◆白粥
かさねさま作


 コトコトコトコト…
 ぐつぐつぐつぐつ…
 愛のおかゆが囁きかける。
 『おいしいおかゆを作ろうね。貴女の想いで作ろうね』
 土鍋の前には若き新妻。





 乱馬が体の変調を訴えたのはつい昨晩のこと。
 全国格闘選手権大会の関東試合で見事優勝を収め、意気揚々と帰ってきた日だった。
 今にして思えば、そうした元気な素振りを見せていたのは彼なりの思い遣りだったのかもしれない。体を最も資本とする彼が、己の体の異変に気付かないはずはない。恐らく、数日前からどことなくおかしかったのだろう。しかし、そんなことを言えば家族は心配するに決まっている。特にあかねは、だ。余計な心配も掛けたくなかったし、それに大きな試合もみすみす逃したくはなかった。
 出場してしまえばなんてことはない。格闘を背負って生まれてきたような男である。体が不調だろうがなんだろうが、一度闘いの場に臨めば、そんなものは吹っ飛んでしまう。
 しかし、そのまま乗り切ってしまおうと考えたのは浅はかだったようだ。
 今までの溜まっていた疲労と押さえ付けていた病原菌たちが、緩んだ心の隙を衝いて一気に反撃に出た。帰宅した日の夜、あかねの隣で寝ていた乱馬を高熱が襲った。
 今日まで病気らしい病気をほとんどしてこなかった乱馬が床に臥したとあって、天道家では「あな珍し」とちょっとした騒ぎになった。結局、家族に心配を掛けてしまうという結果になったが、当の本人はどうやらそれどころではないらしい。吐き気に見舞われ、食欲もなく、何か口にしようものなら嘔吐を繰り返した。一日近く経ってようやく落ち着いてきたが、高熱は続き、食欲も普段の10分の1。なんとか果物などは食べられるようになったが、これでは体力回復も覚束無い。
 そんな風邪で寝込む夫を目の当たりにし、じっとしていられるはずもない。

「お母さま、おいしいお粥の作り方を教えてください」

 あかねはのどかに願い出た。
「そうね。あかねちゃんの愛情たっぷりのお粥を口にすれば、風邪も一気に治るかもしれないわね」
 新妻らしいかわいいお願いに、のどかは目を細める。
「今まで色々試してみたんだけど、お米とお水の割合が1対7で作るお粥が一番おいしいって発見したのよ」
 『母から娘へ伝える秘伝のお粥』。
 そんな言葉が彼女の頭にあったのかもしれない。息子が寝込んでいるというのに、どことなく嬉しそうにも見える。
「1対7ですね。お米は…、量が増えるから半カップぐらいでいいですか」
「そうね。それだけでも二、三人分は作れるわ」
 お米を研ぎ、分量を量った水と一緒に土鍋へ入れる。
「これで一時間は水に浸しておきましょうね」
「炊飯器で炊くのとあまり変わらないんですね」
「そうね。炊き方だってそれほど変わらないのよ。少し時間が長いだけで」
 水に浸して一時間。火に掛けて一時間。ちょうど夕飯時に出来上がる。
「おいしいお粥を作って、早く乱馬に元気になってもらいましょうね」
「はい!」
 のどかからのエールに元気いっぱいの笑顔で答える。
 旦那様においしいものを食べさせてあげたい。
 妻なら誰もが思うことかもしれない。特に、料理では散々乱馬を困らせているあかねにとって、寝込んでいる夫においしいお粥を作るというのは何が何でも成功させたい一種の最大イベントのようなものであった。





「じゃ、まずは強火からね」
 カチャ。ボッ…
 コンロに火が点き、土鍋の底を勢いよく焚付ける。
「蓋はしたままでいいんですか」
「ええ。このまま強火に掛けて、沸騰したら弱火にしてね」
「はい」
「手順としては、弱火にした後、そのままじっくり火に掛けて、炊き上がったら十分ほど蒸らすの。至って簡単なんだけど、一つ注意しなくてはいけないことがあるのよ」
「注意すること…?」
「ええ。それは、噴きこぼれないように常に警戒しておくこと。噴きこぼれたら、おいしい重湯が流れちゃうでしょ?だから、こうしてお粥を炊く時はずっとお鍋の前にいられる日に限られるわね。火を掛けたまま他のことをしようなんて思ったらだめなの」
「でも、他の夕飯の支度もあるし、洗濯物も畳まなくちゃいけないし、他にも…」
「そんなのは私がやるからいいわよ。あかねちゃんはおいしいお粥を作ることだけ考えてくれれば。ね?」
「お母さま…」
 あかねは、やさしく微笑みかけるのどかに母の面影を見ていたのかもしれない。
 もし自分の母親が生きていたら、こうして料理の指南をしてくれていただろう。しかし、「母の味」を身に付けることも、いや、それ以前に、その味を覚えることさえもままならぬうちに母は他界してしまった。母親と一緒に台所へ立つということが許されなかったあかね。そんな彼女には、隣で我が子のように接してくれるのどかの存在は有難かったし、温かくもあった。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
「じっと見ているだけなんてなんだか年寄りくさい作業だけど、気長にじっくり見守るのがおいしくできるコツなのよ。あ、あとはやっぱり『おいしいお粥を炊きたい』っていう気持ちかしら。これが一番大切かもね」
 『あかねちゃんなら大丈夫』。のどかのウィンクがそう言っているように見えた。
「よぉ〜し、頑張るぞーっ」
 袖をたくし上げ、張り切る新妻の声が火の気で少しずつ暖まり始めた台所に響いた。





二、

 蓋の周りからは沸々と小さな白い泡が滲み出し、蓋の穴からは湯気が勢いよく上がってきた。
「よしっ、今ね」
 タイミングを見計って、鍋の蓋を少しずらす。と、白い水蒸気がぶわっと一気にその姿を現した。こっそり覗いた鍋の中では、白い米の上に薄い乳白色のお湯が覆い被さっている。
「まだまだね」
 土鍋が最初に沸騰し、のどかから蒸気を逃がすタイミングを教わってからまだ十分ほどしか経っていなかった。それでも、最初の沸騰から暫くは忙しいとのどかは言う。


「ほら、見てみて、あかねちゃん」
 強火に掛けていた水が煮立ち、鍋の中がぐつぐつと音を立て始めた。
「たぶん、今お鍋の中では沸騰が始まっていると思うんだけど、まだこの時には蓋を開けちゃ駄目なのよ」
「それじゃ、いつ…」
「もう少し待ってるとね…」
 と言い掛けて、土鍋に目を落とす。あかねも釣られて鍋を見た。
「ほ〜ら。蓋の周囲や穴が泡立ってきたでしょ?この時に、こうやって…」

 ぶわぁ…

「うわぁ、すごい…」
 ほんの少し開けた蓋の下からもこもこと湯気が立ち上がり、溢れんばかりの無数の泡が見えた。暫くするとその泡たちは沈静する。
「今みたいに噴く直前に蒸気を逃がしてあげるの。でも、蓋を完全に取ってしまわないで、少し持ち上げる程度でいいのよ。あとはこれの繰り返し」
「タイミングに気をつけて、蓋を完全に取らないで蒸気を逃がしてあげるんですね」
「そういうこと!気長にじっくり構えていればいいのよ。乱馬のことでも考えながら、ね」
「そっ…!」
 結婚したとはいえ、やはりこの手の突っ込みにはまだまだ素直に反応できない。土鍋の前で真っ赤になっていく。
「ほほほ。若いっていいわね〜」
「もう、やめてください、お母さま…!」
 熱くなっていく頬が恥ずかしくて両手で覆う。
「ほらほら、お鍋から目を離してるとすぐに噴きこぼれちゃうわよ」
「えっ?!」
 のどかのかわしも満更冗談ではなく、蓋の周りがぐじゅぐじゅと言い出していた。
「…蓋をずらすだけ…っと」
 のどかのを思い出しながら蓋を少しだけ持ち上げた。
「そうそう!うまいわ、あかねちゃん。これでおいしいお粥ができるわよ」
 ぐつぐつと音を立て始めた土鍋の前で、二人はふふふと微笑んだ。





 夜半から降り出した雪はゆっくりゆっくりと積もりながらその白い結晶に音を閉じ込め、深閑な世界を作り出す。
 目を閉じ、澄ました耳に入ってくるのは石油ストーブの微かな機械音。しんとする外の静けさがふと気になったのか、首筋が薄ら寒く感じながらも火が点いたように熱い体を窓の方へ向けると、障子に透ける光は完全に明るさを失っていた。
(今、何時ぐらいなんだ…?)
 そんなことをぼんやり考えていると、襖が開き、誰かが入ってくる気配がした。
「…あかねか?」
 今度こそはと思い、その影に呼び掛ける。
「残念。お母さんよ」
 息子の心を読んでいたかのような母の返事が向こうから返ってきた。
「残念だなんて…。わりーな、心配掛けて」
 枕元に座った母親を少しばつが悪そうに見上げた目は、まだ熱が引かないことを示すように潤んでいる。
「どう?具合は」
「今朝に比べたら良くなってきたよ。食欲も少し出てきたし…」
「そう。それは良かったわ。今あなたが一番会いたい奥様はおいしいお粥作ってるから待ってなさいね」
「え゛…」
 一抹の不安が憔悴しきった心に過ぎる。のどかや時々実家へ顔を出すかすみから教わるうちに、その殺人的味音痴の料理は少しずつ改善され、ずいぶん食べられるようにはなってきた。が、それでも、気を失うほどの品が食卓に並ぶこともある。しかも、まだ学生の頃ではあるが、お粥はうまく作れた例がない。結婚してからは一度も作っていなかった。
「大丈夫よ。お粥は技術より気持ちなんだから。きっとおいしいのができるわよ」
「…って、おふくろ。ちゃんと指導してくれたのかよ」
「何、心配してるの。あなたはちゃんと食べてちゃんと寝てればいいんだから」
「食ったもので余計ひどくなるってのもあるんじゃねーのか…」
 どんなにまずい料理でも、あかねが一生懸命作ったものだから…と思えばこそ胃薬片手に口にすることはできた。しかし、今のこの状態であの言語に絶する料理を食べようものなら、一生愛妻の顔が拝めなくなるかもしれない。
「男はぐちぐち言わないものよ」
 『男らしくないわ』という母の目が光る。
「い、いや、ちゃんと食うけどよー…」
 語尾が小さく口篭る。掛け布団を深く被った顔からは不安の色が隠し切れない。
「大丈夫よ。お母さんがとっておきの秘訣を教えてあげたんだから。さっ、それまでゆっくり休んでなさい」
 楽しそうに部屋を出ていく母。その後ろ姿を見つめながら、
「本当に大丈夫なのかよ…」
 ひとり呟く乱馬。
 豆電球でほの暗い部屋の天井をぼんやりと見上げると、そこには台所に立ち、大奮闘しているあかねの姿が浮かんだ。しかも、その前には見るも無残なお粥。

 ぞくっ

 熱の寒気というより、嫌な予感で悪寒が走った。
「…こりゃ、復活は当分無理だな…」
 溜息交じりの独り言が静かな部屋に漏れ、乾いた空気にその余韻が浮遊する。
 ぽつんと独りになった部屋はなんだか寂しかった。いつもならそうは思わないのだろうが、体が弱っているせいで気まで滅入り、一人では心細かった。さきほどから天道家の面々が心配半分からかい半分で様子を見に来てくれる。しかし、今一番傍らにいてほしい女性(ひと)は一向に姿を現してくれない。…本当は、それが寂しさを助長する一番の要因。

 『…奥様はお粥を作っているから…』

「お粥作ってんだったら、ちょこっと顔見せるくらいの時間はあるだろーが…」
 土鍋から片時も離れられないなどということは知るはずもない乱馬。寂しさも余ると、恨めしさと憎らしさに変わる。
「ちぇっ…、お粥なんていいから――――」
 とここまで言って、はっとした。
「…俺って、節操なさすぎ…」
 誰に叱られたわけでもないが、しずしずと布団の中へ潜っていった。







 蓋の取っ手に両手を重ね置き、じっと土鍋を見つめる。
(あと一回で火を止めよう)
 鍋に火を掛けてからちょうど一時間が経過していた。重湯の中に沈んでいたお米たちも随分と水分を吸収し、膨れ上がっていた。
(今だわ)
 ぶわぁっ…
 盛んに上昇していく湯気。蓋が開いたことによって鎮まっていく乳白色の泡立ち。この一時間に幾度となく見てきた光景。
 カチャ。
 あかねは静かにコンロの火を消した。
「最後の仕上げは蒸らす時間ね」
 傍で夕飯の支度をしていたのどかが声を掛けた。あかねも全く準備を手伝わなかったわけではないが、自他共に認める不器用娘。ほとんど土鍋に掛かりっ切りだった。
「十分ほど蒸らすんですよね?」
「ええ、そうよ。火を消したからって出来上がりじゃないの。もう少しだけ待ちましょう」
 確かに、たかがお粥を作るというだけなのにこんなにも焦らされるものなのだろうかとあかねは思っていた。しかし、これだけ待ったからこそ、きっとお米の旨さが染み出たお粥ができあがるのだろうとも思える。
「あかねちゃん。白粥だけでは味気ないと思わない?」
 のどかの意味ありげな瞳にピンと来た。

「梅干…!!」

「ピンポ〜ン!」

 そう。半年前、のどかと一緒に作った梅干が出来上がっている頃だった。
 土用干しで三日間梅を干した時にはカラカラに干乾びた状態になった。そのままでも三ヶ月もすれば柔らかくなるというが、のどかとあかねは焼酎を霧吹きで軽く噴き掛け、甕にしまった。
「きっとおいしくできてるわよ〜」
 隅に置いてあった甕を台所中央へ持ってくる。
 ずっと昔校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こし、開ける時のようにドキドキする。
 二人はゆっくりと甕を開けた。

「うわぁ〜!」「おいしそうにできてるわ〜」

 二人の歓声に、偶然廊下を歩いていたオヤジたちと、たまたま実家へ戻っていたなびきが台所へと顔を出した。
「なんだい、なんだい?」
「何の騒ぎかな?」
「あら、梅干?」
 一人一つずつ手に取り、みんなで仲良く味見する。手にした梅干は市販のとはまた違う鮮やかさがあった。
 五人はぱくりと口へ放り込んだ。
「く〜っ」
「ほ〜っ」
「ん〜っ」
「酸っぱいけど、おいしい〜」
「やっぱり手作りね〜」
 口が窄まり、目が笑う。
「奥さんとあかねの手作りかい?」
「むむっ!しかもこれはあかね君手作りのお粥じゃないか。あいつも果報者よのぉ〜」
「やっぱ新婚さんは熱いわね〜」
「乱馬もこれで完全復帰だわ♪」
「……///」
 目の前にある梅干に勝るとも劣らぬ色に染まっていくあかねは何も言い返せない。昔だったらここでなんとでも反発できたが、夫婦となった今、そういうわけにもいかない。全くもって図星なのだから仕方がないと恥ずかしさに耐えながら聞き流すしかなかった。
「さ、そろそろお粥の出来上がりかしら?」
 助け舟のようなのどかの一言に、逃すまいと食らいつく。
「あっ、はい!」
 くるりと土鍋の方に振り返り、取っ手に手を掛けた。
 緊張の一瞬。
 乱馬においしいお粥を食べさせてあげたい一心で、のどかの教え通りにこの土鍋と向き合ってきた。が、本当にこの不器用な自分においしいお粥が作れたのだろうか。そんな不安と疑問がなかなか蓋を取らないあかねから伝わってくる。
「大丈夫よ、あかねちゃん」
 のどかはそっとあかねの背中に手を当てた。その言葉にこくんと頷く。

 ぱかっ

「うそ…」
 あかねは目を疑った。

「へぇ〜」
「これは、これは」
「ほお…」
「あかねちゃん…」

 そこには、つやつやと照り輝く白粥が湧き上がる湯気の中から顔を出していた。透き通るような白さのお米たちがその身をたっぷりと膨らませ、しっとりとした重湯の中で待っている。

「やだ…、信じられない…」
「ね?だから大丈夫って言ったでしょ?」
「見た目はOKね。味見してみましょうよ」
 沈着冷静度は相変わらずのなびき。しかし、この判断は確かに賢かった。あかねの場合、中身はハチャメチャでも見た目は普通にできていることもある。
「う、うん…」
 木の杓文字で小皿に少しずつ取り分け、五人は恐る恐る口へ運ぶ。

 ぴきっぴきっぴきっぴきっぴきっ

「「うっ…」」
「ちょっと、これ…」
「お母さま…!」
「あかねちゃん…!」

「「「「「おいしい〜っ!!」」」」」
 ヒュルルルル〜、どど〜ん!パーン!
 天道家台所に花火が舞い散る。

 口にしたお粥は、米独特の甘みがふわっと口の中で広がり、とろっとしていて滑らかな舌触りが病み付きになりそうだった。
「さ、乱馬に持っていってあげて」
「は、はい…!」
 お粥を装う手と声が思わず震えてしまう。
(早く乱馬に食べさせてあげたい…!)
 あかねは昂る気持ちを抑えきれずにいた。





四、

「乱馬?入るわよ」
 あかねは部屋の前で一呼吸をし、そっと襖を開けた。手にしたお盆には、蓋のしてある厚手のお茶碗と蓮華。
「あかね…」
 やっと現れた待ち人。乱馬は初めて人心地ついたような気がした。
 昨晩、熱に魘されながらもずっと感じていた優しくて温かな気。それが、今朝になってから途切れ途切れになってしまった。午後になり、やっと意識がはっきりしてきてからは一度も感じていない。隣にいてほしいと願っては家事で忙しいのだと諦め、諦めてはまた寂しくなる…そんなことを繰り返していた。
 本来だったら、ここ数日の試合前の緊張が解れ、あかねの傍でほっとしていたいところ。それが、今の自分は風邪で身も心もダウンしてしまっている。無理は承知の上だが、できるだけ傍にいてほしかった。
「…何やってたんだよ…」
 お粥を作っていたとは分かっていても、寂しさと恨めしさがついつい責め口調にさせる。
「ごめんね。お粥から目が離せなかったから」
「んなに大変なのかよ」
「ええ、そうよ。お母さまが土鍋の前から離れちゃいけないって」
「ふ〜ん」
「お粥、食べられるでしょ?」
「って言うより、食べられる代物なのかよ…」
 悪いとは思いつつ、自分の体も心配な乱馬。思わず聞いてしまう。
「失礼ね!ちゃんとお母さまに教わった通りにやったし、さっきもみんなで味見したんだから大丈夫よっ」
「んじゃ、いただくかな♪」
 と、現金極まりない。
 よろよろと起き上がり、母親お手製のドテラを羽織る。
「はい、どうぞ」
 電気のスポットライトを浴びた白粥が乱馬の前に出された。
「へぇ〜」
「何、感心してんのよ」
「いや、見た目はいいんじゃねーの」
「もうっ!なびきお姉ちゃんと同じこと言ってる。だから大丈夫だって言ってるじゃないっ」
「そう、ツンツンするなよ。かわいい顔が台無しだぞ」
「な゛っ…!馬鹿なこと言ってないで、早く食べて体力つけなさいっ」
 すぐ向きになるあかねにくくっと笑い、差し出されたお椀を手に取った。
「この梅干…」
「あ、分かる?半年前、お母さまと一緒に漬けた梅干よ。絶品なんだから!」
「…まさか、こんな状態で食べることになるとはな…」
 自嘲気味の声。あかねの胸がズキンと痛んだ。
「これ食べればすぐ元気になるわよ」
 励ましたいけどうまい言葉が見つからない。あかねは精一杯の気持ちで言う。
 そんな妻の思いやりが伝わったのだろう。乱馬は茶目っ気いっぱいの瞳と笑みを見せ、
「食べさせてくんねーの?」
 あかねから心配を消し去ろうとする。
「な、何言ってんのよっ」
「だって、P助には食べさせてやってたじゃねーか」
「それは、Pちゃんが一人で食べられないからでしょ!…って、あんた、もしかしてPちゃんにヤキモチ妬いてたの?」
「うっ、うるへー!」
 初めは優位に立っていた乱馬だったが、どうやら立場が逆転してしまったらしい。急いで蓮華を動かし始めた。熱のせいなのか、それとも本当のことがばれてしまったせいなのか。乱馬の顔は赤かった。
「早く食べないと冷めちゃうわよ」
「わ、分かってるよっ」
 図星を指され慌てる乱馬はいそいそと梅干を解し、白粥と一緒にひょいっと掬い上げるとそのまま口へ運んだ。

 ぱくっ

「……」
 蓮華を銜えたまま動かぬ乱馬。あかねは固唾を呑んでじっと見つめた。


「うめー…」


 ぽろりと零れた一言。
「もうっ!だから、さっき言ったじゃない。お母さまとあたしが漬けた梅干だって。あんた、その赤いのが梅干以外に何に見えるのよ」
「は?」
 どうやらあかねは、乱馬の『うめー』が、お粥の美味さではなく、白粥に乗せた梅のことを言っているのだと取り違えたようだった。
「…バカ。お前、いつからそんな突っ込み入れるキャラクターになったんだ?」
「?」
「相変わらずニブちんだな、お前は」
 蓮華片手に苦笑する。しかし、その苦笑いもふっと優しい笑みに変わっていった。

「お粥がうまいって言ったんだよ」

「…え?」

 お粥がうまいという言葉にも、妙に大人びた優しい微笑みにも、呆然となるあかね。
 ほくほく湯気の上がるお粥を蓮華で掬い、ふーふーと冷ましながら乱馬は黙々と食べていく。熱で味の感覚を失った舌だったとしても、あかねの想いがたっぷりと入ったお粥は弱り切った心と胃に優しく溶けていった。
 一口一口味わいながらお粥を食べていく夫。あかねはただただ眺めているばかりだった。





五、

「…うまかったよ。ありがとう」
 空になったお碗の中で蓮華がカランという音を立てた。

 『うまかったよ』。

 そのたった一言がただ聞きたくて今までどれほど苦汁を嘗めてきたことか。乱馬に「おいしい」と言わせたくて呑んできた涙と奮闘の日々。決して今回が初めてではなかったが、今日ほど乱馬の「おいしい」という一言が胸に響いてきたことはなかった。あかねはきれいに平らげられたお椀をそっとお盆に運び、込み上げてくる嬉しさを必死に抑えるように答える。
「…よかった。食欲があるなら、もう大丈夫ね」
「ああ、そうだな…」
「じゃ、あとはたくさん水分補給して、汗をかいて、熱下げなくちゃね」
 早く元気になってもらいたかった。もっと傍にいたいとは思ったが、病人には休息が一番だと思ったあかねは早々に引き上げようとする。が…
「…乱馬?」
 火照った手が立ち上がろうとするあかねの手を捕らえた。

「…もう少し、ここにいてくれるか」

 熱で潤む円らな瞳。構ってほしいと甘えてくる子犬のような瞳で言われたら拒めない。掴まれた熱い手からドクン、ドクンと脈打つ音と共に自分の体へと熱が入り込んでくるような気がした。
「仕方ないわね。ちょっとだけよ」
 普段なら絶対に見せない弱気な姿。人間、病気をしていると気が弱くなるというが、この強気の塊のような夫も例外でなかった。
 妻がいてくれるという事実に、安堵の色が赤らむ顔に広がっていく。
 そんな乱馬を見つめながら、あかねはなんだか自分の子供でも看病しているような感覚に捕らわれ始めていた。
 守ってあげたい。
 そんな母性本能にも似たものが体の内から脈々と溢れ出てくる。
 あかねは明かりを豆電球に戻し、夫の傍らに腰を下ろした。

 なんとも言えぬ温かい眼差しが自分に注がれていくのを感じると、乱馬はその心地よい存在に思いっ切り甘えてみたくなった。
 彼女の大気圏の中に身を沈めたい。
 乱馬の休まる場所は布団の中ではなく、あかねの胸の中だった。

「ちょっ…、どうしたの?」

 乱馬はあかねの肩に頭を預けていた。熱があることが十分に伝わってくる額は、その細い首に押し付けられる。
「あかねの肌、さっきのお粥みてーだ…」
 華奢な鎖骨に微かに触れる熱い唇。豆電球の明るさでは、はっきりと見えるはずもないのに、熱で意識が朦朧としているのか、あかねの体まで蕩けてしまいそうな熱い言葉を口走る。
 あかねは赤子をそっと包み込むように乱馬を抱きしめた。片手は彼の背中に回し、もう一方の手で彼の頭を優しく撫でていった。
(あかね…)
 不動の安らぎ。
 もしも自分が朽ち果てるならこの腕の中がいい。乱馬はそんなことを思っていた。絶対に手放したくないこの愛しさと温かさと心地よさ。乱馬は両手を回し、更にその熱い体を押し付けた。
(こんなに熱いじゃない…) 
 縋りつくように抱きしめてきた夫の体はまだ熱が籠っていた。
 素直に甘えてくる乱馬の言動にはどきどきと胸が高鳴り、病気からくるものだとは分かっていても我が儘を言われる嬉しさは偽れない。正直言ってもう暫くこうしていたい気持ちはあった。けれども彼の体がこれほど辛い状態にあるのを思うと早く寝かせてあげたかった。
「さ、休みましょ」
 あかねは自分の体を乱馬から離し、横になるように勧めた。ゆっくりと頭を持ち上げた乱馬の瞳を覗き込む。
 そのまま見つめ合う二つの影。
 自然と唇が惹かれ合っていく。

「…っと。やっぱだめだ」

 乱馬の手があかねの口を塞いだ。
「…どうして?」
「風邪が移っちまう」
「心配してくれてるんだ」
「…ったりめーだろ」
「ふふ。移せば治るわよ」
「んな治し方はしねーよ」
「じゃ、仕方ないわね」
「…あか…?」

 ふわっと甘い空気が己を包んだかと思うと、額に柔らかな感触がした。

「風邪が完全に治るまでは、お預けね」
 ちゃんとキスがしたかったら早く風邪を治しなさいと言わんばかりの子悪魔的な笑み。
「…ばーか…」
 優しく残る唇の感触に酔いしれながらも、もぞもぞと布団の中へと戻っていく。
 あかねは寒くないようにと布団を肩まで掛けてやった。そして、すっぽりと布団に包まれた乱馬を見つめると、ひんやりとした手を夫の額に乗せ、前髪をそっと掻き上げた。

「早く、よくなってね」
 そう。これが一番の願い。
 「おいしい」と言われることも、甘いキスもほしいけれど、彼が元気になってくれなければ何の意味もない。

「…ああ」
 自分の前髪と戯れる細い手に、火照った手を重ね合わせる。熱を持つ額と手には、ちょうどいい冷たさ。

 訪れた沈黙の中で静かに交わされていく情愛。
 二人の間にしか流れない神聖な空間と時間がゆっくりと舞い降りる。

「…なぁ…」
 重ね合わせた乱馬の手があかねの腕へすっと伸び、愛しい人を引き寄せる。
「ちょっ…!」
 あかねは乱馬の上に倒れ込んだが、体重が乗らないようにと崩れた腕で必死に支えた。
 乱馬の手はあかねの頬に添えられ、そのまま柔らかい髪を梳かしながら耳の辺りで止まった。無造作に髪を絡ませ撫でていく指の動きに、あかねは全ての感覚を奪われていく。

「…やっぱ、移してもいいか…?」

 下手に尋ねながらも乱馬の瞳はすでにあかねの唇を欲しそうに見つめていた。
「…どうしようかな」
 珍しく感情を包み隠さず見せる乱馬に心が擽られ、意地悪を言ってみたくなる。
「やだって言っても、逃がしゃしねーよ。今まで傍にいなかった罰だ」
「だって、お買い物行ったり、お粥作ってたりで忙しかったのよ」
 ちょっと拗ねて抗議してみるが、無駄なのは分かっていた。
「だから?」
 かかる吐息が熱い。
「だ、だから…」
 すぐそこには求める唇。
「…離してなんかやんねー…」
 甘い囁きに意地悪も抗議もどうでもよくなる。
「強引…」
「んなの、分かってるだろ…」

 最後の言葉は、重なり合う唇へと消えていく。
 静寂に幾つも響くキスの音。
 迸る感情を抑えるかのように軽いタッチを何度も何度も繰り返した。

「…まだ、こんなに熱があるのね…」
「…ああ…」
 唇が離れ、吐息が絡まり合う。
 乱馬の両手はしっかりとあかねの両頬を包み込み、その瞳は妻の顔をいとおしそうに眺めている。
「もう…、欲張り…」
 瞳の訴えを読んだあかねに、鼻先で戯れくすりと笑った。
「…お粥だけじゃ足らねーよ…」
 そして、ゆっくりと小首を傾げ、今度は深く重ね合わせていった。



「これで完全に移しちまったな」
 たった今堪能したばかりのさくらんぼの感触を親指で楽しむ。詫びれる様子などない。
「あたしが寝込んだら、今度はあんたが看病してよね」
「任しとけって」
「…!」
 もう一度交わす軽い口付けは誓いの印。
「もうっ///、病人は早く休みなさいっ」
「なんだよ、もう行っちまうのか?」
「なんだったら、一緒に寝てあげましょうか」
 からかわれっぱなしでは悔しいので反撃を試みる…が、
「…んな元気ねーぞ」
「ばっ…!何言ってんのよっ!このスケベ!変態!」
 やはりあっさりと返されてしまった。
「ったく、自分の亭主捕まえて、それはねーんじゃねーの?しかも俺、病人なのに…」
「もう、うるさいっ。ごちゃごちゃ言わずにさっさと寝なさい!」
「へいへい。分かりましたよ。あ〜、おっかねー、おっかねー」
 自分の冗談に面白いほど素直に乗ってくるあかねの反応が楽しくて、満足げにかわいい妻を見送る。

 口に優しく残るはあかねの想い。
 愛情詰まったお粥と口付け。
 心も体も温かな安らぎに包まれていく。

 パタパタパタと廊下を小走りするスリッパの軽やかな音に幸せを感じながら、乱馬は穏やかな眠りへと落ちていった。








書き上げてしまってから唸ってしまったのですが、 風邪+白粥+梅干、という構造から成り立っているこの作品。
どうも、一之瀬さまの描いた「梅騒動記」と「Hot Love」を 足して2で割ったようなお話になってしまいました。
どうか平にご容赦を…。
(作者さまメール文から)


 何をおっしゃるかさねさま〜素晴らしいです。
 梅干作品・・・「梅騒動記」は実体験というか本当の主婦ネタ。毎年漬ける。我が家の梅・・・
 味噌も漬けます。最近は少量しか作りませんが…。(受験生を抱えると冬場は何かとせわしなくって)
 味噌作りってあかねちゃんはつけるのにうってつけな作業があるんです。味噌玉丸めてボンボン容器に投げ入れるという工程など、あかねちゃん向きかと思います。

 で、あかねちゃんは乱馬くんの風邪がうつったのじゃ?と心配です。
 そのあたりあかね編「思いやり」でご堪能ください!
(一之瀬けいこ)



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