◆Wedding Bed
かさねさま作





 震えが、止まらない。
 心臓も。

 この、指先も。





Wedding Bed





 彼も彼女も、固まってしまった。
 二人に用意された寝室。とりあえず改築工事が済むまでという期限付きで使うこととなった一階の客間。以前のこの部屋の主である八宝斎は、乱馬が変身体質の呪いを解く修行に出た頃から姿を現さなくなった。
 その客間に敷かれた二組の布団。
 ご丁寧にぴったりと寄り添われていて、我が家にそんなものがあったのかと思うような行燈が枕元に佇む。その、部屋を灯す蛍火のような淡い光は、まさに絶妙な雰囲気を演出していた。

「…………。」
「…………。」

 スルスルスルスル、ピシャン…。

 間抜けな様子で開け放れていた襖の右を青年が、左を彼女が、後ろ手に閉めた。
 が、その場に立ち尽くしたまま、部屋の中央を当然の如く占領するそれに圧倒されて足が動かない……というより、目がそこから離せない。
 生まれてからこの日まで、疲れた時も悩んだ時も悲しかった時も、もちろん睡魔の手に誘われた時も、拒むことなく、まるで両手を広げて「さぁここに飛び込んで来い」と自分を受け入れてくれた睡の住処。
 だが、今だけは、そのいつ何時も変わらぬ愛を見せる歓迎にごくんと息を呑む。

「あ、あのよぉ…。」

 青年がやっとの思いで口を開いた。

「う、うん…。」

 同じ振動数で震える声を彼女が返す。

「…………。」
「…………。」

 だが、ようようの思いで紡ぎ出した言葉の続きは、この部屋から連想されるありとあらゆる妄想に呑まれて、儚くも後を断たれてしまうのだ。そして、その妄想に右往左往している間に、なんとも言いようのない気まずさで押し黙ってしまう。

「あっあのっ…。」「ねっねぇっ…。」

「「あ……」」

 意を決した再度の挑戦は、二人の相性がよほどぴったりと合うことを証すかように小暗がりでぶつかって、そして沈んだ。
「な、なんだよ。」
「そ、そっちこそなに?」
 二人はいつからこんなに遠慮深くなったのか。お互い譲り合ったまま……いや、探り合ったまま、沈黙が再び落ちる。

「風呂っ……。」「お風呂っ……。」

 どこか必死な響きのする声が重なった。
 この場からの緊急回避として辿り着いたところ。根こそぎ思考を奪われた頭で唯一思い付いた場所がそこだった。
「お前入ってこいよ。」
「え、いいわよ。あんたこそ先に入ってきなさいよ。」
 お互いが同じ意見であったことで解れかける緊張。いつものペースを取り戻せそうなチャンスはわずかでも逃さない。いや、藁をも掴む思いで逃せない。
「俺は後にするよ。ちょっと酒が入りすぎたからな。少し休んでからのほうがいいみてーだ。」
「そっそう?じゃ、じゃぁ先に入ってきちゃうわね。」
「おぅ、ゆっくり入ってこいよ。今日は疲れただろうから。」
 彼は、あの自分たちを一変させた夜具の領域へとズカズカと踏み込んでゴロリと横になってしまった。
「う、うん、ありがとう。」
 酔っ払いがそうするように、肢体を大の字に広げて目を瞑る彼。さっきまでびんびんに感じていた緊張の片鱗も見せない自然な振る舞いに、彼女も通常モードに戻そうと努める。それでも、どこかいそいそと支度を整えて、何かにしがみ付きたいような思いで着替えと寝巻きをしっかりと抱き締めていた。
「じゃ、じゃぁお先に……。」
「おう。」
 パタン、と閉めた襖の音に彼女はほぅっと一息を吐き出した。とにかく落ち着いて考えられる場所へ……。極度の緊張と、自分の気持を置いてずんずんと先走る妄想から逃れられた、安堵の一息。
「…………。」
 だが、それとは裏腹に、自分と同じような思いでいたのではなかったのか……、と彼への疑念が浮かび上がる。肩透かしを喰らったような、「なぁんだ。」とどこか期待はずれだったような複雑な気持ち。
 寝室を後にする際に振り返って見た彼の、完全に床に沈んでしまいそうな様子に、別の意味での溜息が出てきてしまいそうだった。



 ピチャン、ピチャン……。
 さきほどから意味もなく指先で湯を弾いては、自分に言い聞かせるような独り言と溜息を繰り返していた。
「……なにも意識することじゃないじゃない……。」
 空しい戯れを止め、湯船から少し顔を出す肩に湯をかける。
「向こうだって最初はそうなのかなって思ったけど、なんか、全然普通だったし……。それに、疲れてる上に皆に相当飲まされたんだし。それどころじゃないんだわ、きっと……。」
 並べる御託は更なる空しさを誘う。まるで自分だけがそれを待っていたかのように……。
「べっ別に、あたしは待ってなんかっ!」
 誰かに突っ込まれたわけでもあるまい。なのに、飽和する湯気に向かって一人いきり立つ。
「……でも……」
 ふと、冷静に考えてみた。

「そういうことしてもおかしくない関係に……なったんだよね、あたしたち……。」

 そう、彼も彼女も本日めでたく夫婦として結ばれたのだ。
 数年前と同じように道場で挙げられた人前式。その後はそのまま宴会へと雪崩れ込み、友人知人たちが帰った後も内輪で飲めや歌えやで騒がしかったのだ。つい一時間ほど前までは。それなのに………

『あれ、どこ行くの?お父さんたち。』

 二人の姉と義兄ならば分かるのだが、ここに住んでいるはずの家族たちまでもぞろぞろと玄関へと向かうので呼び止めた。
『いやぁ、お父さんは今夜はかすみの所に泊まらせてもらうから。』
『え?どこか具合でも悪いの?』
 一番上の姉は東風先生のところへ嫁いでいた。
『ん?ま、まぁそんなところだ。あはははは。』
『って、大丈夫なの?』
『大丈夫よ、心配しないで。お父さんは今晩うちに泊まってもらうから。』
 なんだか噛み合わない会話のような気もしたが、あの姉が言うのだから心配はないのだろうと深く考えず流してしまった。

『で?オヤジたちはどこ行くんだよ。』

『いやぁ、これからちょっと母さんと二人で話すことがあってな。』
『ここじゃ話せねーのかよ。』
『え…っ、あ、いや、その、だな……』
『あなたたちの結婚のことをご先祖様にご報告しに行こうかと思って。ね、あなた。』
『そっそうなんだ、そうなんだ。』
『『こんな時間から?』』
 すでに時計の針は八時を指していた。早乙女家の墓はここからさほど遠くはない所にはあるが、今から行けば到着は確実に深夜になる。列車の切符は?宿は?駅から宿までの交通手段は?……と、熟年夫婦の夜行出発小旅行に声を揃える新米夫婦。

『最初っからそのつもりだったのよ、おばさまたちは。それに、いいじゃないの、たまには夫婦水入らずってね。』

 次女のなびきがスパッと新婚夫婦の疑問を断ち切って、すでに玄関の戸に手を掛けていた。彼女は学生でありながら既に独立をし、一人暮らしをしていた。
『本当に、相変わらず鈍感よねぇ、二人とも。』
『あ、そうか。ごめんなさい。おじさま、おばさま。』
『あら、もう「おとうさん」と「おかあさん」でしょ?』
『……あ、そうでした///』
 そんな和やかな雰囲気に流されて、おやすみなさぁい、などと呑気に手を振って見送ったが――

「お姉ちゃんの『鈍感』っていう意味は……」

 これから夫婦水入らずの小旅行をするという早乙女夫婦の気持ちを察することができなかった鈍さ……ということではなく、

「………こういうことだったわけね。」

 義父と義母の「ご先祖様へのご報告」も、もしかしたら東風先生の所へ泊まるために用意された表向きの理由なのかもしれない。あそこなら寝る場所に……使い道の是非はあるにせよ、事欠かさないのだから。本当にお墓参りに行くとしても、明朝出発の予定で……。
 お酒が入っていたせいなのか、それとも祝言を挙げたという興奮で頭が働いていなかったのか。わざとらしいといえばわざとらしい言動だったのに、普段に比べたら格段に「さり気ない」様子に見えた家族をすっかり信じ込み、疑いもしなかった。きっと姉のなびきあたりが色々と指示を下したのだろう。
「いつもだったら早乙女のお義父さんとうちのお父さんで肩なんか組んじゃって、『今夜は大いに頑張ってもらわないとねぇ。わはははははっ。』なぁんて言って……って、ヤダ、あたしっ!なに言ってんだろっ///」
 たかが父親たちの真似をしただけなのだが、「ガンバッテ」という言葉の意味にふと立ち返り赤面する。

 バシャッ、バシャッ、ハシャッ!

「なっなにも今夜絶対ってわけじゃないんだしっ!」
 両頬を叩く手が湯を掻き上げ、激しい飛沫の音が木霊する中力いっぱい言い切る。が……

「……でも、世の中の新婚さんたちだってやっぱりそうしてるわけだし……。」

 戻った静けさにエコーする言葉は、否定的というよりも肯定的な思いであることを露呈しているわけで。ついでに言わせてもらえれば、恐らく、世の中の大半の新婚さんたちは結婚前に既にそういことは済ましているわけで……。
 流れとしては必然的に――


 今夜、彼ト………


「……っ///」

 思わず両手で膝を抱え込んでしまった。
 見慣れたはずの体が、自分のものではないような気がして恥ずかしさに囚われる。
(……もう、どうすればいいわけ?!)
 彼女にしてみれば前人未到の世界。

 これまで意識したことなど……なかった。
 お互いが素直な気持ちになれなかった高校生の頃は無論……もちろん、キスや裸を見られるなど色々とあったりはしたが、そういう「コト」を考えたことなどなかった。彼が呪泉郷の呪いを解くべく、一人修行の旅に出た時だってそういう意味で「寂しい」と思ったことはなかったわけだし、お互いの気持ちが通じ合ってからも、ただ一緒にいられれば……、キスをしたり抱き締められれば嬉しかったが、そういったことなど考えもしなかった。

「…………。」

 パシャン…。

 おでこを膝に沈めると、鼻先にほどよい温度の湯が当たった。
「……だけど、本当はどっかで……」
 篭る声にすっと目を閉じた。

(――待ってたのかな……。)

 キスをして、その先を求めなかった?一寸の隙も許されないほど抱き締められて、その先を想像しなかった?
 意識的にそういう気持ちがあったわけではないにしても、無意識のうちに求めていたのかもしれない。

 けれども、いざそういう時になってしまうと―――

「…………。」

 ザバッ。

「ええいっ、なるようになれだわっ。別に、すごいことするわけじゃないんだし、キスの一つや二つだって済ましてるわけだしっ。」
 と、どこか的外れな覚悟で浴槽から上がると、彼女はいつもより少しだけ念入りに体を洗うのだった。



「はぁ……。」
 時を同じくして、悶々とする人物がここにも一人。
「ちっくしょう……。」
 二組の布団の広さでも占領できてしまうほど、大きく投げ出された体。それを彼女が出て行ったほうへと折り曲げた。
「……ったくよぉ。」
 さきほどから全く意味の掴めない独り言が空しく響く。
「………。」
 襖をじっと見つめ、目を閉じた。
「あーあ……。」
 そして横向きなった体をまた開いて放り出す。と思ったら、ガバッと起き上がり、がしがしっと頭を掻いた。
「……知らねーからな、どうなったって……。」

 バフンッ。

 再び勢いよく布団へと沈む。そして、そのまま両手で顔を覆った。
「別に……」
 どうなってもいいのだ、今夜からは。
 晴れて夫婦として結ばれたのだから、そういうことになるのはむしろ当たり前なわけで。どちらかと言えば……、いや百パーセント、百回聞かれたら百回とも「そうだ。」と答えるほどそういうことを待ち望んでいたわけで……。
 けれども。

「…………。」

 酔いなんて、一気に吹っ飛んでしまった。この部屋を目にした瞬間に。
 酒ではないものに、全身が熱くなり、眩暈すら感じた。

 出会ってから、自分の気持をずっとずっと押さえ込んできた。彼女にも、そして、なによりも自分自身にも。
 ほんの数ヶ月前、長い修行の旅から戻り、再び彼女の前に立つ時まで……、彼女の前で想いの丈をぶちまけるまで、深く押し込んでいた想い。
 不器用だった少年時代の不自然極まりない癖の賜物なのか、それとも、数年に渡った修行で生まれた物理的な距離のおかげなのか。そういうことに悩まされることは、ゼロではなかったにしろ、あまりなかった。

 だが。

 ひとたび想いが通じ合い、いざ夫婦になると決まったその時から、当たり前のような「同居」の環境が蛇の生殺し以上の苦悶へと変わった。
 もう自分の気持ちを隠し通す必要もない。
 手を伸ばせばすぐに届く距離。
 幸か不幸か、すぐそばにいる彼女は、可愛らしい少女から色艶やかな女性へと成長していた。その移り変わりを見逃してしまった自分が口惜しいくらいに。
 しかも親の同意はすでに高校生の頃から承諾済み……いや、むしろ奨励していたくらいだ。

 彼女の部屋に入ることだって遠慮していたのだ。
 もう、あの頃のような無邪気さで振舞えなかった。
 抱き締めることも、口付けを交わすことも、互いの部屋では避けていた。少なくとも自分はそうするように努力していた。
 腕の中へ抱き込んだ彼女の体は、今までこの体に打ち込まれたどんな技よりも凶悪的だった。唇を重ねている間に洩れる吐息に、理性を保とうと何度胸の拳を握り締めたことだろう。

 なのに。

 自分はこれほどまでに、苦痛を伴うほどの思いをしているというのに。
 彼女はそんな思いに気付くこともなかった。もともと鈍感ではあったが、高校生の頃と変わらない無邪気さと無防備さで自分に接してくる。
 しかも彼女の気持ちはもう素直に自分に向いているのだ。

 その先の責任を持てる自信が、なかった。

 婚前の既成事実など当たり前の世の中なのだから、頑なになることもなかったのだろう。
 だが、青年の中で、先へ踏み込もうにもその一歩が出せない何かがあった。
 それは、あまりにも無垢なままで己を見つめる瞳が変わってしまうかもしれないという不安だったのかもしれない。
 もしくは、数年前よりは大人になったとはいえ、それでもまだ二十歳そこそこなのだ。彼女を思いやる余裕が持てないかもしれないという自信のなさだったのかもしれない。

 あるいは……

「…………。」

 目の前に、自分でもずいぶんと荒々しいように思える手が映る。
 彼はそんな自分の手が好きだった。これまで闘い抜いてきた試練と、時には生死の狭間を彷徨うことさえあった修行の証が、この手そのものに滲み出ているような気がしたからだ。
 しかし、そんな逞しいはずの手が………

「……なっさけねぇな、ったく……。」

 震えているのだ、小刻みに。


 今夜、彼女ヲ………


 そう意識した途端に。



「お待たせ。次、いいよ。」



「えっ、あっ、ああ……。」

 さっと開いた襖に彼女が立っていた。
「ごめんね。ちょっと長くなっちゃった。」
「いや、俺も酒が抜けたみてーだから……。」
 そう言うと、その酔い覚めを示すようにさらりと起き上がった。
「ちょうどいい湯だったよ。」
「そっか。」
 彼はそれだけ答えると、頭をぽりぽりと掻きながら大きな欠伸を一つ放って寝室を出て行った。のたのたといかにも面倒臭そうな、疲れた様子を見せて。

 パタン……。

「「はぁ……。」」

 胸に詰まった思いを苦しげに吐き出した溜息が二つ、襖を介した寝室の内と外で漏れた。



 一体どこでどんな格好で待っていればよいのやら。いっそのこと、昔のように三つ指ついて「不束者ですが、末永く……」と挨拶をしてこの夜を迎えられたらどんなにスムーズに事が運ぶことか。そんなことを考え、部屋中をうろうろとしていると彼が風呂から上がってきた。
「なにやってんだ、おめー。」
「……え……?」
 彼が部屋へ戻ってきたちょうどその時、彼女は押入れの前で正座をしていた。
「えっ、あ、かっ掛け布団あるかなぁ…って……。」
「寒いのか?」
「え?あっ、うっううんっ!全然っ、うん、全然寒くないっ。」
「?」
 寒いどころか、むしろ暑いくらいだ。
 電気を点けず、行燈だけのままにしておいて良かった、と彼女は思った。今部屋の電気を点けられたら、風呂上りだからという理由では済まされないほど上気した顔が分かってしまう。彼はあれほど冷静なのに、それはなんだか悔しいのだ。
 ちらりと盗み見た彼は、濡れた髪をタオルで乾かしていた。

(…………。)

 どきんっ…という音を合図に駆け上がってくる、得体の知れない感情。

 思い起こしてみれば、解けた彼の髪を見たのはあの「竜の髭騒動」の時ぐらいだろうか。
 自分よりも長い髪にタオルを被せ、乱暴に乾かすその仕草に、彼女は彼本来の姿を改めて思い知らされる。彼は、これからの無差別格闘を一緒に背負っていく人でも、最愛の人でも、夫でもない。それ以前に、「男」なのだ…と。
 春とはいえ、すでに初夏の陽気を匂わせるこの季節。彼の寝巻きとなるものはランニングと短パン。髪を乾かす、見慣れたはずの露出した逞しい腕が更なる動揺を呼ぶ。

(なっなにを意識してるのよ〜〜〜〜!あたしはっ!)

 あたふたとする彼女とは対照的に、無関心と平静を見せる青年ではあったが、その実、内心は彼女に負けず劣らず激しい動揺と闘っていた。
 自分が風呂場へ行く時と、そしてこの部屋へ帰ってきた時と。擦れ違いざまに香った風呂上りの匂いと、艶やかさを増したようなふっくらとした肌が真っ先に彼の視覚と嗅覚に飛び込んできた。
 ぎこちなくなる全身を誤魔化すために打った必死の演技。いつもなら髪を編んで出てくるところを、なにか覆えるものがほしくて被ってきたタオル。それは表情を隠すのにまさに打ってつけだった。

 そのタオルと髪の間から覗いた彼女。

 仄暗い中に浮かぶその姿はやはりあらぬ想像を引き起こさせる。ぎしぎしと唸りだす関節を無理やり動かして乾かす手に力を込めた。
「寝ないのか?」
 なんとか気持ちを落ち着かせ、自分を引き締める思いでおさげを結った。
「え…、あっ、う、うん、寝るわよ。」
 彼女がゆるゆると布団の中へ入っていくのを横目に見ながら彼も掛け布団を捲る。ひんやりとした布団の肌に、妙な緊張を感じた。

「…………。」
「…………。」

 今日の結婚式はどうだったとか、宴会ではこうだったとか、そんな話に花を咲かせてもよいものを。それなのに、この二人ときたら、彼は頭の後ろに両手を組み、彼女は両手で掛け布団を握り締め、ぼんやりとした光に照らし出された天井を無言で睨みつけたままピクリともしない。
 夫婦を演じたあの時も、言葉を交わすことはなかった。心臓の音がうるさいくらいに体内から響いてきて、それでも、背中の向こうに感じる息づかいに耳をそばだてて。二人共有した「一夜」という時間を、口とは裏腹の期待と胸が張り裂けそうな緊張いっぱいに過ごした。
 けれども今宵は、偽りではなく正真正銘の夫婦。

(……バッカみたい……。)

 一向に動く気配のない彼。
 拍子抜けの空しい後味が次第に悲しさへと変わり、じっとりと彼女の胸に迫ってくる。偽り夫婦の時のほうがずっと良かった、とさえ思えてきてしまう。あの時はとことん意識しながらも結局眠りに就けてしまうことができた。それなのに、今の自分は勝手に独りでパニックになって、盛り上がって、あれこれと考えて……。空回りをしていた自分がひどく惨めに思えてくる。
 別に、それがどうこうというわけではない。でも、初夜くらい、もう少し「らしく」振舞ってくれてもいいのに……と思うのだ。
 ともすれば涙すら浮かんできてしまうかもしれない顔を隠そうと、そして彼への反発と反抗を表す意味でも、彼女はくるりと背中と向けてしまった。
「……どうした?」
 単に向きを変えただけの様子ではないその背の向け方に、彼は彼女の方へ首を傾けた。
「……別に。」
「……って、んな感じじゃねーだろ。」
「……なんでもないわよ。」
 そんなわけではないのは明らかで。これはなにかある、とさすがの彼も気付く。
「おい、ほんと、どーしたんだよ。」
「なんでもないったらっ。」
「おいっ、なに拗ねてんだよ。」

「拗ねてなんか……っ……」

「――えっ……」

 振り向かせた彼女は、きっとあの負けん気の強い瞳で自分を睨みつけてくるのだろう。そんな彼の予想は当たりであって、外れでもあった。
「えっ?あ、れ……?」
 潤んで赤くなっている大きな瞳と、一筋何かが流れた跡のある頬と。それが涙だと気付くのにさほど時間は掛からなかった。
「ど…どうし…た……」
 今日は、二人夫婦となった記念すべき日。彼女を泣かせてしまう理由が見当たらない。自分が考える限りでは……。
「……意気地なし……。」
「はっ?」
 彼女とて本気でそんなことを思って言ったわけではない。けれども、ついいつもの癖で飛び出してしまった口喧嘩挑発剤。でもそれは、めい一杯に膨らんでしまった複雑怪奇な気持ちを溜め込んでいた胸の錠を壊すきっかけでもあった。
「もう、なによ、あたしばっかり気にしちゃって、バカみたいじゃないっ。別になにがなんでもってわけじゃないけど、だけど、だけど――」
「……!」
 主語のない、傍から聞いていれば支離滅裂な文句でも彼にはそれが何なのか分かりすぎるほど。そんなふうにして悟られてしまう自分が恥ずかしいやら悔しいやらで彼女の意地に拍車が掛かる。
「もうっ!離してよっ。」
「……やだ。」
「離してったらっ!もう、バカバカバカバカ!」
「うわっ、こらっ。」 
 抵抗する彼女は、彼を罵るはずの言葉が見つからず、結局最後に行き着く常套句を連発して暴れ出した。
「っんの、じゃじゃ馬娘が。」
「じゃじゃ馬娘で悪かったわねっ!じゃ、なんであたしなんか……っ……」

 「と結婚したのよっ!」と言いかけて塞がれてしまった唇。
 その勢いで彼との距離が一気に縮まった。

 覆い被さるように圧し掛かる彼の重みが、あまりにもリアルで。
 湯上りのせいだけではない熱が、薄い布越しに伝わって。
 この先に待つものを、予感させる。

 彼に抵抗することも、そして、応えることもできず、虚空に浮く彼女の手は逡巡する気持ちの表れ。それなのに――

 彼と重なり合った部分から溺れていく狂喜。
 彼の体温に堕ちていく理性。
 自分であって自分でない感情に、羞恥と躊躇いが襲い掛かる。

 キュッ…

 彼のランニングを、ようやく彼女は握り締めた。

 ゆっくりと、最後の、去るその瞬間までも名残惜しそうに、唇が離れていく。
 余韻に浸る吐息を追うように、何かに縋る思いで彼の瞳を覗けば……

「…………。」

 青年の中で何かが変わっていた。もう、数秒前の彼とは違う。

「……なんとも思ってねーわけねぇだろ。ったく、人の気も知らねーで……。」

「……え?」

 青年はそっと彼女の頬に手を当てると、その清純な肌にその手を滑らせて、さらりと前髪を掻き分けた。
 降りてくる彼の気配に誘われて、彼女の目蓋が静かに閉じられていく。

 彼の指が触れた額に、そして、涙の残る濡れた睫に、零れた涙の跡に。
 まるで波紋を描くように広がってゆく彼の想い。

 いとおしい思いを込めて。
 狂おしい思いを押し殺して。

 震えているのは、彼の唇なのか。

 それとも……

 彼女なのか。

 彼の秘める激情は触れる唇越しに伝わるのに。
 そのキスの、なんと繊細で、やるせない優しさに包まれていることか。
 今まで見つめてきた青年の、知ることのなかった想いに驚き、戸惑い、そして狂わされてゆく。
 甘く酔いしれるというよりも、切なさで胸が締め付けられるような思いに心が奪われる。

 ぼんやりと漂っていても、どこかまだ繋ぎとめていた意識がもうすぐ手放されようとされていて……

 つと、彼の指がボタンにかかった。

(……!)

 はっと息を呑んだ心に順応して、強張るように揺れた体。
 青年の指が止まった。



「……怖いか?」



 と優しく問えば、
 彼女は、否と答える。

 固く瞑った目蓋で、ぎゅっと結んだ唇で、首を振った彼女。
 その一途な決意に、いつも彼女へ抱いていた……きっと彼女に出逢ってからずっと抱き続けていたであろう思いが青年の中で強く沸き起こる。



 ダイジョウブ。

 オレガ、イルカラ。

 オレガ、守ルカラ。



 ………テル。



 今ならば、きっと言える。そう、直感した。

 そんな簡単な言葉では片付けられない想いを抱き続けてきたけれど。
 そんな陳腐な言葉では語りたくはない想いを抱き続けてきたけれど。

 今がきちんと言葉にするべき時だと思うから。

 ずっとずっと大切にしたいと思う気持ちも。
 どんな時も、なにがあっても、守りたいと願う気持ちも。
 誰にも、何者にも、彼女を渡したくない。そんな子供じみた思いも。
 両腕で、両足で、抱き寄せても足りないほど、ずっとずっと抱きしめていたいと思う、尽きることのない餓えたような思いも。
 抱き締めるだけじゃ満たされない。そんな、彼女が知ったら軽蔑するかもしれない気持ちも。

 自分が、今、ここに、こうして、彼女と共にあるために存在しているのだ……と確信できるこの思いも。


 彼女を、こんなにも――










「       」










「……!」










 たとえ沸き起こった感情でも、やはりまだどこかに恥ずかしさが残っていたのだろう。
 耳元に……どちらかと言えば、気付かれぬよう、洗い立ての髪に隠すように落とされた五文字の言葉。
 それでも、彼女の耳にははっきりと届いていた。
 ただの一文字も、聞き落とされることなく。



「……うん、あたしも……。」



 彼女のしなやかな腕が、彼を抱き寄せた。















 震えが、止まらない。

 この心臓も。



 ……その肌に触れる、この指先も。






































 一気に読まれた殆どの方も、震えが止らないんじゃないでしょうか?
 純愛を貫き、じれったい関係がずっと続いてきたカップルであればこそ、このような「瞬間」を迎えられるような気がします。
 どう反応して良いのかわからない不器用なカップルが、素敵に変化を遂げる瞬間。
 「純愛」だなあ…。やっぱり、この二人は。


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