◇愛する者へ(後編)
かさね(秋月空)さま作


三、

遠くの空が翳り始め、ゆっくりと黄昏が舞い降りようとしていた。
あかねは街が一望できる丘の上に立ち、徐々に灯り出す家やビルの明かりを眺めていた。
ふと時計を見ると、5時を回っていた。
(…乱馬、来てくれないのかな)
その大きな瞳にぶわっと込み上げてくる熱いものを感じるや否や、
「もう、何よ!ちょっと修行に行くって言っただけなのに、あんなに怒っちゃって!自分だってしょっちゅう修行に行ってんじゃない!」
そう熱り立って、その熱い液体をぐっと堪えた。
「なーにが『ちょっと修行に行く』だよ」
(え…?)
自分の背後にした声の方へゆっくりと振り向くと、その姿はあった。もうずっとずっと長い間待っていたような、大好きな人の姿。目の前に現れた少年は、少し仏頂面のような、それでいて、瞳は愛しい者を見つめるように優しく…そんな複雑な表情をしていた。あかねは、自分を見つめる、その少年のあどけなさを残した瞳に吸い込まれそうになっていた。
「待ったか?」
本当に何日かぶりかに聞く自分に向けられた彼の声、そして言葉。込み上げてくるものを必死に堪えるために築いた堤防を壊すには充分だった。
「お、おい…!」
自分の涙にうろたえる許婚。いつもの乱馬だった。
「…だって…来てくれないかと思ったから…」
「…わるかったな。逃げちまって」
乱馬はあかねの頬にそっと右手を添え、そのふっくらとした頬に伝う涙を親指で優しく拭った。
そんな優しさも束の間。すぐに口の悪い乱馬に戻る。
「おい!おめーいつからここにいたんだよ!顔が冷てーじゃねーか!」
「バイトが早く終わったから、4時半ぐらいから…」
「な…っ!ばっかじゃねーの!3月ったってまださみーんだから、どっか店入るとかしろよ!風邪ひいても知ねーぞ!」
素直に心配を表に出せない分、語気が強くなる。
「どうせばかですよーだっ!」
「…可愛くねぇ」
と、お約束の台詞が飛び出すと、二人ともプッと噴き出した。
数日ぶりに出来た痴話喧嘩。二人にとって何よりの愛情表現であり、意思疎通の手段だった。

「来てくれてありがとう、乱馬」
久し振りに目にしたあかねの笑顔に、乱馬は顔が火照っていくのを感じた。
「い、いや…別に…」
明後日の方向に視線を逸らせ、照れを誤魔化す乱馬に微笑むと、あかねはすっと乱馬を見据えた。
「ねぇ、乱馬」
「んあ?」
「あたし、乱馬のことが好きよ」
さらっと言いのけてしまうあかねとは対称的に、乱馬の全身はぎしっという音を立てて固まっていった。
「そして、武道家としても尊敬してる」
(あかね…)
少女の、自分を真っ直ぐに見つめる瞳と心が、すうっと乱馬を射っていく。
「初めて会った時のこと覚えてる?」
「え?」
突然の質問に、一瞬風呂場でのシーンがフラッシュバックされる。
「…忘れもしねーよ」
「バカ、違うわよ。女の子として会った時」
「え?ああ…、覚えてるけど」
「道場で初めて手合わせした時…」
「ああ」
「…悔しかったなぁ、あの時」
あかねは目を伏せめがちにしてくすっと笑う。
「あの時は"女の子"の姿だったけど実際は男だったわけじゃない?あれからずっと…出逢ってからずっと、乱馬に嫉妬してた」
「…あかね…」

夕闇が迫り、遠くの地平線に赤紫の夕焼けがわずかに残っていた。
「妬いてたんだ、どこかで。なんで乱馬はあんな動きができるんだろうって。なんであたしには無理なんだろうって」
丘に設けられた手すりを両手でぐっと握り、あかねは一呼吸置くと続けた。
「あたしね、強くなりたいの。乱馬みたいになれるかどうか保証はないけど、挑戦してみたいの」
「道場を継ぐためか?」
「…それもあるわね」
「道場だったら…道場のことだったら、俺だっているじゃねーか!」
「!」
あの時あかねに言ってやりたかった言葉を、今ぶつけていた。『自分がいる。己が強くなって、あかねを守っていく』。まるでそう言っているようだった。
「…俺がいるだろ。それでも不足なのかよ」
それは、静かな、されど、心の底で渦巻く激流を感じさせる低い声だった。出逢ってから押し留めていた想いが、今、堰を切って溢れ出そうとしていた。
あかねはぶんぶんと首を横に振る。
「じゃ、なんで…!」
掴めそうで掴めないあかねの心に焦燥感を覚えていた。
そんな乱馬を宥めるように、あかねは落ち着いた口調で話し出す。
「乱馬…。乱馬は世界中を回って修行したんだよね」
「ああ。まだまだ足りねーけどな。だけど…」
この先に続く言葉を分かっていたのか、あかねは乱馬の言葉に自分の言葉を被せ、遮った。
「あたしは…あたしは、このちっぽけな街しか知らない。それでも、乱馬たちが来てからずいぶんいろんな人に出会っていろんなこと知ったけど、でも、まだまだなのよ」
乱馬は、あかねから発せられる言葉をただ黙って聞いていた。まるで愛しい者の心の訴えを一つ一つ己の心で捉えようとするかのように。
「乱馬はどんどん強くなって、どんどん世界を広げていく。でもあたしは…」
「別にいいじゃねーか、それでも」
「あたしは、嫌」
あかねはその力強い視線を乱馬に向け、きっぱりと言い放った。
「…意地っ張り」
「意地っ張りでも何でも…」
すっと視線を落とし、再び乱馬の方へと上げる。
「乱馬と一緒にやっていくために、あたしは強くなりたいの」
(あかね…)
『乱馬と一緒にやっていくために…』。これが、修行を決意した彼女の本当の理由だったのかもしれない。
「俺が稽古付けてやるって言ってもか?」
「あんた、あたしを本気で鍛えられるの?絶対どこかに甘えが出るわ。乱馬にも。あたしにも。それに、乱馬には乱馬の修行があるでしょ?」
「別に俺は…」
「誰だっけ?『女連れで修行なんてできるか!』って言ってたの」
「う゛っ」
言葉に詰まる乱馬をあかねはくすっと笑う。
「お…俺は、おめーが家にいるから安心して…いや、それでも不安だけど、と、とにかく道場にいてくれるから…外に…。なのに…お前…一人で旅に出るなんて…」
そう、乱馬は怖かった。呪泉洞で失いかけたかけがないのない存在。もう二度とあんな思いはしたくない。そのために自分は強くなって、この愛しき者を守りたい。でも少女は自ら茨の道へと進もうとしていた。絶対に彼女を守り通すと誓った自分の、手の届かない所ヘ行こうとしている。
「大丈夫。あたしは生き抜くわ。『生き抜く』なんて大袈裟だね。でも、何があってもやり抜くわ、絶対。…帰って来て、また乱馬に会うために」
あかねはにっこり笑っていた。でも、それは乱馬の知っているあの無垢でかわいらしい笑顔ではなかった。芯の強い一人の武道家が放つ笑顔だった。
(やっぱり、おめーは真の武道家だったのかもな…)
くるくると表情を変える愛くるしいあかねも、武道家として真っ直ぐ自分に向かってくるあかねも、乱馬にはいとおしくてたまらなかった。この目の前にいる少女にはかなわない。降伏の瞬間だった。
乱馬はあかねの腕を掴むとぐっと自分の胸へ引き寄せた。
「いいか!何かあっても、絶対に全部一人で片付けようとするなよ!やばいと思ったら、何が何でも逃げろ!逃げるが勝ちって時もあるんだからな!絶対に…絶対に無茶はするな!」
自分を包む腕と声が震えているような気がした。
「…うん、約束する」
あかねも自分の腕を乱馬の背中に回し、そっと彼を抱きしめた。乱馬のシャツからほんのり太陽の匂いと、そして、「大好きな人の匂い」がした。
「俺もみっちり修行して、帰って来る。おめーに…ふさわしい男になってな。…だ、だから…」
心なしか乱馬の体が緊張していくように感じた。
「だから…?」
「だ、だ、だから…、その、なんだ、だから、今日はおめーに一本取られちまったけど、3…3年後に帰って来た時には…その…、つまり…だな…、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!俺に一本取らせろ!」
「プッ!」
あかねは屈託のない笑顔でケラケラと笑った。
「な、何がおかしいんだよっ!」
「精神修養が足りないってことよ」
「ぐっ」
夕食時に初めてあかねの修行の話を聞いたあの時から今までの自分を思うと、乱馬は何も言い返せなった。
「う、うるせー!」
そう言うと、乱馬はあかねを抱きしめる腕に力を入れた。
「ちょ、ちょっと、乱馬…!痛いよ!」
それでも乱馬は腕の力を弱めようとしない。
「ら、乱馬!痛いって…」
その先は無駄な抵抗だった。あかねの唇はしっかりと乱馬の唇で塞がれていた。
あかねはその広い胸の中での抵抗を止め、腕にすっぽり埋まった体を乱馬に委ねていった。

「これ…持ってけ」
「え?」
あかねを自分の腕から解放すると、乱馬は自分が着ていたチャイナ服をあかねに掛けた。
「お前は、俺が守る。何があっても。…だから、これ持ってけ!」
乱馬の匂いが体全体を覆っていくような気がした。その強さも、優しさも…彼の全てが全身を包んでいくようだった。
「…うん!」
再びあかねの笑顔を食らった乱馬の顔が赤くなっていく。
「ちょ、ちょっと、乱馬!あんた、熱あるんじゃないの?取り敢えず、これ着てなさいよ! 3月ってったってまだ寒いんだから!そんなランニング一枚じゃ風邪ひいちゃうわよ!」
「けっ!おめーとは鍛え方が違うんだよ」
「まーた、強がっちゃって」
「ふんっ!強がってなんか…へっくしょん!」
「ほらぁ!」
「う、うるせー!」
月明かりの下、愛を囁く…にはまだまだ程遠い二人。
けれども、

俺は…
あたしは…
知っている。
しっかりと繋がれたこの手の強さと温もりと…愛しさを。


あなたと…
君と…
一緒に歩んでいくために。
強くなる。
愛する人を守り抜くために。
たとえこの身が離れていても、
繋がれた心の手は離さない。
これからずっと。



日の暮れた空に月が昇り、未来へ続く道を歩み始めた二人をいつまでも照らし続けていた。








 ありがとうございました。
 この先、気になると思いません?思うの私だけかな・・・。
 彼等の修業の先にあるもの・・・読みたい。妄想沸いてきます。人様の作品から妄想する私も相当だと思いますが・・・。
 続きを請いながら(だから、無闇やたらにプレッシャーはかけちゃいけないってば・・・一之瀬よ。)

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