◇染井吉野   六
かさねさま作


(六)


 鏡に映る姿を、青年は落ち着きのない様子でちらちらと窺う。手にした雑誌が逆さまなことにも全く気付いていない。
(もっと堂々としてればいいのに。あいつに意見を求めること自体間違ってたのかも……。)
 鏡越しに見た彼のそわそわした態度と、暖簾に腕押しのようなコメントの連続にさすがのあかねも辟易してくる。
「ねぇ、これはどう?」
「ん……?あ、ああ……、いいんじゃねぇの。」
「もう、さっきからそればっか。」
「んなこと言ったって、どれもみんな同じに見えるんだからしょうがねーだろっ。」
「どこをどう見たら同じに見えるのよっ。」
「うっうるせーなっ。俺には同じに見えるんだよっ。どれ着ても………」
 ごちゃごちゃと口篭ってそっぽを向いてしまった。
(ははぁん、さては……。)
 染み付いた記憶というのは恐ろしい。どうせならもっと素敵な「刺激」と「反応」がほしかった。
「なによ。『どれ着ても寸胴には変わりない』って言いたいわけ?!」
「ばっ、ばか!違うわいっ!」
「……じゃ、なによ。」
「いいじゃねぇか、なんだって!これ以上は言わせるなっ///」
(なに一人で赤くなってんのよ……。)
 気持ちを素直に表せないのは相変わらず。
 赤面する男心に疎いのも相変わらず。
「もう、全然連れて来た意味ないじゃない。あたしとしては、これがいいかなぁなんて思うんだけど。」
 手にしたのは、サテン地の胸元までのドレス。その上にオーガンジーのレースを乗せて袖と胸元が透けるように仕上がっている。
「却下。」
「何よ、どれでも一緒なんじゃないの?」
「とにかく却下。花婿の意見だって尊重されるべきだろ?」
 初心なところだけではなく、ゴーイングマイウエイなところまで相変わらず。修行の成果で少しは紳士らしくなるかと思いきや、ますます磨きがかかって手が付けられないこともしばしば。
「じゃ、これは?」
 今度のは背中の部分が大きくカットされた細身のシンプルなドレス。大人っぽくて普段はなかなか着られないデザインだからこそこういう機会に試してみたいもの。
「それも却下。」
「なんなのよ、いったい。さっきはいいとか言ってたくせに。」
「いいから却下。」
「もう……っ。じゃ、これ。」
「ダメ。」
「じゃ、これは?」
「それも却下。」
「ええい、じゃ、これならどうだっ。」
「とんでもねぇっ。」
 純真な乙女の憧れと少々捩れた男の独占欲の談判が延々と続いて、結局決まったのは……
「うん、あかねらしくていいじゃねぇか。」
 青年が自慢げに腕を組んで眺めているのは、シャンパンカラーのブライダルサテンで作られたAラインシルエットのドレス。バックコサージュへきゅっと寄せられたギャザーと、袖口が大きく広がったバコダスリーブが上品で清楚なドレスに仕上げていた。
「うん、確かに。………そうね、これがいいかも。」
 彼からの同意が得られると、さっきまではまぁまぁかなと思っていたそれが一番自分に似合っていると思えてくるから不思議だ。現金だなぁと呆れつつも、やっぱり彼がいいと言ってくれるドレスを着たいし、彼が気に入ってくれたものならきっと自分に合っているのだと思う。式に来てくれるみんなにも素敵だと思ってもらえるものがいい。

(…………。)

「ねぇ、乱馬。お願いがあるの。」

「?」
 訝しがる婚約者を前に、あかねは自分でも驚くほど大胆な閃きにきゅっとドレスのスカートを掴んだ。



 タクシーが病院の前で止まる。
 青年が貸してくれたチャイナ服を羽織り、裾が汚れないよう慎重に車から降りた。
「しっかし、ずいぶんと思い切ったことするよな、お前も。」
「だって、どうしても見せたかったんだもん。」
「まっ、その気持ちは分からないでもないからな。」
「でしょ?」
 でも、それだけじゃない。自分一人だったら、きっと思い付いても行動にはできなかった。彼が傍にいてくれると思ったから少しだけ大胆になれたのだと思う。
 四方八方から集まる視線を掻い潜り、興味と驚きと興奮の声を振り切る。
 羽織ったチャイナ服だけじゃない。注がれる視線と声から守るように回された腕。何よりも隣を歩く青年の存在自体が彼女を毅然とさせる。
「何階だ?」
「六階よ。」
 あの時に交わした約束。それを果したい気持ちに押されるがままに、彼女の足は行き慣れた病室へと急いだ。

「おばあちゃん。」
 四人部屋の入って右奥。窓際に老女のベッドはあった。
「……誰だい?」
 浅い眠りに入っていたのだろうか。起こしてしまって悪い気がしたが、あかねはもう一度呼び掛けた。
「おばあちゃん、あたしよ。あかねよ。」
「……あかねちゃん?」
「うん、そう。乱馬も一緒なの。」
「あら、乱馬君もかい?」
 ベッド脇の手すりに掴まって自力で起き上がろうとするのだが、その力さえも残っていないのか、乱馬が手を貸してようやく体を起こした。
「今日はどうしたんだい?二人揃……」
 ベッド用テーブルに置かれていた眼鏡を手にした老女は、目の前の純白なドレスに息を呑んだ。

 「あかねちゃん」と言いかけた口が両手で塞がれ、老女の目から涙をぽろぽろぽろぽろ流れていった。

「おばあちゃん。」
 ベッドの脇にあった椅子に腰掛けて、ずっとずっと小さくなってしまった老女の体に手を当てた。
「約束、したから。おばあちゃんに花嫁姿を見せるって。あたしね、この春に乱馬と祝言を挙げることになったの。おばあちゃんにも出席してもらいたいけど、もしかしたらまだ入院してて来てもらえないんじゃないかって思って……。」
 こくんこくんと何度も何度も頷く老女の背中を優しく撫でた。
「おばあちゃんに見てもらいたかったら、あたしの花嫁衣裳。」
「うん、うん。綺麗だよ、あかねちゃん。とっても……とっても、綺麗だよ。」
「ありがとう。」
「あかねちゃん。幸せにね。乱馬君と二人、しっかりと歩いていってね。」
「うん。ありがとう、おばあちゃん。」


 『……時々思うんだ。夫婦ってそういうもんじゃないかなって。』

 『夫婦としてその人を愛せるなら……』


 義兄やのどかの言った意味が、今なら少し分かる。

(―――夫婦ってきっと一緒につくっていくもの……なんだよね、おばあちゃん。)

 どう出逢うかが大切なんじゃない。
 どう結ばれるかが問題なんじゃない。
 「夫婦」として、二人でどう生きていくか。

(……ううん。)

 本当は、添い遂げて初めて「夫婦」になれるのかもしれない。結婚は「見習い夫婦」としてのほんの始まり。
 老女の、おじいさんを語る言葉の端々に感じていた優しくて穏やかな重みは、「夫婦」となれた人だから出せるもの。

「祝言はいつなんだい?」
「来月の下旬なの。」
「そう。もうすぐだね。本当におめでとう。」
「うん、ありがとう。」
「ばあさんはまだ退院できねーのか?」
「担当の先生がもう暫くいたほうがいいって言うからね。」
「そう……。」
 やはり式への参列は無理そうだ。
「それに今退院できたとしても、こんなに足がふらつくんじゃ、迷惑がかかるからね。とてもとても式なんかには出られないよ。」
 いつもそう言っては遠出も旅行も避けてきた。もうどこへ行く気力もなかったのだ。
「今日はホントいい天気なんだぜ、ばあさん。」
「うん、そうなの。暖かくて。絶好の散歩日和なんじゃない。」
「なんだったら俺が負ぶって外連れ出してやってもいーけど。」
「ほほほほほほ。」
 久し振りに老女の楽しそうな笑い声を聞いたような気がする。
「誰かさんを担ぐよりか全然軽いと思うし。」
「誰かって、誰のことよっ。」
「さぁてね。……いでっ!なぁにするんだよっ!」
「乱馬が先に振ってきたケンカでしょっ。」
「だからって殴るこたぁねーじゃねーか!」

「ちょっと!他の患者さんにご迷惑ですから静かにしてください!」

「「あ゛……。す、すみません……。」」

 婦長らしきベテラン看護婦にびしっと言われ、

「楽しそうな家庭になりそうだね。」

「「………///」」

 老女には冷やかされ、相揃って赤面する二人。
「そっそういえば、そろそろ桜も咲き出すんじゃないかしら。」
 あかねは上擦る声で話題の軌道修正を図った。
「そうだねぇ。ここも実はなかなかの桜の名所なんだよ。」
「ここが?」
「ほら、そこに大きな道路があるだろう?その道沿いに桜の木が植林されてて、ずっと先まで伸びてるんだよ。それはそれは見事な桜並木が街の真ん中を走ってくんだよ。」
 老女が病室の窓の向こうを指差した。
「うわぁ、本当?!」
「そいつはすげーな。」
 南北に伸びる幹線道路。そこを彩る桜並木はどんなにか壮観だろう。
 ここへ見舞いに来ることはよくあったが、考えてみたら春先に来たことはなかった。
「そうだ!再来週あたりがちょうど見頃じゃない?その時にお花見も兼ねてまた来るわ。」
「そうだね、それがいいよ。その頃にまたおいで。」
「うん、そうするね。」
 天気が良ければ、車椅子を借りて外へ連れ出してあげよう。暖かで優しい陽射しのカーディガンを羽織って、若草の清新な匂いを運ぶ風を辿りながら、爛漫の桜の下を一緒に歩こう。
 あかねの心は一足早く春めいていく。
「ほんじゃ、そろそろ行くか、あかね。」
「うん、そうね。」
 あかねはそっと老女の手を取った。
「じゃ、おばあちゃん、またね。」
「またな、ばあさん。」
 いつもと変わらない挨拶。
「今日は来てくれて本当にありがとうね。」
「うん。また来るからね。」
 また会おうと約束したから。
「また来てね。元気でね。」
「うん。おばあちゃんもね。」
 そう信じていたから。



 その二日後だった。
 風もない穏やかな夜。老女は永遠の眠りについた。



 つづく




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