◇染井吉野   四
かさねさま作


(四)


 パイントサイズが一つ。ミニッカップサイズが三つ。
 ドライアイスなど必要のない、天然クーラーボックスの凍てる空気の中、四つのアイスクリームたちが微粒で繊細な霜を纏う。
「ったく、本当にこんな寒い中アイスなんて食べるのかよ。」
「馬鹿ねぇ。実際に食べるのは暖かい部屋の中なんだから。あんた知らないの?炬燵に入って食べるアイスがどんだけ美味しいか。」
「知ってらぁ!だけど、俺たちが食うならまだしも、今にも死にそうな……ぐはっ!」
「あんたって本当〜に無遠慮でデリカシーの欠片もない男ねっ。」
「んだよっ!本当のことだろ?!それに、おめーなんか不器用で繊細さの欠片もねーじゃねーかっ。」
「ぬわんですってぇ〜!!」
「やるかっ!いつでも受けて立つぜっ。」
 体が自然に攻守に最も適した距離を取る。

「やっぱりだめっ!」

「へ?」
 迎え撃つはずだった彼女の突然の武装解除宣言に間抜けな声が上がった。
「せっかくのお祝いなんだから今日ぐらいは休戦しない?」
「………まっ、それもそうだな。」
 この二人が一体いつまでこの停戦協定を固守できるのか見物ではあるが、一応の同意の下に締結した。

「「こんにちは〜!!」」

 人気の少ない、広い家の玄関。「ひっそり」という言葉が似合うそこに元気な少年少女の声が鳴り響いた。
「あかねちゃん……?」
 いつもよりも賑やかな玄関を怪訝に思ったのか、老女が廊下の奥からゆっくりと歩いてきた。

「おや、まぁ……」

 老女の視線がチャイナ服を着たお下げ髪の少年に一心に注がれる。
「いつも話してた『乱馬』よ、おばあちゃん。」
「んだよ、その『いつも話してた』っていうのは。」
「言葉の通りよ。」
「なんだよ。お前、いつも俺の話ばっかしてたのか?けっ、まったく相変わらず素直じゃねーなー。俺のことがそんなに気になる……げほっ。」
「あんたのその信じられないような自信過剰の性格、なんとかなんないの?!」
「んだったら、お前のその凶暴で手の早い性格こそ、なんとかならねーのかよ!」
「なんですって〜!」
「ふっ、面白いっ!」
 早くも停戦協定破棄か。

「ケンカするほど仲がいいって言うけど、あかねちゃんと乱馬君のためにあるような言葉だねぇ。」

「「え゛。」」

 が、時機を逃さずして老女の仲裁が入った。ニコニコと笑う彼女にはっとする。
「ななななななに言ってるの、おばあちゃん!」
「そそそそそそんなことねーっ!」
「おやおや、よっぽど気が合うんだねぇ。」
「おばあちゃんっ!」「ばあさんっ!」
 はいはい、と軽く受け流されてしまい、二人の旗色は完全に悪い。どう悪いかというと、真っ赤に燃え上がり、旗が焦げ出しているほど。さぁさぁお上がんなさい、という老女の誘いも耳に入らない。
「あっ!おばあちゃん、これ、冷凍庫に……!」
 はたと気付けば、二人、玄関に置いてきぼり。やたらと熱く感じる室内にアイスが溶け出してしまいそうな気がして、慌てて老女の後を追った。



「ゴホン。」
 わざとらしい咳払いを一つ。
「おばあちゃん……」
 少年に目交ぜでそのタイミングを示す。

「「お誕生日おめでとう〜!」」

「あら、まぁ…!」

 少年の背中から出された小さな花束。老女が好きだという紫と、彼女の誕生日として送るなら…というイメージで目に留まった薄紫色のチューリップ。てっきり春にしか姿を見せないのかと思ったら、立春も近くなると店頭に現れるとか。
 まだまだ元気でいてほしい。
 そんな願いも込めて、紫色から桃色の明るいグラデーションをイメージに作ってもらった。晴れやかにその身を広げる薄桃色のガーベラ。柔らかな花弁の縁が桃色に染まったスイートピー。そして、アクセントとして散りばめられた可憐なブルースター。
「これ、あたしにかい……?」
「そっ!ばあさんに。」
「それと、さっきのアイスもね。」
 プレゼントに物ではなくてなにか彼女の好きな食べ物にしようと提案したのは乱馬だった。あかねもそれには賛成だった。食の細くなりすぎた彼女。好きな物なら進んで食べてくれる。そう思った。
 それに、花束を思いついたのも実は彼だった。食べ物だけじゃ味気ないんじゃねぇ?と。彼にそんなプレゼントの心得があるとは思ってもみなかったが、思い返してみれば、こういう「特別な日」にはよく花束を持っていたような気がする。
「まぁ、まぁ、きれいだねぇ……」
「えっ、お、おばあちゃん?!」「うわぁ、なにも泣くこたぁ……。」
 エプロンの裾を眼鏡の内側へと引っ張り上げて、皺に埋まりそうな目をぎゅっと押さえつけた。
「嬉しいねぇ……。こんな年寄りに……。」
「もう、おばあちゃん、泣かない、泣かない。せっかくのお祝いも台無しになっちゃう。」
「そうだぜ、ばあさん。せっかくのお八つも待ちくたびれてるぜ。」
「ばかっ!あんたって本当に…!」
「いってーねー!なにすんだよっ!」
 掘り炬燵の中で蹴りが飛んだ。まさに水面下の奇襲。
「ほほほほ、そうだね。さぁ、さぁ、いただきましょう。」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、少年の大口に饅頭が放り込まれる。
「もうっ!本当にごめんね、おばあちゃん。こんな食い意地の張ったやつ連れてきちゃって。」
「いいんだよ、いいんだよ。男の子はこうでなくっちゃ。」
 あかねの再三の窘めもどこ吹く風。そんなもぐもぐと頬張る乱馬を楽しそうに眺めている老女。
「…………。」
 少女だって分かっている。格闘バカで無神経でその場の雰囲気なんて全然考えない許婚だけど、彼のそういう何にも考えていない、遠慮のない素直さが時々……本当に時々だけど、救いになることもある、のだと。少年の、「生」に対する貪欲な生き方が、彼の命そのものを漲らせ、そして彼を強くしているのだ、と。だからこそ、今日この日に彼をここへ連れて来たかった。

 午後のひとときは賑やかに過ぎていった。
 女同士のおしゃべりも花が咲くけれど、少年の加わったこの日は華やかさに大胆さが添えられた。幼い頃の武者修行時代の話やこれまでの珍闘激闘の数々。ついでに二人のケンカも加わって、いつもにも増して賑やかな笑い声が居間に溢れていた。

「あら、牡丹雪……。」

「え。」「あ。」
 そんな話の尽きない時だった。
 さっくりと無造作に寄せ集められたような、大きな白い塊が窓の向こうでゆっくりゆっくりと降りてきた。
「どうりで今日は冷えると思ったぜ。」
「牡丹雪、か。ホント、名前の通りの雪だわね。ね、おばあちゃん。」
「…………。」
「おばあちゃん……?」
「……え、あ、ああ、そうだね。」
「どうしたんだ、ばあさん。」
「ちょっと昔のことをね。」
「おじいさんのこと?」
「………おじいさんが帰ってきたのが、ちょうどこんな雪の降ってた日でねぇ。」
「帰ってきたって?」
「戦地……から?」
 あかねは一つの推論に思い至った。おじいさんのお兄さんが戦争で亡くなったというならば、おじいさんだって一兵士として出征しているはずだ、と。
 それは老女の小さな頷きで肯定された。
「一度は召集を受けてね。」
「一度は?」
「おじいさんは元から少し体が弱かったんだよ。健康診断でも兵隊として戦えるかどうかぎりぎりの線でね。でもやっぱり赤紙が来てね。お国のために行って来るって。」
「その頃にはもうおばあちゃんたちは結婚してたんでしょ?」
「………そうだね。結婚して暫くしてからだったかな。」
「送り出した時って……」
 愚問だとは思っていても聞かずにはいられなかった。夫婦として結ばれて、すぐに愛する人が戦地に赴く。帰ってくると信じていても、決してそうならないことは分かっていて……。
「そりゃ、もう二度と帰ってこないと思ってたさ。死んだおばあさん、つまりおじいさんのお母さんだけどね、二人でこの家を守っていく覚悟だったよ。」
「そのじいさんが帰ってきたっていうのは……」
「召集で軍隊に入って、すぐに戦争に行くわけじゃないんだよ。そこで軍人としての訓練を受けて戦えるようになったら戦地に送られるんだよ。」

 軍人としての訓練。
 自分たちがその高みを極めようと臨む修行や稽古とは、訳が違う。

 一体何のための訓練なのだろう。

 戦争は殺し合いを当たり前にする人間の最も悲惨な営みだ、と誰かが言っていたような気がする。
 人の命を奪い合い、より多くの敵を倒した先に得るものは、なんなのだろう。

 戦場で散った若者たちの命と未来。
 犠牲になったものは計りしれない。
 それは、生き延びることのできた若者たちの魂でさえも。

 湧き上がる疑問も、恐怖も、そして、生き延びる望みも押し殺して、何もかもを捨てて、決死の覚悟で臨んでいたのだ。「戦えるようになる」まで。
 そして、「戦えるようなって」、彼らが向かったものは―――

 察するに余りある彼らの思いと苦衷。

「だけど、最後の実地訓練が終わって最終的な健康診断があった時に、おじいさんの健康状態じゃ無理だと診断されてね。それで、今から帰るって連絡をもらって……。」
「そうだったんだ。でも…、亡くなってしまった人には申し訳ないけど、良かったんじゃ……。だって、戦地に行ってたら―――。」
 そう、戦地へ赴いていたら生きて帰ることは叶わなかったかもしれない。いや、叶わなかった。
「あたしもおばあさんもそりゃ喜んださ。おじいさんもね、『あの時診てくれた先生は大学の先輩だったんだ。俺の健康状態じゃ本当に駄目だったのかもしれない。……だけど、もしかしたら、それ以外の考慮があったのかもしれない。そうだとしたら、俺の命は生かされた命なんだ。だから戦争で死んでいったみんなの分もそして兄貴の分も、しっかりと生きていかないといけないんだ。』って言ってね。」
「じいさんの兄貴はその戦争で……?」
 老女とあかねは静かに頷いた。
「それが不思議なもんでね。途中の訓練地でお兄さんに会ったんだって。普通なら、一度軍隊に入れられたら家族に会えるなんてことはなかったんだけどね。」
「それは、情みたいな気持ちが湧くから……?」
「たぶんそうだろうね。だけど、どういうわけか、おじいさんが訓練地として訪れた東南アジアの小さな島で偶然ね、会ったんだって。お兄さんのほうは出撃を目前に控えてて。」
「そんな時に……。」
「すごい偶然じゃねぇか。」
「そこでね、お兄さんが『あとのことはまかせたぞ、茂。』って……。分かってたんだろうね、自分は死んでいくっていうのが。だから、お前だけでも生き延びて桑島の家を守ってくれって。」
「………」「………。」
「それから暫くしてだったよ、お兄さんの戦死の知らせを受けたのは……。だから余計にだったんだろうね、おじいさんが我武者羅になって頑張っていたのは。亡くなったお兄さんの言葉に背かないためにもって。自分に託された命と思いを無駄にはできないってね。………本当に、死んだおばあさんと、おじいさんとあたしで必死に頑張ってきたねぇ。」

 老女を囲む、この若い二人には到底想像もできないような時代を、彼女は生き抜いてきたのだ。

 今日を生き残れるか。
 明日を生きるか死ぬか。

 「生きる」ということが何よりも切実で、
 「生きる」という意味が希望と絶望に満ちていて、
 そうして誰もが、死に物狂いで生きてきた時代。

「ごめんなさいね、なんだかしんみりしちゃって。」
「ううん……。」「いや……。」
「そうだ、あかねちゃんたちが持ってきてくれたアイスでも食べましょうか。」
 あどけなささえ漂わせる、老女の嬉しそうな笑顔。ああ、やっぱり大好きなアイスを買ってきてよかった…と思った。
「「賛成〜!」」
 少年と少女は諸手を上げて賛同した。
「でも、あんなにあるけど……」
「小さいカップのは今日食べる分で、大きいのはこれからおばあちゃんがお八つに食べてね。」
「一人じゃとても食べ切れないよ。」
「大丈夫よ、ゆっくり食べれば。それに時々あたしたちが遊びにきたら手伝うわ。」
「そうだね。じゃ、有り難くいただきましょうかね。」
 ぽかぽかと足許から温まる体とは対照に、つんとした冷たさが体の真ん中を通っていく。そして、口の中で溶けていく甘い香。
 三人は「炬燵で味わうアイスクリーム」をたっぷりと堪能して誕生日会を締めくくった。



 うっすらと雪化粧をほどこした路面。足跡を残すにはまだ浅く、踏まれた箇所が水へと解けていく。
 玄関の外まで見送るというおばあさんを風邪を引くからと言い宥めて家の中でさよならを言ってきた。

「………。」
「………。」

 家を出てから二人の後ろをひたひたと付いてくる静寂。
 いつものように老女を振り返りながら歩いていないからでもなく、雪のせいでもなく、きっと二人の胸に落ちた同じ気持ち……のせい。

(今日はありがとう、乱馬。)

 一緒におばあさんの誕生日をお祝いできたことも、午後のこの時間を過ごせたことも、そして、この灰色の空の下を歩けていることも。

 胸の辺りにほんわり灯った暖かさ。なにもかもが氷りつきそうな凍える空気の中で、頬と口元がほんの少しだけ綻んでいくような気がした。
 ちらりと窺い見た少年は、両手をポケットに突っ込んで、まだ誰も踏み入れていないまっさらな雪の上に跡を付けようと遊んでいる。
「ねぇ。今日は、おでんかな。」
「お、いいな、それ。」
「…………雪。」
「ん?」
「積もるかな。」
「……かもしれねーな。」
 二人立ち止まって仰いだ空。無数の白い牡丹の花びらがひらひらひらひら、絶えることなく舞い降りていた。





 その年の春、あの雪の中を一緒に歩いてくれた少年は、一人旅立っていった。
 彼女の許へ絶対に帰ってくる、と約束だけを残して。




つづく




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