◇愛する者へ(前編)
かさね(秋月空)さま作


一、

「お願いします!」
まだ30代であろうか。優しく微笑む女性の遺影が置かれた和室に、一人の愛くるしい少女が頭を下げていた。その少女の目の前には困惑しきった中年の男性が二人と女性が一人。
「…あかね。本気なのか?」
少女の父親は、いつになく厳しい表情で愛娘を見つめていた。
「あかねちゃん…」
早乙女のどかは、少女の内にある決心の固さを感じつつも、戸惑いを隠し切れないでいた。
「でも、あかねちゃん。君は女の子なんだよ」
のどかの夫である早乙女玄馬は、心配そうに言う。
「武道家に男も女もありません!」
玄馬の心配を理解しつつ、あかねはきっぱりと言い切った。
「勝手なことを言っているのは分かっています。でも、もしこの道場を継ぐというのであれば、今のままじゃダメなんです!納得のいくまでやってみたいんです!お願いします!」
如月の乾いた空気に少女の言葉が響き渡った。


「ありがとう…おとうさん、おじさま、おばさま」
あかねはそう言って和室を後にすると、しんと冷え切った廊下を駆けていった。
暦の上では春を迎えていたが、その季節はまだまだ遠かった。

「まったく…武道家の娘はやはり武道家なのかねぇ、早乙女君」
「うちのバカ息子も相当の格闘バカだが…」
「二人とも心から武道を愛しているのよ、きっと」
早雲は最愛の女性が微笑む遺影に振り返り、
「これで良かったのかねぇ、母さん」
そう呟いた。


あかねと乱馬は高校3年生になり、呪泉洞の騒ぎからもうすぐ2年が過ぎようとしていた。あかねは楽勝で、乱馬はなんとかぎりぎりで卒業見込みの保証をもらい、後は卒業証書をもらうだけとなった。そんな、卒業式もあと2週間と迫ったある日の夕食。一年前大学に進学したなびきが突如と放った疑問が、楽しい食卓を一変させた。
「ところで、あかね。あんた卒業したらどうすんの?別に進学するってわけでもなさそうだし。花嫁修行でもするのかしらねぇ、乱馬君」
「ぶっ!」
いきなり振られた乱馬は、口にしていたエビフライを噴き出した。
「ちょっと汚いわねぇ」
「てめーが変なこと言うからだろうが!」
「何、言ってんの。許婚としては、当然妻になるあかねの今後を把握しておくべきなんじゃないの?」
「そ、そんなこと、俺が知るわけねーじゃねーか!」
「あーら、2年前の祝言未遂事件からな〜んにも進歩がなかったとは言わせないわよ」
「い゛っ」
確かにこの二人、あの呪泉洞の事件から少しずつ自分の胸の内を打ち明けるようにはなっていた。が、しかし、決して決定打があったわけではない。お互い、いずれは一緒になるという気持ちは持っていたが、なにせ18歳。お互いの気持ちをストレートに出すには若すぎるし、天邪鬼過ぎる。ましてや、こんな家族の前なんて…。
「あ、あかねのことなんだから本人に聞けよな!」
実際、乱馬は卒業後どうするか、あかねからは具体的に聞いていなかった。
「どうするの?あかねちゃん」
今までのなびきと乱馬の会話を俯きながら黙って聞いていたあかねを心配し、かすみが声を掛けた。
「…修行は…するわ」
あかねは手にしていたお箸とお椀を静かに置いた。視線はまだ伏せたままだった。
「え゛」
「ほ〜らね」
「でも、花嫁修行じゃなくて、武道の修行を…。暫く日本全国を回ってみようと思うの」

(え…)

その言葉に一番衝撃を受けたのは他の誰でもない。乱馬だっただろう。実のところ彼は、大方なびきの予想に近いことを思っていたからである。去年の秋頃、進学はしないという話をあかねから聞いていたので、あの殺人的料理を克服すべく家でのどかやかすみから料理を習い、武道の修行もこの道場で続けていくのかと思っていたのである。
「お、おい…ちょっと待てよ。武道の修行で全国を回るって…」
衝撃の一言に頭が真っ白になりながらも、俯き黙っている許婚に説明を求めた。
「ずっと前から考えていたの。将来、この天道道場を継ぐならもっともっと強くなくちゃダメだって。今の私じゃ力不足だって…」
「な、何、言ってんだよ。俺だっ…!」
『俺だって一緒に継ぐんだぜ!』そう言い掛けた。しかし、己の気持ちを公然と口にするほど大人ではない。乱馬は言葉を飲み込んでしまった。
「乱馬も暫く修行の旅に出るんでしょ?でも、だからってわけじゃないの。私だって武道家だもん。強くなりたいのよ」
俯いていた顔をぐっと上げ、隣にいる自分の許婚を見つめた。
「お前、日本全国回るって、意味分かってんのか?女のお前にそんなこと出来るわけねーじゃねーか!」
「武道に男も女もありません!」
そう言ったのはあかねではなく、のどかだった。
「おふくろ…」
「おばさま…」
乱馬だって、武道に男女差別を持ち出すつもりはない。でも、"女一人でなんてとても無茶だ!"そう思った。世界各国修行の旅をしてきた自分の経験から言えることだった。世界を回るわけではないにしても、日本全国だって相当きつい。
「で、どのぐらい行く予定なのよ」
慌てる様子でもなく、冷静になびきが聞いてきた。
「…3年は、必要かなって…」
(3年?!)
「お前、ばっかじゃねーの?!第一、おじさんはいいって言ったのかよ!」
「お父さんには前もって話しておいたの。それから…早乙女のおじさまとおばさまにも…」
(な゛っ!)
そこまで聞いて、乱馬は切れた。
「…あーそうかよ。…分かったよ…。…そうだよな。俺はどーせ『親が決めた許婚』だもんな…!」
「ら、乱馬!違うの!あなたには…」
「何が違うんだよ!もう、勝手にしろっっ」
「ま、待って!乱馬!!」
引き止めようとするあかねの声が聞こえないかのように、乱馬は振りかえろうともせず自室へ去っていった。怒りのままに閉められた部屋の戸の音が、無言の居間に虚しく響いた。


「ったく、何考えてるんだよ…!」
部屋に戻った乱馬は、肢体を乱暴に投げ出し仰向けに寝転んだ。
障子越しに入る月光が、片腕を額の上に乗せ、暗闇に身を沈める乱馬を浮かび上がらせる。
(一体、なんなんだよ、あかねのやつ…!)
自分でも何にこんなに苛ついているのか分からなかった。それは、自分の許婚――将来一緒になろうと思って信じていた女性――が、あんな大事なことを黙っていたからかもしれない。あるいは、どんな危険があるやもしれないのに、女一人で全国を回ろうなどと言っているからかもしれない。しかも3年も…。自分だって、高校を卒業したら、このふざけた変身体質を直すために中国へ渡るつもりだったし、そのついでに修行の旅に出るつもりだった。暫くはあかねと離れて暮らす覚悟だった。そう、3年…或いはそれ以上…。でも、それはあかねがここで、この天道道場で待っていてくれると思っていたからできた覚悟だった。
(あかねのバカヤロー…)
乱馬には一体何をどうするべきなのか、まったく分からなくなっていた。


(乱馬…)
電気の点いていない部屋の窓から月明かりが差し込み、ベッドに身を沈めているあかねを煌煌と照らしていた。頬には何かに濡れた跡があり、月明かりを反射していた。
(どうしてもっと早く伝えなかったんだろう…)
あんな形で知らせるつもりじゃなかった。きちんと二人だけになった時に言うつもりだった。数ヶ月前に修行のことを決めてから、いくらでもチャンスはあったはずだった。
(でも…)
そう、言えなかったのである。一番大事な人だからこそ一番に伝えなければならないのに、どうしても言い出す勇気がなかったのだ。
(ホント…ばっかみたい。こんなこともできないのに、よく全国で修行するなんて言えたもんだわ)
自嘲気味の笑いが漏れる。
枕に顔を埋めると、脳裏に怒りを露わにした先ほどの乱馬の後ろ姿が浮かんだ。
(…どうしよう…)
このまま離れ離れになるのは嫌だ。なんとか乱馬に自分の気持ちを分かってもらいたい。こんな形のまま数年も離れるなんて耐えられるはずがなかった。甘いのは分かっている。乱馬のことがなくても、こうした修行に出るべきなのである。でも、あかねの中には、たとえお互いが別々の場所で暫く修行に打ち込んでいたとしても、乱馬は待っていてくれると思っていたのだ。自分ではそうするつもりだったし、乱馬だって…。
(一人で思い上がってただけなのかな…)
空高く浮かぶ月は、お互い同じ思いをしながらすれ違ってしまっている恋人たちをその光で優しく包んでいた。



二、

乱馬とあかねはほとんど会話を交わすことなく、一週間が過ぎようとしていた。
あかねは、二人の間に流れるこの重苦しい空気をなんとか払拭したかった。でも乱馬は、家でも学校でもあかねに話すきっかけを作るチャンスすら与えなかった。
高校3年生、しかも卒業を一週間後に控えた3年生には授業らしい授業なんてほとんどなかった。それでも休みにならず登校しなければならないのは、あの変態バカ校長の陰謀によるものだろう。とはいうものの、午前いっぱいで帰れてしまうのだが、だからこそ一体何のために学校に来るのかという疑問は残る。乱馬とあかねもしぶしぶ学校へ向かうのだが、始終無言だった。教室に着けばクラスメートがいるのでまだ気が楽だったが、それでも二人に圧し掛かる重たい雰囲気に自分たち自身が潰されそうだった。

(ダメ!こんなの耐えられないわ!)
一か八かだった。あかねは場所と時間を書いたメモを登校前にこっそり乱馬の鞄に入れた。乱馬が来てくれるかどうかは分からない。でも、何が何でも自分の気持ちをちゃんと伝えたかった。
「おっす、乱馬」
「よー」
乱馬は教室に入り、3年間一緒だった大介やひろしといつものように挨拶を交わす。
(ん?なんだこりゃ?)
鞄を開けると、ふと一枚のメモが目に入った。
『今日5時に虹の丘公園で待っています。あかね』
(……)
乱馬はそのメモをクシャっと潰すと、ポケットへ突っ込んだ。


下校は二人別々だった。乱馬はすぐ家へ向かい、あかねはバイト先へ向かった。修行をしようと決めた時から、バイトを始め、僅かではあるが少しずつお金を貯めていたのだった。
(なんでぇ、あかねのやつ。今回のことがあったからバイト始めてたのかよ。理由聞いた時には曖昧に答えやがって…)
乱馬には何もかもが面白くなかった。きちんと理由を説明してみろと言われたら、恐らく返答に困るだろう。自分でもコントロールがつかないのだ。こんなことは初めてだった。真之介や麒麟たちの時のように恋敵の存在に苛ついているのでもない。たとえ、そのことでコントロールを失いかけても、「あかねを取り戻す」という方向へ自分自身を向かわせることが出来たのだ。
でも、今回は全く違っていた。
(一体、俺は何に苛ついてるんだ…)
出口のない迷路の中を彷徨っているようだった。


「ただいま…」
「おかえりなさい。乱馬」
「おふくろ…」
乱馬の帰宅を待っていたかのようにのどかは息子を出迎えた。
「ずいぶん遅かったわね」
「…ああ。ちょっと寄り道してたから」
実はすぐ家に帰る気分ではなかったので、適当に昼を外で済ませた後、よく行く空き地の木の上で暫く時間を潰していたのだった。
「ちょっと来てくれるかしら」
そう言うと、のどかは自分たちの部屋へと向かって行った。
「……」
乱馬は何かを感じ取ったのかただ黙って母親に付いていった。

「ここに座ってちょうだい」
部屋に入ると、のどかは息子を自分の正面へ座るように促した。乱馬はただ黙って従った。
「乱馬。あなた、あかねちゃんと知り合ってどのくらいになるの?」
「へ?」
いきなり突拍子もないことを聞かれてすっ頓狂な声を出してしまった。
「…3年…になるけど…」
「そう。…じゃ、その3年の間に一度でもあかねちゃんがあなたを裏切ったことがあったかしら?」
「……」
乱馬には何も答えられなかった。
「あなたに、もう許婚としてやっていける自信がないのなら、それは仕方ないでしょうね」
(おふくろ…?)
「でもね。もし許婚としてやっていけないのであれば、きちんとそのことを伝えなさい。それは人としての礼儀なんじゃないかしら。今のあなたは、ただ逃げているだけじゃないのかしら。許婚を止めるにしても、続けるにしても、あなたはあかねちゃんと話そうともしない。彼女はちゃんと向き合おうとしてるわよ」
「!!」
のどかの最後の一言で何かがふっ切れたような気がした。
「おふくろ、俺…!」
そう言いかけると、のどかはにっこり微笑んで、
「早く行ってあげなさい。あかねちゃん、待ってるわよ」
時計をチラッと見て、息子を促した。
「え!…あっ!」
時計は5時を指していた。
「い、いってきます!」
「いってらっしゃい」
猛スピードで屋根伝いに走っていく息子の姿をのどかはいつまでも見守っていた。



つづく




一之瀬の懺悔
こちらの判断で前後編に分けて掲載させていただきました。



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