◇染井吉野   三
かさねさま作


(三)


 晴れた日の清々しさを競い合ったとしたら、この季節が一等賞を取るような気がする。
 天高く馬肥ゆる秋。
 陽が葉に優しく当たる匂い……、強いて言うなら、あのお日様の匂いをいっぱいに含んだ布団の匂いに近い。そんな秋の匂いを深く吸い込みながら、そのまま見上げた空の青さに口元が自然と上がる。清々しさと優しさに満たされて、心が無邪気にはしゃぎ出す。
 そんな秋晴れの日に、おじいさんは亡くなったという。

「あかねちゃん、結婚するならおじいさんみたいな人がいいよ。」

 「結婚するなら……」の言葉に、条件反射で許婚の顔が出て来た。なんだか悔しくて、思いっきり頭を振って追っ払う。
(あんなやつなんか……っ!)
 晴朗天気には何万光年と遠い胸の内。視界の片隅にしぶとく映るおさげの毛先を振り切るように、おじいさんの話へと逃げ込んだ。
「おじいさんってどんな人だったの?」
 生前、朝のロードワーク中に何度か挨拶をしたことがあった。背筋をピンと伸ばして元気にしっかりと散歩している姿は「矍鑠(かくしゃく)としたおじいさん」と町内でも知られていた。だから余計に、おじいさんが亡くなったという知らせを受けた時は、正直、信じられなかった。今でもふとその角で「おはようございます。」と挨拶を交わしていそうな気さえするのだ。
「よく、朝のジョギング中に会ったのよ。」
「そうそう、おじいさんも朝の散歩から帰ると言ってたよ。『今日は天道さんちのお嬢さんに会ったよ。』って。いつも元気ではきはきとした子だねぇってそりゃよく言ってたさ。」
「やだ、そんなこと話してたの?」
「ええ、ええ、そりゃあね。」
「やだ、恥ずかしい///。でも、おじいさんと挨拶はよくしたけどお話ししたことはなかったなぁ。見た目、ちょっと……あれよね、その……昔気質っていうか……」
 失礼かなぁ、と思いつつ言い淀んでいると、老女は分かっていたように笑った。
「そうだねぇ。まぁ、ずいぶん頑固なところがあったけど、曲がったことが大っ嫌いで芯がしっかりとした人だったよ。」
「へぇ。」
(………あいつに一番欠けてる部分だわ。)
 自然と眉間に皺が寄る。
「昔の男の人だからねぇ。」
「……やっぱり、苦労したの?」
「別にそれで大変だったとは思わなかったよ。それが当たり前の時代だったしね。」
 老女が過ごしてきた時代は男女平等や女性の主張など一般的に考えられなかった時代。誰かさんのように男を一撃で蹴散らすなんてことは断じてありえなかったのだ。
「男の人が何でも偉い時代だったんだもんね。」
「まぁね。」
「掃除や洗濯なんてことも絶対しないだろうし。」
「だめ、だめ。」
 とんでもない、とでも言い出しそうな顔で首を振る彼女を見て、その当時の男性像が浮かび上がる。
「でも、実は台所に立ったことがあるんだよ、うちのおじいさん。」
「本当?!」
「あたしもその話を聞いた時にはちょっとびっくりしちゃったんだけどね。」
 心なしか興奮気味の老女の顔はあかねの目から見ても可愛らしく思えた。おじいさんの意外な一面を発見した驚きと嬉しさ。例えば今の少女たちが「ねぇ、ねぇ、聞いて!」とわいわい友達と騒ぐような、そんな女の子特有の性質に属するもの。どんなに年を重ねてもこのおばあさんもやはり「女」なのだと妙なところで納得してしまう。
「あたしが腰を痛めて入院してた時なんだけどね、ちゃんと一人で台所に立って目玉焼きなんかを作ったんだって。」
「へぇ〜。台所に立ったことのない人でも目玉焼きが作れちゃうんだ。」
 誰かが聞いたら絶っっ対に余計な一言二言を付け加えてくるだろう、と苦々しく思いながら、浮かんだ目一杯嫌味な言葉とその主をぱっぱっと退け払う。
「ねぇ、驚きだろ?それに、一人でスーパーへ買い物にも行ったって言うんだから。」
「そんな、子供じゃないんだからスーパーへ買い物しに行くくらい。」
「だって、あのおじいさんがだよ。買い物袋を提げて歩く姿なんて……。」
 ふふふ、とその姿を想像しては遠い目で笑顔を浮かべる老女。その顔がどことなく幸せそうに見えるのは何故なのだろう。
「でも、ちょっと不憫に思えちゃったねぇ。年寄りの男の人が一人でスーパーに買い物に行って台所に立つなんてねぇ。」
「そうかな。そういう人もよく見掛けるけど。」
「そうかもしれないけど、やっぱりちょっとね。」
「……そういうもの、なのかな。」
「そう。そういうものだよ。おじいさんも、少しの間ならいいけどそれがずっと続くとなるとなぁ、なんて言ってたしね。」
「じゃ、おばあちゃんが退院して家に帰って来た時は喜んだでしょ?」
「そうかもしれないね。うちの娘や息子のお嫁さんがね、時々様子を見に来て、お味噌汁なんかを作ってくれたみたいだけど、やっぱり味が違うなって言ってたしね。」
 要は、奥さんのお味噌汁が一番……ということなのだ。
 大きな大きな溜息が出そうになるのを少女はぐっと我慢する。胸いっぱいに溜まった沈殿物をざっくりと掬い上げて含んだそれはどんなに重かろう。

 少年と少女の延長線上。
 自分の作ったお味噌汁を美味しいと言って飲んでくれる彼の姿なんて―――

「!!」

(って、なに考えてるんだろう、あたし!!)
 しおれかけた下降思考は一瞬にして気丈な装いを纏う。少し顎を上げて懸命に胸を張ろうとする姿勢はどことなく痛ましい。
 しかも自らを鼓舞するつもりの気合の言葉が、

(誰があんなやつのためなんかにお味噌汁作るもんですか!あたしが作らなくたって他にも作ってくれるかわいい、しかも料理の上手な女の子がたくさんいるわけだし!)

 と屈折していく。

(ああ、もう、やだ、やだ、やだ、やだっ!!)

「あかねちゃん、大丈夫かい?なんだかずいぶん難しい顔してるけど。」
「えっ?!あっ、ごっごめんなさい!ちょっと考えごとしちゃって。あはははははは!で、おばあちゃんの腰はもう大丈夫なの?」
「大丈夫もなにも、今じゃどこもかしこもガタが来て使い物になりゃしないよ。もう布団の上げ下げもできないからね。毎日庭の草を摘むのがやっとだよ。」
 今ではその布団の持ち運びもできないからと言って老女の息子が用意してくれたベッドを使っていた。ちょうどこの居間の隣。襖を境に続く和室。おじいさんがいた頃は、彼女がこの居間で、今ベッドのある和室でおじいさんが寝ていたとか。
「ねぇ、やっぱりおばあちゃんがおじいさんの分の布団も敷いてたの?」
「そりゃ、そうさ。でも退院したばかりの時はね、おじいさん、『自分で敷くからいいよ。』なんて言ってあたしの分も敷いてくれたね。」
「へぇ、優しいんだ。」
「ふふ、そうだね。頑固でよく怒る人だったけど、根は優しい人だったね。」

 老女の優しい瞳が見つめる先。
 真っ白に咲き誇るツツジを背に、おじいさんが穏やかな顔を浮かべていた。
 彼女がここへ嫁いだ時に持って来たという文机の上。
 置き方一つでその扱われ方が伝わってきてしまうものなのかと驚かされるほど、大事そうに置かれてある写真立て。

「…………。」

 ほんのりと優しい気持ちの後ろから引き摺られるようについてくる羨望の影。

(………あたしたちは、こうなれるのかな。)

 あんなやつなんか……と何遍追っ払っても舞い戻ってきてしまう。許婚の関係なんてどうせ親の決めたことだし……と口では言ったって、本当はあかね自身がその関係を望んでる。
 だけれど、いつまで経っても世に言う「幸せな二人」には程遠い自分たち。否、本当にそうなるのかも怪しいとさえ思えてきてしまう。

(あいつにとってあたしはなんなの?あたしたちってこんなままで一緒になるの?)

 もう嫌になるほど延々と旋回してきた問い。
 ぐるぐるぐるぐると回り回る様子は、自分の許婚を中心にまんじ巴と入り乱れた今日の下校時の争奪戦へと形を変えていく。
 落とした目線の先。彼のいつまでもはっきりとしない態度に不平不満が募りに募って投げ付けた鞄。

 ……本当はそれだけじゃない。

 堂々と少年への愛を伝える彼女たちへの妬み。
 堂々と少年への愛を伝えられない自分への苛立ち。
 ずるくて臆病な自分にも腹が立つのだ。彼が少しでも気持ちを表してくれなければ、何も動けない。保証がなければ自分の気持ちを打ち明けられない。
 ずるいと思う。
 格闘家なら格闘家らしく、いつもの猪突猛進で戦いの中へと飛び込めばいい。彼の前でその闘魂と勇姿を見せればいい。サフランとの死闘の時のように、己の命をも惜しまずに、あの熱く燃え盛る小さな人形だった時のように、何の見返りも求めずに、飛び込んでいけばいい。
 けれども、恋の戦いとなるとからきしなのだ。
 命を捨てることなんてこれっぽっちも惜しくなかった。なのに、心に傷が付くことにこんなにも躊躇ってしまう。なんて厄介なんだと思う。
 東風先生の時だってそうだった。相手が姉だったこともあったが、たとえそうではなくてもただ見ているだけに終わったに違いない。
 でも今回はたちが悪い。負け犬の遠吠えのように、全ての責任を少年になすり付けて自分は何も悪くないと憤慨して彼を責め立てる。
 ―――乱馬が悪い。
 ではなくて、乱馬も悪い、なのだ。自分にもこの煮え切らない関係の責任はある。
 分かっていても、生来の向こう意気の強さがいらぬところで顔を出す。

「そろそろ帰らないと許婚さんが心配してるかな?」

「えっ?」
 俯くあかねの顔が弾かれた。
「そんな……、あいつが心配なんてしてるわけないわ。今頃シャンプーたちに囲まれてやに下がってるわよ。」
 こんなふうに彼をなじっては自分には関係ありません、と突っ撥ねる。こうすることでうじうじと考えないようにしているのだ。少年からも自分の気持からも顔を背けてさえいれば、傷つくことはない。負傷を恐れて戦いを放棄している意気地なしの自分。
 そんな陰鬱な気持ちを引き摺ったまま真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。
「おやおや、どうやらお相手の殿御は色事師のようだね。そんな人はやめておいたほうがいいよ。」

「でっでも、あいつにもいいところは―――………って………ぁ……。」

 老女のにこにこと笑う瞳にぶつかった。
「あかねちゃんが好きになった人ならきっといい人だよ。……まぁ、おじいさんよりかはちょっと軟弱そうだけどね。」

「…………。」

「ふふふふ。」「あはははは!」
 思わず不貞腐れた少年の顔が目に浮かんだ。

(でも本当、きっとおじいさんになんかに比べたら全然軟弱男なんだろうな。……格闘している姿は、一応、その、男らしい……のに。)

 どんな相手でも、どんな闘いでも、勝つことへの執念を掲げて決して諦めない姿。いつでも見てきたし、いつでも彼の勝利を信じてきた。
 だけど、そこにあるのは強さへの執念ばかりじゃない。
 「強さ」を求める心の裏に潜ませた真の理由。チラリチラリと覗いた真摯な思い。
 けれども、それは、少年が躍起に隠そうとするあまり、余計なものに覆われすぎて少女には真っ直ぐ伝わらない。だから彼女も―――。

「ほらほら、そんな顔しなさんな。」
「あ、うん。ありがとう、おばあちゃん。」
「そら、本当に早く帰らないとお家の人が心配してるよ。」
「うん、そうね。なんの連絡もしないでここに寄っちゃったから。あ、そうだ。おじいさんにお線香あげさせてもらってもいいかな。」
「ああ、ぜひそうしてあげておくれよ、あかねちゃん。おじいさんもきっと喜ぶよ。」
「これがおじいさんのお位牌?」
 仏壇に幾つか並べられた中で割りと新しい位牌が目に留まった。
「ここにはたくさんの人が祀られているのね。」
「そうだね。おじいさんのお父さんやお母さんや、それからお兄さんがね……。」
「おじいさんのお兄さんってもう……?」
「先の戦争でね……。」
「そうだったんだ……。」
 初めて身近に感じた「戦死」という現実。手を合わせたあかねは短い黙祷を捧げた。

「帰ったら謝ろうかな……。」 
 人気の少ないもの寂しい帰り道。長い黄金色の光を放つ斜陽は西の地に消え、夕闇に、寿命の尽きかけた街頭がチカチカと音を立てて灯り出す。昼間の朗らかな秋の様相は影を潜め、冬へと向かう乾いた風が秋の陽に干乾びた落ち葉をカサカサとコンクリートの上で転がしていく。
 人は、一人静かな時間ができると過去の時間を少し冷静に顧みることができるわけで、あかねも例外ではなく、下校時の己の所業が仄昏い帰路に蘇る。逃げ惑う乱馬目掛けて投げ付けた教科書いっぱいの学生鞄。逃げ切るタイミングを失った彼はそのまま女の戦いの中へと呑まれていった。
「……ちょっとやり過ぎたわよね……。」
 やり過ぎかどうかは判断し兼ねるが、八つ当たりなのは紛れもない事実。
「うん、よし!ちゃんと謝ろう。」
 ぎゅっと鞄を持ち直し、気合を入れる。別に謝ることが苦手なわけじゃない。ただ、あの彼に「ごめんなさい」を言うには一大決心が要るのだ。それはまた彼にとっても同じこと。
 有言実行。決心のぐらつかないうちに家へ帰ろう。そんな思いを乗せた足取りで、向かう風の間を切るように家路を急いだ。



つづく




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