◇キャンドル 〜乱馬編〜  <Act.2>
かさねさま作


四、あかねの横顔

 建物の感じから歴史がありそうだと思ったが、入り口の扉の前に立ってみて改めてその古さを感じる。
 ぎぃぃぃ…
 重い木の扉をゆっくりと開けると蝶番の軋む音が響いた。

「すげぇ…」

 初めて教会なんてものに足を踏み入れたが、その厳かな雰囲気に思わず圧倒される。
 その荘厳な教会内は、決して派手な感じのするものではなく、むしろ質素だった。それでも、ここに流れる空気はとても犯し難く、重みがあるのが肌を通して伝わってくる。
 俺は入り口からそのまま左へ進み、信者席の一番後ろへ立つと、ゆっくりと中を見渡した。
 さほど大きくはなく、普通に歩いたら3分もあればぐるりと回れてしまうほどの広さ。
 祭壇への通路で左右に分かれている信者席には小さい椅子が所狭しと並ぶ。それでも両側合わせて100人も座れそうにない。石造りの地味な内装で、その美しさが際立つ祭壇も、そんなにでかいもんじゃない。その祭壇の上には長い蝋燭が左右三つずつ立てられ、温かな火を灯していた。
 水を打ったような教会内にはぽつりぽつりと人がいて、座って祈りを捧げる者や周りの側廊にあるキャンドルへ火を点ける者もいた。
(みんなクリスチャンなんだろうか…)
 そんなことを思いながら、目はショートカットの少女を探す。

「?!」

(あかね…?!)

 必死に捜し求めていた姿が、この目に飛び込んできた。
 後姿だったが、それは間違いなく、あかねだった。

 俺は目の前に続く側廊を祭壇の方へずんずんと進んでいく。
(ったく!さんざん人に心配掛けさせやがって…!)
「こんな所で一体何やってんだ!みんな心配してるんだぞっ」とでも言わなけりゃ気が済まねえ。教会内が静かだろうが、なんだろうが、んなことは知ったこっちゃねえ。
 だけど、あかねの横顔が少し見える所まで来て、その歩みが止まった。いや、正確には動けなかったって言ったほうがいいのかもしれねえ。

「……」

 言葉が、出なかった。
 あいつは、祭壇に近い場所に座っていた。…そう、ただ座っているだけなんだ。
 だけど、声が掛けられない。
 今まで何万回とも呼んできたその名前すら口にすることができない。
 目にした少女の横顔がこの胸に重く圧し掛かり、俺から言葉を奪い取っていく。

(あかね…)

 信者席に座り、正面の祭壇をただ眺めているだけのあかねは…、
 ひどく、孤独だった。
 それは、たとえようのないほど寂しく、孤独な姿だった。

(…なんて顔、してんだよ…)

 あいつは、俺に色んな表情を見せてくれる。怒ったり、泣いたり、笑ったり…。目まぐるしく変わる表情が愛しくて、いつでも眺めていたい少女。
 けれども、こんな寂しい表情は初めてだった。
 閉ざされた世界にひっそりとその身を置き、誰にも気付かれないようにその存在を消し去ろうとしている。

 俺は、あかねの顔が斜め後ろから見える、少し離れた席に気付かれないように腰を下ろした。
 今の俺には、あいつを無理やり立たせ、家に連れて帰れることなんてできなかった。
 近付きたくても、近付けない。
 あいつが危ない目に遭っている時なら、なんの躊躇いもなくその細い腕を掴んでいるだろう。
 だけど…。
 ぼつんと座るあかねを目の前にした俺にできる唯一のことは…、
 ただ見守ることだけだった。


 一体、どのくらいここにこうして座っているのだろう。
 あれから30分は経つというのに、あかねは一向に動く気配がない。視線を変えることなく祭壇の上で揺れるキャンドルを見つめている。いや、キャンドルを見ているようで、本当は何も見ていないのかもしれねえ。

 なぁ、あかね。
 その遠い瞳で何を見てるんだ?

『あたしだって、あんたなんか知らないわよっっ!』

 あかねの吐き捨てた言葉とその表情が頭を掠め、目の前にいる寂しげなあかねの表情が重なる。
(……)
 俺は…

 ―――俺は、あかねにいつもあんな顔をさせちまってたんだろうか。

 キャンドルの炎をぼんやりと眺めるあかね。
(なぁ…、そんな顔するなよ…)
 お前のそんな顔を見ていると、俺まで独りぼっちになっちまう気がするんだ。どうしようもない寂しさがこの身を襲ってくるんだ。
 本当は、いつでも笑っててほしい。
 でも俺は不器用だから素直にお前を笑わせてやることなんて簡単にはできねえ。いつも怒らせちまったり、泣かせちまったり。
 だけど、今はそれでもいいとさえ思える。たとえ怒ってても、泣いてても、それが全て俺に向かってくるものなら…。

 …今のお前は、俺の存在すら感じない。
 俺の入り込む余地もない。
 誰をも寄せ付けさせない孤独のベールがお前を包んでいる。

 なぁ、あかね。
 独りになんかなるな。
 頼むから…
 …俺を、こんなに孤独にしないでくれ…

「はぁ…」
 あいつから溜息が漏れたような気がした。
 『何、色気のねー溜息なんてついてんだよ』。いつもだったらそう言ってやるところだが、あかねから吐き出された溜息は俺の心まで沈めてしまう。
 そのままあかねを見つめていると、あいつは天井を仰いだ。俺も見上げてみる。
 窓から差し込む光のないこの時間では、ドーム型の天井は薄暗く、石のひんやりとした冷たさとその暗さがまるでブラックホールのようで、吸い込まれてしまいそうになる。
 ふとあかねに視線を戻すと、あいつは上を向いたまま目を閉じていた。
(何を、思っているんだ…?)
 閉じられた瞳の裏に何を見、その身を孤独に沈めてしまった心に何を思うのか。
 失いたくない何かを必死に求めようとするが、見えない壁に阻まれている。焦りにも似た気持ちが俺を捕らえて離さない。
 不安と苛立ちと孤独に耐え切れなくなりかけた時だった。

(あか…ね…?)

 胸の奥が鷲掴みにされる。

(泣いてる…のか?)

 涙の糸が閉じた瞳から紡ぎ出され、細く細く頬を伝っていく。
 あかねは、泣いていた。
 声を上げることなく、静かに、泣いていた。

 もう、限界だった。

 俺は、女の涙には弱い。シャンプーやうっちゃんなんかが泣いてたら、どうしたんだろうって心配するし、泣かしちまったら悪いことしたなって思う。
 でも…
 あかねが泣いてると、そんな余裕もなくなっちまうんだ。
 絶対にその涙を止めてやるって思う。…思うけど、うまく止める術が分からなくて余計に焦っちまう。優しく受け止めてやりたいのに、そうしてやりたいって心は逸るのに、結局、俺の口を衝いて出てくるのは数々の悪態ばかり。

『乱…馬…』

(…!)

 見つめる少女の口が俺の名を象ったように見えた。

 やっぱり、俺がお前を泣かせているのか?
 お前をそんなに孤独に追い詰めてしまっているのは、この俺なのか?
 …それでも、
 お前は俺の名を呼んでくれるのか?

「あかね…」

 少女の名を呟く。
 決して離してはいけない者。
 決して失ってはいけない者。
 それなのに、俺は、己の不器用さを理由にお前を傷つけていたんだな…
 「許婚」っていう関係に甘え、お前は俺から離れないっていう絶対の自信に胡坐をかき、お前の気持ちに気付こうともしなかったんだな…。
 …本当に「ニブい」のは俺だったのかもしれねえ。

 ―――今なら、まだ間に合うか?

(いや、間に合わせなきゃならねえ…)
 己のくだらねえ自尊心と体裁のために、今まで避けてきた…ずっと。
 あかねを守ると誓いながらも、俺はあいつの心までは守りきれていなかったんだ。

 俺は…
 俺は…

 ―――あかねが…

 胸の内に秘めた想いを言葉に表そうとした時、あいつが席を立った。俺も合わせて立ち上がる。
 振り向いた少女を一瞬たりとも逃さぬように、この両目で彼女をしっかりと捉える。


「え…」


 こちらへ振り返った少女の瞳が揺れていた。
 涙の跡がまだ残る大きな瞳。
 そんな顔で見つめられると、息ができなくなる。


 あかね、
 ごめんな…


 短い懺悔の言葉を述べるのが、精一杯だった。



つづく




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