◇染井吉野   七
かさねさま作


(七)



 ざわざわと馴染みのない音と声と空気が行き交うその家は、もうあかねにとって「初めて上がる他所の家」だった。
 沈痛に満ちているはずの玄関も、悲しみに暗い影を落としているはずの廊下も、どこか現実味のない空間にしか思えなくて、あかねは定まらない頭で居間へと向かっていた。
 春はもうすぐそこまで来ているというのに、どことなく薄ら寒い気が足元から上がってくる。
 スリッパの音だけを意識の媒介にゆっくりと歩を進めていた足は、その部屋の前まで来るとぴたりと止まった。

「………。」

 開け放れたガラス障子の向こう。
 いつもそこにいるはずの人がいない部屋。
 見知らぬ顔を見せていたこの家の中で、唯一彼女の目に留まったもの。

、息を潜めるように身を沈めるテーブルと空の座椅子が、誰かを待っているかのように見えた。

 老女が亡くなった知らせよりも、家中に見える淡々とした喪の準備の気配よりも、残されたそのテーブルと座椅子が容赦ない感傷を連れてくる。
 もう彼女はいない。
 その事実があかねの中で現実になっていく。

 実際、老女の死を知らされた時、突然の訃報に驚きはしたが、一粒の涙も出てこなかった。
 彼女が死んだらきっと自分は泣くのだろう。そう思っていた。
 大好きだったおばあさん。本当の祖母のように思っていた。
 だが所詮は血の繋がりもない、近所のおばあさん。
 悲しみよりも驚きに占領された自分の心を、そんなものなのかもしれない……と、そのあっけなさに一人納得したほどだった。

 知らせを受けたのは、町内会の回覧でも人伝でもなく、彼女の息子からだった。彼が直接天道家を訪れ、老女の死を伝えた。
 どちらかと言えば親しい付き合いはしていたが、何故わざわざ家に出向いてまで、と首をかしげた家人たちは、話があかねに及ぶと納得をした。
『あかねさん……というのは……。』
『え?あ、はい、私ですけど……。』
『どうも、何かと母がお世話になりまして。』
『いえ、そんな、私のほうこそ色々相談に乗ってもらったりして……』
『あの…、もし明日お時間があれば、うちにお立ち寄りいただけないでしょうか。葬儀の準備でごたごたとしておりますが、ぜひあかねさんに見てもらいたいものがありまして。』
『私に……ですか?』
『ええ。母が生前、よくあかねさんのことを話しておりまして、どんな方だろうと思っておりましたが、やはり、というか思ったとおりのお嬢さんで、母もあかねさんと過ごした時間をさぞかし……」
 言葉を詰まらせる息子にあかねは慌てて返事を返した。
『あっあの、分かりました。明日は講義が午前中に終わるんで、その後に伺わせていただきます。』
 意外なまでにしっかりとした様子が心配だったのか、乱馬は自分もついていこうかと言ったが、あかねは一人で大丈夫だと言ってそれを断った。

「これなんですが……」
 昨晩天道家を訪れた息子が十数冊積まれたノートをあかねの前に差し出した。
「……家計…簿…?」
「ええ。これをつけながら思い立った時にその日にあったことを簡単に書き綴ったんでしょう。日記帳なんてものを拵えずに、こんな家計簿に書き込むあたりは倹約家の母らしいんですが。あなたのお名前もたびたび出ていまして、それで……」
「でも、いいんですか?私のような他人がこんなプライベートなものを……。」
「ええ。母もあなたになら、と言ってくれると思います。」

 あかねは一冊手に取り、ぱらぱらとそれを開いた。
 黒いボールペンでしっかりと記された文字。
 項目別に書き分けられた数字と、空いた箇所に綴られた二、三行の簡単な日記。

 一ページ。そしてまた一ページ。
 老女が過ごしてきた最後の十数年を辿るように、あかねはゆっくりとめくっていった。

 ……さんと…で待ち合わせ。お芝居を見に行く。
 おじいさんと……へお参りに行く。
 ……が……ちゃんと……ちゃんを連れて遊びに来る。
 ……までおじいさんと行く。通りの花水木が満開。
 ……くんが……合格。みんなでお祝いする。
 ……さんのところまで……を届けに行く。元気そう。
 女学校時代の……さんが訪ねてくる。…十年ぶりの再会。

 それらはどれも数行で、日記というよりは記録と言ったほうが近かった。
 おじいさんが亡くなった日ですら、驚くほど淡々とした言葉が並んでいた。

 短い日記はそれからも続いていく。

 葬儀後も暫くは後を絶えなかった学友や旧友、同僚の弔問。
 四十九日の法要。
 遺品の整理。
 一周忌。
 三回忌。

 おじいさんが亡くなって暫くは気丈に生きていこうとしていたのだろう。自らを励ます言葉もあった。
 だが、ちょうどあかねの名前が出てくるようになった頃からだろうか。

 『おじいさん。早くお迎えに来てくださいね。』

 もう目がよく見えないから字が曲がっちゃうんだよ、と言っていた老女。
 走り書きのように片隅に綴ったそれは、仏壇に手を合わせ、仏さまにお願いするだけでは抑え切れなくなった寂しさと恋しさの表れだったのだろうか。

 日々の記録と引き替えに、震える筆跡に乗せた思い。
 たまに記されるささやかな額の数字。
 増えていく空欄。

「………。」

 時計の音だけがするがらんとした居間で、何をするでもなく、ぽつりと座り、時が流れていくのを待つ老女の姿が、やるせなかった。

 おじいさんが亡くなって八年。
 一日一日をやっとの思いで過ごしてきたのだ。
 おじいさんのいなくなったこの部屋で。
 ただただ、おじいさんのお迎えを待ちながら。
 残された空の座椅子と向き合って。
 その先にある広い庭をぼんやりと眺めて。

 
 おじいさんが好きだった、そして、おじいさんが亡くなって枯れてしまったツツジの木に、その面影と思い出を重ねながら。


「……おばあ…ちゃん………」

 ―――ごめんね。ごめんね、ごめんね……
 
 どうしてもっとたくさんの時間を一緒に過ごしてあげなかったんだろう。
 どうしてもっと彼女の気持ちを酌んであげられなかったんだろう。
 どうしてもっと……

 後悔の言葉が引き攣るような思いを連れて押し寄せる。
 
 どんなに悔やんだって、どんなに望んだって、もう戻ってきてはくれないのだ。
 逝ってしまった人も。
 彼女が一人で過ごした、永遠のような時も。

 もう何もしてあげることはできない。

「あかねさん。」
 五十代くらいだろうか。細身の女性があかねに声を掛けた。
「ありがとう、いつも遊びに来てくれて。母がね、よくあかねさんのこと話してたのよ。とっても優しい子だって。」
 あかねは慌てて頬を拭き取った。それでも、言葉は出てきてはくれなくて、なんとか首を振る。
「最後の年の家計簿、見てくれたかしら。」
「いえ、まだ……。」
 老女の娘はその最後の一冊をあかねに手渡した。亡くなる一ヶ月ほど前は入院をしていたためだろう。ほぼ真新しい家計簿だった。
 もう一週間に一度書くか書かないかの日記。
 それを見つけるのは容易かった。

「……!」

 聞き慣れた声が戻ってくる。


 『あかねちゃん。』


 一粒、また一粒。
 ぽたり、ぽたり、と紙の上で弾く。

 日記なのか、それとも、短い手紙なのか。


 『あかねちゃん。どうもありがとう。』


 最後にこの家を訪れた一月のある日。
 老女はその日を振り返り、それをしたためたのだ。

 あかねは、顔を埋めて泣いた。

「母が息を引きとった時にね…」
 娘がそっと肩を抱いてくれた。
「最後に、『やっとおじいさんのところに行ける』って呟いたそうよ。」

 ―――………!

 家計簿を、あかねはぎゅっと握り締めた。




 やっと……



 『おじいさん。』



 やっと……



 『早くお迎えに来てくださいね。』




(……もう、一人で……)

 ―――待たなくていいんだね。頑張ったんだもんね。たった一人で八年も頑張ったんだもんね。



 目蓋に浮かぶのは、小さな小さな老女の姿。

 振り返ると、いつも手を振り、自分を見送ってくれた……小さな姿。

 彼女の優しい笑みを思い浮かべて、あかねはそっと問いかけた。




 ―――おばあちゃん。


 ……おじいさんにはもう会えましたか?












「……あかね。」
 振り返ると、舞い散る薄桃色の中に不釣合いなほどくっきりと浮かぶ彼が立っていた。
「……乱馬。」
 黒一色に身を包む彼を見るのは初めてかもしれない。そういう自分も初めて袖を通す喪服。
 だけど、これから先、何度も着ることになるのかもしれない。あまり考えたくはないが、親戚の叔父さん叔母さん、それにいつかは父や早乙女のお義父さんやお義母さん、二人の姉たち……。そして―――

(あたしは、どうなってしまうんだろう……。)

 生気に満ち溢れる青年。
 今までどんなに危険な目に遭っても、「死」なんて影は微塵も感じさせなかった。
 今だってそう。
 これから先だって、想像すらできない。

 だけど。

 彼だっていつかは……

「なぁんて顔してんだ、お前は。」
「きゃっ……」
 彼の大きな手が乱暴にあかねの頭を捕らえた。
(…………。)
 広い胸の温かさが、腫れてしまった目の辺りにじんわりと染みていく。
 鼻先を掠めるお焼香の匂いに、胸が少し痛んだ。
「俺たちのどっちが先に逝くなんて分かんねぇけど……」
「―――え?」
「どっちが残されても……、どっちが先に逝っても、俺たちは―――」
 添えられた手にくっと力がこもる。青年の鼓動が近くに聞こえた。

「だから、たとえ俺が先に逝ったとしても、んな顔して残りの人生生きるなよ。そんな顔されてたんじゃ成仏もできやしねえ。」

 生きている心臓。
 トクン、トクン、と鼓膜を打つ。
 血の通う胸の温かさと体の内から響いてくる太い声は、何ものにも代え難い安らぎ。

 解けていく腕と広くなっていく視界。
 微かに滲んで見える彼は少し照れたように、けれどもその瞳の奥は痛いくらいの強い思いを湛える。
「……うん。」
 彼に微笑み返そうとして零れ落ちた最後の一粒。大きな手が不器用に拭った。
「まっ、俺たちにはまだまだ先の話だけどな。」
「……そうだね。」

 初めて出逢った時から変わらない瞳。
 「今日」という日が常に人生最初の日であるかのように。
 「今」という瞬間が常に人生最初の瞬間であるかのように。
 迎える一瞬一瞬を全力で生きる人。

「……そろそろ出棺だってよ。」
「……うん、分かった。」
 本当に最後のお別れ。もう、これで二度と……。

「桑島のばあさんもさ……」

「…え?」

 優しい追い風に空と地の桜が舞う。
 揺れる横髪をあかねはそっと指で押さえた。

「ばあさんも、これからはずっと見ててくれるんじゃねぇの。」

「………。」

「仏とか霊とかって別に信じてるわけじゃねぇけど、……でも、そんな気がする。」
 見上げた先。桜吹雪に浮かぶ横顔が、霞む空を仰いでいた。
「ちゃんと送り出してやろうぜ。ばあさんをさ。」
「……うん……。」










 おばあちゃん、桜が満開になりました。
 焦げ茶の枝に、その枝先に、淡い桃色の花を優しく纏って、
 柔らかな花片にいっぱいいっぱい陽の光を浴びて、
 輝くように咲いているんです。

 おばあちゃん。

 そこからも、見えますか?


 ―――おじいさんと、見ていますか?











『ほら、そこからね、それはそれは見事な桜並木が見られるんだよ。』



『本当?じゃ、その頃になったらまた来るね。』



『そうだね、その頃になったらまたおいで。』



『うん、また来るね。』



『今日は来てくれてありがとうね。』















 ……ありがとう。

 元気でね……。










 完




作者さまより

今回の作品は、個人的な動機で作り上げたものです。
「あかねと乱馬」の設定を除いてはほとんどがノンフィクションです。
勿論、自分の体験で感じたこと・思ったことを
高橋留美子先生の描かれた「らんま1/2」という世界に
もっと突き詰めれば、「乱馬とあかね」にシンクロさせて描いたものではあります。

夏海さまの『桜花爛漫』。
半官半民さまの『大きな古時計』。
そして、一之瀬さまの『花供養』。
今回、三作品にどこか似通ってしまった点はあるかもしれませんが、自分なりの解釈で「乱馬とあかね」を重ねました。

一言、作品に関してのコメントを言わせていただければ、題名の「染井吉野」は、物語の主要パーツの季節に関連して…ということもありますが、祖母の名前が一字入っていた、というのが選んだ大きな理由です。

(かさねさまのメール本文より抜粋編集)


 かさねさまの珠玉作品、いかがだったでしょうか?

 人は死で、全てが途切れるのではなく、関わった人の中に思い出としていつまでも生きていくものだと思います。
 関わった人からまた次へと語り継がれて連綿と。

 桜はいつの時代も春を謳歌する花として、咲き乱れます。
 花開き、散りそめるまで、人の心を魅了して止みません。
 お婆さんは乱馬が言うように、あかねをいつまでも見守ってくれるのでしょう。あかねの中にお婆さんの思い出がある限り。

 今年もまた、桜が咲きました。

(一之瀬けいこ)


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