◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  二、「根」〜気付き〜 あかね編(中編)

かさねさま作




「…ん…」
 頭に不快に響いてくる耳鳴りのような音であかねは意識を取り戻した。体が鉛のように重い。
「あかね、気が付いた?」
 少しずつはっきりしてくる視界の中に、木目模様の天井と遙の顔が映る。
「遙…。あたし…」
 気が付くと、そこはいつも自分が寝泊りしている部屋だった。まだずきずきとする頭の隅にカッパとの戦いがフラッシュバックする。
「カッパ!!……っつ!」
 がばっと起き上がった瞬間、頭に激しい痛みが走った。
「まだ寝てなきゃ駄目よ!」
 遙は慌ててあかねを布団に戻す。
「…あたしたち、カッパの幻覚妖術にやられたのよ」
「幻覚妖術…?」
「そ。あたしたちが飲み込まれた水柱は、カッパが見せた幻覚なんですって」
「幻覚…」
「水柱もなければ、飲み込まれてもいなかったってことよ。滝乃川先生が言うには、心に邪念や迷いがあるとその幻覚妖術に罹りやすいんですって」
「邪念や迷い…」
「あたしたちもまだまだ修行が足りないってことかしらね」
 さらっと流してしまう遙の言葉に、あかねは少なからず反発を覚えていた。
(あたしの中に邪念や迷いが…?)
 あの時、カッパを捕まえることだけを考えていたはずだった。その自分に邪念や迷いがあったとは思えない。
「倒れていたのは、あたしだけ…?」
「いえ、あたしもよ。あそこにいた人はみんなやられてたわ。後で駆けつけてくれた人たちがここまで運んでくれたのよ」
「そう…」
「なに落ち込んでるのよ。あかねは奴と直接対決したから多分一番ダメージが大きかったんだと思うわ」
「うん…」
「さっ、もう少し横になってたほうがいいわ。明日は珍しく稽古はお休みだそうよ。二人で街の方まで出てみない?」
 気分転換でもしなきゃ。そんな意図もあるのだろう。遙は明るい笑顔を見せている。
「…ええ。そうするわ」
「じゃ、またあとでね」
「うん、ありがとう」
 あかねは力なく微笑むと、一人残された暗い部屋の天井をじっと眺めていた。





 事件の翌日。どういう風の吹き回しなのか、滝乃川から一日休暇の許しが出た。一日羽を伸ばして来いという有難いお達しに、あかねと遙は街へ出てみることにしたのだが…
「なんであんたまで付いてくるのよ」
「いいじゃないの。人数が多いほうが楽しいわよ」
「なんだよ、俺だって街に出たかったんだからいいじゃねーか」
 その二人に円も付いて来ることになった。
 円がいて嬉しいはずなのに素直に喜べない遙。
(なんだか自分を見てるようだわ)
 あかねは、心とは裏腹な態度に出てしまう遙の姿に自分を重ね、思わず苦笑してしまう。
 そして思い出すのは自分の許婚。
(あいつは今どうしているんだろうか…)
 心の隙を衝いては乱馬のことがその胸に去来する。修行に打ち込んでいる時や何かに没頭している時には考えずに済むのに、こうしたふとした瞬間に彼は舞い戻ってきてしまうのである。

 『天道。あの時、本当にお前には邪念がなかったか』

 昨晩、なぜ自分がカッパを捕らえることができなかったのか、幻想妖術に罹ってしまった敗因はなんだったのか、滝乃川に直接話を聞きたくて部屋を訪れた。

 『その胸にもう一度聞いてみなさい』

(あの時、あたしは勝負のことだけに集中してた。…他のことを考えてる余裕なんてなかったわ…)
 何度も自分の胸に手を当てて考えてみたが、滝乃川の言葉にピンと来るものはなかった。
「…ね…」
「…かね…」
「あかね!」
「えっ!」
「もう!なにぼーっとしてんのよ」
「あ、ごめん、ごめん」
「大丈夫?あかねちゃん。まだ昨日の疲れが残ってるんじゃ…」
「あっ!ううん!全然っ。ちょっと考え事!さっ、どこ行こうか」
 あかねは張り切って街の中を見回した。
 と、その時。
「あれ…?」
 あかねの全身を懐かしい思いと記憶が駆け巡る。
 街の大通りに、化粧回しを締めた立派なブタとその上にちょこんと乗っている少女があかねの目に飛び込んできた。


「あかり…ちゃん…?」


 あかねの呼び掛けに振り向いたその少女もまた、驚きと懐かしさで大きな瞳をさらに見開く。


「あかね…さん…?」


「きゃーーーっ!元気〜〜〜〜っ?」
「こんな所で会えるなんて〜〜〜!」
 二人の友人は久し振りの再会に抱き合って喜んだ。





「あかりちゃん、元気そうね」
 あかねは遙と円とは別れ、あかりとその日一日を過ごすことにした。勿論、あかりとの久し振りの再会で色々と話をしたかったのもあるが、遙と円が二人きりになれるよう、あかねなりに気を利かしたというのもあった。
「はい、おかげさまで。あかねさんも」
「うん」
 二人と一匹が腰を下ろしたのは公園の木陰。九月とは言え、残暑の光はまだジリジリと肌に突き刺さるように降り注ぐ。誰も日除けになってくれないベンチの木が、照り付ける太陽の陽でこのまま干乾びてしまいそうだった。
「あかりちゃんは、カツ錦と一緒に九州へ?」
「ええ、そうなんです」
 あかりはブタ相撲の九州場所でカツ錦と一緒に九州に来ていた。そのついでに九州に点在するブタ相撲部屋へ交流試合をしにあちこち回っていたところだったのだ。
「あかねさん、九州へは旅行で?」
「ううん。…武者修行の旅、でね」
「え!あかねさんもですか?!」
「…え?あかねさん『も』…?」
 一瞬、乱馬のことだろうかと思った。
「…良牙さまも…」
「…良牙、くん…?」





「残念ね〜、あかねがいなくて」
 遙の胸は小さな痛みで疼く。
 こんなことを言って、一体何になるというのだろうか。わざわざ苦い思いまでして口にすることではないのは分かっている。それでも、遙の中にある淡く複雑な恋心が彼女の意思とは無関係にそうさせてしまう。
「うるせーなー。別に関係ねーよ、あかねちゃんのことは」
「どーだか」
「許婚がいるんだろ?わざわざそんな子、好きになんかならねーよ」
「そーよねー」
「ああ、そうだよ」
 円をこんなふうに痛めつけるように突付いて、自分は何を確かめたいのだろう。何を知りたいのだろう。先を行く円の広い背中を見ているうちに、遙の胸の軋む音が大きくなっていく。
「円…」
「ん?」
 振り向いた青年が、その心も自分に振り向いてくれる可能性はあるのだろうか。遙は突き上げてくるやるせなさを鎮めることはできなかった。
「もし、あんたのことを好きだっていう女の子がいたら…?」
「…え…」





 日の当たらない芝生から伝わるひんやりとした土の温度が脚の裏に気持ちいい。
 耳たぶを擽る風に、落ち着いた秋の匂いをほんのりと感じた。
「そっか…。良牙くん、乱馬と一緒に行ってくれたんだ…」
 あかりから聞いた乱馬の近況ともいえる事実に、今まで塞き止めていた何かが溢れてきそうだった。
「そっか、そっか…、頑張ってるんだ、二人とも…」
 誰に言うことなく、あかねはそう繰り返した。風に誘われた葉の囁きが乾いて聞こえる。
「自分にはまだきちんと私の気持ちに応えることができないものがあるから、待っててほしいと…」
「…応えることができないもの?」
「それがなんなのか、私には分かりません。でも…」
「って、ちょっと待って」
 あかねは、あかりの口から聞いた良牙の言葉と、それを口にするあかりの表情になにか違和感のようなものを覚えていた。
「良牙くんは乱馬と一緒に数年は帰って来ないのよ」
「ええ、そう言っていました」
「なのに、そんな曖昧な理由で待っててくれだなんて…」
「…確かに、そうかもしれません…」
 ふっと沈んだ瞳にあかねははっとする。
「あ、ごっ、ごめんなさいっ。あたしったら…!」
「いえ、いいんです。私も、寂しいなって思わないわけじゃないですから…」
「あかりちゃん…」
「でも、きっと…、信じていたいんだと思います。…良牙さまが、今回のことを告げてくれた時の真っ直ぐな目と、『必ず答えを見つけてくる』という強い言葉を…」
「……」
 あかねは目が離すことができなかった。こんなにも可愛らしくて脆そうな少女のいったいどこにこんな強さを兼ね備えているのだろう。あかりの横顔が、痛いほど眩しく見える。
「強いんだね、あかりちゃん…」
 自分にはとても真似ができない。そう思うと、今度はあかりの顔がまともに見られなかった。
「いえ、強いんじゃないんです。…弱いんです、きっと…」
「だって…」
「自分から良牙さまへの想いを取ってしまったら、きっと私は死んでしまうんだと思います。…あっ、そういう意味じゃなくて…なんて言うか、心が…」
 あかりは一語一語言葉を選び、続けた。
「それに…、もし、良牙さまが私の想いに応えてくれなかったら、それはそれでとても悲しいんだと思います。でも…」
「でも?」
「でも、良牙さまを想っている自分が、好きなんです」

 ――――良牙を想っている自分が好き。

 はっきりと言い切ったあかりを、揺れる木漏れ日がきらきらと照らす。
 あかねは、この少女の一途で純粋な気持ちを羨ましいと思った。
 彼女を輝かせているものは、良牙の姿を見つめ続ける直向な瞳なのだろうか。それとも、己の心をしっかりと見つめる澄んだ瞳なのだろうか。

(……)

 渇いてざらついていたスポンジの心に、薄く透明な水が注がれていくような気がした。

 本当は、自分も辛かった。
「乱馬のように強くなりたい」と思って自分から言い出した修行の旅。
 なのに、である。やはり乱馬と離れ離れになるのは辛かったし、今頃は何をしているのだろうかと気が緩んだ時にはいつも考えてしまう。
 彼のいる時は、強い自分でいられた。格好いいことだって言えた。
 でも現実の自分は苛立ちが先に走り、余裕なんてなかった。
 あかねはこのことがなんだか許せないでいた。自ら選んだこの道を否定してしまっているようで、できるだけ乱馬のことは考えないようにしていた。乱馬のことを思うこと自体、罪とさえ思えていた。彼を想うことで自分が弱くなると思っていた。
 しかし、違うのである。
 あかりの、自分の弱さを見つめる純真で素直な心が強いと思った。
 何恐れることなく良牙への想いを言葉にできるあかりを強いと思った。
 頼りなげで、儚くて、でも強い。

「ありがとう…。あかりちゃん…」

 何かが一枚剥がれた体を、涼風が通り抜けた。



つづく




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