◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  二、「根」〜気付き〜 あかね編(後編)

かさねさま作




 あかりと別れ、道場へ戻ってみると、なにやら道場がざわついていた。
「どうしたの?」
「いや、またカッパが出たって言うんだよ」
「また?!今度は何をやったの?」
「特に何をやったってわけじゃないらしいんだ。ただ子供が川で遊んでいたら近くに現れたって」
「また子供が被害に遭うんじゃ…」
「ああ、俺たちも心配で、これから村へ降りてみようって話しになってるんだ」
「あたしも行くわ」
「天道はまだ休んでたほうが…」
「大丈夫よ!」
 あかねは、不思議なほど自分の体が軽く感じられてしかたがなかった。





「ここら辺にいたらしいんだ」
 一日休暇だったこともあり、弟子たち全員が揃っていたわけではなかった。
「また幻覚妖術に罹らないようにしないと」
「だな。滝乃川先生の言う『迷いのない澄んだ心』で臨まない限り…。俺たちにできるんだろうか」
「とにかくやってみるしかないわ」
 昨晩やられた時と今とでは、何が具体的に変わったのかは分からない。だが、今ならば、偽りのない無心で臨めるような気がしていた。
「あっちにいたぞーーーーっっ!!」
「!!」
 少し上流の方で誰かが叫ぶ声がした。

「「「「あっ!」」」」

 声のした方へ駆けていくと、そこには昨夜と同じカッパが川の中に佇んでいた。
 小さなカッパが一匹。こちら側はあかねを含め六人。普通に戦えば勝算はある。しかしあの幻覚を見せられたらまた全滅してしまうかもしれない。
「みんな、気をつけて…。あの目が赤く光った時、あいつの妖気が一気に上がるわ」
「分かった…」
「よし…」
 じり、じりっと六人は間合いを詰めていく。
 カッパはただ黙ってこちら側を見つめているだけだった。
(いったい、あいつは何を考えているの…?)
 今のところ、攻撃してくる気配がない。
(こっちの出方を見ている…?)
 しかし、構える体勢すら取っていない。
 昨日もそうだった。最初はまるで戦う意思がないかのような気なのだ。それが突然豹変する。昨日といい、今といい、それがいつなのか全く読めない。ただ一つ言えることは、それは攻撃されている時ではないということだった。
「みんな、気を付けろよ」
 六人の気が研ぎ澄まされていく。ピリピリと張り詰めた緊張と集中がカッパに向かっていた。
(これほどまで標的とされているのに何もしてこない…?)
 あかねには相手の動きがどうも釈然としなかった。
(あんなに小柄なのに…。襲われても勝てる自信があるとでも…?ん?小柄…?)
「まさかっ!」
 あかねがはっとした時だった。
「よしっ!行くぞ!」
「「「「おお!」」」」
 一人の掛け声で、一斉に攻撃を仕掛けた。
「たぁーーーっ!」
「てぃやーーーっ!」
「はっ!」
「とやーーーっ!」
「だーーーっ!」
 パシャッ、パシャッ、パシャッ
 カッパはいとも簡単に次から次へと降りかかってくる攻撃をかわしていく。だが、その小さな体からはまだ妖気らしいものは放散されてこない。
 が、一人が叫んだ一言で一変した。
「これ以上、犠牲者を出して堪るかっっ!!この妖怪め!!」
(あっ!!)
 カッパの両目が赤く光り、強大な妖気が放たれ始めた。
「気を付けて!!妖気を出したわっ」
 あかねの叫びと同時に、カッパの反撃が始まった。
 ビュシュッ、ビュシュッ、ビュシュッ
 カッパの両掌から銃弾のようなものが飛び出してくる。
「どわぁ!」
「うわぁっ」
「ぐえっ!」
 よく見るとそれは水の弾だったのだが、勢いを付け、撃たれればかなりの衝撃とダメージを受けた。
「はっ!ほっ!」
 あかねは器用に水弾の雨をかわし、カッパに近づいていく。そして、ある程度の近距離まで詰めると、丹田に溜めていた気をその足元に狙いを定め、撃ち放った。
 ドンッ
 バシャッ
 足元を掬われ倒れたカッパはそのまま数メートル流され、その隙を衝いて続け様に他の仲間が気を放っていく。
 ドスンッ、ドスンッ、ドスンッ
 あかねのよりも威力のある気弾に弾かれ、カッパはあかねの所まで吹っ飛ばされてきた。
「天道!捕まえろ!!」
「うん!!」
 あかねは足元に転がってきたカッパの腕を押さえ付け、止めの一撃を加えようと丹田に気を溜めようとした。

(!!)

 が、赤く光る眼と間近で見つめあった途端、気を溜め込んだ丹田が空気の抜けた風船のように萎む。
「あかねちゃん!!早くっ!」
 止めを刺そうとしないあかねに痺れを切らし、別の仲間が手を掛けようと駆け寄った。

「待ってっ!」

 あかねは咄嗟にそれを制した。

「天道…?」
「この子…」
 捕まえたぬるっとした細い腕からじわりと胸を突く温もりが伝わってくる。あかねは腕を握り締めた手の力を緩めた。
「この子…、本当は…」


「そこまでじゃ」


「「「たっ、滝乃川先生!!」」」

 河辺に、カッパを囲んだあかねたちを見つめる滝乃川の姿があった。







 師匠の突然の出現に唖然とする六名に、滝乃川は悠然と歩いてきた。
「天道。その手を離してやりなさい」
「た、滝乃川先生!」「こいつは…!」
「いいから離してやりなさい」
 弟子たちの驚きと戸惑いの声など気にも留めず、滝乃川はあかねを見つめている。
「…はい」
「あかねちゃんっ」「天道!」
 仲間の止めようとする声はもはや耳には入ってこなかった。あかねは滝乃川に言われた通り、カッパの腕をそっと離してやった。
 カッパがまた暴れ出すのではないかと構える仲間たちが緊張しているのが伝わってくる。だが、カッパは逃げもしなければ、攻撃もしてこない。只々、滝乃川をじっと見つめているのである。
「どれ、わしが手を貸そうかの」
 そうひとりごち、滝乃川はカッパの手を取った。
「滝乃川先生?!」「お、お師匠さま!」「先生!」
 滝乃川の理解し難い行動に誰もが目を丸くする。だが、あかねはこの師匠には何か考えがあるのだと、さきほど自分を見つめた深い目を思い返していた。
「さぁ、みんな、目を閉じろ」
「え?」「はい?」
「目を…?」
「閉じる…?」
 滝乃川のやろうとしていることがますます分からない。自分たちの師匠はいったい何をしようというのだろうか。そんな戸惑いがどよめきとなる。
「何をしておる!さっさと目を閉じんかい!」
 ぐずぐずしている弟子たちに鋭い一喝が飛んでくる。
「「「「は、はい!」」」」
 厳しい一声に慄き、みんな慌ててぎゅっと目を閉じた。あかねも静かに目を閉じる。

(え…?)

 水面に波紋を描くようにあかねの心に何かが細く微かに響いてきた。
 そこにいる誰もが、この不思議な体験をどう説明したらいいのか分からない。
 目を閉じた六名、いや、滝乃川も含めた七名の心に、小さな子供の声が聞こえてきた。
 それは、とても悲しげで、とても弱々しい声だった。

 …自分には兄弟も友達もいない。
 仲間たちは人間に近付くなと言う。
 けれども、独りぼっちでいる寂しさは小さな心にはとても耐えられなかった。
 だから村の子供たちと友達になりたいと願った。ただ純粋に遊びたいと思った。
 でも、自分が近付こうとすると、人間の子供たちは逃げる。
 どうしてなんだろう。どうして人間の子供たちは自分を見て逃げるんだろう。
 この体が人間と同じじゃないからなのか。人間と同じ言葉を話せないからなのか。
 自分はどこへ言っても独りぼっちなんだろうか…

 今にも泣き出してしまいそうな震える小さき者の訴えは、同じ幼き者の尊い命が奪われた日に及ぶと途切れ途切れになっていった。

 …その日、川で遊んでいた子供たちが自分の姿を見て、いつものように慌てて逃げようとした。しかし、慌てていたせいで一人が足を滑らしてしまった。少し流れが早いその場所では、泳ぎが不得手な子供はとても助からない。自分は急いでその子供を助けようと近付き、手を差し伸べた。だが、子供は恐怖に駆られた怯える目で自分を見ると、唯一の助けの綱である自分の手を払い除けた。
 ただ助けようと手を伸ばしただけだった。ただ助けたいと思っただけだった。
 それなのに、拒絶されてしまった。そして、救えなかった。
 自分がカッパであることに、自分が人間と友達になりたいと思ったことに、どれほど後悔したか分からなかった。どれほど悔しいと思ったか分からなかった…

 あかねは心に聞こえてくる声に耳を傾けながら、カッパを仕留めようとした時に自分を見つめていた目が語り掛けてくるように思えてならなかった。
 あの瞳の奥に潜ませた思い。
 誰にも理解されず、誰にも語ることができず、まるで全てを投げ捨ててしまったような、早く自分を消し去ってしまってくれと懇願するような悲しい瞳。
 その小さな胸をどれほど痛めていたのだろう。
 その幼き心にどれほどの傷を受けてきたのだろう。
 あかねは、この手に感じた切ない温もりを思い出していた。





「…え?」
 その夜、滝乃川に呼び出されたあかねは師匠に告げられた話に耳を疑った。
「何を驚いておる。それとも何か。お前は一生ここで修行をするつもりか」
「い、いえ、それは…」
「勿論、完全にわしの奥義を会得したとは言えん。何度も言うようじゃが、完璧になるまでは長い年月が掛かる。じゃが、お前さんはここにいなくてもそれを極められる」
「滝乃川先生…」
 自分にはとても信じられない話だった。
「まだ信じられんという顔をしておるな。ならば一つ教えてやろう」
「え?」
「お前は、先のカッパとの戦いで粘勁(ねんけい)が使えていたのじゃよ。…もっとも、自分自身では気付いておらんようじゃったがな」
「あ、あたしが粘勁を…?」
 滝乃川の指摘通り、あかねは自分が粘勁を使えていたことに気付いていなかった。
 攻撃法である発勁も防御法である化勁も、それ単独ではバラバラなため実践で使うと難しくなる。そこで攻防一体にしたものが「粘勁」だった。粘勁は相手に密着して死角に入り、自分が攻撃しやすいポジションを取る技術を必要する。相手との距離を殺し、相手の攻撃を封じつつ発勁によって自分は攻撃を仕掛けることができる攻防一体の技であった。
「迷いのない心で無我夢中に戦ったのじゃろう。幻覚妖術にも罹らなかった」
「幻覚妖術があったんですか?」
「あの水弾じゃ」
「え、でも、あれは本物だったんじゃ…」
「水を弾き飛ばしていたのには違いないが、銃弾に当たったような衝撃はないはずじゃ。ま、お前さんは避けていたつもりじゃったようだが、ちゃ〜んと体に当たっておったぞ」
「え…」
 それも全く気付かなかった。なんの痛みもなかったから、てっきり自分は避け切れているのだと思っていた。
「澄んだ心だったからこそ、澄んだ心の目でカッパの本当の気持ちを感じることができた。…違うか?」
 自分が澄んだ心の目を持っていたかどうかは分からない。けれども、最後の一撃を加えようとした時、何故か躊躇してしまったのは事実だった。
「自分の触れられたくない部分に鋭い矢が放たれれば、人は自分を守ろうと必死にその矢を攻撃する。それは人に限ったことではない。動物も植物も同じじゃ。そして、それはあのカッパにも同じことじゃ」
 触れられたくない部分。
 それは、あのカッパにとっては子供を助けられなかったことだったのかもしれない。自分がカッパであったが故に失った命。
「さて、新しい道場だが、わしの知り合いのやっているところでな。四国のちと奥地にあるところなんじゃ。天道には必要な武道だと思うんじゃが、どうかな」
 いいも悪いも、自分には判断などできない。あかねは半年近く自分を厳しく見つめてきてくれた師匠を信じ、承諾した。
「大丈夫じゃ、安心せい。変な所には送らんよ。早雲の愛娘じゃ、わしの孫にも等しいわい。…それに…」
 あかねの期待と不安の入り混じる表情が少し緩む。だが、その先に続く真実に少女は大きな衝撃を受けることになる。


「お前さんの許婚だとかいう少年にも約束したしのぉ」


「…え?」
 『許婚』という言葉にあかねの全身は弾けた。
「お前さんが来る前だったかのぉ、電話を寄越してきてな。あかねをどうか宜しくお願いしますと言っとったわい。名を尋ねると…、ええっと、なんと言うたかなぁ…。これだから年は取りたくないのぉ」
「…乱馬、…早乙女乱馬じゃありませんか?」
 迸る熱い感情に、あかねは興奮と震えを抑えつけられないでいた。
「ああ、そうじゃ、そうじゃ。そういう名前だったわい。電話越しだったからなんとも言えんが、なかなかいい声をしておったわ。わっはっはっはっ」

 ―――――乱馬…!

 どんなに遠く離れていても、少年の逞しい腕は空を越え、自分を守ろうとしてくれる。
 その躍動する鼓動も、人肌の温もりも、力強い息吹も、たとえこの身に届かなくても、こんなにも自分を熱くしてしまう。
 激しくうねる思いの蔦が少女をきつく締め付けていった。





 優しく吹き上げてくる潮の香りが胸に沁みる。
 体を貫いていく熱く苦しい気持ちに、遠く先の海面に浮かぶ不思議な火が滲んで見えた。

 『あかねをどうか宜しくお願いしますと言っとったわい』

(あいつは口が悪くてもちゃんとあたしを見ていてくれる。心の根っこの所では自分を大事に思ってくれている…)
 胸を絞られるような痛みで作り上げられた涙がぽろりと一粒零れた。
(あたしはどうだった?)
 ここ暫くは、乱馬を拒否し続けていた。好きだというこの気持ちを見せてしまうことが怖かった。もし出してしまったら、その気持ちと会えない苦しさに押し潰されてしまうかもしれない。そんな恐怖があった。
「あかね」
「遙?!」
「なにやってんのよ、こんな所で」
 こんな所。あかねがいたのは母屋の屋根の上。
 山腹にあるこの道場と母屋は周囲を樹木で囲まれていたが、麓の村へと続く石段がある所は開けていて、その間から海を眺めることができた。
 もっとも、夜になればどこが地平線でどこが海岸線なのか、夜空と同じ色に染まった景色からは皆目見当もつかない。ただ、遠い闇に小さく光る幾つもの蛍のような光だけが、漆黒の海原を教えてくれる。
「聞いたよ。他の道場へ行くんだって?」
「うん…」
「あかねは格闘のセンスがあるからな。すごいじゃん」
「…すごくないよ。滝乃川先生も、まだまだこれからだって」
 二人は暫く言葉を交わさず、闇に溶け込んでいった。
 自分たちを包んでいる自然の息遣いが聞こえてくる。月も星も空も海も山も、どんな時も変わることなく無限の時を重ねてきた。その堂々とした重みが心地いい。
「…円…」
 遙は、遠い瞳で海を見ていた。
「円ね、好きな子がいるんだって。今日告白したら、フラれちゃった」
 目の前にいる少女がその本人だとは、遙は言えなかった。いや、言わなかった。円の気持ちを自分が代弁することを彼が喜ぶとも思えないし、言われたあかねも困るのは分かっていた。
 けれども本当は、彼女の中にある、最初で最後のあかねへの抵抗。
 心から自分のことを応援し続けた、憎らしいほど無垢なライバルへのささやかな抵抗だった。
「……」
 苦笑いを浮かべながらもあっけらかんとしている遙に、あかねはどう答えていいのか言葉を詰まらせる。
「やだ、気にしないでよ。…なんとなく、分かってたことなんだから…」
 遙は自分に言い聞かせるように言うと、胸から何かがストンと落っこちたような気がした。
「でも、あたし、後悔なんてしてないよ」
 見上げた夜空には星が瞬いている。
「円を好きだった自分、好きだもん。この想いに後悔なんて、しないよ」
(遙…)
 ニッコリと笑ったその迷いのない顔に、深い緑の芝生と木陰に映えた美しいあかりの横顔が重なる。
「うん…」
 あかねは小さく頷き、遠くに浮かぶ幾多の光を見遣った。
(あたしは…、同じことが言える…?)
 ぼんやりと揺れる光に問いかけた。

 もし、自分の想いが通じなくても、遙やあかりと同じように胸を張って自分の気持を言えるだろうか。
 自分と乱馬は想いが通じている、きっと。そう信じていたい。
 けれども、そう思っていても、自分は素直にはなれなかった。己の想いに正直になれるほど強くなかった。
 離れてみて見えてくるもの。
 自分のことも、乱馬のことも…。

「あたしもね、暫くしたらここを出ようと思うんだ」
「え?」
「前々から外へ飛び出してみたいなあって思ってたんだ」
「外って?」
「世界!」
 にっと笑った遙が逞しく見える。彼女を花に譬えるのなら、温室や庭園で大事に育てられた花ではなく、きっと荒原でも凛々しく強く咲き誇る花。
「遙こそすごいじゃない、世界だなんて」
「ただの放浪好きなだけよ」
「…世界、か…」
(あいつも、果てしない大地で大きくなっているんだろうな…)
 あかねは深く息を吸い込んだ。
 現在(いま)ある自分と、過ぎ去りし日の自分が混ざり合う。吐き出した先に見るものは未来なのか…。
「もし…」

 ―――もし、乱馬に会うことがあったら…

「ん?」
「……」
 ふっと浮かんだ言葉をあかねはくすりと打ち払う。
「ううん、なんでもない」
「なによ」
「ううん、いいの、ほんと…」
「変なの」
「本当、変よね」
「ぷっ」「あはははは」
 二人の軽やかな笑い声が、密やかな夜空に消えていく。月は黙って二人を見下ろしていた。

(あたしは元気にやってるよ、乱馬…)

 不知火の光が、これから待ち受ける見知らぬ行く手の道しるべのように見えた。



萌芽の章 二、「根」 あかね編  完




 二人の視点で別の話を書くのは至難の技かと・・・。
 かさねさまファンの皆さま・・・お待たせしました。
 う〜ん・・・この先もあかねはどう成長してゆくのか、楽しみです。
 妖怪カッパーも可愛いのかも・・・。
(一之瀬けいこ)

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