◆観察
かさねさま作


「さっむい!」
 木枯らしで耳がぴりぴりと痛い。突き刺すような寒さから逃れるように銀行へと駆け込む。
 ウィィィィン
 自動ドアが開き、室内の暖かい空気が冷えきった体を迎え入れた。
「あったか…」
 そうひとりごちてATMの列に加わる。お昼時とあって、割りと長い列ができている。最後尾についたあたしは、それほど時間に追われている身ではないという余裕から、なかなか進まない列に苛立つことなく、静かに並ぶ人々をぼんやりと観察し始める。
 この時間に来ているのは主婦層が大半。中にはビジネスマンやOL、それから学生さんらしき人がいるけど、圧倒的におばちゃんが多い。
「あぶー」
(ん?)
 そんな中に、赤ちゃんを連れた若い夫婦があたしの前に立っていた。
(できちゃった結婚かな…)
 若くして赤ちゃんがいるってだけで、そう思ってしまうのは偏見かもしれないけど、前にいる若夫婦はまだ二十代前半に見えた。
「あー、あー」
 お母さん――といってもあたしよりずっと年下そうだけど――が、まだ一歳にもいかなさそうなかわいい赤ちゃんを胸の前で抱いていた。
「ん?なぁに?」
 優しそうな目。
 たとえ少女のあどけなさを残していても、母としての眼差しを我が子へと向けている。いとおしくてたまらない…そんな愛情たっぷりの想いが赤ちゃんへと注がれていく。
「あー、うー」
 赤ん坊から発せられる音はまだ言葉としては成立しない。だけど、母親から送られてくる愛の信号をしっかりと受け止め、そして送り返しているのだろう。小さな小さな手で一生懸命母の袖を握り、自分を慈しみ愛してくれる人を見つめ返す。
 ふと、その赤ちゃんがあたしを見た。
 赤ん坊っていうのは、一度視線を合わせるとなかなか逸らしてくれない。あたしの中でほんの少し芽生えてしまったこの母親と赤ちゃんへの好奇心から、あたしもその子をじっと見つめ返す。
 瞳を微笑ませて見てたけど、赤ちゃんは笑ってくれない。じっとこちらを見ている…いや、睨んでいると言ってもいい。なんだか怯えているようにも見える。
(やっぱり、駄目か)
 赤ん坊は嫌いじゃないし、それほど嫌われる方じゃないけど、今回は玉砕。
 赤ちゃんはぷいっと顔を正面へ戻すと、母親の顔を食い入るように見つめ始めた。ついさっきまであたしを見ていた強い瞳とは違う。何か大きくて温かいものを見つめる目。その瞳は安心しきっている。
(お母さんが一番か…。そりゃ、そうだわ)
 そんな妥当的理由を付け、ちょっぴり傷付いた心を慰める。
 目と目で会話をしているんだろうか。見つめ合う母親と赤ん坊。二人の間に入り込む隙間はない。
 ふっとお母さんが微笑んだ。
「きゃは…」
(あ…、すごい…)
 思わず感動してしまう。
 母親が微笑みかけたと同時に、赤ちゃんも笑った。
 母の力をまざまざと見せ付けられる。
 きっと本能で分かるんだろうな。自分にとって、なくてはならない存在ってことが。彼女なしでは生きていけない。己を全身全霊で愛し、守ってくれる者。彼女さえいてくれれば、他には何も要らない。
 そんな必死な思いが、母の服をぎゅっと握るその小さき創造物の手から伝わってくる。
「きゃははは」
 赤ちゃんの額に向かってお母さんがふぅっと息を吹きかける。まだほんのりとしか生えていない産毛が吹き掛けられる息で揺れる。
 子供はくすぐったそうに笑っていた。すごく嬉しそう。見ているこっちが微笑みたくなるほどだ。お母さんも我が子が笑う顔がかわいくて仕方がないみたいで、何度も息を吹きかける。
「きゃは、きゃは」
 赤ん坊は楽しそうに笑い声を上げながら、その頭を母の胸へと埋め、広いおでこをぐりぐりと擦り合わせた。
(か、かわいい…)
 その仕草がなんとも言えず、子供を生んでいないあたしまで母性本能を掻き立てられる。
 しかし、本物の母親ならなおのこと。海よりも深く広いその「母の愛情」は彼女の全身駆け巡ったに違いない。
 ちゅっ
 小さなキスの音が赤ちゃんの頭上で鳴る。
 赤ん坊はもっともっととせがむように埋めた頭を擡(もた)げ、母親に懇願の合図を送る。そのラブコールに応えるように、母親は何度も何度も赤ちゃんの顔や頭にキスをする。

「いいよなぁ、お前は」

 今まで完全に視界から消えていた…というより、関心が向けられていなかった父親へとあたしの視線が移る。
 彼もきっとあたしよりずっと年下なんだろうけど、今の若者にしてはずいぶんとがっしりとした体格。コートや服で隠れていても、引き締まった体をしているのがなんとなく分かる。
(顔もそれほど悪くないわね。なかなかの美男美女のカップルって言ったところかしら)
 他人を捕まえて勝手に品定めしてるあたしもあたしだけど、お父さんの髪形を見て絶句した。
(うわぁっ。おさげ結ってるよ、この人…)
 髪型に呆気に取られつつ、父親の顔へ視線を戻すと、なんだか不服そうに母子を見ている。
「なによ、あんたヤキモチ妬いてんの?」
「妬いてますよー。なぁ、斗馬(とうま)」
 まだ言葉の分からぬ子供に同意を求め、我が子の頭を片手ですっぽりと包み込む。
「お母さんはお前にばっかり夢中で、お父さんには全然愛情かけてくれねーんだもんなー」
 兄弟・姉妹で母親の取り合いはよく見聞きするが、父と子で母親の取り合いというのはあまり聞いたことがない。
 それでも、自分の子がかわいいのは親としては自然な気持ちなのかもしれない。若いのに結構節くれ立った「父親」の手で、ゆっくりと優しく赤ん坊の頭を撫でていく。
「お父さん、あなたにヤキモチ妬いてるんだって。どうしようか、斗馬」
 そう子供に話し掛けた母親の顔が、何故だかとても綺麗に見えた。
 目深に被った帽子の下から父親の方をちらっと盗み見ると、なんとも眩しそうな瞳をしている。細めた目の先にあるものは赤ちゃんに笑いかけているその女性(ひと)。
「女」であり、「妻」であり、「母」でもある彼女を敬い、そして、尽きることのない深い想いが彼の中から湧き上がっているのが、その表情からどことなく伝わってくる。
(ああ、そうか…)
 あたしの中で、柔らかい気持ちが広がっていく。

 この女性は、愛の分子でいっぱいなんだ。
 我が子から必要とされること。
 そして、夫からも必要とされること。
 確かな自分の存在意義を持っているという、揺るぎようのない自信。
 自分を愛してくれる者がいて、
 そして、
 自分も心から愛する者がいる。
 女として…、ううん、一人の人間としてこの上ない幸せなんだろうな。
 …だから、綺麗だと思ったんだ。

 確かに、外見も綺麗だと思う。「綺麗」というより、「かわいらしい」とか「可憐」と言ったほうがいいかもしれない。ショートカットの似合う、愛くるしい瞳を持った女性。
 でも、彼女を「綺麗だ」と思わせるのは、きっとそういう内面的なところから出てくるものなんだと思う。
「困ったお母さんだよなぁ、斗馬」
 そう言って自分の子を覗き込んだ瞳を、妻へと向ける。
(やだ…、見てられない…)
 目のやり場に困りながらも、あたしの瞳は二人に釘付けになる。
 キスをしているわけでもない。抱き合っているわけでもない。そんじょそこらの若者が人目も憚らずいちゃいちゃしているのとは訳が違う。
 ただ微笑み合っているだけなのに、まるでスクリーン越しにラブシーンでも見ているような錯覚に陥って、心臓がどきどきする。
 上質なベルベットの極上な肌触り。そんな感覚が心を捉えていく。
(これ以上見てたら、悪いわ…)
 入り込んではいけない空間へ踏み込んでしまいかけた罪の意識と良心の呵責から、あたしは赤ん坊へと目を落とす。

(うあ…)

 子供の本能とは恐ろしい。
 この世に生を受け、さほど時間が経っていなくても、この小さな命は知っている。
 己に命を吹き込んだ二人の愛情の心地良さと、その愛情に包まれていれば何も恐れるものはないということを、その小さな体でしっかりと感じ取っている。

 「斗馬」と呼ばれた男の子の赤ん坊は、微睡み始めていた。
 母の胸から聞こえてくる力強い鼓動の子守唄に誘われていったのかもしれない。
 それとも、己に優しく降りかかる、ゆったりとした愛の温かさに誘われていったのかもしれない。
 二人の間で眠り始めた赤ちゃんの顔は、それはもう、穏やかなものだった。
 見ている人の心を和ませる、そんな幸せそうな顔ですやすやと深い眠りへ就いていく赤ん坊の寝顔は、あたしの胸の中に小さいけれども暖かい火をぽっと灯してくれた。









 柔らかな赤ん坊の暖かさが伝わってくる文章。
 両親の愛情を一杯受けて、生まれた小さな命。でも、独占できなくなってちょっと乱馬父さん、赤ん坊に嫉妬気味でしょうか?
(一之瀬けいこ)


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