道に」マスターは頷いた。
「北海道は…」とコバ少年が何かを言おうとしたそのときだった。
 電話の音が店内に響いた。ダイヤル式の音ではなく、プッシュホンの音だった。マスターは、ちょっと待っていてくれ、の合図をすると、受話器を上げた。
「もしもし…ん、なんだ。あっ、切れた」といってマスターは首をかしげながら受話器を置いた。
「無言電話ですか?」コバ少年がたずねた。
「それがね"でっかいどう!!"といっていた。わけのわからない、いたずら電話だな」と呆れ顔でマスターは言った。それを聞いたコバ少年、乱馬とあかねまでもが呆れ顔になった。何かのギャグなのだろうか。
「で、何を言おうとしていたのだね?」マスターがコバ少年にたずねた。
「ん…あれ。何だったかな。あ、忘れてしまいました」コバ少年がそういうと、本人を含めた全員が爆笑した。
 それからしばらく、店内は静寂に包まれた。
やはりこういう店はいいわね、とあかねは思った。
 コバ少年は、手を頭の後ろで組み、足も組んで視線を天井に向けていた。彼は考え事をしているのだろう。店の中が、時が止まってしまったかのようだった。

 そうしていると、店のドアが空けられる音がした。マスターがそちらの方に顔を向けると、顔をパッと輝かせて「やあ、久しぶりだね。なびきちゃん」と言った。
乱馬とあかねも彼女の方を見た。半そでの白いブラウスに黒のミニスカート、ヒールの高い靴。ボブカットにした栗色の髪には、黄色のカチューシャをしていた。
「どうも、お久しぶりです」と彼女は微笑んで、2つ空けられていた席のコバ少年寄り(彼の隣り)に座った。
 コバ少年はもたれていた体を起こして、隣りに座ったなびきを見た。
「コバ君も来てたのね」となびきは言った。
「ああ」とだけコバ少年は言い、視線を彼女から天井へ戻した。
 マスターが言った。「ご注文は何にするんだね?」
彼女はメニューを見ながら「そうですねえ…。じゃあモカを」といった。
マスターは微笑んで「はい、かしこまりました」といい声で言った。
 彼女の注文した品はすぐに出てきた。受け取るとひとくち飲んで、コバ少年に話しかけた。
「コバ君、髪の毛伸びたね」彼の真ん中からきちんとわけられた髪を見て言った。
彼の髪はくせのないストレートな髪だ。ほのかに整髪料の香りがする。
「そろそろ切るよ」コバ少年は見事なまでに簡潔に答えた。
「コバ君は(髪は)短いほうが似合うわよ」と彼女がいうと、彼は面映ゆげな微笑みを彼女に向けた。
 彼女はコーヒーをすすると、開襟の白いブラウスの第1ボタンをはずしながら「外は暑いわね」と言った。
「もう梅雨あけっていう感じだな。僕は梅雨嫌いだからこのままでいいけど」と彼が視線を天井に向けたまま言う。
 それまで黙っていた乱馬がポツリと言った。
「こう暑いと冬がちょっとばかし恋しくなるよなあ…」
「じめじめした暑さって嫌よねえ」と、あかねも苦笑して口を開いた。

 少しの静寂のあと、乱馬が口を開いた。カウンターの向こうに額に入れられた絵があることに気づいたからだ。彼は、その画を指差して言った。
「マスター、あそこに画があるんだけど…」
 マスターを含めた全員の視線が、その画に集中した。よく聞いてくれたね、とばかりにマスターが答えた。
「わたしの描いたポートレート(肖像画)だよ。描いたのは、つい最近だった。今年の3月下旬か、4月の頭くらいだったと思ったが…」
 コバ少年が「これ、僕なんだ」と言った。画の中の彼は、にらんでいて気難しそうな顔をしていた。つけられていたタイトルは「孤独の肖像」というものだった。
「孤独の肖像…ねえ。なんかコバ君にぴったりな気がするわ」となびきが言った。あかねも彼女の言葉は的外れではないなと思っていた。
 コバ少年が「たしか、(描いたのは)サンドゥニでのフランス戦の後でしたっけね」と述懐する。
「ショックだったよ。あの惨敗はね。わざわざフランスまで行ったことを後悔したくらいだよ。君も行っていたのだから、わかるだろう」マスターは苦笑し、下を向いて何度も首を横に振った。
「ええ、ショックでしたね」とコバ少年もちょっと思い出すのが辛そうな顔をした。
「そのショックをやわらげようと描いた作品なのですね?」あかねが言った。
「まあ、そういうことになる…かな」とマスターが頷いた。
「僕はあのあとプラハにも行ったんだっけ…」とコバ少年がポツンといった。
 肖像画の下側を見ると、何事か描かれていた。筆記体ではなかった。それに気づいたなびきがつぶやいた。
「あれ、なんて書いてあるのかな。英語…でもなさそうね」
「これは…フランス語だね。"ク・スユイ・ジュ・プール・エル?"(とてもネイティヴな発音で!!)か。"あのひとにとって、わたしとはなんだろう?"だって」コバ少年が言った。
「なんて言うか、ふっと思い浮かんだものでね、書いてしまったけど。しかし、君がそんなに語学に長けているとはね!!」マスターは感嘆しながらコバ少年を見た。
 クールで真面目。彼の折り目正しい言動は、なびきやマスターをはじめ、多くの人から一目おかれていた。それに加え、論理的で頭が良く、話題も豊富、インディビデュアリスト(個人主義者)。ただ、彼は気難しいフシがあり、「人嫌い」ではないが、ひとりでいるのを好む傾向がある。しかし、彼を理解している人はちゃんといる。
 なびきが尊敬と羨望の入り混じった眼差しをコバ少年に向け、ため息まじりに言った。
「いいなあ、コバ君は。言葉ができて」
 そこからしばらくは、時が止まったかのような空間が店内に醸成されていった。

 沈黙をやぶったのはコバ少年だった。
「あ、そうだ」と、彼はなびきの肩をポンポンとたたいた。
「なあに?」と彼女がコバ少年の方を向くと「君に折り入ってお願いがある、耳を貸してくれないか?」といい、彼女に何事か耳打ちした。
 相槌をうちながら聞いていた彼女は、聞き終えた後「え、本当にいいの?」と嬉々とした顔でいうと、彼は頷いて「だって僕、あんなにたくさんはいらないから。もし良ければ、君にって思ってね」
なびきが「ありがとう、コバ君」と微笑むと、彼は先ほどの面映げな微笑みを彼女に返した。
 彼はまた温厚でソフトな人あたりだということも、彼を語る上では忘れてはならないことだ。その証拠に、彼は乱馬に対しても一度として高圧的な態度をとったことはなかった。
 乱馬が口を開いた。
「二人とも何の話をしてたんだ?」
「あんたには関係ないわ。ごく私的な話よ」となびきはそっけない。
 そして、再び店内は沈黙につつまれた。

 再度、沈黙をやぶったのはコバ少年だった。バレンチノの腕時計に目を走らせた彼は「あ。僕はそろそろ…」といって立ちあがった。
「もう行くの?」なびきが声をかけた。
「ちょっと寄るところあるのでね」といい、マスターに目くばせをした。マスターはなびきの方をちらっと見てから、微笑んで頷いた。コバ少年は乱馬とあかねに「じゃあ、またね」といって店の外へと出ていった。
 彼が出て行ったあと、マスターがなびきに説明した。
「今回のお代は、わたしに持たせて欲しい。テストも終わったことだしね」
「本当ですか。ありがとうございます」と彼女は微笑んだ。
 なびきも腕時計にちらりと目を走らせてから「あたしも行くところがあるので…」と立ちあがった。
「そうかね。きょうは来てくれてありがとう。またぜひ来て欲しい」マスターは微笑んだ。
「ええ、また」といい、あかねと乱馬をちらりと見てから、店の外へ出た。

 時計は1時20分をさしていた。まだ午後の早い時間である。店の客は乱馬とあかねだけとなった。が、それはさほど長い時間ではなかった。なびきが去って5分くらい後、ひとりのかわいらしい少女がやってきた。その少女は涼子というあかねのクラスメートだった。マスターの姪でもあった。
 あかねと涼子は中学時代からの仲の良い友人だった。中学は3年間同じクラスで、高校は1年のときに別々になったものの、二年次に進級したときに、再び同じクラスになった。
 彼女はあかねを見ると微笑んで隣りに座り「アイスカフェオレね」といった。アイスカフェオレがでてくると、涼子はそれを飲んだ。
 あかねから、話は始まった。
「今からどこか出かけるの。バック持っているみたいだけれど」
「プールでひと泳ぎしてこようかなって思ってね。この中には水着が入っているの」と涼子はバックを指差して言った。
「あ〜、ようやく夏休みね」涼子はう〜ん、と伸びをして言った。
「そうね」とあかねも微笑んで相槌をうった。
 あかねはテスト前に涼子が言っていたことを思い出して、涼子に話を振ってみた。
「あ、そういえばテスト終わってからまた絵を描くって言っていたわよね?」
「うん。あ、マック買ったのだから、CGもやりたいなあ」と涼子はとても楽しげだ。
「なびきお姉ちゃんもマックを持っているわ。CGはやってないらしいけど。最近、新しいの欲しいってぼやいていたなあ」とあかね。
「パソコンってすぐ新しいのでるものねぇ」とわざとマスターに聞こえるように言った。
 マスターは気づいたと同時に、涼子の心の中を見透かしていた。
「誕生日プレゼントに買ってくれとか言うなよ」苦笑いが顔に浮かんでいる。
「え、何でわかったのっ。伯父さん」涼子は目を丸くした。
「当たり前だ!お前のことはすぐわかるからな。わたしだって(新しいパソコンが)欲しいのだよ」
マスターの顔から苦笑いはまだ消えてはいない。
「まあ、CGもそれはそれでとてもいい…。でもなあ、手描きが一番だとわたしは思うな。なんたって温かみがあるから」
「それもそうね。伯父さんの言うとおりだわ」涼子は頷いた。
「それでこそ、わたしの姪だな」とマスターは微笑んだ。
「じゃあ(新しいパソコンは)買ってくれるのね。伯父さん」と涼子はいたずらっぽく笑って言った。
「調子に乗るんじゃあないっ!!」マスターは声を大にしていった。
その後、笑い声が店内に響き渡った。
 涼子は再度アイスカフェオレを飲むと「ふう〜」とため息をついた。
「どうかしたの、涼子?」とあかねが言う。
「何でもないわ。明日から夏休みでしょ。やりたいことがいっぱいあるから、どれからはじめようかなって考えていたのよっ」
 彼女は悩みなんてないわよ、というように微笑み、アイスカフェオレを飲み干した。表情にウソの二文字はなさそうである。
 涼子は、店にある古びた時計に目を走らせると「あ、あたし行かなきゃ」と立ちあがった。
「誰かと待ちあわせしているの?」あかねが言った。
「そうじゃないけど。プールの時間が、ね。ごめんね。伯父さん、お金ここにおいておくからね」といい、カウンターに小銭を置くと「じゃあね」と自慢の長い栗色の髪をゆらしながら店を出た。

 店には静寂がおとずれた。それに気づいた乱馬がポツリといった。
「なんだか、し〜んとしちゃったなあ」
「そうね」とあかねが相槌をうつ。
「この店の常連さんはね、こういう雰囲気を好んでいるひとが多い。わたし自身そうだし、なびきちゃん然り、小林君然り、さ」とマスターは言う。再び、静寂が店内を包んだ。二人はだまって注文したものを飲んだ。再び時は止まった。二人はこの空間に身を委ねることにした。

 しばらくして、時はアダージョで動き出した。
「う〜ん、さて俺たちも…」と乱馬が立ちあがった。同時にあかねも立ちあがった。
「帰るのかい。きょうは君たちが来てくれてとっても楽しかったよ」マスターは優しげな微笑みを二人に向けた。あまりに優しかったので、つられて微笑んでしまったくらいだ。
「明日から、夏休みにはいると言ったね。来たくなったら、いつでも来ていいんだよ」マスターはこう付け加えることを忘れなかった。
 ごちそうさまでした、と二人は去ろうとしたとき、再度マスターが呼びとめた。
「あ、そうだ。もしよければ、君たちの誕生日を教えてはくれないかね?」
 二人はうなずいて、それぞれの誕生日を告げた。マスターはポケットからメモ帳を取り出すと、そこにていねいに書き記した。それを見届けると、マスターの「ありがとう」の言葉を背に、二人は店をでた。
 
 外は、一日のうちで一番気温があがる時間帯に差し掛かるとあって、気温が上がっていた。しかし、度数はきのうほどはあがっていない。しかし、30度には達しているだろう暑さだ。
 乱馬はあかねに言った。
「で、今からどうするつもりだ?」
「う〜ん、特に行きたいところはないのよねえ」あかねは首をかしげながら答えた。
「俺もこれといって行きたいところはねえや。とりあえず、家に戻ろうぜ」
「うん」とあかねは頷いた。

 家に戻ると、猫の子一匹いなかった居間に直行した。あかねは麦茶と、ガラスのコップ2つを探しに台所に立った。乱馬は縁側にごろりとあおむけに寝転がった。
 しばらくして、あかねが麦茶とガラスのコップを両手にやってきて、乱馬の横に座った。
「麦茶飲む? よーく冷えているわよ」と彼女は言った。
乱馬のファイナルアンサーは「イエス」だった。
 彼は起きあがると、コップを受け取って、あかねに麦茶をなみなみと注いでもらい、一気に飲んだ。あかねも自分のコップに3分の2くらい注ぐと、彼と同じように飲んだ。「いちばん美味しい飲み方」で。
 喉の渇きがおさまったところで、しばらくの間、二人は黙りこんで考え事をしていた。そのあいだ、なびきが帰ってきたことに気づかなかったくらいに。もっとも彼女は自室へ行ってしまったが。居間には、先ほどの喫茶店内のような空間が醸成されつつあった。

 あかねは喉の渇きがぶり返してきたので、麦茶を飲もうとした。乱馬も同じだった。二人はほぼ同時にポットに手を伸ばした。ポットを握って持ち上げようとしたときに、二人の手が触れ合った。
 はっ、と二人は顔を見合わせた。
「お前からいいよ」
「乱馬こそ」
と言い合い、二人は再び黙った。
「じゃあ、あたしからね」とあかねはポットからグラスに3分の2ほど麦茶を注いだ。そのあと、乱馬にポットをさしだしたが、彼は「俺はいいよ」と言うので、飲みたくなったら飲めばいい、とそばに置いた。
 あかねは麦茶を飲みながら、横目で乱馬の横顔を見つめた。はじめてあったころに比べれば、ずいぶんと精悍な顔つきになった。体つきも、然りである。背も伸びた。言いかえれば「男らしくなった」だろうか。
 乱馬はまっすぐに前を見つめていた。彼の漆黒の瞳に荒々しさはなかった。優しさがたたえられていた。隣りに座っている許婚の女の子は、不器用だけれど、とてもあどけなく、かわいらしい。その許婚が彼の瞳に優しさというものをもたらしたのである。
 あかねは、乱馬の顔をもっと近くでみたいと思い、何センチかそばに寄った。精悍な顔があかねのすぐ目の前にあった。
 乱馬はあかねの気配と視線がとても近くにあることを感じ、顔を右に向けた。とてもあどけなくて、かわいらしい許婚の顔がそこにはあった。
 乱馬が「なんだよ…」といおうとしたその刹那、彼女は彼の唇に接吻(キス)した。それはとても優しく、それでいて長く終わりのないであろう接吻(キス)だった。

 瞳に蒼い月を浮かべるときに、理性という鍵は解き放たれる。物語はゆっくりと、アダージョで始まり、永遠にアダージョで続いていく。氷河期の荒々しい男の心をゆっくりと和らげていくように。

 なびきが、居間に下りてきた。当然、縁側の二人が目に飛び込んできた。それを見つめていた彼女は、下を向いて首を何度も横に振りながら、心の中でつぶやいた。
「あ〜あ、見せつけてくれるわね…もう。見ていて妬けちゃうわ」と。
 彼女はなにか言ってやろうと、喉まで声をだしかけたが、あと少しのところで引っ込めた。
「まあ、今回は黙っていよう。妬けてしまうくらい仲の良い二人だものね」と再び心の中でつぶやいた。
 邪魔者は退散しよう、と彼女は静かにその場を去り、ふっとため息をついた。







作者さまより

 こんにちは。「コバくんシリーズ」の7作目。コカコーラのCMを見ているときに、ふっと思いついたものです。一切の言い訳は省略します(1000ページくらい続くかもしれないですから)。
 設定に関してですが、前回の「赤い靴のSunday」が6月の下旬だったので、一応、テストが終わった後ってことになっているので、7月の第1週です。
 タイトルの「NO REASON」は今年のコカコーラのキャッチフレーズです。
「理屈なんかいらない、飲みたいから飲むんだ」という意味で「NO REASON」に決定したそうです。そのCMのタイアップソングも登場させました。CDは好評発売中です。興味があれば、手にしてみることをおすすめします。僕も持っています。
 恋愛においても「NO REASON」でいいじゃあありませんか。ていうことですかね。

 PRESENTED BY KOBAYASHI


「理由なんてないよね・・・人を好きなるのに・・・」
自説です・・・
未だに何故「らんま1/2」にはまってしまったのか理由がわからない私です。

コバくんシリーズも7作目ですか・・・
Kobayashiさまの小説を読むと、あまり得意じゃない珈琲を入れて飲んでみたいと思ってしまうのは不思議な現象です。
でも、我が家は珈琲の買い置きがない(^^;>インスタントでさえ・・・飲む人がいないんで・・・
(一之瀬 けいこ)




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