◆孤独の肖像
Kobayashiさま作
土曜日、東京地方は朝から雨ふりだった。晴天を期待していたであろう人達は、さぞがっかりしていることだろう。
天気などというものは、当たるも八卦当たらぬも八卦、なのだから。
天道家では、ちょうど朝食が済んだところだった。いつもは賑やかな会話が食卓を彩っているのだが、
この日ばかりは気まずい雰囲気が居間に醸成されていた。
理由は、単純にして明快。
乱馬とあかねのケンカだった。罵詈雑言を言いたいだけ言って、互いにプイとそっぽを向き、朝食が終われば互いの自室へと引っ込んでしまうという、
いつものパターンだった。
早雲と玄馬はオロオロし、かすみとのどかはその二人の大人をなだめ、なびきはひとり涼しい顔で食後のお茶をすすっている。
これもいつもと変わってはいない。
二人が互いの部屋に引っ込んでから少したった後、なびきがあかねの部屋の前に立っていた。
ノックを2〜3回したが、反応は返ってこなかった。
「あかね、入るわよ。」
なびきが部屋に入ると、あかねは机に突っ伏していた。
彼女はベットに腰掛け、足と腕を組んで口を開いた。
「まったく。ケンカするのは結構だけど、私達のいないところでやってほしいものだわ。」
あかねは突っ伏したまま答えた。
「何よ、他人事だと思って。」
なびきは表情を変えず、諭すように言った。
「その言い方はないんじゃない。もとはといえば、あんたたちが素直じゃないからでしょ?」
あかねからの反応はなかった。類稀な洞察力の持ち主であるなびきに指摘されると、返す言葉がない。
「本当、二人とも意地っ張りなんだから。素直になりゃあいいのに……。」
なびきがこう言うと、あかねが顔を上げた。泣いていたのかどうか、顔が少し赤くなっている。
彼女は、意外にもこう言った。
「じゃあ聞くけど。お姉ちゃんにはいるの、好きな人。」
なびきは「えっ?」と、人差し指を自分の鼻の少し前に持ってきた。予想だにしなかった展開である。
自分はあかねを諭しただけなのに。それが気に障ってしまったのだろうか?
なびきはいろいろと思考をめぐらせた。
「いるの、いないの。どっち?」
あかねはなびきに再度質問した。それはそれは大真面目な顔で。
「そりゃあ、あたしにだって好きな人の一人や二人……。」
となびきは言った。
「誰なの、その人?」
とあかねは大真面目な顔で聞いてきた。
「別にあたしが誰を好きになろうとあんたには関係ないでしょ。それより、早く乱馬君と仲直りしなさいよ。こっちまで気まずくなるんだからね……。」
少し語気を強めて言い放つと、なびきはあかねの部屋を後にした。
「ふう。」
あかねはため息をついて、乱馬とのケンカから姉とのやりとりまでをじっくりと反芻した。
なんとなく、背中がずしんと重かった。まるで重い荷物を背負っているかのように。
なんとなく、落ち着かなかった。
そして、憂鬱だった。
「ふう〜。」
さっきよりも大きなため息があかねの口から吐き出された。気分の転換はそう簡単にいきそうにもない。
こんなときはどうしたらいいのだろう。
あかねは顔をあげ、椅子から立ちあがると、窓をあけた。雨の日の、独特の空気が部屋に飛び込んできた。
どうやら、今は雨がやんでいるようだ。
それを確認した彼女は窓をしめた。
「ちょっと出かけてきてみようかな。」
あかねはひとりつぶやいて、部屋を出た。少し外をぶらぶらすれば、気分が晴れるかもしれないという淡い期待を抱きながら。
階段をおりていく途中、肌寒さをおぼえたあかねは、行く前に熱いお茶を一杯飲んでいこうと考え、
居間へと足を向けた。
居間には、なびきがいた。
「あれ、なびきお姉ちゃん……。かすみお姉ちゃんは?」
「お風呂掃除でもしているんじゃない?」
テーブルの上におかれた、純白のボディにりんごマークのついた新型のノートパソコンの画面に目を落としたまま、
なびきはそっけなげに返答した。
なびきの言葉を聞いたあかねは台所に立ってお茶を入れ、
それが終わると居間に戻った。
居間は、おおむね静かといってよかった。
あかねはお茶をすすりながら、なびきの方に目をやった。慣れた手つきで、カチャカチャとキーボードをたたき、
スイスイとパッドの上で指を滑らせてマウスをスライドさせていく。
しばらくそれが続いたあと、なびきは電源を切り、ノートパソコンをパタンと閉じると、
パソコンの脇においてあったマグカップを口に近づけて飲み物をのみ、ため息をついた。
あかねはなびきにたずねた。
「お姉ちゃん、何飲んでいるの?」
ぴったりした純白のタートルネックセーターを着たなびきは、顔をあかねの方へと向けた。
胸元には十字架のペンダントをぶら下げている。
「え。あ、これ? これはね、はちみつ入りホットミルクよ。」
「ふ〜ん。でも甘くない?」
「甘いわよ。でもけっこう暖まるから、飲みたいのならあかねも飲んだら?」
といい、なびきは残りを飲み干すと、
「あ〜、おいしかった。もう一杯飲みたくなっちゃった。」
とひとり微笑んだ。
そして、あかねの格好を見て言った。
「あかね、出かけるなら早く行って来たら……。あ、もしかしてやんでいるの?」
「さっき外見たらやんでたの。でも、また降り出すんじゃあないかな。」
「そうね、きっと。きょうは降ったりやんだりでしょう、とか言っていたから……。」
半分つぶやくようになびきは言った。
「そうよね。今のうちに行ってこなくっちゃ。」
とあかねはお茶の残りをいっき飲みした。
立ちあがった際に、彼女はなびきに質問した。
「お姉ちゃんはどうするの。どっか出かける?」
「あたしは特に予定もないけれど……。ま、出かけたくなったら出かけるわ。
雨が降ってなければね。」
と、なびきは言った。
あかねはうなずくと、玄関まで行き、靴をはくと外出した。
外は曇っているせいか寒く、午前中ということもあるのか、あまり気温はあがっていなかった。
雨降りのうえ――といっても、今はやんでいるのだが――気温が低い日となれば、外出はあまりしたくもなくなる。
街へ出てみると、通りを歩く人は少なかった。その原因のひとつに、きょうの天候があげられるのは明白だろう。
週末は多くの人で賑わっているというのに。きょうは外出を渋っている人が多いのかもしれない。
できたばかりらしいコーヒーショップの前を歩いていると、後ろから声がした。
立ち止まって振り向くと、あかねと同じくらいの背丈の少女が立っていた。
「あ、涼子。」
あかねは微笑んだ。
涼子はあかねのクラスメートであり、最も親しい友人のひとりだった。
「どこか行くの?」
と、涼子は話しかけてきた。
「う、うん。ちょっとね……。」
とだけあかねは言った。
そして、涼子がデイバッグを持っていることに気がついた。
「それはそうと。涼子こそ、どこか出かけるみたいだけど?」
「うん。ちょっと体動かそうと思って、プールに行くの。」
「えっ、この寒いのにプール?」
涼子は笑いながら言った。
「温水だから冬でも平気なのよっ。」
あかねはようやく気がついた。
「ああ、そうか。温水プールは冬でも泳げるんだよねえ。」
涼子は、スリムで華奢な体つきだったが、その割には発育がよく、クラスにいる女のコのなかでもスタイルの良い方だった。
性格はおとなしく、まじめで、絵を描いたり、本を読んだりするのが好きなのだが、スポーツをするのも好きで、テニスや水泳が得意だという、とても健康的な女のコだった。
「そうそう、涼子は泳ぎが得意だったんだよねえ。」
あかねは運動神経が抜群だったが、泳ぎだけは不得手だったのだ。
「なんか、きょうは雨降りだってねえ。」
涼子は話題を変えた。
「そうそう。降ったりやんだりなんだって。あ〜あ、なんだか憂鬱よねえ。」
あかねはため息をつきながら言う。
「雨の日はね……。誰だってそうだと思うよ、あたしだってその一人だもの。」
涼子が答える。
「そっか……。」
と、あかねはつぶやくように言った。
「でも、明日は晴れるよね?」
あかねが涼子に聞く。
「たぶんね……。お昼の天気見ればわかると思うけど、晴れて欲しいよねっ。」
「そうだねっ。」
と、あかねは微笑んでうなずいたあと、涼子の顔を見て、おやっと思った。
「涼子、メガネかけているけれど……。どうしたの?」
「え? あ、そうか。あたし普段はコンタクトだから……。」
「でも知らなかったわ、涼子がコンタクトしているだなんて。」
「もともと目はそんな悪いほうではなかったけどねえ。高校生になってからかな、悪くなってきたのは。」
あかねは、涼子がパソコンを使っているということを思い出した。
「パソコンをはじめたのも、高校になってから?」
「そう。パソコンを始めてから悪くなっていったのかもね。」
涼子は続けた。
「あたしね、けっこう寂しがり屋なの。だからネットしたり、メールしたりするのよね……。」
涼子は、あかねの顔をまっすぐに見た。
「あかねは乱馬くんとひとつ屋根の下にいるんでしょ。いつも一緒にいられるじゃない。正直言って、うらやましいなあ。」
そういって、涼子は腕時計をちらりと見ると、
「あ、もうすぐ時間だ。ごめんね、あまりゆっくり話できなくって……。」
と申し訳なさそうに言った。
「ううん、そんなことないよ。楽しかったわ。」
あかねは、首を横に振ったあとに、にっこりと微笑んだ。
それを見た涼子もにっこりと微笑むと、
「じゃあねっ。」
と言って、栗色の長い髪を揺らしながら、小走りに駆け出して行った。
涼子が去ったあと、あかねは自分もどこかへ行こうと考えたが、行く場所を決めずに家を出てきたことに気づいた。
「う〜ん、どうしようかなあ。」
思わず、ひとりごちてしまった。
「う〜ん。」
何度かうなりながら考えたものの、結局答えは出なかった。
彼女は、「ふっ」とため息をついて、空を見上げた。
白いため息は、どんよりとした曇り空に舞い上がっていった。
彼女はもう一度、今朝からの出来事を反芻した。それが終わった後で、ひとつの疑問が彼女の脳裏に浮かび上がった。「乱馬は今、どうしているのだろう?」である。
ふてくされ半分で寝ているのだろうか、道場で汗でも流しているのだろうか、それとも……。
色々と想像をめぐらせていくうちに、彼女はいつのまにか強がりの仮面を剥ぎ取っていた。現れたのは、寂しがり屋で泣き虫の素顔だった。
「やっぱり……。あいつがいないと、私ダメだわ……。」
そう思った後、あかねの口から自然にこの言葉があふれ出た。
「謝ろう。」
そして、顔の前で拳をつくると、腕を後ろのほうへ引いた。そのとき、ひじがウィンドウにあたって、「ゴンッ」という鈍い音をたてた。
後ろでりんごマークのついた銀色のノートパソコンに向かっていた男性が顔を上げた。その男性は眉間にしわをよせ、サングラスをかけていた。
あかねが後ろを振りかえると、その男性の顔があった。あっと思った彼女は、「すみませ〜ん」というように会釈をした。その男性は、眉間のしわをとって微笑んだ。
とはいっても、サングラスはとらなかったのだが。
それを見た彼女は、「どこかで見たような人だなあ」と思った。
しかし、そうは思ったものの、心当たりの人がすぐには思い浮かばなかった。
彼女は心が晴れやかになったのを感じながら、歩き出した。
その足取りは、先ほどのものとはうってかわって、軽かった。
その後姿を見ていたサングラスの男性は、ノートパソコンの電源を切り、パタンと閉じると、「ふう〜。」と息を吐きながら、サングラスをはずした。
なんと、コバ少年だった。
彼は、頬づえをついて、ウィンドウごしに空を見上げた。雨が今にも降ってきそうな曇り空があった。
店の中には、ロックミュージックが流れていた。イエスの「ロンリー・ハート」だった。
彼はアナログの腕時計をちらりと見ると、再びサングラスをかけて、ノートパソコンをインナーケースにしまい、それを銀色のアタッシュケースの中にしまった。
「また雨が降り出さなきゃいいが……。」
そうつぶやくと、彼は立ちあがって店を出た。そして、あかねが行った反対の方角へ早歩きで歩いて行った。
あかねは軽やかな足取りで歩いていた。鼻歌までは飛び出さなかったが。
きょうの空は曇っているが、心の中には青い空が広がっているだろう、きっと。
気持ちは晴れやかになったのだが、自分がこれからどうするのかということは、未だ決まってはいないのだ。
あかねは、歩きながら考えた。これといって行きたいところがあるわけではなかった。友達と一緒にいるのならば、彼らに委ねることも可能なのだが、あかねはひとりでいるのだから、出来ないのはわかりきったことである。
ここで彼女は、傘を持ってこなかったのに気がついた。
「いっけな〜い、傘を持ってくるのを忘れちゃった……。」
彼女はあいもかわらず曇っている空を見上げた。雨がいつ降ってきてもおかしくはない。冬の雨は冷たい。その中にいると風邪をひいてしまうのは確実だ。
「どうしよう……。早くしないと雨が降り出しちゃう……。」
と、彼女はつぶやいた。
同時に寒さも感じて、何か暖かいものが飲みたくなった。
東京における冬の寒さを、熱いお茶1杯だけでしのぐのには無理がある。
すると、右手に妙に見覚えのある喫茶店があった。
「あれっ。なんかここ来たことある店……。」
と、あかねはつぶやいた。
デジャヴュ、ではない。
今までに、何回か乱馬と一緒に来たことのある喫茶店だということを思い出した。
早速、中に入ってみた。そのとき、ドアについていた鈴が「カランコロン」と乾いた音をたてた。
口の上にひげをはやし、長髪を後ろでひとつに結わえた店主らしき人が、あかねの方を見た。
「ああ、いらっしゃい。」
と彼は言った。少し微笑んだようにも見えた。
あかねは、カウンターの席に腰掛けて――といっても、この店にカウンター以外に席はないのだが――メニューを見た。
キリマンジャロ、モカ、ハワイコナ、ブルーマウンテンなど色々なコーヒーの名前が載っている。
それを見ていると、マスターが口を開いた。
「君は……。あかねちゃんだっけか?」
自分の名前を呼ばれたあかねは、顔をあげた。
「はい、そうです。」
マスターは微笑んだ。
「前に早乙女君とよく来てくれていたよね。最近、めっきり顔を出さないものだから、どうしたのかなと……。」
「ええ、まあ。ちょっと忘れていました。」
あかねはきまり悪そうに笑った。
「きょうはひとりかね?」
「ええ、はい。」
「まあ、来てくれてわたしは嬉しいよ。で、何にするのかね?」
マスターは質問した。
「え。あ、じゃあカフェオレをお願いできますか?」
と、あかねが言うと、
「はい、かしこまりました。」
即座に返事が返ってきた。
しばらくして、カフェオレがあかねの前に差し出された。
一口啜ると、熱いカフェオレが体の芯まで染み渡っていった。
マスターが再び話しかけてきた。
「雨はどう、降っているのかい?」
「いえ、降ってはいないですけど、いまにも降りそうな感じですね……。」
と、あかねは答えた。
マスターはポツリと言った。
「そうか……。」
それを最後に、店内を静寂とコーヒーの芳醇な香りが包んだ。
あかねは店内を見まわした。彼女以外、誰も来てはいなかった。
この店はいつも静かなので、おしゃべりをするのが好きな人にとっては、耐えがたい空間なのかもしれない。
何気なく外に目をやると、さっきまでやんでいた雨が降り出していた。
「あ、降り出しちゃった……。」
あかねがつぶやくのを聞いていたのか、マスターもつられて外を見た。
「あ、本当だ……。」
彼もまたつぶやいた。
再び会話は止まり、店内はしんとした雰囲気に包まれた。
あかねは、この雰囲気が気に入っていた。
デートをするなら、若者がおしゃべりに興じるファーストフードの店よりもこういう静かでシャレた喫茶店の方がいいな、と彼女は思っていた。
しばらくして、マスターが言い出した。
「あかねちゃん、リンゴ食べるかい?」
あかねの顔がパッと輝いた。
「ええ。ちょうど食べたいと思っていたところなんですよ。」
「そうか。それなら、ちょっと待っていてね……。」
といってマスターはかがむと、下でがさごそとやりはじめた。
立ちあがったとき、右手には真っ赤なリンゴが握られていた。
「うわあ、美味しそうなリンゴですねえ。」
あかねは微笑んだ。
「わたしの親戚が、たくさん送ってきてくれてね。きのう届いたのだよ。じゃあ、すぐに剥くからね。」
と、マスターは作業に取り掛かった。
すぐに、いくつかに切られたリンゴが、あかねの前に出てきた。それは、驚くほど速かった。
「あ、速いですね。もうできちゃった。」
「リンゴの皮を剥かせたら、わたしは世界一速いんだよ。」
マスターは笑いながら、ちょっと自慢気に言ってのけた。
彼の言った事が本気なのか、ジョークなのかどうかは定かでない。
あかねは、リンゴを口に入れた。シャクシャクと音をたててかめば、甘酸っぱい味が口の中いっぱいに広がってゆく。
「んっ、美味しいですね! このリンゴ。」
あかねはとても満足げにリンゴを食べた。
「だろう?」
マスターもまた、満足気だった。
食べ終わったとき、不意にマスターがつぶやいた。
「あ、そうだ。涼子の所にも何個か持っていってやるかな……。」
彼のつぶやきを聞いたあかねは、先ほど涼子に逢ったことを思い出して、
「私、さっき彼女に逢いましたよ。」
と言った。
「あ、そう。どこか行くって言っていなかった?」
「ええ、プールで泳いでくるとかなんとかって……。」
マスターは店の中にある古びた時計を見て、
「ふ〜む、そうか。じゃあ、今行ってもいないな。え〜っと、それじゃあ……。」
と、何事かぶつぶつとつぶやいていた。
「こんなおいしいリンゴをあげたらきっと喜ぶでしょうね、彼女。」
とあかねは微笑みながら言った。
「そうだろうね。あいつは、小さいときからリンゴが大好きだったからな。」
マスターは、目を細めた。
「マスターのほうはいかがですか?」
と、あかねが彼に言葉を向けた。
「わたしも大好きだよ、リンゴはね。」
彼は笑いながら言った。
また再び、会話が止まった。この店では会話が途切れると、時が止まっているような空間が出現してくるのである。
時が動き出すのは、誰かが口を開かないことにははじまらないのだ。
鍵をあけたのは、マスターであった。
「そういえば、涼子はプールに行くと言っていたそうだね。寒いのにあいつは元気いっぱいだなあ……。」
「そうですねえ。」
あかねはうんうんと相槌をうちながら言い、
そして少し冷めてしまったカフェオレを飲み干した。
マスターは話題を変えた。
「いまさらこんな話をするのもなんだが、冬休みは楽しかったかね?」
「ええ。例年通り楽しかったですよ。」
あかねは、微笑んで答えた。
「そう。気が早くって申し訳ないけど、次の休みは春休みだよね?」
とマスターはたずねた。
「そうですが、まだその前にちょっとだけ休みがあったような……?」
とあかねは少し考え、そして思い出した。
「あ、高校の入試のときに休みになるんだったっけ。といっても、五日か一週間くらいだったと思うですけどねえ。」
彼女の言葉を聞いたマスターは、こくりとだけ頷くと腕組みして目を天井の方へ向けた。
会話はまた止まり、静かな時間がやってきた。そのなかで、あかねは時間が気になったので腕時計をちらりと見た。
昼までは一時間を切っていた。
彼女は、そろそろお暇しようかなと思い、席をたった。
マスターがそれに気づいた。
「帰るのかい?」
「ええ、そろそろ時間なので。」
と、あかねは言った。
するとマスターが、
「ちょっと、待っていてくれ。えっと……。」
と言いながらかがむと、がさごそとやりはじめた。
あかねがきょとんとしていると、彼は紙袋をさしだした。中には、先ほど食べた赤いリンゴが二つ入っていた。
「え、あの、あたし……。」
彼女がまごついていると、マスターは、
「いつも涼子と仲良くしてくれているからね。そのお礼だよ。受け取ってくれたまえ。」
と言った。
「ありがとうございます。」
あかねは微笑んで、紙袋を受け取った。
「で、お勘定のほうはいくらに?」
マスターがその額を伝えると、彼女は財布から小銭を出して支払った。
「ぜひ、また来てね。ありがとう。」
というマスターの声を背に、彼女は店を出た。
雨は、降っていなかった。どうやら、彼女がカフェオレを飲み、
リンゴを食べている間にやんでしまったようである。
しかし、空は曇っていたままである。
あかねは、ここでもう一度なびきの言葉を思い出すと、足をはやめた。
再び雨が降ってくるかもわからないからだ。
彼女が抱えている紙袋には、おいしいリンゴが二個入っている。ひとつは彼女自身が食べ、もうひとつは、おそらく乱馬が食べるのだろう。
もっとも、彼がリンゴを好きであるのならばの話だが。
彼女は足をはやめて歩きながら、「早くこのリンゴを乱馬に食べさせてやりたい。」と思っていた。
足どりの方は、とても軽かった。
家に着き、玄関の前についたあかねは、「ふう〜。」と大きく深呼吸をして、ガラガラと扉をあけて、
「ただいま〜。」
と言った。
出迎えにあらわれたのは、乱馬だった。
「お、あかね。おめえ、どこに行っていた。ん?」
「う、うん。ちょっとその辺をぶらぶらしてきただけよ。」
とだけ、あかねは言った。
「ふ〜ん。そっか……。」
乱馬は両手をポケットに突っ込んだまま言うと、あくびをひとつした。
きっと寝ていたのかもしれない。
彼はあかねの抱えている紙袋に気づいた。
「お、その紙袋は……。中身はいったい何だ?」
あかねは、待ってましたとばかりに即答した。
「よくぞ聞いてくれました。さて、この中身はいかに?」
乱馬は首をかしげて言った。
「何だろう、俺にはわからねえな。」
あかねは、可笑しくなってケラケラと笑い声をあげた。
「何だよ、いきなり笑い出しやがって。答えを教えてくれよ。」
乱馬は苦笑しながら言った。
「はいはい、じゃあ答えをお教えいたしましょう。」
あかねはリンゴをとりだしてみせ、
「は〜い、リンゴでした。」
と笑いながら言った。
「な〜んだ、リンゴかよ。でも、うまそうなリンゴだよな。俺にくれよ。」
といいつつ、彼はあかねの手から半ばむしりとるようにとって、そのままかぶりついた。
「あっ、ちょっと待ってよ。かすみお姉ちゃんに剥いてもらってからにしようって思っていたのにい。」
とあかねは言ったが、すでに後の祭だった。
「リンゴはなあ、こうやって食うのが一番うまいんだよっ!!」
乱馬は「うまいなあ、このリンゴ。」を連発しながら、夢中でかぶりついていた。
あかねはそれを微笑ましい表情で見ていたが、彼女もまたリンゴを紙袋からとりだすと、かぶりついた。
「おいおい、かすみさんに剥いてもらってからじゃあなかったのか?」
乱馬が言うと、
「こうやって食べるのが一番おいしいんでしょっ?」
とあかねが言い返した。
その後、二人は顔を見合わせて笑った。
雨はどこかへ行ってしまったらしく、外は雲が晴れて太陽が顔を出していた。
FIN
作者さまより
今回の小説は、去年の夏ごろからちょこちょこと書いてきたものです。
まあ、書いては消し、消しては書き、といった具合に。
冬に向けた小説を書こうかな、ということで書いてきました。
もともと、秋ぐらいに完成させて、あとからちょこちょこと加筆修正して12月のはじめくらいに、
という目論見でいましたが、見事に崩れました(苦笑)。まあ、いろいろとありまして……(というか、去年は本当に
色々なことがあったよなあ)。
そんなわけで、季節を先取りして書くのって難しいですね、僕としては。
まあ言い訳ばっかりになってしまうのもキリがないので。
話題は変わりますが、みなさんはリンゴって好きですか? 僕は小さいころから大好きでした。
ぶっちゃけた話、僕はリンゴの皮をうまく剥けないんですよね(苦笑)。包丁さばきの上手な人は、尊敬しますね。
まるかじりで食べてしまうこともよくあります。自分で切るのも面倒くさいので。
ちなみに、なびきが飲んでいる「はちみつ入りホットミルク」は、僕の大好きな某マンガを見ているときに、いれてみようと思いました。
今回も、ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。では、また。
PRESENTED BY KOBAYASHI
久しぶりのKOBAさん作品♪
マスターっていいですよね・・・ほっとするその雰囲気が私は大好きなんです。
マスターシリーズって作ってもらおうかな・・・と思うくらい。
リンゴ。私も好きです。我が家の住人ども(特に旦那)はブドウやスイカやミカン(特に夏みかんなど大きい柑橘類)が苦手なんです。
理由は「手が汚れるから・・・。」。でもリンゴは別です。私が剥くからさくさく食べられるとか(^^;・・・何考えてるんでしょうね、奴らは!(苦笑
冬に食べる、ちょっと冷えたしゃりっとしたリンゴ、最高です。体力が落ちたときもリンゴは胃腸に優しいのでおすすめです。
(一之瀬けいこ)
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