◇染井吉野   二
かさねさま作


(二)


 手垢とシミと歳月と。年季の入ったワインレッドのフェルトのコーティング。手にした重みは経た年月の重みなのか。
 黄ばんだ台紙にバランスよく収められた写真たちをあかねは一つ一つ丁寧に眺めていく。
 一枚一枚捲るたびにふわりと匂う「時」の香り。薄れた白黒とセピアの色が遠い昔を物語る。
 余所行きの着物をきっちりと着て、写真館で写したであろう家族写真。
 にわか造りのような簡素な家が立ち並ぶ町の一角では、着物に白いエプロンを掛けたおかっぱの少女たちと、線は細いが腕白そうで誰もがガキ大将!という顔をした少年たちがはにかんでいる。
 いつの時代でも変わらない学級写真では、坊主頭の少年たちと後ろで髪を結った少女たちが、袴姿で木造校舎を背にこちらを睨んでいる。
 白い縁取り枠の中で生きる世界が、眺める少女の思いを過去へと巡らせていく。

「やっぱり戦争の時は大変だったの?」

 ふと、そんなことを聞いてみたくなった。少女の周りにはそんな話をしてくれる人はいない。というより、戦争体験者がいない。八宝斎のおじいさんがいるが、きっと中国かどこかに修行に行っていたのだろうし、当時日本にいたところでさして今と変わらない生活を送っていたような気がする。
「そりゃ、大変だったよ。でも戦時中より戦後のほうが大変だったねぇ。戦争が終わって、世の中が混乱していてねぇ。配給の紙をもらって、必死に食べ物を確保してねぇ。」
 当時、国にどれほどの財力が残っていたというのか。いったいどれほどの食糧が残っていたというのか。瀕死の体で戦っていたのだ。国も国民も。「お国のために」と一致団結して。「自分のために生きる」という主張をその団結の鎖によってしっかりと縛りつけて。
 だが終戦を迎え、突如、その鎖がぷっつりと切れたのだ。
 横行する闇市。それならまだいいほうなのだろう。強盗、強奪。奇麗事など言ってられない。誰もがその日食べていくのが必死だった。
「おじいさんもね、会社の工場で塩が排出されたからって言って、それを田舎へ持って行ってお米と交換してもらったりしてね。当時は塩が貴重だったからね。そうしてお米が食べられたおかげで、お乳もよく出たよ。」
「お菓子なんてものは当然なかった……のよね。」
「もちろんあったさ。だけどチョコレートやケーキなんてものは贅沢品でね。バナナだって高級なお菓子だったんだよ。」
 塩も米も、果物も、チョコレートだって、なんだって、店に入って、お金を払えば、簡単に手に入る。何の苦労も不自由もなく手に入る。ケーキに至っては、食べ放題なんてものまである。
 自分の生きる時代の贅と、それに何の疑問も抱かずに育ってきた自分の麻痺した感覚。今はこういう時代なんだから、と片付けてしまえばそれまでだが、それでは済まされないような、どこか居たたまれないような気持ちになる。
「それから、お金がなかったから、会社勤めの他にも一生懸命女中さんの着物を縫ったりして……。本当に、たくさん縫ったねぇ。」
「え!おばあちゃん、着物が縫えるの?」
「昔はお裁縫ができて当たり前の時代だったからね。今じゃ、針に糸を通すこともできないけど、昔はね。そうだ。確か昔縫った浴衣があるんだけど、あかねちゃん、着るかい?」
「えっ、本当?!でも、いいの?」
「勿論いいともさ。もう誰も着る人もいないし、あげる人もいないしね。箪笥の肥やしになるくらいならあかねちゃんみたいなかわいい子が着てくれたほうが浴衣も喜ぶよ。」
 ちょっと来てくれるかい、という老女の手を取り、あかねはまだ踏み入れたことのない領域へと進んでいった。

「ここは……」
「ちょっと狭いけど、我慢してちょうだいね。」
 広い家の北側に設けられた二畳ほどの小さな納戸。部屋の左右を目一杯に占める箪笥たちが、たった一つだけ取り付けられた小振りな窓に迫る。

 チリン……

 涼しげな音が一つ鳴った。
 人がやっと擦れ違えるほどの空間は風の通り道。北向きの網戸から入る風は、仕切りのない続きの台所へと通り抜ける。隣接する家のおかげで、入ってくる光も僅かなせいか、夏日の今日でも涼しく感じられた。
「あった、あった。」
 昔彼女が縫ったであろう着物たちが静かに眠る引き出し。そこから一枚の浴衣が現れた。きっと大事にしまわれていたのだろう。何十年も前に仕立てられたようには見えないほど、新品同様の状態だった。
「うわぁ、綺麗な色。」
 藍染の中でも最も濃いとされている、黒に近い濃紺。その藍に白い花が大きく艶やかに咲く。カラフルで種々のデザインがもてはやされる中では至ってシンプルな色と文様なのだが、この藍と白の対照がむしろ洒脱で、蒸し暑い日本の夏の夕涼みにしっとりと馴染む。
 しかし、洗練された簡素な美しさほど扱いが難しいのもまた然り。
「あたしなんかに似合うかなぁ。」
「大丈夫、大丈夫。浴衣のほうが負けちゃうくらいだよ。今着てみるかい?」
「え!おばあちゃん着せてくれるの?」
「それくらいならまだできるよ。確かあたしの要らなくなった下駄もあるからそれもついでにもらってくれないかい?もう死んでいく人間には要らないものが多すぎて困ってたところだから。」
「もう、おばあちゃん!またそういうこと言って!でも、本当にいいの?」
「いいも、なにも、そのほうが有り難いんだから持ってっておくれよ。」
「うん、ありがとう!」
 それから老女は慣れた手つきであかねに浴衣を着せてくれた。

「うわぁ……。」
 納戸にひっそりと身を置く古めかしい鏡台。そこに映る自分の姿に思わず詠嘆の声が小さく上がった。
 袖を通して改めて実感する清麗さ。浴衣そのものに漂う風情さが、包まれた自分の身をも藍の楚々とした鮮やかさに染め上げてくれているようだった。
 美しい藍染の風合いのせいなのか、それとも、普段見慣れない姿のせいなのか。どことなく妙(たえ)に見えるような気がする自分に胸が躍る。
「良かったよ、裄も丈もぴったりだ。やっぱり別嬪さんが着ると浴衣も映えるねぇ。こんなかわいい人が着てくれるなら作った甲斐があったってもんだ。」
「それは本当かどうか分からないけど、でも、やっぱりこの浴衣が素敵なんだと思う。ふふ、嬉しいなぁ。」
 浮き立つ心よろしくあかねはクルクルと鏡の前で回ってみせる。背中で結ばれた朱色の帯が大輪の朝顔のようにも見えた。
「そう言ってもらえてあたしも嬉しいよ。」
「あ、そうだ!今度の縁日に早速これ着てこう!」
「そりゃいいや。早速晴れ舞台だね。でもちゃんと許婚さんを連れて歩かなきゃ駄目だよ。」
「…え?どうして?」
 疑問に思いながらも突然の許婚の出現にドキッとした。纏った一重物の下、密かに生まれた淡い期待が見透かされてしまったのかと。

「こんなかわいい娘さんが一人で歩いてたら悪い人に連れてかれちゃうよ。」

「…………。」

「やだぁ、おばあちゃん。大丈夫よ。これでも格闘家なんだから。」
 袖を捲り上げ、力拳を自慢げに見せてみる。
「でも気をつけなくちゃ駄目だよ。どんなに強いって言っても女の子なんだから。最近じゃ物騒な事件が多いからね。」
「うん、分かったわ。気をつけるね。」
 昔のフィルターが覆われたままの思考。時々オーバーなほどに心配をしてくれる。夜一人で歩いちゃ駄目だとか、知らない人に付いて行っちゃ駄目だとか。まるで小学生の子供に言い聞かせるような言葉を掛ける。きっと老女から見れば、立派に成人をして家庭を持った息子でさえも「子供」なのだろうし、ましてや高校生のあかねとなれば幼稚園児にも等しいのだろう。
 それでも、煩いなんて感じを全く受けないのは、自分のことを心配してくれてのことなのだと分かっていたし、むしろ感謝しなくてはと思っていた。自分のことを心配してくれる人がいる。当然すぎて見失いがちな恩恵に優しい気持ちで気付かされれるのだから。
 そして、そうして引き出された気持ちは自然と老女へも向かっていく。お互いがお互いを大切に思う。簡単そうに見えてその実なかなか均衡の取れない思いやりのバランス。
「さぁさぁ、本番前に乱馬君にその姿を見せておやりよ。」
「もうっ、おばあちゃんっ///」
 カラカラと笑う老女に見送られ、あかねは小気味よいリズムをコンクリートに跳ねさせながら桑島の家を後にした。



「……ぁ。」

 夏の夕暮れ時はなぜか言葉では言い表せないような気持ちにさせる。熱を帯びた空気に漂う、どこかで何かが起こりそうな高揚感と、虫の音が運んでくる懐かしいような切ないような気持ち。
 そんな気持ちに拍車をかけるような影がいつものフェンスの上で揺れた。

「どっどうしたのよ、こんなとこで。」

「………別に。たまたまコンビニの帰りだっただけでぃ。」

 一番に見せたいと思っていた人がほのかな期待通りに現れてくれた……と、そこまでは良かった。
 が、少年の突っ慳貪な態度は震える乙女の緊張をいとも簡単に勇猛な格闘家の負けん気へと変えてしまう。彼に、例えば、新しい服を買って身に付けた時の乙女の心持ちを理解しろ、というのは無理な注文かもしれないが……。
「どうしたんだよ、その格好。」
「桑島のおばあちゃんにもらったのっ。」
「なに怒ってんだよ。」
「別にっ。」
 少女は彼から顔を背けたまま歩き出した。さっきまで陽気に弾んでいた下駄の音は、無言の二人には軽やかさを通り越して空しい音にさえ聞こえ始める。
「……あんまそういう格好で出歩くなよな。」
「なんでよ。」
「なっなんでって……」
 相も変わらずはっきりしない態度。
 彼からしてみれば、相も変わらず鈍感な彼女。

(そんなんだからいつまでたってもシャンプーたちに追い回されるんじゃないっ。)

(もうちっと警戒心ってものを持ったらどーなんだっ。)

 少年少女の心は相反するベクトル方向でますます苛立っていく。
「だっだいたい、縁日でもなんでもねーだろうがっ。」
「縁日じゃなかかったら着ちゃいけないっていう規則でもあるわけっ?!」
 アスファルトにじっとりと這う暑熱をも凌ぐヒート。激しい上昇気流は二人の大気を不安定にしていく。夏の夕立を引き連れる積乱雲が、二人の頭上でもくもくと大きくなる。
「んな規則ねーけど、そんな格好してたら目立つだろうがっ!」
「何で目立つのよっ!はっきりと理由を言いなさいよ、理由を!」
 空が裂けるような電光一閃と、地を揺るがす轟音が二人の間に落ちた。

 本当はこんな角立ったことを言いたいわけじゃない。
 「これ、似合う?」と、かわいらしく聞きたいし、「一緒に縁日に行こう。」と、誘いたい。
 「浴衣似合ってるじゃねーか。かわいいぜ。」と気の利いた一言でも言って、さらりと彼女の手を取りたい。
 けれども、口をついて出てくる言葉は……

「うっせーな!目立つっていうんだから目立つんだっ!」
「なんなのよ、それ!全然理由になってないじゃないっ!目立たないって言ったら、目立たないっ!」
「目立つっ!」
「目立たないっ!」
「目立つっ!」
「目立たないっ!」
 非難抗弁の横殴りの豪雨。
 顔を合わせればいつもこんな口喧嘩ばかり。十八になっても何も変わらない二人。取り巻く環境も、ケンカの内容も、この距離も……。

「目立つんだよ、おめーが着てるとっ!」

「………。」

 だけど、これが二人の距離。激しい夕立も一瞬のもの。雨上がりの世界が至純で透明な美しさに包まれているのを二人は知っているのだろうか。
 しかも、進歩がないとは言うけれど、彼から「寸胴な」という形容詞が取れただけでも大きな前進。
「週末の縁日、一緒に行ってやるから。」
「……え……?」
「だっだからっ!浴衣着たいんだろ?縁日で着ればいいじゃねーか。」
 意図的なのか、素なのか。あかねが聞きたい核心はさらりと外される。
「そ、そうじゃなくって!…………乱馬も、行くの?」
「あ?ああ。俺だって楽しみだしな。」
「一緒に……?」
「なんだよ、俺が一緒じゃ嫌なのかよ。」
「そっそんなことないよっ。」
 進歩したのは乱馬だけではないようで。どこまでも意地を張り通していては何も変わらない、というのはあかねもこの二年で学んだこと。

「……………………一緒に、行こう。」

 ほんのりと上気させた滑らかそうな頬。恥ずかしげに少年を窺い見る潤んだ瞳。浴衣の襟元からちらりと覗く白い肌。お約束の三拍子とは言うものの、これで据え膳食わぬは……もとい、精一杯素直になった少女を撥ねつけようものなら、男らしくない!と母の日本刀が飛んでくるだろう。
 いや、母が云々よりも男としての衝動を抑えられないわけで。
「お、おうっ。」
 ぶっきら棒な言葉と共にぎこちなさ精一杯で少女の手を握った。
 不恰好に繋がれた二人の手に少年の不器用さが伝わってきて、少女は優しくこみ上げてくる可笑しさを必死に食い止める。
「ねぇ、乱馬。」
 別に意地悪で聞いたんじゃない。本当に疑問に思っただけ。
「んあ?」
「コンビニでなに買ったの?」
「………!!」
 片手をポケットに、もう片方を彼女の手に合わせた彼。
 この後、歩き辛い少女の歩幅に合わせてくれたのか、錆び付いたぜんまいロボットのように歩く少年の耳が真っ赤に見えたのは、夏の夕焼けのせい……だったのだろうか。




 つづく




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