◆雨の肖像(ポートレート)
Kobayashiさま作


 乱馬はいつものように朝稽古を終えて風呂で汗を流し、服を着てから朝食をとるために居間へ行った。居間には早雲が新聞を読んでいた。
乱馬はいつものように挨拶した。「おじさん、おはようございます」
「おお、乱馬君か。おはよう。朝から精がでるねえ。感心感心」
と新聞を読んでいた早雲は微笑みながら言う。
「ええ。毎日やらないと感覚が鈍りますから」と乱馬は微笑みを返した。
そして、あかねが起きてきた。すでに服は着替えている。
「おっはよー」と清々しい挨拶をしながら。
「ゆうべはよく眠れたか?」と乱馬はあかねに挨拶代わりの声をかけた。
「うん」とあかねは答える。かすみが料理を運んできた。良い香りが部屋に広がる。
「おっはよー」となびきが実にさっぱりとした顔で食卓についた。
髪がととのっている。洗いたてで、ほのかにリンスの香りがする。
「さあさ、準備がととのったから朝ご飯にしましょうね」とかすみが声をかけた。
見るからに美味しそうな料理が食卓を彩り、それに家族の笑顔が添えば、最高のものとなる。食事の時間というものは本来そうあるべきであると思う。
 朝食後、天気予報を見ようとテレビをつけた。

−全国の天気です。きょうは、全国的に天気は崩れます。日中、北日本の日本海側は雪で、ところによっては吹雪くところもあるので十分に注意が必要です。
そのほかの地域も雨が多いでしょう。ただ、西のほうから天気は回復傾向にありますので、関東から西の地域は夕方からはくもりか晴れとなるでしょう。
では、関東地方の天気です。全域を通して日中いっぱいは雨でしょう。ただ、夕方からは雨もやんでくもりの見込みです。降水確率は午前中が70%から90%、午後は20%から40%でしょう。きょうは夕方には雨もやむので、お帰りの際には傘をお忘れのない様お願いします。では、お天気のコーナーは以上です。このあとはプロ野球いれコミ情報です−

とウェザーキャスターは毎朝見せる愛嬌のある笑顔を見せて天気コーナーを結んだ。
黙ってみていたなびきが口を開いた。「きょうは雨なのね…」
あかねも口を開く。「あああ。なんか憂鬱な気分になっちゃうわ」
言葉のあとには、ため息をひとつ。
かすみとのどかは「きょうは洗濯物を干しても乾かないわ。困っちゃうわねえ」と顔を見合わせて苦笑しながらいう。
雨の日になると、それなりに悩みというものが出て来るのだろう。
 かすみとのどかは悩みを振り払うように、ちゃぶ台の上の食器を片付け始めた。
いつもなら天気予報のコーナーが終わると、3人はかばんを持って登校するのだが
きょうはウィークエンドではないが学校は休みである。高校入試実施の期日が休みになるほか創立記念日や週末の3連休がかさなって、ゴールデンウィークのような連休となった。
乱馬とあかねは連休の前日に準備の係として学校に行った。
入試の係は二年生全員と一年生の大半が担当することになっていた。
なびき、あかね、乱馬はぼんやりとテレビを見つめた。
 テレビは宮崎にいるジャイアンツのキャンプ情報を伝えている。昨年、悲願の日本一を達成して長嶋監督の続投も決定した。今年も豪華絢爛のメンバーに、大物新人選手の加入などでジャイアンツは話題に事欠かない。二年連続の優勝に向けて投手、野手ともに日々トレーニングに励んでいる。きのうは雨だったので室内での練習だった。
きょうも宮崎は雨だから、きのうと同じメニューがこなされるだろう。
 注目の新人選手が打撃練習中にインタビューを受けている。
――今年の目標は何ですか?
新人選手はちょっと首をひねったあと
――そうですねえ。ケガをしないことと…一軍定着です。
 オープン戦は2月の下旬から各地で開催される。プロ野球チームのほとんどは九州などでキャンプをはっている。そして、温かくなるにつれて北上していく。
オープン戦は3月下旬の開幕戦へ向けての準備期間なのである。
 スポーツコーナーが終わった後、テレビは消された。
早雲、玄馬、かすみ、のどか以外は自室へと戻った。
 部屋に戻った3人のうち、乱馬は時間を持て余していた。
学校が休みになって自由時間がぐんと増えたは良いものの、彼にとっては少々多すぎるのではないかという時間だった。彼はあおむけになって天井をぼんやりと見上げていた。
あかねと出かけようにも出かけられない。天気がそうさせてくれない。
そのうち考えごとをするのも面倒くさくなったので、彼は再び目を閉じた。
 あかねは、クラスメートの涼子といっしょに出かける約束をしていたので、服を着て小物入れにいろいろと入れたり、髪をとかしたりしていた。
きのう学校へ行ったときに涼子に「ジョン・レノンミュージアムへ行かない?」と誘われたのである。「ジョン・レノンミュージアム」は去年の10月9日に「さいたまスーパーアリーナ」内にオープンした。付け加えておけば、10月9日はジョン・レノンの誕生日である。準備が整ったところで、あかねは部屋を出て乱馬の部屋に向かった。
部屋をのぞくと、あおむけになって寝息をたてている乱馬が目に飛び込んできた。
彼の寝顔は、悩み事など何もないといわんばかりの無垢なものであった。
それを見た彼女は、くすりと微笑んでから「いって来るね…乱馬」と小声で言い、障子を
閉めた。居間へ行くと、かすみとなびきがお茶を飲みながら雑談をしていた。
「かすみお姉ちゃん。あたしにもお茶をくれない?」
すぐに湯飲みに8分目くらいのお茶が出てきた。
「時間の方は大丈夫なのね?」とかすみが言う。
「うん。まだあと…30分はあるから」とあかねは答える。
 外に目をやると雨が降っている。まるで同じリズムを刻んでいるかのようにしとしとと降っている。
「きょうは降ったりやんだりの天気みたいねえ」とかすみがお茶をすすりながら。
「ジャイアンツのキャンプも室内練習か。今年は宮崎に行こうかなあと思っているけど…。
2月は雨の日、何日あるのかしら…」とこれまたなびきがお茶をすすりながらぼやく。
「そっか。なびきお姉ちゃんはジャイアンツファンなんだよね」とあかねはつぶやくように言った。
それからしばらく、茶の間には沈黙が流れ、それぞれが色々なことに思いをはせた。
「ん。そろそろ行く時間だわ。行ってきまーす」とあかねは玄関へ行って靴をはいた。
「いってらっしゃい、気をつけてね」とかすみはいつものように笑顔で妹を送り出した。
 あかねが出かけてから1時間半くらい後、乱馬が目を覚ました。
「ん…。ああー、なんかいつの間に寝ちまったみたいだな」と寝ぼけ声で言った。
まだ多少眠たかったが、いつまでもゴロゴロしているわけにもいかないので起きることにした。彼は居間へ向かうと「かすみさん、あかねはどこに?」とたずねた。
「あら、乱馬君聞いてなかったの。あかねは友達と約束があるって出かけたわよ」
と怪訝そうな面持ちで乱馬に行った。
「そういえば…きのうそんなこと言っていたような。そうか…出かけちゃったのか」
まだ眠気が抜けきってないらしく、彼はあくびまじりにつぶやいた。
「寝ておきたのね。お茶飲む?渋めのお茶でいいかしら」とかすみ。
「あ、はい」と彼は短く答えた。
すぐに、濃い目の緑茶が半分はいった湯飲みが出てきた。
「あかねはいつごろ(帰ってくるのですか)?」と再びかすみにたずねる。
「そうねえ。お昼を食べてくるから…1時か2時じゃないかって言っていたわ」と時計を見ながら。
時計は10時30分をすこし過ぎている。乱馬はかすみの返答にうなずいた。
飲み干すと、なんとなく眠気がさめたような気がした。彼は縁側へ腰を下ろした。
あいもかわらず雨が降り続いている。彼はじっと外をみつめていた。
後ろではかすみとなびきがおしゃべりに興じている。二人とも乱馬のことは眼中にない。
 ふと、なびきが縁側にいる乱馬に視線を向けた。
「ねえ、お姉ちゃん。さっきから乱馬君、外ばかり見てるわよ」と小声でかすみに言った。
「本当ね。やっぱりあかねがいないのは寂しいのかしらね」と笑いながら小声で返した。
いつもなら、乱馬はムキになって言い返してくるのだが、今回は聞こえなかったのかどうか反応はなかった。
 乱馬は立ちあがって部屋のほうへ戻った。すると、タンスの引出しを開けて服を取り出して着替えた。いつものチャイナ服から、セーターとスラックスにである。
着替えたのは別に意識してのことではなかった。ただなんとなく、が正解だろう。
それも別段悪いことではない。
着替えた乱馬は居間に戻った。
そのとき、二人は乱馬が服を着替えたことに気づいた。
「あらっ、乱馬君。どうしたのその服?」とかすみが目を丸くして尋ねた。
「へえー、なかなかセンスが良いじゃない。誰にコーディネートしてもらったの?」となびきは感心したようす。
「別に…前におふくろに買ってもらっただけだよ。ちょっと出かけてくるよ」と乱馬は玄関へ行って靴をはいた。
「どこに出かけるの?」とかすみ。
「ちょっとその辺をぶらついてきます。遅くなることはないと思いますけど」と彼はそう言うと傘をさして雨の中へと歩いて行った。
 外へ出ると、雨がやんでいた。「あれっ、さっきまで降っていたのに。これじゃあ傘はいらねえかな」とすっとんきょうな声をあげた。
しかし、今朝の天気予報によれば「雨で夕方からは曇り」である。今はやんでいても再び降り出す可能性もありうる。午前中の降水確率は70%なのだから。そう考えた乱馬は傘をささず、右手に持って歩き出した。
ウィークデーの午前中は静かだった。雨降りということも手伝ってなのか(今は雨がやんでいるけれど)人は全くといっていいほどいなかった。
「不気味なくらいに静かだよな。休みになれば、すごく賑わっているのに…。まあ週末じゃないんだからしょうがねえか」とつぶやいた。
空を見上げれば、どんよりと灰色の雲におおわれた空があった。それは今にも泣き出しそうだった。昨日は見事に晴れあがっていたというのに。まったく、空というのは気まぐれなものでさっきまで笑っていたと思ったら、急に泣き出すことがある。逆もある。
神様は子供の心のようなとても繊細な心をお持ちになっているのだろう。
 さて、出かけてくると言って家を出てきたものの、行き先を決めていなかったことに彼は気づいた。「ジョン・レノンミュージアム」にでもと思ったが、どこにあるのかがわからないから行こうにも行くことができなかった。彼は困惑してしまった。
困惑していてもしょうがない、とにかく歩いていれば何かあるかもしれない、と考えた彼は再び歩き出した。
 それからしばらく歩くと、右手にしゃれた喫茶店が見えた。彼はふと喉に渇きを覚えた。
寒さのせいもあるのだろうか温かいものが欲しかった。
「さっきの(お茶)1杯じゃ足りなかったな。コーヒーにしようっと」とつぶやいてドアを開けた。そのときに、ドアについていたベルが「カランカラン」と乾いた音をたてた。
 中へはいると、上質の木をふんだんに使ったような床やカウンターが目に飛び込んできた。木にはニスが塗られていた。なかなかしゃれた内装に乱馬はまるで映画の世界にはいってしまったかのような気持ちを抱いた。
<この雰囲気、悪くねえな。しばらくここで時間をつぶすか。あ、それなら家に連絡しておかなきゃな。えーっと電話貸してもらわなくっちゃ>
そんなことを考えていたら、マスターらしき人が入ってきた乱馬に気づくと「いらっしゃい」と声をかけた。
「あ、電話貸してもらえますか?」と乱馬はたずねた。
「電話?ああ、あっちにあるよ」と少しぶっきらぼうに言ったマスターが指を差した方向に電話はあった。
少し昔、公衆電話の主流だったダイヤル式の薄ピンク色(肌色といったほうがいいのだろうか)の電話。ポケットをまさぐると、千円札が3枚と100円玉が5枚、10円玉が2枚はいっているのがわかった。彼は10円玉を一枚取り出すと投入口にいれて、自分が居候している家の電話番号をダイアルした。まわすときの音が、なんとも懐かしい。
 天道家の居間にいたのはなびきだけだった。かすみはさっきまでいたのだが、風呂の掃除にでもいったのか、いなかった。
「ジリリリリーン!ジリリリリーン!」という静寂を破るけたたましい電話音が廊下と居間に響く。その音を聞いたなびきは「はいはい。いま出るからね−」といいながら音のする方向に向かった。
「はい、天道ですが」
「あ、なびきか。かすみさんはいるか?」
「かすみお姉ちゃん?えーっと、今風呂掃除をしているわ」
「ならいい。んーと、ちょっと遅くなりそうだと伝えといてくれ」
「お昼までに帰ってくる?」
「うーん…過ぎちゃうかもしれねえ。だからどっかで適当に食べるよ。金はいくらかもってるからよ」
「乱馬君、今どこにいるのよ?」
「別にどこだっていいだろ。とにかくそういうことだから、頼むぞ」
とぶっきらぼうに言うと彼は電話を切った。
「どこだっていいだろってことは、言えないところにでもいるのかしら…」となびきは思案した。
「ま、いいか。あたしには関係ないことだしね」と彼女は居間へ行き、メモに乱馬の伝言を書置くと自分の部屋へと戻って行った。
 電話を切った乱馬は、とりあえずカウンターの席にすわった。
「注文は何にするんだい。メニューはそこにおいてあるよ」と指差した。
乱馬はメニューをしばらく眺めた後「ブレンド」とマスターに伝えた。
 マスターがコーヒーをいれはじめたとき、彼は隣りにひとりの客が座っていることに気づいた。その人を見たとき、妙に見覚えのある男だなという感じが、乱馬の心の中に芽生えた。短く切りそろえられた髪はあまり香りの強くない整髪料で整えられ、ボタンをひとつはずした白いシャツの上に青いジャケットを着て、同じ色のスラックス、黒の革靴をはいている。右手小指には金色の指輪。彼は頬杖をついて、眉間に皺をよせ、難しい顔つきで下を見つめていた。何か考え事でもしているのだろうか。
見覚えのある横顔を見た乱馬の頭脳は、スーパーコンピュータ並に回転が早くなって1秒後には、答えが出されていた。
 次の瞬間「おい」とまるで仲の良い友達に話しかけるような感覚で乱馬は横にいた男に
話しかけた。その男がゆっくりと乱馬の方へ顔をむけた。
彼は乱馬と顔をあわせると厳しい表情を柔和な微笑みへと一変させた。
「やあ、また逢ったね」
彼はコバ少年だった。
「やっぱり。そうじゃねえかと思ってたよ」と彼もつられて微笑んだ。
コバ少年は乱馬の服装に気づいた。
「その服、とっても似合っているよ。コーディネートしてくれた人はきっと服を見る目がある人なんだね」
「おふくろが買ってくれたんだ。チャイナ服だけじゃ物足りないだろうからって」
そのやりとりを見ていたマスターは、乱馬にコーヒーを差し出しながらコバ少年に話し掛
けた。「知り合いかね?」と。
「ええ、まあ。ひょんなことから知り合った友達なのですけど」微笑みをくずすことなく彼はマスターに言葉を返した。乱馬は彼の言葉にうなずいた。
本当に彼らはひょんなことから知り合ったのだから。
「なかなかいい体をしているじゃないか。サッカーをやっているのかね?」とマスターも微笑みながら乱馬に問いかける。
「いいえ、格闘技です」と乱馬は簡潔に答えを返した。
マスターは「ふーん、そうか。格闘技か…。うん、言われてみれば相応しい体だね」とうなずいた。
「ここにはよく来るのか?」と乱馬はコバ少年に問い掛けた。
「うん、来たのは久しぶりなんだけどね。結構静かなところだから僕はすごく気に入ってるんだけど」といつもの静かな口調で言う。
彼は本当に俺よりひとつ上の年齢の少年なのか、という思いを乱馬は始めて知りあったときから抱いていた。本当はもっと年齢が上なのではないか、という思いにかられることも
しばしばだった。それくらい彼の態度は大人びていたのだから。
 「あ、まただ」ふと窓際に目をやった乱馬が不意に言った。
先ほどまでやんでいた雨がまた降り出したようだ。
「しばらく足止めになっちゃうな。ゆっくり話していこうよ。時間はあるかい?」
とコバ少年はたずねる。「ああ、時間なら大丈夫だと思う。さっき電話したからな」と乱馬。「なら問題はないね」とコバ少年は微笑んだ。
 「本当、ここは静かなところだよな。気分がすごく落ち着くぜ」と乱馬がぼやくように言った。それを聞いたマスターが口を開いた。
「だろう。わたしはこういう雰囲気の店をやりたくってね、静かで落ち着いた。この店の常連さんにはプライベートな時間を大切にしている人が多いんだ。もちろん、ここにいる彼もそのひとりなのだし、何より自分自身がそうであるからね」
マスターは続けて言った。
「それからこの店では携帯電話は禁止にしているんだ。電源を切ってもらうようにしている。それもこれもプライベートタイムを大切にしたい人達のためなのだよ」
マスターの話を聞いていた乱馬は「それは悪いことじゃないな」と心にそっと思った。
「そうそう、カップルが来ることもあるんだ。どうやらこの店はデートスポットにも相応しいらしいな」とコバ少年が言葉を継いだ。
それを聞いた乱馬は「今度、あかねと一緒にきても良いな」と再び心にそっと思った。
 それからしばらくは店に静寂の時が訪れた。
コーヒーの香り、とくにコバ少年の飲んでいるキリマンジャロの香りが、店の雰囲気をいっそう引き立てている。静かで味わい深い。
 ふと、乱馬は時間が気になったので口を開いた。
「なあ、今何時だ?」
「ん。後ろを向くとね、時計があるはずなんだけど」とコバ少年は答える。
彼の言葉に従って後ろを向くと、昔ヨーロッパ(とりわけフランスかドイツあたり)の中流家庭において普及していただろう大きなのっぽの古時計があった。「大きなのっぽの古時計」という曲にでてくる時計のモデルになっていそうな時計だった。
時刻は12時を少し過ぎていた。振り子が左右にゆれている。
昔から休むことなく時を刻み続け、その間色々な人々を見つめつづけてきたのだろう。
 「そういえば、たしかあの時計の横だったかな。何か書いてあったような気がするんだけど。えーと何だったかな……?」とコバ少年は立ちあがって時計のそばまでいった。
そして、書いてあることがわかると嬉しそうな顔で戻ってきた。
「なんて書いてあったんだ?」と乱馬は興味深々といった表情でコバ少年に問い掛ける。
「Je t'aime<ジュテイム>。フランス語で、愛していますって意味なんだけど。まだ字は消えていなかったね。あの時計には、僕の思い出が刻まれてもいるんだ…」
と彼は遠くを見つめる目をして、何かを回想しているようだった。
忘れられない思い出を記憶の彼方へ消し去ることなんていうのは、けっしてできない。
 そのとき、乱馬のおなかが「グー」と鳴った。
一瞬の静寂のあと、二人は顔を見合わせて爆笑した。
さっきまで静まり返っていた店内に、二人の大きな笑い声が響き渡った。
「腹、減っちゃったんだね」「ああ」
「マスター、自慢のアレを出してください」とコバ少年は声をかけた。
「君、フレンチ・トーストは好きかね?」とマスターは乱馬に問い掛けた。
「ええ、はい」と乱馬は返事をする。前に食べたことがあったからである。
とき卵に牛乳と砂糖をいれたものに、食パンを少し浸して、それをバターで焼いたものが「フレンチ・トースト」だ。「クレイマー クレイマー」という映画にも登場している。
(某番組で似たようなタイトルのコントがあったが、無論それとは違う)
それを聞いたマスターは、それなら異論はないといわんばかりに「はい、かしこまりました」とだけいって早速作業にとりかかった。
 しばらくして、それは出てきた。
口に入れると、甘い香りと味がパッと口の中に広がって、思わず表情も崩れる。
あまりの美味しさに「うまいっ!!」と乱馬はまた店中に響き渡る声をだした。
「だろう?」とコバ少年も微笑みながら。マスターはなんともいえない顔をしていた。
彼の笑みは顔から消えることはなかった。
 二人ともとびきり美味しいフレンチ・トーストをたいらげ、食後のコーヒーを注文した。
先ほどと同じく乱馬はブレンドを、コバ少年はキリマンジャロを。
「そういえば、あかねちゃんは?」コバ少年はたずねた。
「友達と出かけたぜ、朝から」とコーヒーを飲みながら答えた乱馬は、ある考えが頭に思い浮かんだ。
<そういやあ、あいつフレンチ・トーストが大好物だったはず。こんなうまいやつを俺だけ食ったなんて知ったら、すっげえうらやましがるだろうなあ。これをあかねに食わしてやりたいぜ。なんとか家に持って帰りたいなあ。マスターにつくってもらえないかなあ。
ようっし、いっちょ頼んでみっかな…>
そんなことを考えていた彼は、半分恐る恐るマスターに考えた旨を伝えた。
それを聞いたマスターは破顔一笑して「お安いご用だ」と快く引き受けてくれた。
「ありがとうございます」と乱馬は微笑んだ。
乱馬は時間が気になって後ろにある時計を見た。時刻は12時30分を過ぎようとしていた。<確かかすみさんは1時か2時くらいになるって言っていたな。ここから家までは30分くらいだから…>と考えた乱馬は電話を借りることにした。
 天道家に電話をすると、2回か3回の呼び出し音のあとに出てきたのはかすみだった。
「もしもし、天道ですが」
「あ、かすみさん。乱馬です。あかねから連絡は…?」
「あかねなら、ついさっき電話があったわ。お昼を食べて、今駅にいるんですって。そうねえ、あそこからここまでだと…帰りは1時すぎじゃないかしら」
「わかりました。俺ももうすぐ戻ると思います」
「そう。じゃ、気を付けてね」
「はーい」
と電話を先に切ったのは乱馬の方だった。
彼が電話を切るのを確かめて受話器をおいたかすみは、くすりと微笑んだ。
乱馬君はあかねの帰りを待ちわびているのね。
口にはけして出さないけれど、彼のあかねへ対する気持ちが伝わってくる。
かすみにはそれがとても微笑ましいのだった。
 そのころ店ではマスターがフレンチトーストを作り終えて、箱につめた。
「はーい、おまちどうさま。熱いうちに食べてね、焼きたてが一番うまいから。もし冷めてしまったならば、オーブンであたためればいい。電子レンジじゃなくてオーブンのほうがうまいからね」と乱馬に箱を差し出した。
「じゃあ、冷めないうちに早く帰らなきゃね。勘定は僕に払わせてよ。きょうはとっても楽しかったからね。マスター、いくらになります?」といいながらコバ少年が財布を出すべくジャケットの内ポケットに手を動かしたとき、マスターはそれをさえぎった。
「いいや、きょうはわたしに奢らせて欲しい」と。
「そんな…」といいかけたコバ少年を「いいんだ、いいんだ」と再びさえぎった。
「わたしもきょうは楽しかったよ。(乱馬の方を見て)名前はなんというのかね?」
「乱馬です。早乙女乱馬」
「早乙女君というのか。わたしは君がとっても気に入ったよ。だから今回は奢らせて欲しいんだ。今度来るときはガールフレンドをつれてきてもいいし、パーティーのときは友達とかをこの店が一杯になるほどつれてきてもいいよ。そのときにもわたしが奢るからね」
すっかり彼は饒舌になっていた。
「それは…どうも」と乱馬は照れながらマスターの心遣いに感謝した。となりではコバ少年が二人を微笑ましげに見つめていた。(「よかったじゃないか」)
 店をでると、雨がやんでいた。
「西の空がね、明るくなってるよ。じき日が差してくるんじゃないかな」とコバ少年。
「今何時?」乱馬は時間が気になってしょうがなかった。
「12時46分」とコバ少年は左腕のアナログ腕時計にちらりと目を走らせて言った。
「パンが冷めないうちに早く帰らないと。俺はお暇するよ」
「また今度サッカー見に行こうよ。チケットが手に入ったら連絡するからね」
「じゃ、またな」 
「うん、また逢おうね」
と二人はまったく逆の方向へ歩き出した。乱馬はさあはやく帰らなくっちゃ、とばかりに家路を急いだ。
 乱馬が家路についたとき、あかねがちょうど帰ってきた。
「どうだった?」というかすみの問いかけに、彼女は大きくうなずいた。
「すっっごく良かった。もー最高っていう感じ」と満面の笑顔をたたえながら。
「それはよかったわねえ」とかすみもつられて微笑んだ。
「あ、そういえば乱馬がいないけど。お姉ちゃん知らない?」
「なんか出かけるとかいって出て行ったわよ。あかねが電話してくれたあとすぐに電話があって。もうすぐ帰ってくるって言っていたわ」
「そっか、乱馬も出かけたんだ…」と小声でつぶやいて、かすみが出した熱いお茶をすすった。
きのう、彼はどこへも出かける予定はないといっていたから、てっきり家にいるものと思っていた。ま、すぐに帰ってくるからいいよねと彼女は考え、彼が来るまで待つことにした。
 そして、それから5分くらいたってからのことだった。
玄関が「ガラッ」とあけられる音と、乱馬の「ただいまー」の声が聞こえた。
さっとあかねは立ちあがると玄関へ向かった。それはとても機敏な動きだった。
「おかえりー。雨の中どこいってたのよ?」
「ん、まあ。ちょっと出かけたくなってさ…。たまにはいいじゃねえか。友達にあったもんで話しこんじまったよ」
「ふーん、そうなんだ」
そのとき、あかねは乱馬の持っているものに気づいた。
「ねえ、乱馬。それ…なあに?」興味津々といった面持ちで。
「これか?開けてみてのお楽しみ。玉手箱みたいなものさ」
「玉手箱。じゃあ開けたら煙がもくもくと出てきて…あたしはおばあさんってわけ?」
「んなこたねえだろ。本の読み過ぎなんじゃねえのか。ま、とにかく開けてみりゃわかることよ」と乱馬はあがり、あかねを居間にくるように促した。
 居間ではかすみが湯飲みにお茶をそそいでいるところだった。
「おかえりなさい、雨がやんでよかったわねえ。あ、お茶おいておくわね」とかすみは台所に引っ込んだ。よって居間には二人だけとなった。
 「さてと、開けてみようか。あけてびっくり玉手箱を」
あかねは高ぶる気持ちをおさえ、食い入るようにその箱をみつめた。
乱馬は、解答者がファイナルアンサーであるのを確認したみのもんたのように、あかねをちらりと見てから、一気に箱をあけた。
「あーっ、これって。あたしの大スキな…。え、何。乱馬買ってきてくれたのっ?」
とあかねは笑顔がこぼれている。「ねえ、食べてもいい?」とたずねると、乱馬はこくりとうなずいた。
「あ、ちょっとタンマ。たぶん冷めちゃってるだろうから、オーブンレンジであっためてからのほうがいいってさ。焼きたてが一番うまいからな」と付け加えた。
「それもそうね。かすみおねえちゃーん」と台所にいる姉のところに行った。
 しばらくして、あたためたフレンチトーストをのせたお皿を持ってあかねは居間へ戻ってきた。甘くとても良い香りがする。大好物のものだから余計に食欲がそそられる。
「さ、食べてみ?」と乱馬は促す。彼女は口に入れた。次の瞬間、彼女は素直にこの言葉を口に出した。「おいしいっ!!」
それを聞いた乱馬の顔にも笑顔が浮かんだ。「ああ、良かった。喜んでもらえて」という意味での笑顔であろう。
それから彼女はとびきり美味しいフレンチ・トーストを食べた。乱馬は彼女の無邪気で幸せそうな顔をみつめていた。時がゆっくりと過ぎて行った。


作者さまより

 こんにちは。「乱×あ・コバくんシリーズ」の5作目です。
 本当はこの作品は2月中旬に投稿するつもりでいたのですが、いろいろと用事ができて忙しく、なかなか書き進めることができませんでした。3月に突入したあたりから時期の設定を変えようかなとも思いましたが、2月の上旬と前々から決めていたので、その設定で話を構築しました。
 フレンチトーストは僕の大好物でもあります。時々、自分で作ったりします。
 僕は基本的に甘いものは苦手なほうなのですが。これは結構食べますね。
 みなさんも料理の本なんかに載っていると思うので、ぜひ試してみてくださいね。
 とってもおいしいですから。
 コーヒーも大好きです。とくにキリマンジャロが好きですね。コーヒーはブラックで飲みます。たまーにミルクを入れますけど。気分次第で。砂糖は絶対に入れません。
 といっても子供のころは砂糖とミルクをいれた「カフェオレ」をおふくろにつくってもらいましたけど。
 そんなこんなでいかがでしたか?ではまた次回にお会いしましょう。さようなら。


Presented by KOBAYASHI



 状況が一つ一つ、手にとるように浮かんできます。
 セピア色が似合いそうな作品ですね。一人でぶらりと雨のにおいのする街角の喫茶店へ。マスターと古びた調度品と・・・。其処に友人が居るなんて・・・。ゆったりと流れる時間が愛しくなるような情景です。
 何とか苦手な珈琲が再び飲めるようになた私です。(何年か前の夏に珈琲にあたっておなか壊してから暫く飲めなくなりました)旦那も苦手なので、珈琲メーカはない我が家では、殆ど口にすることなく・・・。(珍しく紅茶派の一之瀬家)
 今度、ぶらりとスケッチブックや本を片手にひなびた喫茶店に行きたいなあ・・・。外でしか美味しい珈琲は飲めないもんなあ…。
 フレンチトーストと濃いブラックティーをノンシュガーで・・・。
 そんな悠久な時間を過ごしてみたい・・・できれば、雨の日に。

 乱馬くんが羨ましい・・・。そう思ってしまいました。
(一之瀬けいこ)


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