◇キャンドル 〜あかね編〜 <Act.2>
かさねさま作
四、涙の意味
一体どれくらいここに座っていたんだろう。ここへ来てからとうに一時間は過ぎているかもしれない。
この静寂の中に包まれていると、無心でいられた。石の重みと、その石に沁み込んだ悠久の時の重みが心地よく全身に伝わってくる。
そして何よりも、嫌なことから逃げられるような気がした。自分を煩わせ、苦しめる全てのことから解放されるような気がした。いつもだったら、道場で汗を流し、自分を奮い立たせているかもしれない。だけど…。
何も考えず、この空気に溶け込んでしまえたら…
全てを忘れられてしまえたら…
後ろ向きなのは分かっていても、気持ちは己の意思とは関係なく沈んでいく。
『この凶暴女っっ!おめーみてえなかわいくねー女なんか、もう、知らねーからなっ』
平穏を望んだ心に、乱馬の言葉が急襲する。また心がざわつきだす。
「なんで、こうなっちゃうんだろう…」
呟いたつもりでも、ひそやかな教会の中では響いてしまったかもいれない。だけど、この答えの出ない問いは、確実に己の胸にずしんと響く。
…今日に限ったことじゃない。
乱馬に出逢って、あいつに惹かれていけばいくほど、この永遠の問いはいつでもあたしの頭の中をぐるぐると回っていた。
(あの時の心の叫びは嘘だったの…?)
『好きだって言わせてくれよ!』
熱い涙と一緒にあたしの全身へ流れ込んできた乱馬の想い。
やっとこれで気持ちが通じ合えるって思った。
同じ気持ちでいてくれたんだって…。
だけど…
『乱馬…、あたしのこと好きなんでしょ?』
『え…?なにそれ』
『だって呪泉洞で泣きながら…』
『言ってねえっ』
『言ったも同然よっ!』
『なんだと、やるかっ!』
あとはいつものお邪魔虫たち参上とてんやわんやの大騒ぎ。
別にあの時なにがなんでも祝言を挙げたかったわけじゃないけど…、
でも、『好きだ』って素直に言ってほしかった。
(それでも…)
呪泉洞で命を張ってあたしを救ってくれようとした乱馬の姿や、あの時動けなかったあたしの体を優しく抱きながらぽつりぽつりと話してくれた心の内、そして、慟哭と共にあたしの名を叫んだ彼の声を思い出す度に、胸の奥が熱くなっていった。
だから、どんなに喧嘩したって、あいつを信じてみようって思うようにしてた。
そう、思っていたのに…。
あれから9ヶ月以上は経つ今、あいつの口から飛び出す言葉には『好きだ』の「す」の字すら出てこない。代わりに出てくるのはなんら変わらない憎まれ口。少しは優しくなるのかと思ったら、ちっともそんな素振りも見せてくれない。シャンプーたちに言い寄られたって、はっきり断ることもしない相変わらずの優柔不断さ…。
あたしたちの関係はまるで無限級数。近付くことはあっても決して一緒になることはない。あったとしても、果てしなく永遠に近い未来…。
「はぁ…」
考えれば考えるほど、憂鬱になってくる。
(嫌だなぁ…)
あたしの心の呟きは、「でも」「のに」ばかり。胸の奥と体がずんと重くなっていく。きっと、今のあたしの顔は眉間に皺が寄っていて、暗い表情してるんだろうな。
(かわいくない…)
「……」
やだ、乱馬と同じこと言ってる。自分でも思うくらいなんだから、相当かわいくないんだろうな、あたし。
ふと天井を仰ぎ見る。
高い窓から差し込む光はない。この胸の内を映すような闇だけが見える。
あたしは、包まれた静けさをこの身にも摂り込むように深く息を吸い込むと、そっと目を瞑った。
乱馬と初めて逢った日の記憶が蘇る。
あれから流れた月日と出来事が閉じた瞼の裏でいくつも浮かんでは消えていく。
『あかねっ!』
『しっかりつかつかまってろ、あかねっ!!』
『危ねえっ!』
『あかねは俺の許婚だっ!あかねに手ぇ出したらぶっ殺すぞっ!』
『あかね。待ってろよ、必ずおれのこと思い出させてやるぜ』
『ばかっ、なにぼーっとしてんだ!!』
『ごめん。あかね…。この状態じゃ助けられねえ。命綱つかめ!』
『あかね、大丈夫だったか?!』
『ばっかやろー、誰のためにこんな勝負受けたと…!』
『…おめーは今あかねに、やっちゃならねえことをしたんだ』
『ケガ、なかったか?』
『来いっ、あかねーっ!』
『ったく、面倒かけやがって!』
『あかね、しっかりしろ!』
『あかねーーーーーっ!』
「……!」
やだ、あたし…
泣い…てる…?!
閉じた瞳から熱いものが一筋また一筋頬を伝っていく。
思い起こされるのは、全て、あたしを守ろうとしてくれた乱馬。
どんなに乱暴者で、
デリカシーがなくて、
女の子の気持ちなんてこれっぽちも分かってくれなくて、
たとえ「好きだ」の一言を言ってくれなくても…
彼はいつだってその身を挺して、あたしを守ってくれた。
言葉は乱暴でも、
あたしが苦しい時には、いつだって救い出そうとしてくれた。
いつだって…
『あかね』
乱馬の呼ぶあたしの名前。
彼の口から奏でられるこの音に、この心は震え、いつしか不思議な心地良さを覚えていた。
「乱…馬…」
あたしの口から零れたのは、今すぐ会いたい人の名。
恥ずかしさと、切なさと、苦しさと、恋しさと…
彼へと向けられる色々な感情が複雑に絡み合い、涙となって溢れ出していく。
(会いたい…)
理屈じゃない。心がそう望んでいる。
瞼を開けた先に見えるキャンドルの炎がぼやけている。
―――あたしは、彼の何を見ていたの?
滲んでいくキャンドルの輪郭を見つめながら、自分自身に問いかけた。
でも、これは答えの出ない問いじゃない。
―――あたしは、少しでも自分の気持ちを打ち明けた?
(帰らなきゃ…)
帰って、伝えなきゃ…
―――あたしは、自分の気持ちを偽ることしかしてないんじゃない?
あたしは…
あたしは…
―――乱馬が…
席を立ち、振り返った時だった。
「え…」
気持ちを伝えようとした相手が、そこに、いた。
切なそうな、今にも泣き出してしまいそうな…
そんな乱馬が、あたしを見つめていた。
つづく
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