◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  三、「夜長」〜月夜ニ君ヲ想フ〜

作者さまより


 寝静まった森に、小さな焚き火の中で弾ける、枝の乾いた音が遠慮がちに響く。
 微動だにせず地に鎮まる、つんとした深い緑の匂い。
 欝然たる原始林を潜り抜け、微かに耳に届く虫の音。
 風の通る音も、葉のざわめきも、聞こえない。
 みな息を潜め、真っ白な月が語り掛けてくる蒼い囁きに黙って耳を傾ける。
「満月まであとちょっとか…。」
 艶やかな瞳に映ったのは望月になる手前の十三夜月。
 空に向かって我先にと背伸びをした木々の先端が縁取る円形の天井に、すっぽりと納まるようにその身を浮かせている。
 標高が高いせいか都会にいる時よりも近くに見えた。木の天辺によじ登り、力一杯ジャンプをすればその指先を銀の大地に掠めることができるかもしれない。
 そんな大きな月が皓々と少女と森を照らす。


 あかねは九州での修行を終え、次なる道場へ向かう山中で方角を失い、道に迷ってしまった。一度下山して近くの村で泊まるところを探そうかと思ったが、今から山を下りても日没前に村に辿り着けるか怪しいところ。結局、今晩はそのまま野宿をしようと足を止め、テントを張った。

 
 外灯どころか民家の灯りもない、ただ暗闇だけが我が物顔に支配する世界。聖域に立ち入ることは決して許されない。そんな気迫と霊気さえ漂わせるような深い夜の森。
 普通なら、こんな所に迷い込んだだけで恐怖と寂しさで頭がどうにかなってしまうかもしれない。怖気立ち、魔物から身を隠すように木の根で体を小さく丸め、只々怯え震えてしまうにちがいない。
 けれども、今ここにいる少女は違った。こんな人里離れた山奥で独りになることに不思議と恐怖はなかった。むしろ、こうして独りになれる静かな時間が頭も心も空っぽにしていく。
 余計なものは何もない。
 際限なく広がる宇宙の中に「あかね」という個体だけがぼんやりと浮かび上がり、時間も空間も忘れてしまいそうな奇妙な錯覚が少女の中へゆっくりと滑り込んでいた。

「空が、見えないな…。」
 家で見る時より素晴らしく清らかな月だったが、森の木々が邪魔をして視界を狭めている。家の屋根で眺める月空は、360度全開の天然プラネタリウム。
(東京でもよくこうしてお月様見てたっけ…。)
 月光のスポットライトを浴びたもの全てが神秘的に見える。昼間なら目に留まることすらないベランダの手すりや屋根の瓦、そして家の壁までもが、月の光を受け、人の心を酔わす怪しい魔力を宿しだす。
 そして、それは人間にも同じように作用する。
 いつだったか、高く澄んだ空に浮かぶ月に引き寄せられてベランダから夜空を眺めていたことがあった。少しの間ぼんやりと夜の静けさに包まれていると、あかねはふと自分の意識を呼び戻すものがあることに気が付いた。
 太く力強い何かが凛とした空気を素早く幾重にも切り裂いていく音。その音を辿っていき、瞳に飛び込んできたものは、道場近くの中庭で稽古をしている乱馬の後ろ姿だった。
 彼を捉えた瞬間から、あかねはその少年から目が離せなくなってしまった。武道に秀でた少年の動きは見事というしかなかった。羨望を飛び越え、嫉妬と悔しさが込み上げてくるほど無駄のない動きとしなやかさと、そして強さ。自分がどんなに望んでも手に入れることのできないものを彼は持っている。そんな彼の動きに魅せられていた。

 ……いや。
 本当は、照らし出された許婚に魅せられていた。

 彼の前では素直な気持ちなんてこれっぽちも表に出せない、強情張りでかわいくない自分。だから、彼の知らぬ間だけでもこの堅牢な鎧を脱ぎ捨て、脆くも激しい想いを持つ一人の乙女でありたかった。
 そして乙女は、その望みどおり誰に遠慮することなく、蒼い光を纏った「彼」を見つめた。家族にも、友達にも、彼にも、そして依怙地な自分にも、憚る必要のないその一時。あかねは「好きな人」を見つめていた。
 暫くして、少年を照らす光が翳ってきた。あかねは自然と空を見上げた。
 見ると、白いものが天空を泳いでいた。月明かりは雲の流れで違ってくるのだとふと気が付いた。
 月にかかる薄雲を見つめていると、夜風にそよがれ、形を変えていく。その雲の動きが不思議と好きだった。 

 今夜は、月を掠めていく雲はない。
 惜しみなくそのしっとりとした光は少女へと降り注がれる。

(月光欲っていう言葉があるけど、うまい表現よね。)
 全身の皮膚が月の光を感じ取り、そのまま毛穴を広げ、冷たい光を受け入れていくような感覚がじわりじわりと伝わってくる。頭の天辺から足の先まで充溢していく月の血がそのまま自分の体を地に沈めていってしまうのではないかとさえ錯覚する。だが、そこに恐れはない。反対に、彼女はそれを望んでいたようにも思える。この得体の知れない落ち着きにどっぷりと浸っていたかった。
「やっぱり月の光って…。」
 英語の時間で習った“狂った”という意味の英単語「lunatic」。その「luna」は「月」の意味。昔は、月光から発する霊気に当たると気が狂うと言われていた。
 もしもこのまま月の光を浴びていたら…


(私も、狂っちゃうのかな…。)


 ―――でも、狂うとしたら、それは月のせいじゃなくて…。















 月影さやかな夜。一艘の帆船が月明かりを頼りに河を進む。
 紺碧に染まった世界で忍びやかに波打つ音。
 船が水を掻き分けるたびに、細く長い月の光が水面に踊る。
 音のないシルクの風が薄明かりの幻想世界へといざなう夜。
「恐ろしくきれーだな…。」
 木でできた古めかしいジャンクから小さな呟きがぽつりと落ちた。
 おもちゃの積み木で作り合わせたような平底帆船は、長く水に浸かり、あちこち腐りかけている。いつ沈没してもおかしくない。それでも、ボロボロに汚れたマストが二本ある“立派な”中型船。
 その帆柱の頂に上がり、帆桁と十字に交差した細い場所に少年は器用に腰を下ろしていた。マストに背中を預け、帆桁に足を投げ出す。手を頭の後ろに組んで開いた上体を、船を押していく柔らかな風がいっぱいに撫でていく。


 陳さんと別れた後、乱馬と良牙は運河の通る小さな町に差し掛かった。そこで、どういう経緯なのか、良牙が運搬船の船長に気に入られ、呪泉郷へ行くと話したら近くまで連れて行ってくれるということになった。もちろん、タダである。
 その良牙はブタの格好ですやすやと眠っている。大方、あかねかあかりにでも抱かれている夢でも見ているのだろう。頬を赤く染め、口元が緩んでいる。
「ちぇっ、いい気なもんだぜ。」
 もしもその相手があかねなら、たとえ夢でも乱馬には面白くない。黒豚は変身して脱ぎ捨てた服をしっかりと抱きしめている。
「むっつりスケベが…。」
 目が冴えてふと見上げた空には、美しい月がかかっていた。


 船の先に延びる黒色の河は緩やかなカーブを幾つか描き、まだまだ続くはずの姿をその地形に隠している。
 この辺りは痩せ地なのか、両岸に人家の明かりを確認することはできない。事実、阻むものは何もない開けた視界には殺伐とした平地が広がり、遠く先には寂寞とした低い岩山が連なっていた。
 鉄紺の空。寥々とした地。底の見えぬ闇色の河。
 そんな世界をひっそりと照らし続ける白い月。

 都会のように人工的な光などない。だからこそ月影が妖艶なまでの美しさを醸し出す。電光には出せない不思議な蒼白い光を放つ真珠の月は、どんなに見ていても飽きることはない。
(なんでこんなに輝いてるんだ…。)
 けれども決して煩くない、控え目な輝き。眠りに就く天地を見守り続ける寡黙な光。
 そんな光と影の織り成す神々しい世界を、太古の昔より人間は愛で、そしてその世界を前に平伏してきた。
(そう言えば、月の女神っていたよな…。なんだったっけ…。)
 英語の時間だっただろうか。珍しくひな子先生の授業を聞いていた。
「えーっと…。」
 薄れ消えかけている記憶を必死に辿り、その中でも微々たる言葉の欠片を探し出す歯がゆい作業。彼の全脳細胞が一斉に稼動する。
「……あ!」
 だが、幸運にしてそのおさげの頭にパチンと蘇る。

「…ダイアナ…!そうだ、ダイアナだ!」

 ギリシャ神話で月の女神、アルテミス。ローマ名をダイアナ。
 彼女は白馬が引く銀の馬車に乗って夜空を駆け巡る。そして銀の弓を引き、銀の光の矢を放つ。海の王ポセイドンの国に対して神秘的な力を持ち、彼女だけが海の潮を銀の鎖で操ることができた。
 そしてまた、彼女は狩猟の守護神でもあった。
 純潔を誓い、森の奥で野生を支配する女神。森の精霊たちを率い、銀のサンダルをはいてその心の赴くままに野や森を駆けていく。
 自分たちが食べられる以上に殺生をする者には落馬させたり道に迷わせたりして狼の餌食にし、処女でいないといけないニンフが母親になった時には、彼女を熊に変え、彼女の成人した息子に殺させた。そんな激しい気性も持ち合わせている。
 そして、彼女の放つ矢は痛みを伴わず、突然の死を招くとも言う。

 そんなひな子先生の話を聞きながら、彼女の勇ましさと激しさ、そして清楚さに乱馬はふと己の許婚を重ね合わせたのを覚えている。
 勇敢で、気高く、そして美しい、月の女神。


(月の女神、か…。)


 ―――確かに…、あいつは俺にとってダイアナかもしれねえな。だって、こんなに…。















 パチンと大きく枝の弾ける音が響く。
「…なんてね。そんな訳ないか。」















「…って、なに考えてんだか、俺は。」
 川面を渡る風が月を揺らした。














 
(乱馬も…)
 少女は再び月を見上げる。















(あかねも…)
 少年はもう一度空を仰ぐ。















 ―――同じ月を…、見てるのかな…。




















 今宵、眠れぬ恋人たち。
 月の奏でる調べが語り尽くせぬ想いを銀の雫に変えていく。
 ゆらりゆらりと宙(そら)へ舞う無数の秘めし想いが蒼き音色に溶けた頃、長々し夜は更けてゆく。







 愛する者へ 萌芽の章 「夜長」  完




作者さまより

(小人より一言)
本当は、元ちとせのシングル「ワダツミの木」に入っている「夜に詠める歌」というのを聞きながら、昨年の秋頃、頭に浮かんだ話でした。
全くこのシリーズとは関係なく考えた話。
乱馬が山篭りに行っている間に、あかねは家で、乱馬は山で…という設定で、メモだけして放っておいたものを、「これは使える!」と安直な閃きでこのシリーズに引き摺り込みました。

前回もそうでしたが、半年ほどズレています、季節が…。季節感なくてすみません。


 私はぼんやりと月を眺めるのが好きです。
 夜空を見上げるとそこにある安堵感。
 月でも半月が結構好きです。(某コンビネーションの名前にしたくらいですから。)
 最近はとんと窓から月を眺むることも減ってきているような。

 空間が表現に深みをかもし出しているこの作品。
 なるほど、こういう描き方があったか。と。
 空白(余韻)もまた創作の一部也。
(一之瀬けいこ)