◇染井吉野   一
かさねさま作



『ほら、そこからね、それはそれは見事な桜並木が見られるんだよ。』



『本当?じゃ、その頃になったらまた来るね。』



『そうだね、その頃になったらまたおいで。』



『うん、また来るね。』





 また、来るからね……。










 染井吉野




(一)


「こんにちは〜!おばあちゃん、いる?」
「あかねちゃんかい?入っといで。」
 右へと伸びる細い廊下の先。彼女が一日のほとんどを過ごすその部屋から何とか聞き取れるほどの小さな声が届いた。
「おじゃましま〜す。」
 どうにか廊下を渡り切ったその声を確認すると、少女はいつものように元気よく上がりこむ。
「おばあちゃん、今日はかすみお姉ちゃんがね―――」
 重箱の一段を包んだ風呂敷を両手に抱え、少女は光の射さない暗い廊下を歩いていく。

 いつの頃からか、あかねに「おばあちゃん」ができた。
 「桑島さんちのおばあさん」。
 彼女を知っている人は皆そう呼んでる。
 広い敷地に立つ、邸宅スタイルの大きな家。そこに今は一人で住んでいるおばあさん。
 近所だったため、あかねも小さい頃から知っていた。だが町内で会っても会釈を交わすだけの交流だった。それが、ある時かすみが作ったお萩を持って行ったことから、親しくお付き合いをするようになった。

「いらっしゃい。待ってたよ。よく来てくれたね。」
 細く暗いトンネルを抜けた時のような、そんな感じに似ている。建具のガラス障子を開けてすぐ、南向きの明るい和室の居間と、座椅子の背もたれから振り返った老女があかねを迎える。
「『よく来てくれた』なんて、なに言ってんのよ、おばあちゃん。すぐ近所なんだから。歩いて十分もしない距離じゃない。」
「いいんだよ。あたしがそう思うんだから。」
「あ、いいよ、おばあちゃん、座ってて。あたしがやるから。」
 覚束ない足元で体を起こし、台所へ向かおうとする老女をあかねは優しく制す。
「大丈夫、大丈夫。自分でできることはちゃんと自分でやらないと。」
「分かったわ。じゃ、あたしも手伝うね。」
「そうかい。ありがとよ。」
 少女の手が、座椅子から立ち上がろうとする彼女の体へと自然に伸びる。
 衣が薄くなっていくこの季節。薄手のブラウスとセーター越しに触れた腕と肩はその老いを無情に晒す。筋肉はおろか贅肉ですらも削げ落ちてしまった皮だけの…その皮でさえも皺を寄せる、枯死してしまった古木のような体に、あかねは時折、狼狽にも似た動揺と戸惑いを覚えていた。
「よっこらせ…と。」
 立ち上がった彼女の背は、天道家でも小さめのあかねよりずっと低い。彼女の頭を見下ろす度に、ああまた小さくなってしまったのでは……と、心もとない思いに煽られる。
 老女の体を支えるようにその背に腕を回し、もう片方の手でしっかりとその手を取る。瑞々しい弾力のある少女の手と、浮きだった血管でさえも萎びれてしまった老女の手。対照的なお互いの手の感触を確かめ合うかのように二人の手はしっかりと握られていた。
「まったく嫌んなっちゃうねぇ、こう体が言うこと利かないんじゃ。早くおじいさんのお迎えが来てくれないかねぇ。」
 これが彼女の口癖だった。

 『早くおじいさんのお迎えが来てくれないかねぇ。』

 数年前、彼女は連れ合いのおじいさんを亡くしてからまるで別人のようになったと、どこの町内にもいる「お喋り好きのおばさん」が話していた。
 おじいさんが生きていた頃は、三度の食事も掃除も洗濯も全てテキパキとこなしていたが、おじいさんが逝ってしまってからはそれもぷっつりとしなくなってしまったらしい。
 別にこちちから聞いたわけでもないのに、他にも「込み入った諸事情」というものを少女やその家族の耳に落としていった。古くなった家を今の家に建て替えたのは息子夫婦に後々譲るためだとか、今はまだ引っ越せないらしくて、おばあさんが一人で住んでいるとか、働き者のおじいさんが自分が死んだ後もおばあさんが困らないようにと残してくれた財産や年金を贅沢に使えるはずなのに、質素なものしか口にせず、慎ましやかに暮らしているとか。
 何故そんなことまで知っているのだろう、とその詮索加減と話の信憑性に眉を顰めたあかねだったが、実際、老女と何度か食卓を囲んでみて分かったことがある。
 倹約が何よりの美徳という時代に生まれ育った彼女。あたしなんてあとは死んでいくだけなんだから、と言って口にするものはこちらが心配するほど必要最低限のもの。昔の人だからどんな有り合わせでもそれなりのおかずにしてしまうのだが、彼女の食しているものを聞くともっとしっかり食べてほしいと願わずにはいられなかった。

「駄目よ、おばあちゃん。そんなこと言っちゃ。もっと食べて元気出さなきゃ。おじいさんだって、きっと天国で怒ってるわよ。」
「ほほほほほ。そうだねぇ。」
 あかねの冗談に老女はよく笑ってくれた。少女はそれがなんだか無性に嬉しかった。だからだろうか。ここに来ると普段よりも少しばかり饒舌になる。自分はうまい冗談を言って周りから笑いを取るような性格ではない。ただ、楽しいおしゃべりができれば……と、思う。彼女が笑っていてくれることで、あかね自身が安心できるのだ。
 「二人」でいることの相乗効果は精神面に限ったことではなかった。それは老女の食にも効き目を見せていた。「ああ、今日は食べ過ぎたから夕飯が食べられないよ。」と大袈裟に言うのだが、きっと一人でいる時よりは喉を通るのだろう。
 一人の食事は味気ない。この家に来るたびにそう思わされる。

 一人で住むには広すぎる家にある、一人で過ごすには広すぎる居間。
 ここで一人テレビを見ながら取る食事。

 自分でもあまりお箸が進まないかもしれない。あかねはそう思った。
 ……それが毎日となれば尚のこと。
 だから二人でたくさんおしゃべりをして、たくさん笑って、たくさん食べて。
 その日一日のほんの少しの時間でも楽しく過ごしてもらえれば…と願う。
 自分が帰った後でも彼女が寂しくならないように……と。

 彼女はこの居間に設えた炬燵のテーブルにいつも座っている。
 亡くなったおじいさんがいつも座っていた座椅子と向き合って。
 その先に見える、広い庭をぼんやりと眺めて。

 いつだったかあかねに話してくれたことがあった。
 ここから見える庭先のツツジ。
 おじいさんが生きていた頃は毎年五月になるとピンクや白の花をその表面いっぱいに咲かせていた、と。
 それが、おじいさんが他界してからはめっきり咲かなくなり、ついにはその木も枯れてしまった、と。

 そんな咲かない痩せたツツジの木を彼女は毎日毎日、この場所から眺めている。

「おばあちゃん、お皿はこれでいい?」
「どれでも好きなもの使っておくれ。」
 いつものように一緒に台所に立ってお湯を沸かし、持って来たかすみお手製のお菓子をお皿に移し変える。不器用極まりないあかねにもこれくらいならこなせる。
 今日のアフタヌーンティは、ほうじ茶に柏餅。それから老女が作っておいた筍の煮物。お八つの組み合わせにしてはちぐはぐだが、彼女たちは全く気しない。要はおしゃべりのお供があればよいのだ。
 お湯を移し入れた電気ポットを居間にセットする。その隣には付け足し用の水を入れたやかんを置き、準備もばっちり整える。早く食べてくれと言わんばかりに盛られたお供たちをテーブルに並べて……
「よし、これでOK。おばあちゃん、急須にお湯入れるね。」
 楽しいティーアンドトークの始まりである。

 数えでちょうど六十違うジェネレーションギャップは二人の会話の潤滑油。あかねの学校の話や最近はあんなことやこんなことがあったという話から始まって、おばあさんが女学生だった頃は……と途切れることなく回転していく。髪型はおさげだったとか、五つ玉のそろばんのこととか、当時の初乗りがいくらだったとか。どんな些細な種でも拾い上げては賑やかな花を咲かせる。……もちろん、恋の花も。
「おばあちゃんとおじいさんってデートとかしたことがあるの?」
「デート?!」
 横文字のハイカラな響きが面映かったのか、それとも、蘇る記憶と思い出に気恥ずかしさを感じたのか。珍しく声を高くした老女にあかねのほうが驚いた。
「デートって言えるかどうかは分からないけど、よく一緒に歩いたねぇ。」
「散歩…ってこと?」
「いいや。まだ結婚した当初の話だけどね。」
「その頃って……」
「ちょうど戦後でね。あたしが会社で働いていてね。」
「おばあちゃんが?!」
「そうだよ。今じゃこんなだけど、あの頃は目暮芦に住んでいてね、家から江尾須まで歩いてそこからバスに乗って会社まで行ってたんだよ。帰りはおじいさんと眞流ビルの前で待ち合わせをしてね。」
「うわぁ、恋人同士みたい。あ、でも結婚してたんだから当たり前か。」
 恋人同士という言葉がくすぐったかったのか面白かったのか、老女はころころと笑った。
「電車代が勿体無いからって言って、よく二人で歩いて帰ったもんだよ。バス代も節約して、眞流ビルから歩いて帰ったこともあったねぇ。」
「なんだか素敵ね。」
「ふふふ、そうかい?もういにしえの話だよ。」
 老女の、「いにしえ」という言葉に含まれる何十年という時間の流れにあかねは思いを馳せる。彼女が口にするからこそ響いてくる、言葉に宿された本来の意味。
「じゃ、結婚前は?」
「結婚前だなんて、とんでもないよ。嫁入り前の女の人がたとえ結婚を約束した男の人と出掛けてもあまり良しとされる時代じゃなかったからね。ましてや、……そうだねぇ、例えば同僚の男の人と二人で喫茶店に入るなんてしたらそりゃ色々言われたさ。」
「うわぁ、なんだか大変な時代ね。じゃ、もしかして、おじいさんと横に並んで歩くなんてことはできなかったの?」
「昔は駄目だったねぇ。もちろん戦争が終わって、時代が変わっていって、そういうのが当たり前になってきたらね、並んで歩いてたけど。」
「そうよね。町で見かけるおじいさんおばあさんで、昔みたいに一歩下がって…なんてご夫婦は見ないものね。」
 そこであかねはふとある疑問に辿り着く。
「じゃ、手は?最近じゃおじいさんおばあさんでも手を繋いでたりするじゃない?」
「ほほほほほほ。」
 彼女は頬をほんのり桃色に染めて、その時代の女性らしい笑い浮かべた。
「いやだよ、あかねちゃん。年寄りをからかうなんて。手を繋いで歩くなんて、そんな破廉恥なことできなかったよ。あかねちゃんたちのような若い世代には考えられないだろうけどねぇ。」
「そうね。」
「あかねちゃんはもちろんあるだろ?」
「え、なにが?」
「意中の人と手を繋いだことさ。」
「えっ?!」
 ボンッと少女の頬が紅潮する。
「なななななななんで乱馬なんかとっ!」
「おやおや、やっぱりあるんだね。」
 それが故意だったとしたら、彼女はなかなかの策士だ。まんまとあかねに事実を是認させ、しかも相手の名前まで白状させてしまったのだから。
「おおおおおおおおばあちゃんっ!この煮物いただきますっ!」
 テーブルの上に放って置かれたままだったお供に助けを求め、フェンサー顔負けの俊敏さで筍へと箸を伸ばした。
「はい、どうぞ。」
「あ、美味しい〜!」
 いい加減に作ったんだから味は分からないよ、と言って出してくれた煮物。だけど、老女の作ってくれるものはいつだって「いい加減」なんて思えない味。
「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんはどうしてそんなに料理が上手なの?」
「そうだねぇ。お姑さんから教えてもらったり、料理学校でたくさん勉強したりしたからね。それに、おじいさんがまだ会社に勤めてた頃は、部下の人を毎週のように家に呼んでたからねぇ。そうやって色んなもの作ってるうちに上手になったのかね。」
「へぇ。おばあちゃんの頃にも料理学校なんてあったんだ。」
「そりゃ、あったさ。でも、あたしが行った所は、紹介状がないとは入れない学校でね。なかなか勉強になったよ。」
「ふ〜ん。あたしもお料理学校に行ったら少しは上手になるかしら…。」
「あかねちゃんはまだ高校生だろう?花嫁修業にはちょっと早いんじゃないかい?」
「はっ花嫁修業だなんて、そっそんな…っ///」
「おやおや。どうやらその乱馬君とかいう人に手料理を食べてもらいたいのかな。」
「…………ぁ、……ううん、そんなんじゃ……」
 さきほどまで、少女の周りで恥ずかしながらも初々しく咲いていた薄紅の花たちが霜枯れのようにしぼんでいく。
「ん?どうしたんだい?」
「……あたし、全然料理が上手じゃないから……。」
 そう、全然料理が上手じゃないから彼はいつも自分の手料理から逃げるのだ。頑張って作ったところで、許婚の彼は、いや家人たちもみな蜘蛛の子と散らすように逃げていく。
 それでも、少年はなんだかんだと言っていつも食べてくれる。でも、「おいしい。」という言葉が返ってきたことは、ない。たった四文字の短い賛辞。けれども、最高の勲章に値する賛辞。不器用な自分にそれを望むのは贅沢なのだろうか。彼が一口でも食べてくれただけで満足すべきなんだろうか。
「大丈夫だよ、あかねちゃん。料理なんてものは作っていくうちにだんだんと上手になるんだから。」
「でも……。」
「あたしだって、お嫁に来る前はそんなに作ったことはなかったんだよ。でもやっぱり台所に立たなくちゃいけなくなったらね、必死だったよ。」
「おばあちゃんが?」
「ああ、そうだよ。だから、あかねちゃんも家庭を持って毎日家族のために三食作るようになったらちゃんと上手になるから。」
「うん!分かった。頑張ってみる!」
 翳りが吹き消え、閉じかけていた可憐な花たちが咲きこぼれていく。…………時を同じくして、遠く離れた別の場所で誰かの背筋に悪寒が走ったというのはまた別の話ではあるが。
「ふふふふ。あかねちゃんが結婚か。いいお嫁さんになるよ、きっと。」
「やっやだ、おばあちゃん!まだ結婚なんてしないわよっ///」
「ほほほ、そうだね。でも、綺麗だろうねぇ、あかねちゃんの花嫁姿。見てみたいねぇ…。」
「うん!!絶対、見せるからね。だから、おばあちゃんも元気でいてよね。」
「そうだね。あかねちゃんの花嫁姿を見るまでは死ねないねぇ。」
 孫でも何でもない、ただの「近所に住む少女」という存在でしかないあかね。そんな彼女の花嫁姿を見るという、忘れ去れても仕方のない約束ではあっても、老女にとって生きていくことへの糧の一つとなってくれるなら……。
 あかねは、にこにこと嬉しそうに微笑む老女にそう願わずにはいられなかった。



つづく




 かさねさまの新作を待っていらっしゃった方、多いのではないでしょうか。
 この方の描き出す乱あ世界が好きな方、長らくお待たせいたしました!!新作です!!
 現在、英国留学中のかさねさま。お忙しい中、時間を見つけて長編作品を寄せていただきました。
 桜の花びらに言の葉を乗せて。…その世界を堪能してくださいませ。
(一之瀬けいこ)



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