◇嗚呼、麗しの君の髪
   第四話、愛のシャンプー
かさねさま作


 ダダダダダダ…
 天道家の廊下を勢いよく走る音がする。
「待ちなさーいっっ!!」
 ほうきを手にしたあかねがぴょんぴょん跳ね回る八宝斎を追う。
「あっかねちゃんのブラジャーじゃ〜」
 その手にはまだ完全に乾き切っていないあかねのブラジャーが握られていた。
 青葉の輝く頃がやって来たかと思ったら、今年は例年より早めに梅雨前線が日本列島を訪れ、数週間と続く雨を降らせていた。そのせいで八宝斎の元気の元――世間から見れば「公害」のなにものでもないのだが――「コレクション集め」ができなくなっていて、仕舞には家の中でコレクションを集めるようになっていた。普段は箪笥に収まっている下着たちも、家の中で干されているとなるとエロ妖怪の格好の獲物となる。前回のように八宝大カビンを出すことはなかったのだが、これはこれでかなりの迷惑だった。

「この、エロじじいがっっ!」

 浮かれ逃げ回っていた八宝斎の頭が鷲づかみにされ、ひょいっと持ち上った。
「な、何をするんじゃ、乱馬!!」
 皺くちゃな短い手足が空でばたつく。
「んな色気のねー女の下着なんぞ盗んだって仕方ねーだろ」
「色気がなくて悪かったわねっっ」

 ぐしゃっ

 追いついたあかねの肘鉄が乱馬の顔面にのめり込む。
「んだよっ、いってーなっ!人がせっかく助けてやったのによ!」
「誰があんたに助けてほしいなんて言ったのよっ」
「んだと〜!」

「「はっ!」」

 いつもの他愛ない口喧嘩を繰り広げようとしていた乱馬とあかねは、忘れかけていたもう一人の存在に気が付いた。
「おのれ〜、乱馬!師匠の楽しみを邪魔しおってからに!!お仕置きじゃ〜っ!八宝〜…」
 懐から丸い爆弾が取り出される。以前カビだらけになった天道家の情景が二人の脳裏を掠めた。
「う、うわぁ!やめろ、じじいっ!!」
「きゃ〜!」

「大カビン!!」

「あかねっ!避けろ!」
「乱馬っ!」
 乱馬があかねを抱き、後方へと飛ぶ。

 ばたーんっ!
 床に顔を伏せる形で飛び込んだ。

(つっ…!)

 と同時にあかねの右腕に激痛が走る。
 乱馬があかねを庇うように飛んだのだったが、手に持っていたほうきが邪魔して右腕を捻ったように落下してしまっていた。

 しーん…

(…?)
 乱馬は襲いかかるであろうカビを想定して暫く息を止めていたが、いくら待ってもその瞬間はやって来なかった。
「けっけっけっ!愚か者めっ!」
「ん?」
 よく見ると、八宝斎が手にした爆弾には火が点いていなかった。
「さらばじゃ〜♪」
 と言って、爆弾を懐に仕舞うと足早に逃げていった。
「ちっくしょ〜!騙しやがったな!!」
 八宝斎の去った後をキッと睨むと、なかなか起き上がってこない自分の許婚の方に振り向く。
「おい、あかね。大丈夫か?」
「う、うん…」
 鈍い返事が返ってきた。その頼りない声に嫌な予感が乱馬の胸を過ぎる。
「受身取っただろ?どっか打ったのか?」
 あかねの右手を取り、起き上がらせようとした時だった。
「…つっ」
 あかねの顔が激痛で歪む。
「おっ、おい、お前…右腕…」

「…東風先生のとこ…、行ったほうがいいみたい…」

 右腕に軽く手を当て、申し訳なさそうにこちらを見上げる許婚に、乱馬は居ても立ってもいられなくなっていた。


「「「「全治二週間?!」」」」
 居間に集まった家族が二人を、いや、正確にはあかねの右腕を見つめていた。
 小乃接骨院から帰ってきたあかねの右腕はギブスが取り付けられ、ぐるぐると巻かれた包帯と右腕を支える三角巾が痛々しかった。
 乱馬はあかねの隣に座り、さきほどから何も言わない。
「乱馬君!君って人がいながらなんで〜!!」
 涙ながらに訴える早雲。
「お、お父さん!別に乱馬のせいじゃないんだからっ。あたしがドジ踏んじゃって…」
 そう、彼は八宝斎の攻撃からあかねを守ろうとしてくれたのである。しかも、床に打ち付けられないように庇って…。
 隣に座る少年をちらっと横目で見る。
(…乱馬…)
 帰り道から一言も言わずにいる乱馬が気になっていた。いつもだったら「ドジ」だの「まぬけ」だのと怪我をしていようがなんだろうが暴言を吐いてくる許婚。その彼がむすっとした表情のまま黙っている。もしかしたら、この怪我の原因を自分のせいにしているかもしれない乱馬の態度が気掛かりだった。

(くっそ〜…!何、やってんだよ…!)
 実際、乱馬はあかねの怪我の責任を十分に感じていた。
 諸悪の根源である八宝斎を責めるよりも、自分の無力さが腹立たしく思えて仕方がなかった。
 惚れた女一人守れない、という事実が彼には一番堪えることだった。

「まぁ、まぁ。いいじゃない、お父さん。乱馬君だって最善の努力を尽くしてくれたんだろうし」
 「あの」なびきが再び助け舟を出そうとしていた。
「でも、まぁ、乱馬君が責任感じてるって言うなら…」
 ちらっと乱馬に視線を移し、続けた。

「乱馬君にはあかねの怪我が治るまで、あかねの右腕になってもらえばいいじゃない」

「い゛っ!」
 乱馬の沈んでいた表情が急変し、
「ちょっ、ちょっと!お姉ちゃん!!」
 あかねが慌てふためく。

 なびきのウィンクに、乱馬とあかねを除く家族一同が目を輝かしていた。
「べっ、別に片腕が使えなくたって…!」
 あかねは必死に言ってみせる。
「あ〜ら。だって、あんた、利き腕がそんなんじゃ生活大変よ〜」
「そ、そんなことくらい、あたし一人でできるわよっ」
「あら、食事はどうするの?」
「スプーンとかフォークとかがあるじゃないっ」

「じゃ、お風呂は?」

 ボンッ
 二人の全身が急沸騰し、頭から一気に蒸気が爆発した。

「そっ…!」
 3本指を立て、のけ反る乱馬。
「そっ、そんなの、左腕があれば…!」
 あかねは体を乗り出し、左手で卓袱台をバンと叩く。
 お互いの頭に、乱馬があかねの背中を流す光景が浮かんでいた。
「ふ〜ん。でも、シャンプーの時はどうするのよ」
「そ、その時は…」
 と言いかけて止まってしまった。代案が浮かばなかったのである。確かに、片手を全く使えないのであれば、髪を洗うのは困難なことになる。
「乱馬君に洗ってもらったら?」
 なびきの一押しが入る。
「でっ、でもっ…!」
 乱馬の声が上擦る。戸惑いの素振りは見せていたが、真っ向からは反対しない。どちらかと言えば嬉しそうに見える。
「じょっ、冗談じゃないわよ!!第一、こんな乱暴者なんかにやらせたら、髪の毛が傷んじゃうじゃないっ」
 乱馬とは対照的に真っ向から反対するあかねの言葉がすぐさま飛んできた。
「誰が乱暴者なんだよっ」
「なによっ!洗髪香膏指圧拳の時のはどう説明するのよ!」
「んなっ…!あ、あれはだなー…!」
 そう、あの時はなんとかあかねの記憶を取り戻したくて必死だったのである。

「お、俺だってちゃんとやれば普通に洗えるんでいっ!」

 言ってしまって、はっとする。
 しかし、もはや後の祭。
「はい、じゃ、決まりね」
 まるで先を読んでいたかのようになびきが話を締める。
「早乙女君!」
「天道君!」
 二人手を合わせ感涙に咽ぶ父親たち。
「まぁ、よかったわね、あかね」
 二人に微笑むかすみ。
「乱馬、男らしいわ!」
 日本刀を片手に喜ぶのどか。
 そして、

「…ばか」

 自分の失言に固まってしまった乱馬の隣で、あかねはぼそっと呟いた。


 天道家の風呂場から、乱暴な言葉の往来が聞こえてくる。風呂場に置いた椅子にあかねが座り、その後ろに乱馬が立っていた。
「ちゃんと優しく洗ってよね!髪は女の命なんだからっ」
「わーってるよ!…な〜にが『髪は女の命』だよ」
 後半の方はごにょごにょと小声になる。
「何か言った?」
 普段は「超」が付くほど鈍感なあかねだが、こういう時にはやけに鋭い。
「べっ、別に」
 こちらに振り向いて睨むあかねから視線を逸らし、なんとか誤魔化す。あかねはふんっと膨れっ面になり正面に向き直る。
「とっ、とにかく、…あ、洗うぞっ」
 気を取り直してシャワーを取り、あかねの真横に構えた…が、

 ぎしっ、ぎしっ…

 シャワーを持つ手がぎこちなくなり、体がうまく動かない。
(なっ、なに緊張してんだっ!たかだが髪洗うくれーでっ)
 自分に喝を入れてみるがあまり効果が見られない。
「う、うん…」
 あかねも全身に力が入る。さきほどまでの突っ慳貪な態度とは打って変わって、しおらしくなる。乱馬が側にいることなんて四六時中あるのに、今自分の後ろに立っているということだけで、心臓が張り裂けそうだった。

 そして、乱馬があかねの髪をまとめようと左サイドへ手を伸ばしたその瞬間、

(きゃっ…)
 あかねの体がビクッとし、

(うわっ…)
 髪に触れた乱馬の手が震えた。

(や、やだ…)
(ちっ、ちくしょう…手が…)

 体中の全神経が触れ合う部分に集中する。
 好きな人の手が自分の髪に触る、ということ。
 自分の手が好きな人の髪に触る、ということ。
 体の一部に触れることなんて、いくらでもあるのに…

((どうしてこんなにドキドキするんだろう…))

 風呂場からは、二人の激しく波打つ心臓の音だけが聞こえてくるようだった。


 乱馬の洗髪は決して乱暴なものではなかった。むしろ、優しく扱ってくれているように思えた。
(おっきな、手…)
 いつもは意識していなかったその手の大きさを、あかねは今はっきりと感じることができた。
 自分よりも一回りも二回りも大きくて、ごつごつした男の人の手。
 けれども、優しくて温かくて、安心できる手。
 自分の髪を洗っていく乱馬の優しい指先と、その大きな両手にすっぽり包まれている心地良さにあかねは心を奪われていく。

(…柔らけーんだな…)
 乱馬は自分の手の中にあるあかねの髪の感触に酔い始めていた。己のとは全く違う少女の髪。好きな女(ひと)の髪をこの手いっぱいに包み込んでいる感覚にとろけていく。
 眩暈と緊張でこの身がどうにかなってしまいそうだったが、いつまでもこうしていたいと思う気持ちもあった。普段は自分に突っ掛かってくる許婚が、今は素直に自分の手の中にある。この天邪鬼な少年を、自分の気持ちに素直にさせるにはそれだけで十分だった。
 少年は少女の髪の一本一本をいとおしむように丁寧に洗っていく。まるで、自分が彼女の髪を一番綺麗に洗い上げることができるんだ、と示すかのように。そして、それは彼の中にある果てしない独占欲を満たしていった。

「…!」

 首の方の生え際もきちんと洗おうとその身を屈め、襟首へ視線を落とした瞬間、乱馬は思わず息を呑んだ。

(うっ…ゎ…)

 あかねを、「女」として認識せずにはいられなかった。
 とても格闘をやっているとは思えない、細くて白い項。
 その艶めかしいまでの首筋に見とれてしまい、乱馬の動きが止まる。

「乱馬…?」

 手の動きが止まったのを不思議に思い、あかねが乱馬を呼んだ。
「!」
 その声に一気に現実に引き戻される。
「あ、いや、…なんでもねー…」
 これ以上続けていたら、自分が壊れてしまいそうだった。

「シ、シャワーで流すぞ…」
 あかねに魅せられた乱馬は完全に舞い上がってしまっていた。
「うん…」
 それはあかねも同じだった。
「頭、もうちょい後ろに下げてみな」
 乱馬の言葉を合図にシャワーが勢いよく出される。乱馬はあかねの頭を後頭部辺りで支え、シャワーを優しくかけていった。

「…はぁ…」
 ほとんど聞き取れないほどの吐息があかねの唇から漏れる。

 ぎしっ…
 その吐息を聞き取ってしまった乱馬の全身が固まっていく。
 目を瞑り、口を少し開けたあかねが、自分の目の前にある。
 絶対にそんなことはあり得ないのに、乱馬にはあかねがキスを待っているように見えてしまう。

 どっどっどっどっ…

 再び心臓が激しく鼓動する。
 小さなピンク色の唇に釘付けになり、シャワーの音が遠くに聞こえ始める。
 理性より本能が彼を動かしていた。気が付くと、あかねの唇が数センチのところまで迫っていた。
 ゴクン…と生唾を呑む。

(あかね…)
 胸の中で少女に囁きかける。そして、乱馬が瞳を閉じかけたその時、

「きゃぁ!」

 あかねが瞼を開けていた。
「う、うわぁ!」
 乱馬も慌てて身を引く。
「ちっ、ちっ、違うんだ!こ、これは…!」
 どこをどう見てもキスをしようとしていたとしか思えないのに、あくまで否定しようとする。首や腕をぶんぶん振りながら、次に来るあかねの攻撃に備えた。
 が、しかし…

「…早く、シャンプー流してよ…」

 あかねの口から出た言葉は、予想とは全く違うものだった。『このド助平男〜!』などという言葉と強烈な平手打ち連打を想像していた乱馬は、考えていた反撃の言葉を喉の奥へ引っ込める。
「お、おう…」
 そして、思ってもみなかった要求になんとか返答を返した。態勢を立て直し、再びあかねの横に立つ。
 ジャー…
 再び、あかねの髪にお湯が掛けられていく。乱馬の手が髪に付いたシャンプーをすすぎ落としていった。丁寧に、ゆっくりと、その手で髪を梳いていく。
 髪を洗い始めてから洗い終わるまで、二人の間にはほとんど言葉が交わされることはなかった。
 この状態があと二週間も続くことを考えると、
(身が持たねー…)
(身が持たないわ…)
 と溜息混じりに思う二人が、天井裏や窓、そして脱衣所から覗かれていたことに、当然気付くはずもなかった。


 心臓発作で倒れてしまうのではないかと思いつつ、どうにかこうにか右腕の完治まであとわずかというところまで乗り切ることができた。
 さすがに二週間も続けていれば慣れてくるものだが、心臓の鼓動のほうは一向におとなしくなってくれない。会話だって、この時間以外ならいつも通りの痴話喧嘩ができるのに、風呂場で二人だけになるとなぜか無言に近い状態になってしまっていた。

 明日にはギブスも取れ、やっとこの尋常でない生活から解放されると思っていたその日、慣れた手付きであかねの髪を洗っていた乱馬が、なにか戸惑うように話を切り出した。
「あ、あのよー…」
「うん…」
 すぐ真上から聞こえてくる乱馬の声と、どことなく違う彼の雰囲気にあかねも緊張する。
「美容院でシャンプー…、してもらうんだろ?」
「は?」
 一体何の話しだろうと構えていたあかねは一瞬、目が点になる。
「そうだけど…。でも、なんでよ」
「いや、だ、だからさ…」
 始めは動いていた手も次第にスピードが落ちていき、ついにぴたりと止まってしまう。
「?」
 あかねは乱馬の方に振り返った。
「わっ、ばっ、ばか!前向いてろ!」
 乱馬は慌ててあかねの顔を正面に向かせる。
「もうっ!なんなのよ!」
「いや、つ、つまりだなぁ…」
 ものすごく言い辛そうなのがひしひしと伝わってくる。しかし次の瞬間、意を決したように乱馬は一気に捲くし立てた。

「おっ、俺がシャンプーしてやってもいいぞっ!」

「…はい?」

 言われてはみたものの、いまいち乱馬の言いたいことが汲み取れない。
「あんた、何言って…」
 後ろへ振り返ると、組んだ手の親指をもじもじと擦り合わせ、真っ赤な顔を俯かせながら話す乱馬が目に入ってきた。
「びっ、美容院でシャンプーしてもらうと…、その、ほら、よ、余計にお金がかかるだろっ。だっ、だから…」
「…!」
 ようやく乱馬の言いたかったことが呑み込めた。
 つまり、美容院に行く時には自分がシャンプーをしてやる…と言っているのだった。
「なんで、美容院でシャンプー代が別だって知ってんのよ」
「え゛っ…!そ、それは…、な、なびきに聞いたんだよっ。んなこたーどーでもいいじゃねーかっ」
 こっそりサロンへ行ったことが危うくばれそうになり、焦った乱馬だったが、
「ふ〜ん」
 あかねの鈍感さで救われる。
 そしてあかねの方はと言えば、とことん照れながらも、なんともくすぐったい提案をしてきた少年を前に、『嫌だ』とは言えずにいた。
 あの照れ屋で意地っ張りな乱馬が自分の髪を洗うと言ってきているのである。
 断る理由など、どこにもなかった。
 あかね自身、乱馬の洗髪が今日で終わりになることに寂しい思いをしていたのは誤魔化しようのない真実だったのだから。

「…いいわよ。やってもらってあげても…」

(うわぁ〜!あたしのバカっ。なんでもっと可愛げのある言い方ができないのよぉ〜)
 高飛車な言葉の裏に潜むものは、十分可愛い乙女心。
「バ、バカヤロー!俺が仕方な…!」
 と言い掛けて、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 ここで反発してしまったら、いつもと同じである。また堂々巡りの口喧嘩が始まってしまう。それだけは、どうしても避けたかった。
 そう、美容院で訳の分からない野郎どもにあかねの髪は触らせたくなかった。

「…まぁ、あかねがそう思ってるんだったら…それでもいいけどよ…」

(乱…馬…?)
 いつもとは違う許婚にあかねは面食らう。
 天邪鬼で決して心の内を見せないこの少年が、ほんの少しだけ素直に自分の気持ちを出してきてくれている。

「…うん。じゃ、…お願い」

 あかねも素直に答えていた。



つづく




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