◇愛する者へ    萌芽の章 〜十九歳〜
  二、「根」〜気付き〜 乱馬編 (前編)
かさねさま作




 深く立ちこめる朝靄に見え隠れする幾千もの奇峰。
 その間からうっすらと差し込む朝の光は、音もなく忍ぶように流れてゆく川をささやかに照らす。
 河辺には竹が生い茂り、さざ波一つ立たない静かなその川面を、数本の竹筒で作られた小舟がゆっくりゆっくりと滑っていく。
 まさに一幅の山水画。
 しかし遥か上空、雲海の上では、言葉奪われるこの静寂な風光にはおよそ似つかわしくない雄叫びが炸裂していた。
「行くぞっ!乱馬ーーーーっ!はあーーーーーっ!」
 ドウンッ
 獅子咆哮弾がおさげの少年を目掛けて飛んでくる。
「ったく、朝っぱらから元気のいいやつだぜっ!…猛虎高飛車っ!」
 標的となった少年は同じく気弾で迎え撃つ。
 バウンッ!
 両弾がぶつかり合って弾き散ると、二つの影は空高く飛び、激しく拳と蹴りを交し合う。
 バキッバキッバキッバキッ
「なんだぁ〜?調子悪いのか、P…ちゃんっっ!!」
 ドカッ
「ぐはっ…!」
 しなやかな体から銃弾の如く繰り出された左足がバンダナの少年の腹にのめり込む。
「…く、く、く…。…貴様こそ、どうした?こんな赤子のような蹴りなんざぁ、痛くも痒くもないぜっ!!」
 すかさず足首を掴み、背中へと回り込むと渾身の一撃を打ちつける。
 バキッ、ドスッ
「うぐっ…!」
 一瞬呼吸を失った。だが、すぐに態勢を立て直し再び攻撃へと転じる。
 そして二人は次から次へと奇岩、奇松に飛び移りながら接近戦の実戦さながらの朝稽古を続けていった。

 中国南方にある小さな水田の村。ここに早乙女乱馬と響良牙は逗留していた。
 日本を離れてからはや五ヶ月。
 節約のため…というよりは単にお金がなかったため、中国へは自力で渡った。ある時は泳ぎ、またある時は船に掴まり、そしてまたある時はシャチの背中に乗り、海を渡った。黄河と長江の間辺りに泳ぎ着く予定だったのが、辿り着いたのは江南だった。
 呪泉郷へ行くのは初めてではなかったが、中国は異常に広い。前と同じルートで、というわけにはいかなかった。とにかく中国には辿り着いたのだから、後は青海省へ向かえばなんとかなる。言葉が通じないながらにも、筆談や身振り手振りで各村々を渡り歩きながら呪泉郷を目指していた。

「乱馬、良牙。これ、朝ごはんです。食べてください」
 朝稽古を終えた二人に、恰幅のいいおばさんが朝食を勧める。
 中国語のイントネーションが強く残る、助詞が抜けた片言の日本語。それでも、日本語が分かる人がいるというだけでずいぶんと心強い気がする。しかも、今までほとんどテントで野宿をし、自給自足でろくに食べられない生活が続いていた二人にとって、泊まる場所があり、食事が出されることがどんなに有り難いことなのか骨身に沁みていた。
「いつも、すみません」
「おぉ、うまそう♪」
 稀飯、饅頭、油条、温められた豆乳が食卓に並ぶ。
「たくさん運動します。お腹空きます」
 おばさんは『早く食べなさい』と言うように二人を席に座らせた。
「「いっただきま〜す」」

 この家に泊まらせてもらうことになって一週間。
 外壁が黒ずみ、所々剥がれ落ちているところもある白いレンガ造りの小さな家。
 ここに今は一人で住んでいる五十代半ばの女性が彼ら二人を迎え入れてくれた。
 彼女の名前は陳佩鮮(チンハイセン)。
 日本に数ヶ月住んでいたことがあり、日常会話の日本語ならなんとか意思を通わせることができた。
 ご主人を早くに亡くし、一人息子を女手一つで育ててきた。息子は、苦労しながら自分を育ててくれる母の姿を見て、自分が強くなって母親を楽させるんだと言って武道の道に励んでいた。しかし、十五年程前、近くの村で武道大会があり、そこで優勝すれば賞金がもらえるからと言って家を出たきり行方が分からなくなったという。陳さんは、もちろんその村へ行って息子を探したが、息子の姿はおろか、その武道大会さえも行われていなかったことが分かった。以来、息子が無事に帰ってきてくれることを固く信じ、彼の帰りをひたすら待つ日々を送っている。
 そんな彼女だったから、失踪した息子の年に近く、また息子と同じように武道に志を持つこの二人の少年に息子の影を見ていたのだろう。乱馬と良牙がこの村へやって来ると、すぐに自分の家で寝泊りするように言ってくれた。

「あ!」
 何か思い付いたように陳さんはぽんと手を叩いた。
「良牙、乱馬。占い、知っていますか?」
「「占い?」」
「そう。今、有名な占い先生います。遠い山の向こう。とてもよく分かります。私の息子、よく行きました。いい先生。二人、行く、いいです」
 自信を持ってニコニコ顔で勧める陳さん。
「…占い…」
「…なぁ…」
 二人はお互いの顔を見合わせ、言葉を濁した。





 シュタッ、シュタッ、シュタッ…
 木の枝々を足場に、軽々と飛んでいく二人の少年。
「おいっ!本当に行くのかよ、占い師んとこなんかによー」
 先を行くバンダナの少年の後をしぶしぶ付いていくおさげの少年は、やや不満げだ。
「お世話になってる陳さんに勧められたんだから断れるわけにはいかねーだろ」
 良牙は振り向きもせず答える。
「お前、本当に信じてんのかよ、占いなんて」
「信じる、信じないは別として、せっかく言ってくれたんだから行かなきゃ失礼だろうーが」
「はんっ、殊勝なこって」
「嫌だったら、付いて来なければいいだろっ。それともなにか?お前、なんか占ってほしいことでもあるのか?」
 挑発するような視線に乱馬はかぁっと赤くなる。
「んっ、んなわけねーだろっ!だいたいなー、てめー一人で行かせたら、迷子になるに決まってんじゃねーかっ。だから付いて来てやってんだっ!」
「ふっ、なんとでもほざけ」
 自分を見透かしているような態度に、乱馬はますます依怙地になる。
「俺はぜってーーーーーーーに、見てなんてもらわねーからなっ!」
「勝手にしろ」
「あー、そうさせてもらうさっ」
 妙に冷静で大人な良牙がおもしろくなかった。





「ここだ」
「なんか、うさんくさそうな所だな」
 村から北へ二十キロほど行った僻地にそれはあった。
 乱馬たちのいる村よりもさらに濃い霧が湧き上がり、百メール先は見えない。大小それぞれの奇岩が地面から生え上がったように幾つも聳え立ち、仙境を思わせるような深山。その岩山の山間に流れる細流の近くに占いの館はあった。
 と言っても、「館」と呼ぶには程遠い、汚く陰気漂う老朽化した四角い石造りの家。
 戸のない玄関からは終わりのない暗闇が口を開けて待っているように見える。ここからでは人が住んでいるのかどうなのかさえ分らないほど、人の気配というものを感じ取ることができなかった。
「とにかく入ってみようぜ」
「ちぇ、しょーがねーなあ…」

(――――!!)

 入り口の前まで来て、乱馬はただならぬ妖気を一瞬感じ取った。
「おい、良牙っ!ま…」
 先に入ろうとしていた良牙を止めようと、腕を掴んだその時、

「ほぉ、わざわざ日本からいらっしゃったのかな、若い衆」

 流暢な日本語が、暗闇にぼんやりと揺れる二本の蝋燭の間から聞こえてきた。







「わざわざ日本からお出でなすったとは、ワシの占いもずいぶん有名になったものじゃのぉ」
 暗闇に目が慣れてくると、毒々しい紫色の外套を頭から被った老婆の顔が微かに灯る蝋燭の明かりから浮かび上がってきた。
「ずいぶん、日本語が上手なんだな…」
 この時、良牙はすでにこの占い師の異様な雰囲気に呑まれていたのかもしれない。
「だてに長生きはしておらんでなぁ」
 確かに、コロンのことを考えれば人間であって妖怪のような摩訶不思議な人種はこの広大な中国には存在していそうである。
「てことは、何百年も生きてるとでも?」
 鋭い声が闇を切る。
 家へ入る直前、何かを感じ取った乱馬は警戒心を解けないでいた。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ。何百年とはまた桁外れな。生きてはみたいが、それはちと無理な話じゃ」
 占い師は笑って受け流した。
「おい良牙、気をつけろ。この家の妖気を感じ取っただろう」
「ああ、分かった」
 乱馬は用心するように耳打ちをする。しかし…

「良牙よ。お主は恋のことで相当悩んでおるようじゃな」

「はっ、はいっ!見てもらえますか」
 ずるっ
「おいっ!良牙っ!」
 先ほどの頷きはどこへ行ったのか。すっかりその気になってしまった良牙はさっさと椅子に座り、すでに見てもらう体勢になっている。
「まぁ、焦るな。次はお前が見てもらえばいいだろ」
「ばっ、ばか!お前…!」
 もはや友の忠告など良牙の耳には入っていない。緊張気味に居ずまいを正し、とても武道家として用心しているようには見えない。

 老婆は筋と血管の浮き出た皺だらけの両手を水晶玉の上に置き、擦るような動きを始めると、なにやら呪文のようなものをぶつぶつと唱え出した。そして、紺碧色の気体が渦巻く水晶玉を翳し、それを良牙の顔の前に持っていった。

「お主…、二股をかけておるな…。Pちゃん」

 ぎくぅーーーっ

「な゛っ…!」

 良牙は勿論のこと、あれだけ占いなど信じていなかった乱馬も、老婆の一言に言葉を失った。
「ば、ばあさん…」
 驚きを隠せない良牙にニヤリと笑う。
「ほっ、ほっ、ほっ。浄玻璃の鏡の破片でできたこの水晶は、透かして見ることでその者の過去や心中が映し出されるのじゃ」
「浄玻璃の…鏡?」
「そうじゃ。聞いたことはないか?地獄の閻魔王の役所にあって、死者の生前の善悪全ての行いを映し出す鏡じゃ」
「…なんで、んなものの破片でできた水晶をあんたが持ってるんだ?」
 なにか胡散臭い。己の本能が嗅ぎつけた直感に絶対の自信があった。
「伊達に占いの修行を積んでおるわけではない。お前さんの妖怪のようなエロ師匠も、奇怪なものをたくさん持っておるではないか。現に、呪泉郷の呪いの泉で信じられないような変身体質を持っている御仁もいるようだしのぉ、乱馬よ」
「!!」
 水晶玉越しに老婆の顔が見えた。
「おい、乱馬っ。お前、さっきからなにカリカリしてやがるんだ」
 良牙は疑うことなくこの老婆に信頼を寄せてしまっている。
「ちっ」
「そして…、水晶玉にお前さんの手を置けば、未来のおおよその筋が映し出される」
 水晶玉を良牙の元へ戻し、甘い誘惑を吹き掛ける。
「み、未来の…」
「ただし、お前さんの今の心の状態が多少なりとも反映される。百パーセントその通りになるとは限らん」
「はんっ!んな未来のことなんて見ちまったらつまんねーじゃねーか」
 乱馬はあくまで反抗的だ。
「そう思うなら見なければよい」
「お前は黙ってろ、乱馬!」
「ちぇっ!勝手にしろっ。どーなっても知らねーぞっ」
「なに言ってるんだ?たかだか占ってもらうだけだろーが」
「そちらのおさげの少年は少々ご機嫌斜めのようじゃな」
(…てめーのせいだっつーの!)
 何かが腑に落ちなかった。
 しかし、老婆の口から出てくる良牙の過去は寸分の狂いもない。しかも、恐ろしいほど事細かに言い当てていく。

「そちらの若いのはいいのかな?」
 良牙を一通り占い終わると、後ろで腕組をしながら構えている乱馬をちらりと見た。
「俺は遠慮しとく」
 絶対に何かある。胸の警戒音が最大音で鳴っていたのだが…

「ほぉ。本当によろしいのかな?…お前さんのかわいい許婚のことも分かるのだがな…」

「…!」

 この言葉にはぐらっときた。
 自分のことはともかく、あかねが今無事かどうなのか、どんな生活を送っているのか、乱馬だって知りたくないわけではない。
「おい、乱馬!意地張ってねーで占ってもらったらどうだ。あかねさんのことが気にならねーのか?!」
(……)
 暫く考え込むと、乱馬は組んでいた腕を振り解いた。
「…ったく…。仕方がねーから、ちょこっとだけなら見てもらってやってもいいぜ…」
「…お前、その性格なんとかならねーのか…」
「うるせーっ」
 良牙を横目でジロリと睨みながら、老婆の前に腰掛ける。
「ほらよ。さっさと占ってくんねーか」
 乱馬は踏ん反り返って構えた。
「…これは、これは…」
 老婆はえらく感心したような声を上げる。そして、怪しげな輝きが増した蛇のような目を細めた。
「な、なんだよ…」
「いや、いや。ずいぶんと威勢のいい殿方のようじゃな」
「どーゆー意味でいっ」
「どうもこうも、格闘を幼い頃からやってきているせいなのか、大層な負けず嫌いじゃな。しかもそれは恋愛にも影響が出ておる。…決して自分から折れようとはしない。違うか?」
「ちっ、ちが…!」
「全くもってその通りだぜ」
 横から入る良牙の茶々。
「おめーは黙ってろっ///」
「はんっ。図星を指されて焦ってやがんのか?」
「うっ、うるせーっ!」
「しかも不器用な性格をしておるのぉ。意地っ張りで素直ではない。思ったことと反対の言葉が出てきてしまう。これでは、恋愛成就は難しい。…相手も同じような性格なら尚更じゃ」
 最後のは小声で囁いた。
「おっ、俺のはもういーからっ!あかねはどーしてんだっ!あかねは!」
「ほっ、ほっ、ほっ。ほ〜ら、言ったそばからこれじゃ。なぁに、安心せい。お前さんの大切な許婚は元気にやっておる。彼女はずいぶんと強運の持ち主じゃ。そう心配することもなかろう」
 その言葉に、思わず安堵する。この占い師には警戒すべきところはあったが、この水晶玉から見えることには確かに信頼性はあった。
「おい、良牙!もう行くぞっ」
「って、おい!もういいのか?」
「俺はもう十分だ。こんな所で油売ってたら体が鈍っちまうぜっ」
 こんなところに長居は無用だった。
「じゃ、じゃぁ、失礼します」
「またいつでも来るがよい」
「は、はい…!」
 ぺこぺこと頭を下げる良牙とは対照的に、乱馬は何か不快にまとわりつこうとするものから逃れるように足早に外へ出て行った。

 二人の気が自分の領域から離れていったのを確認すると、占い師は水晶玉に手を掛けた。すると、今まで雲のように浮いていたものが、どろどろとした血糊のようなものに変わっていった。
「ふふふふふふ…。水晶の示す通り“勇者の魂を宿す者”に巡り合えたわい。あのおさげの方はなかなかできるようじゃ。己に暗示を掛けてきおった。まあ、よい。まずはあのバンダナの青年からいただくとするかな…。くっ、くっ、くっ。久し振りのご馳走じゃ…」
 細く小さな唸り声を上げながら幽谷を吹き抜ける生臭い風に絡まるように、しゃがれた声が闇の中から聞こえてきた。



つづく




 作者さまから、いろいろ悩んだ挙句、あかね編と乱馬編を並行して書かれてゆくというコメントをいただいております。
 一度で二度美味しい作品・・・。
 二人の修業はいかなるものになるのでしょうか?
 そして、運命やいかに・・・。

 留学中のかさねさまゆえに、創作ペースはゆっくりです。シリーズ完結までおつきあいくださいませ。一緒にワクワクしましょう!
(一之瀬けいこ)


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