◇告白   (前編)
かさねさま作


 一、乱馬の努力


「きゃー!綺麗〜!乱馬!こっち、こっち!」
 大はしゃぎのあかねが展望デッキに立ち、後ろを歩く俺を急かすように呼ぶ。緑の黒髪とすらりとした脚を見せるミニスカートがお台場に吹く潮風に揺れている。
 上は白のタートルネックにカーキーのラムウールベスト、下はベージュのツィードミニスカートという軽装だけど女の子らしさも忘れないコーディネート。三月ってもまだ寒いから、さすがに生足じゃねーが、なんだってこいつはミニスカートなんて穿いてきたんだろう。
 日頃から寸胴だの色気がねーだの言ってるが、別に本気で言ってるわけじゃねえ。
確かに女に変身した俺の抜群のプロポーションに比べたら、ちったぁ劣るかもしれねーが、あかねは十分魅力的だ。特に最近は年頃のせいか俺が見ても綺麗になったと思う。…天邪鬼な俺はそんなこたぁ言えねーが。

(本当に、鈍感娘だよなぁ…)

 自分の振り撒く魅力がどれほど男たちを誘惑しているか分かっちゃいねえ。鈍感、且つ無防備ときてやがる。まぁ、俺の普段の暴言もその鈍感さを助長しているのかもしれねえが…。ったく、こっちの心配も考えてほしいぜっ。

「そう、焦るなよ。まだたっぷり時間はあるんだぜ」

 俺はゆっくり近付き、あかねの真後ろに立った。…他の野郎どもの視線からあかねの脚を隠すように。
「乱馬…?」
 並んで立たなかったのが不思議だったのか、怪訝そうな顔で俺を見る。
「おっ!ホントだな。晴れててよかったじゃねーか」
 誤魔化すように目の上に手を当て、遠くを望むポーズを取る。そして、眼前に広がる海と、海越しにはっきりと見える東京のスカイラインを眺めた。

「うん!!」

(うっ…///)
 眩暈がする。
 俺のはぐらかしにも気付かず、今日のデート日和な天気にご機嫌な笑顔を見せた。

 このナイーブな俺様がありったけの勇気を振り絞って誘ったデート。
 屈託のない笑顔を見せているこいつに、「告白」をするために…
 この笑う瞳が涙で濡れぬように…
 俺はあかねをデートに誘った。



 卒業を数週間後に控えた三月のある日、部屋の掃除を手伝うという名目であかねの部屋にいた俺は、叩きを持った手を止め、話を切り出した。
「な、なぁ…」
 どっ、どっ、どっ、どっ…
 鼓動が早くなっていく。
「何?」
 俺の尋常でない心臓のことなど全く気付いていないあかねは、こちらを振り向きもせず、引出しの整理に没頭している。

「お、おめーよ…。ら、来週の土曜なんか…暇じゃ、ねーか?」

「…え?」

 さすがの鈍感娘でも、土曜日に時間があるかどうかなどと聞かれれば俺がデートに誘っていると分かるようで、あくせく動かしていた手を止め、こちらに振り返った。
(わぁぁぁぁ!バカ、バカッ!そんな大げさな顔すんじゃねえっ!話しにくくなるだろうがっ)
 緊張と焦りと照れで口の動きはますますおかしくなる。
「い、いや、だからさっ、ど、どっか行かねー、かなぁ…って…。あっ!お、おめーが嫌だっつーなら、べ、別に、いいんだけど、よ…」
 何が何でも誘い出したかったが、すっかり弱気になり、語尾がフェイドアウトしていく。
 情けねえっ!

「…え?」

 まるで、狐にでもつままれたような顔をしている。
 これだけあからさま(?)にデートに誘ってるっていうのに、俺がこんなことを言い出したのがよほど信じられなかったようだ。ったく、こんな小っ恥ずかしいことはさっさと終わらせたいのによー…。
(あー!じれってえっ!)

「本っ当に鈍い女だなーっ!デートに行かねーかっつってんだよっっ!」

 やっと意を解したのか、あかねの目がみるみる見開いていく。そして、
「…う、うん!!」
 という答えと満面の笑みが返ってきた。

 かぁぁぁぁぁぁ…
 沸騰直前のやかんのようになっていく俺の顔。急いで180度回転し、いそいそと叩きを掛け始める。
(///…ったくよ〜、初めっからそういう顔で答えろよな…)
 俺が最初からはっきり言えればよかったんだろうが、そんなことが簡単にできてりゃ、今頃二人の関係はもっと違うものになってたはずだ。
自分の非は棚に上げ、心の内であかねに悪態をついていた。

 そして迎えた今日のデート。
 一緒に家を出ず、駅で待ち合わせをした俺とあかね。同じ家に住んでるんだから一緒に出てもよかったが、俺たちが住んでいるのは、何てったって、あの冷やかし大好き家族。二人がデートするなんて知った日にゃ、どうなるか分かったもんじゃねえ。まっ、おふくろだけには今日のことは言っといたけどよ。
「…なんか、乱馬、いつもと違う…」
 先に来ていた俺を見て、あかねは開口一番にこう言った。
 そりゃ、違うだろうよ。いつものチャイナ服じゃなくて、おふくろが気を回して買ってくれた服を纏っていたんだからさ。ざっくり編まれたインディゴブルーのタートルネックに、黒のコーディロイパンツ。着慣れたチャイナ服じゃねーから俺自身にも照れがあったが、まぁ、たまにはこんな格好をしてみるのも新鮮かもしれねえ。
 それでも、やっぱりおさげは外せなかった。これは、俺が「俺」であるための一つの証。
 特に、今日みたいな日にはな…。



 気持ちのいい潮風が俺とあかねの頬を撫でていく。
 少しだけ春の匂いがした。
「よかったね、暖かくて」
 朝から笑顔が零れっぱなしのあかね。
 こんなに笑っているあかねが側にいて嬉しいはずなのに、俺の胸が小さく疼いている。

(暫くは二人の時間を楽しもう…)

 胸の奥に感じる小さなしこりを掻き消すようにあかねの手を取った。

「よっしゃ!今日は思いっ切り遊ぼーぜっ!」
「うん!!」

 俺たちは再びゆりかもめに乗り、青梅駅へと向かった。



「きゃー!素敵ー!」
 ヴィーナスフォートとかいうモールに入ったあかねは感激の連続だったようだ。
 ヨーロッパの街並を再現した館内はもちろんのこと、女が好きそうな店がずらりと建ち並んでいたからだ。
 どうして女ってやつはショッピングなんてものにこんなに目を輝かすんだろう。
 俺は女には変身するが、心は正真正銘、年中無休で「男」だ。女装はするが、あくまで「仕方なく」だ。だから、ショッピングの楽しみなんて分かんねえ。ましてや、ただ見るだけのウィンドーショッピングなんて尚更だ。

「きゃー!このぬいぐるみ、かっわいい!!」

(それでも…)

 子供のような笑顔を見せるあかねが側にいるだけで、俺は幸せな気分になれた。

 俺は時々、あかねみてーな女がいねえかどうか、街を歩きながら観察することがある。
 世の中には三人自分に似ているやつがいるって言うだろ?だから、ちょいと範囲は狭いが、電車の中や街を歩く時なんかにこっそり探してみる。別にそっくりさんを見つけようとは思わねーが、少しぐらいなら似たやつがいるんじゃねーかってな。
 でも、いねーんだよな、やっぱり。"あかねに似てる"って思える女は。
 だけど…

 ついに見つけちまったんだ。
 「あかねに似てる」と思える者を…。

 そいつは本屋にいた。いや、正確には「あった」と言ったほうがいいのかもしれねえ。少年サ○○○を買いに本屋へ行き、ついでだからと言ってあかねに頼まれた雑誌を手にした時、俺は「こいつだ!」って思った。

 雑誌の裏表紙にでかでかと載っていた外人の赤ん坊の写真。

 長い睫と、くりっくりの澄んだ瞳。そして、出来立てのパンみてーにふっくら柔らかそうな頬。
 髪の色も目の色も違うが、俺は「あかねに似てる」って思った。
 純真無垢で汚れを知らない、生まれたばかりの赤ん坊のようなあかね…

 そんなお前が無邪気に笑っていてくれさえすれば、俺の心はふんわりとした優しさに包まれていくんだ。

「なぁ、腹減らねーか?」
 俺の腹時計が食いもんを要求する。
「もうっ、あんたって人は食べることしか興味ないわけ?」
「当ったりめーだっ!」
 得意げに答える。
「…聞いたあたしがバカだったわ」
 ハァというあかねの溜息が漏れると、
「分かったわよ。時間もちょうどお昼だし、どっか入りましょ」
 ブツブツ文句を言いながら、小洒落た店へ入っていった。



「さ・て・と。お腹もいっぱいになったことだし、次はどこ行こうか、乱馬」
 腹拵えの済んだ俺たちは午後の部を開始しようとモールを出た。
「あれ、乗らねーか?」
 そして俺は、いよいよ「告白」へ向けて動き始めた。
「…観覧…車?」
 疑うようなあかねの目。
「…他に何があるんだよ…」
 またもや俺が言いそうもないものを選んできたのが信じられなかったようだ。
「まさか、あんた…変な気起こすんじゃ…」
「ばっ!ばかっっ!誰が色気のねー女なんか…!」

 ドカッ
(うげっ!)

 あかねのパンチが俺の鳩尾に入る。
「こんっの、凶暴女!」
「うるさいっ!ほら行くわよっっ!」
 そう言っておさげをむんずと掴むと、立膝をついたままの俺をずるずると引き摺って観覧車の方へ向かって行った。
(本っ当に素直じゃねーな。…あかねも俺も)
 なんだか可笑しくなって、鳩尾を押さえながら独り、笑いを堪えていた。

 自分から誘って乗り込んだ観覧車だったが、小さな箱の中の俺はまるで借りてきた猫――「猫」なんて表現はしたかねえが…――だった。
 一体どう切り出そうか。どう言えばいいだろうか。
 いざその時に直面してみると、うまい言葉が全く浮かんでこない。あーでもない、こーでもないと考えあぐねいている間にも観覧車はどんどん回っていく。
「うわぁ!見て、見て!建物があんなに小さい!」
 気持ちは焦るのに、あかねの喜んでいる顔を見ていると、喉まで出かかった切り出しの言葉さえ引っ込んでしまう。
(お、男らしくねー)
 おふくろの口癖を胸の中で唱えると、俺はゆっくりと深呼吸し、あかねを呼んだ。

「あかね…!」

 思わず上ずった声にあかねはびくっとし、俺を見た。
「あ、あのさ…」
 切り出そうとしたその時、

「乱馬…」

 あかねが真剣な眼差しで俺を見つめていた。
 一瞬の静寂が訪れ、狭いボックスの空気が緊張する。見つめあったままの俺とあかね。

(……)

 もしかしたら、あかねはこれから俺が言おうとしていることが分かっているのかもしれない。
 そう思った。
 が、次にあかねの口から飛び出してきたのは、とんでもねー的外れな言葉だった。

「顔にご飯粒が付いてるわよ」

(…え゛?)

「…どっ、どこ?どこ?」
 まさかとは思ったが、自分の顔を手で探ってみる。

「きゃははは!引っ掛かった!ばっかね〜。これだから単細胞って言われるのよ」

 ころころと笑うあかねの声が、観覧車の張り詰めた空気を一変させる。
 俺の体がわなわなと震え始める。

「…子供みてーなこと、すんじゃねぇーっっ!」
 と怒鳴ると、

「ほら、着いたわよ」

 16分の観覧車は終わっていた。

(はぁ…。こんなんじゃ、一生掛かっても言えねーよ…)
 観覧車の扉が開くと同時に中から俺の溜め息が聞こえてきた。



「ねぇ、少し歩いてみない?」
 次なる機会を窺っていると、それはあかねの方からやってきた。
 ゆりかもめでそのままアクアシティの方へ行くつもりだったが、せっかくのいい天気なので散歩がてら歩いてみようと言うのだ。
 確かに三月にしてはよく晴れて日差しが暖かかった。
(潮風を感じながら歩くのもいいかもれしれねーな…。話すチャンスができるかもしれねえ)
 そんなことを考えながら俺はあかねの隣を歩き始めた。二人並んで歩くいつもの通学路のように。

 パレットタウンからプロムナードを歩き、でっかいビルや静かな公園なんかを通り過ぎると、コーストデッキが遠くまで続く広い公園に出た。
 そこには、土曜の午後の一時を楽しむ人たちの姿があちらこちらにあった。
 レンガの敷かれた海沿いに伸びる散策路を歩く者たち。芝生の上で弁当を広げ談笑する者たち。デッキに寄り掛かり語り合う者たち。芝生に寝転び本を読んだり、ボールで遊んだりする者たち。ベンチに座り海を眺める者たち。犬と戯れる者たち。
 それぞれが、思い思いの時間を過ごしていた。だけど…

 ここにいる誰もが、幸せそうだった。

 優しく届く陽の光と、海が運ぶ風に包まれ、大切な人と同じ時間を過ごす。
 恋人、家族、友人、ペット…。
 とても単純で、決して特別なことではないのに、ここにいる者たちの表情(かお)はとても穏やかで、そして笑いがあった。

「…幸せだね」

 あかねはそっと微笑みながら俺と同じ景色を眺めていた。
 少し遠くを見つめる目。
 「幸せだね」と言ったあかねは微笑んでいるのに、このまま消えていなくなってしまいそうなほど弱々しく見えた。
 はっとして、あかねの手を握る。
「…乱、馬?」
 驚いて俺を見上げた。
「…おめーは…」
 聞かずにはいられなかった。
「?」

「…おめーは、どーなんだよ」

 海からの風がさあっと二人の間を吹き抜け、俺の言葉を攫っていく。
 とても長く感じた一瞬の沈黙。
 あかねの顔がゆっくりと微笑みに変わり、静かな声が俺の耳に届いた。

「…幸せよ」

(……)

 握り返してこないあかねの手がひどく俺を不安にさせていく。こんなに近くにいるのに、遠くに感じてしまうのは何故なんだろう。


 なぁ、あかね…
 もしかして、お前はもう分かっているんじゃないのか?
 今日、俺がお前に告げることを。
 …高校を卒業したら、暫くお前を置いて修行の旅に出てしまうことを。



 二、告白


 ずっと、言えずにいた。
 三年になってから進路相談を受けるあかねや周りの友達たちを尻目に、いつもと何ら変わらぬ生活を送っていた俺。あかねが都内の短大へ推薦入学を決めた昨年の秋だって、俺は今後の身の振り方をあかねに聞かれても、きちんと答えてやれなかった。
 疾うに修行のことは決めていたのに、なんだかんだと伸ばし伸ばしにして、結局、今日まで来てしまった。

 ああ、正直に言うよ。
 あかねを傷つけてしまいそうで怖かったんだ。

(いや、違うな…)


 本当は、逃げてたんだ。

 …己の気持ちをはっきりとあかねの前で認めてしまうことから。


 今までは、悪態をついたり、否定したりすることで自分の気持ちを直視しないで済んできた。本来ならば、己の気持ちに気付いた時点で、素直に「お前が好きだから」と言ってやるべきだったのは分かってたさ。
 でも、俺のこの性格からして、そいつは無理だ。
 突っ張った勢いで虚勢を張ることで、何とか取り乱さず心のバランスを保てていた。顔を合わせればいっつも喧嘩になっちまうけど、不即不離の関係に居心地の良さを感じてたのは事実だ。

(だけど…)

 確かに、今まではそれで良かったのかもしれねえ。でも、今度の旅は宝来山や呪泉洞の時とは訳が違う。離れる時間だって距離だって半端じゃねえ。そんな状況であかねを一人にしちまうんだ。俺の「ホントの気持ち」を言わずに「待っててくれ」なんて虫が良すぎる話じゃねーか。

 この修行の旅は…
 それなりの覚悟と信念があってやることなんだ。決して、生半可な気持ちじゃねえ。
 神なんて信じないが、もしいるんだとしたら誓ってもいい。

 もう一度呪泉郷へ行き、男に戻るために。
 もう二度と、呪泉洞でのような、底なしの絶望の淵にこの身を沈めてしまわぬために。
 そして、己の魂そのものであるあかねを、一生守れるだけの男になるために。

 俺は修行の旅に出るんだ。

 世界中を探し回ったって、俺以上にあいつのことを、あっ、あっ、あっ、愛…
(だぁぁぁぁ!とても言えねえっ)
 でも、そんなやつ、いねーよ。
 そう断言してやるよ。
 だけど俺には、―これほどあかねのことを想っていても―はっきりと己の気持ちを告げる自信がねえ。
 いや、逆に、こんなに想っちまってるからかもしれねえな。
 俺自身の中でさえ、この激しい想いを持て余しちまうことだってあるんだ。自分でも計り知れないほどのこの気持ちを、どうあかねに伝えろって言うんだ。
 ましてや、伝え終わったその時、俺は一体どうなっちまうんだろう…



 結局何も話せないままアクアシティへと向かい、デックス東京ビーチで遊んだ俺たちは、夕飯を済ませ、最初に来た海浜公園のビーチを歩いていた。
 犇めき合うビル街にほのかなオレンジ色の夕影を当てていた入り日は静かにその身を沈め、ひっそりと夜の帳が世界を包んでいた。
 都会の夜は月の光も星の光も感じさせない。代わりに無数の真っ白な光が夜の闇に浮かび、見る者を魅了する。
 俺たちが歩く公園からはそんな光の演出をバックに、ライトアップされたレインボーブリッジと東京タワーが望めた。ここお台場を囲む海に映し出されたブリッジのライトが波打つ水面で静かに揺れている。
 この浜辺を歩く誰もが、ここから見える夜景に心を奪われていることだろう。…そう、その魔法に掛かり切れずにいる二人、以外は。

 波打ち際に沿って動く二つの影。
 ただ並んで、無言のまま歩く。
 決してこの沈黙に心地よさを覚えているわけじゃなかった。
 俺は、刻一刻と迫り来る帰りの時間が気になりながらも、早く修行のことを告げなければと焦っていた。
 ここでチャンスを逃したら、もう後がない。…そんな思いだった。
 あかねは、うっとりとするような夜景には目もくれず、自分たちの足元にある砂浜をじっと見ている。

(ま、まずは、止まってと…)

 俯き歩くあかねを横目でチラッチラッと見ながら、話すきっかけを作ろうとした刹那、静かだった砂浜に潮風が吹いた。
 あかねがほんの少し顔を上げ、髪を押さえる。
 空気が、動いた。

「なぁ、あかね…」

 俺は意を決して、足を止めた。
 あかねもその歩みを止め、何も言わず俺を見上げる。その瞳はどこか虚ろげだった。

「俺さ…、しゅ…」

「見て…。すごい綺麗」

 『修行の旅に…』と言い掛けて、あかねの言葉が重なった。
 俺から視線を外し、レインボーブリッジを眺めていた。

(…あかね…)

 直感した。
 あかねはもう分かっているんだ。
 俺が修行の旅に出ることを。
 知っていたから…。

 もう、迷いはなかった。
 お互い避けていたんじゃ、いつまで経っても先に進めねえ。
 あかねは、これから訪れようとする暫しの別れを恐れている。
 でも、これは永遠の別れじゃねえ。
 …永遠の別れの苦しみ――二年前呪泉洞であかねを失いかけた、あの心臓を抉り取られるような耐え難い苦しみ――は、俺が一番よく知っている。

(…今なら言える)

 そう確信した。
 自分の想いの丈と、修行のことを、今なら伝えられると思った。


「あかね。俺、暫く修行の旅に出るよ」


 何の戸惑いもなかった。今日一日、あれだけ喉に支えていたのが嘘のようだった。
「…あかね?」
 何も言わず、レインボーブリッジを見つめている。

「俺…、お前のこ…」

「分かった…」

 三年に亘り蓄積された想いを告げようとしたその時、あかねの低く静かな声がその先を許さなかった。

「分かったって…、お前、本当に…」
 胸騒ぎがした。
 こいつは、いつだって人の話しを聞かず早とちりする嫌いがある。
 だが、悪い予感ってのは当たるもんで、今回のも見事的中した。

「…勝手に…中国でもどこでも…、好きなとこ行っちゃえばいいじゃない…」

(!!)

 突き放すような冷めた声。
「おっ、お前…!俺がどんな思いで…っ!」

「知らないわよっっ!乱馬の思いなんて!!」

 感情の爆発したあかねを止めることは、もう、できなかった。
 今まで無理やり押さえつけられていた不安が一気に解き放たれたように、奔流の如く俺に向かってきた。

「いっつも勝手に一人で消えちゃって…、あたしのことなんてどうでもいいんでしょっっ!どうせ親が決めた許婚だもんね!!こんなかわいくない許婚なんかに気遣わないでいいから、さっさとどっか行っちゃいなさいよっ!!!」

 一言も返さずあいつの言葉を聞いていた。
 いつもならここで反発し、心にもないことを言って喧嘩になるだろう。だけど、今そんなことしちまったら、俺たちはもう二度と一緒にいられなくなる。
 そんなのは真っ平ご免だ。
 俺たちは、そんなことをするために今ここにいるわけじゃねえ。

「黙ってないで、何とか言ったらどうなのよっっ!…黙ってるってことは、『そうだ』ってことなんだ…!そうなんでしょっ?!」

 意地っ張りで強情で、素直じゃないあかね。
 そんなあかねの口から飛び出す言葉とは裏腹に、抱えきれなくなった気持ちで揺れる瞳。
 あいつの心が「助けて」と叫びながら散り散りに引き裂かれていくようで、俺をひどく切なくしていった。

(あかね…。お前は…)

 傷ついた、一羽の鳥…みたいだな。
 羽が傷ついているのに、それでもがむしゃらに飛ぼうとしている。
 胸が締め付けられるような悲痛の声を上げ、傷ついた翼を精一杯広げて飛ぼうとしている…俺の、鳥。

 ただ、優しく抱き締めたかったんだ。
 そんなに無理しなくていいんだ。お前の叫びは痛いほど分かるから。だから、俺にその身を預けてくれるだけでいい。そうしたら、きっと俺の想いでその翼を癒してやるから。
 だから…

 パシッ

 あかねは俺の手を跳ね除け、こう続けた。

「どうせ二、三年ぐらいは放っとくつもりなんでしょっ!いいわよ!乱馬がその気なら、あんたのいないうちに新しい彼氏でも許婚でも作ってやるんだからっっ!乱馬にとってあたしはどうせその程度の許婚なんでしょっっ?!もう…、乱馬なんて大っ嫌いっっっ!!」

 ピンと張っていた糸のようなものがぷっつりと切れたような気がした。
 今度は、俺の制御装置が狂い始めていた。

「ちょっ…!痛っ…!」
 あかねの腕を食い込むほどの力で掴んだ。

「来いっっ!!」

 そして、有無を言わさずあかねを引っ張っていった。

「ちょ、ちょっと!!どこへ行くのよっ!離してよっ!」
「いいから、来いっ!」

 俺の足は、すぐ側に聳え立つ建物へ向かっていた。



 つづく




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