◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  二、「根」〜気付き〜 あかね編(前編)

かさねさま作




 まだ残暑の厳しさが尾を引く九月。
 風通しが決して良いとは言えないこの古い道場に籠るむっとした空気は、そんなことを感じさせないほど糸を張ったように緊張している。
 シンと張り詰めた空気の中で神経を集中させる若き武道家たち。
 澄んだ耳に聞こえてくるのは、古く黒ずんだ床板に滴り落ちる汗の音でもなければ自分の呼吸でもない。
 格子の向こうに広がる森林で木霊する啄木鳥のリズミカルな音を遠い意識の中で捉えながら、己を自然界に流れる空気と融合させていく。
「ここまでっ!」
 凛とした張りのある一声に一同静かに瞼を開く。
「うむ。今日は皆なかなかよい出来じゃった。では、朝食を済ませたら山稽古へ出掛ける」
 背筋の真っ直ぐとしたその老爺はそれだけ言うと母家へと去って行った。
「く〜〜〜!ようやくあたしたちも先生からお褒めの言葉をもらえるようになったわね、あかね」
 ぐっと背伸びをし、隣にいるあかねに声を掛けてきたのは、この道場で唯一の同性武道家である結城 遙(ゆうき はるか)。
 肩まである髪をポニーテールで結わき、意志の強そうな大きな目をいつでもきらきらと輝かせていた。さばさばとした男っぽい性格は右京を思わせるかもしれない。彼女もまたあかねと同時期にこの道場へやってきた。
「うん、そうね」
 べったりと全身を濡らす汗をタオルで拭き、あかねはにっこりと微笑む。
「さ〜て、朝ご飯、朝ご飯♪」
 朝稽古ですっかり空腹となった遙は元気よく母家へと向かう。
(今日も暑くなりそう…)
 格子から差し込む真っ直ぐな強い朝日。深い山の緑をすでにぎらぎらと照り始める光に手を翳すと、あかねは少しうんざりするのだった。

 あかねが武者修行の旅に出てから五ヶ月が経とうとしていた。
 初めに訪れた土地は、九州の山中にある道場。
 山麓には小さな村があり、その村の中心を通る川は数キロほど先にある海へと続いている。
 父、早雲がまだ玄馬や八宝斎と出会う前に師事していたことのある、滝乃川 襄(たきのがわ じょう)という武道家の許であかねは最初の修行を始めていた。
 滝乃川は中国拳法と日本の柔術や剣法の技法を統合した独自の格闘術を生み出した拳法家だった。中国拳法でも、内家拳と呼ばれるもので、肉体内部から発生する力、つまり「気」を扱う流派を滝乃川は会得している。
 総勢十五名。中、女性は二名。あかねと遙だった。
 滝乃川は二人が女性だからといって特別扱いはしない。「武道家に男女の区別はない」と言って出てきたあかねにとっては嬉しいことだったが、初めの頃はやはり辛いものがあった。
 今まで、あかねは父からしか稽古をつけてもらったことはない。早雲とて手加減をしていたわけではないだろうが、実際にはどうしても「親子」という関係がどこかに甘えを作っていたのかもしれない。ましてやあかねは「女の子」なのである。玄馬が乱馬を鍛えるようにはいかなかったからと言って、それが早雲の未熟さだとは決して責められない。
 あかね自身もそれは分かっていた。己が今までどれほど井の中の蛙であったかは乱馬が現れてからの三年間で思い知らされている。
 だからこそ、あかねは音を上げたくなかった。
 絶対に自分は負けない。もっともっと強くなりたい。ただそれ一心でここでの修行に打ち込んできた。
 修行以外のことは忘れよう…。そう自分に言い聞かせ、挫けそうになれば遙と励まし合い、己を奮い立たせてきた。

(乱馬のことだって…)

 修行以外―――その括りには「乱馬」も入っていた。
 ここでの修行を始めてから、一、二週間に一回は電話で天道家に連絡を入れるようにはしている。みんな元気でやっている。九州に着いて間もなく乱馬が中国へ向けて出発したことも知った。
 彼もいよいよ自分の修行を始めたんだと思うと不思議と武者震いがした。自分の武道を極めるため、そしていずれは結ばれるであろう許婚を守るために、二人はそれぞれの修行の道を歩み始めたのである。そう思うと、あかねは嬉しかった。
 だが、それから一ヶ月経っても二ヶ月経っても、乱馬からは何の連絡もなかった。

(みんな心配してるんだから、手紙の一通や二通書いて寄越せばいいのに…)

 「みんな」。…これはカモフラージュ。本当は「私」なのだ。
 筆まめな男でない。しかも、みんなが心配していると悪いから…などと気を配るような男でもない。それは分かっている。でも、中国に着いたらなら家に連絡くらいしてもいいではないか。

(もしかしたら、まだ中国に着いてないのかしら…。まさか、途中で事故に…?)

 そんな心配もした。
 しかし、あかねだってまだ十九歳。乱馬と出逢った頃に比べたら少しは大人になったかもしれないが、恋愛を達観できるわけではない。この修行を決意し、出発するまでは落ち着いてもいられた。離れ離れでいても平気だと思えたかもしれない。
 …乱馬が傍にいる時までは。
 だが、いざ離れてみるとそういつまでもどっしりと構えてはいられない。彼の行く先が不透明であることに不安と苛立ちを感じ始めるようなっていた。そして、一捻りも二捻りもある結論へと達してしまうのである。

 ―――乱馬はあたしたちのことなんてこれっぽちも考えずに、修行に専念してるんだ…。

 そう思い始めるとあかねの負けん気がむくむくと起き上がりだす。そしていつもの悪い癖で爆走する。

(だったら、あたしだって…!)

 こう思うようになってから、その小さな胸に乱馬のことがひょっこりと浮かぼうものなら、まるで邪念を払うように消し去るようになった。

 ―――あたしは、あたしのことだけを考えていればいい。自分の修行のことだけを…。

 こうして、もやもやとしたものを腹に抱えながら五ヶ月が過ぎようとしていた。





「た、大変だ〜!!」
 道場で稽古をしていると、一人の村人が血相を変えて飛び込んできた。
「そんなに慌てなすって、一体どうしたんじゃ」
 その慌て様からして唯事ではないのが伝わってくる。
「はぁ、はぁ、はぁ…!」
 息をするのも忘れるくらい無我夢中で走ってきたらしい。
「で、で、出た!…はぁ、はぁ、はぁ…」
 息も切れ切れ、何とか一言伝えたが、これでは何のことなのかさっぱり分からない。
「出たって、何がですか」
 駆け込んできた村人の周りにわさわさと群がる弟子たち。
 
「カ、カッパが…!」

「「「「「カッパ〜?!」」」」」

 驚きと半信半疑の混声が道場内に反響する。

「カッパって…」
「…あの、カッパ?」
「嘘だろう、おっさん」
「今時、そんなものいるのかよ」
 商品のキャラクターや、お伽話や昔話の中だけでしか存在していないと思われているカッパが、現にこの近くの村で出没したという話に、疑う声がほとんどだった。
「嘘なんかじゃねえ!本当なんだ!毎年夏になると、畑の野菜がごっそりと盗まれたり、川に仕掛けておいた魚採りの網が破られたりで…。しかもここ数年で、水難事故が増えてるんだ。まだ命を落とした者はいないが、被害者の多くは誰かに足を掴まれたって証言してるんだよ」
「畑が荒らされるっていうけど、野良犬やカラスってことだって…。それに、網だって何かが引っ掛かって偶然切れたとか、網自体が古くなってたとか…」
「そうそう。溺れそうになった人たちだって気が動転してたんじゃないのか?」
「そりゃ、俺たちだって最初は犬やカラスの仕業じゃねーかって言ってたんだ。だけど、村の者が見たって言うんだよ、カッパの足跡を」
「「「「「足跡〜?!」」」」」
「ああ、そうだ。昨日、村の者が狐を取ってきて、家の前にある川の近くに置いておいたら内臓がなくなってたんだ。それで、誰の仕業だろうかと思って、昨晩、鶏を置いてその周りに灰を撒いておいて様子を見ることにしたんだが、今朝見てみたら、鶏は取られていて、灰に三本指の十センチぐらいの足跡が…」

「「「「「……」」」」」

「ま、まさか…」
「ほ、本当に…」
「…い…る…?」

 し〜ん…

 この村人が決して嘘を言っているとは思えない。誰も彼もがその妖怪とも動物とも言えぬものの存在の可能性に動揺を隠せなかった。
「…それで、武道の達人でもあるあんた方に頼めば、カッパを捕まえてもらえると思ってここに来たんだよ」
 あかねの脳裏に、『妖怪退治は武道家のつとめ』という言葉が過ぎる。色々な怪事件に巡り合う度にこんな言葉をよく口にしていたことを思い出していた。
「よし。じゃ、取り敢えず、みんなでその現場へ行ってみよう」
 誰かがそう呼び掛けると、滝乃川の弟子たちはそれぞれ賛成の意を示すかのように頷いた。
 周りの仲間たちから熱気が伝わってくる中で、あかねは、己の血がぞくぞくと湧き上がってくるのを感じずにはいられなかった。自分はやはり武道家なんだとつくづく思い知らされる。

「お〜い!!大変だ〜!!大変だ〜!!」

「ん?」
 弟子たちが道場を出ようとしていた時、また別の村人がこちらを目指して走ってきた。
「なんだ?なんだ?またカッパか?」
 もうカッパのことでは驚かされないぞ、と構えていた若き武道家たちだったが、今度は事の重大さに言葉を失った。

「勝之助んとこの息子が溺れて死んだぞーーーっっっ!!!カッパにやられたぞーーー!!!」







 あかねたちが急いで村へ降りていくと、ちょうどブルーのビニールシートで包まれた小さな遺体が運ばれていくところだった。
「亮太〜〜〜〜っ!亮太〜〜〜〜っ!」
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
 亡くなった子供の両親だろうか。変わり果てた息子の亡骸に覆いかぶさるようにして泣き崩れている。罪なき小さな者の命が無闇に奪われることほど惨く、残酷なことはない。
 傍にいた子供たちの証言によると、皆で川辺で遊んでいたらカッパが現れたので、慌てて逃げたと言う。ところが亮太が足を滑らせて溺れそうになったので、皆で助けようとしたら、そのカッパが亮太を溺らせたというのだ。
「…ひどい…っ」
 誰もが怒りを抑えることはできなかった。ぐっと握り締めた拳に、腹の底から沸々と込み上げてくる怒気が集中していく。
「よしっ!こうなったら俺たちでカッパを捕らえるぞ!」
「「「「「おおっ!」」」」」
 ある若者が叫んだ一言に滝乃川の弟子たちは一同に声を揃え、カッパ退治への団結を見せた。
 ただ一人、その輪を遠くから冷静に見つめる男以外は…。

 その晩、カッパが目撃された地点を重点的に、川沿いにそれぞれが見張りとして配置された。
 太陽が昇っている間は、眩しいほどの深き緑が彩なす田畑も、夜になるとまるで村全体が真っ黒い布でも被さったように闇に包まれる。暗闇を照らすはずの月は、雲の後ろへと姿を隠し、遠く離れた民家の明かりの塊だけが、寂しく灯っているだけであった。
「なんだか不気味な晩ね…」
 なにか異様な空気を感じたのか、遙はぐっと気合を入れる。
「来るわね、今晩…」
 あかねも何かを肌で感じていた。
「二人ともあんまり無理するなよ」
 あかね、遙と同じ場所で待機することとなったもう一人の弟子がいた。彼の名は与那嶺 円(よなみね まどか)。女のような名前だが、歴とした男。『カッパを捕らえるぞ!』と皆の士気を高めた男だった。
「なによ。女だからってバカにしないでよね」
 あかねに似て勝気な性格の遙は、この戦いの場でレディとして扱われたことに憤慨の意を見せる。だが、突っ掛かったようなこの態度も、実は心に秘める想いが故に取ってしまうもの。恋愛に対する構えもあかねに似ている。
「ここに三人いても仕方ないわ。あたし、もう少し下流のほうに行ってみる」
「えっ、ちょっと、あかね!」「あかねちゃん?!」
 自分のことに関しては恐ろしく鈍感なくせに、他人のことになるとぴぴっと勘を働かせ、気を遣うあかね。とは言っても、遙の気持ちは前から相談を受けていたので知ってはいたのだが…。
(うまくやんなさいよ)
 なんだか良いことでもしたような気分で、あかねは少しガードの薄くなっている下流の方へと歩いていった。
「あかねちゃん、大丈夫かな…」
「大丈夫よ。あかねだって、武道家だもん。それに、なんだかんだ言って強くなってきたわよ、あかねは」
「でも…」
「…心配?」
「えっ!いや、そういうわけじゃ…」
「……」
 遙とあかねに違いがあるとすれば、それは、自分の恋愛に対して察しがいいという点かもしれない。
「とにかく、あたしたちも油断は禁物よ。さっ、もう少し様子を見ていましょう」
「あ、ああ…」
 遙は、きりきりとする胸の痛みを感じていた。

「ここは誰もいないのね」
 カッパの目撃証言を頼りに見張りを立てていたため、あかねたちがいた所から次の見張りの所まではすこし間が開いていた。
「まっ、用心に越したことはないわね」
 何かが潜んでいるという直感はなかったが、あかねは取り敢えず適当な茂みに身を隠した。

 チャパ、チャパ…

「?!」

 と、茂みの擦れる音ではなく、なにか小さな水の弾ける音が聞こえた。

(来たか?!)

 あかねはぐっと身構える。だが、ここで闘気を出し、気配を感ずかれてはまずい。あかねは己の気配をできるだけ消すように努めた。

 チャパ、チャパ…

 相手の気を探るようにじっと息を潜める。敵の邪気が出ていれば、ある程度の力は分かる。
(……)
 だが、いくら相手の気を掴もうとしても読み取ることはできない。
(気を完全に消せるほど強い…?!それとも、本当に邪気がないのか…)
 じりっと焦りが出てくる。このまま暫く様子を見ようか、それとも、今ここで飛び出してとっ捕まえようか。
(ええい!ままよ!)

 ザザッ!

 いずれにせよ、ただの村人ではないことは確かだと判断したあかねは、茂みから飛び出した。


「!!」


 今までありとあらゆる妖怪を目にしてきたあかねだったが、やはりその姿を実際に目の当たりにすると一瞬怯んでしまう。
 少女の目の前にいた生き物は、頭に皿を乗せ、背中には甲羅を背負っている小さなカッパだった。
「やだ…、本当にいたんだ…」
 思わずしげしげと観察してしまう。想像上の生き物だとばかり思っていたものが、こうして実物として拝めるのだから、自分はずいぶんラッキーなんじゃないかとさえ思ってしまう。
「…と!そんな感心してる場合じゃないわ」
 はっと己の任務を思い出す。

「あんたね!いたいけな子供を溺らせて、死なせたのは!」

(えっ?!)

 あかねがそう叫んだ途端、カッパの目がぐわっと赤く光り、今まで微塵も感じなかった妖気が急激に放出された。
「やっぱり、あんただったのね!覚悟しなさいよっ!」
 と叫ぶと、あかねはカッパ目掛けて一気に川へ飛び出していった。
 バシャッ、バシャッ、バシャッ、バシャッ
 浅瀬なので自分が溺れることはない。多少足場が悪かったとしても十分戦えるとあかねは踏んだ。
「てぃやーーーーーっ!」
 以前にも増して、力強く一直線な蹴りで敵の急所を狙う。
 パチャッ
 しかし、カッパも身軽にその攻撃をかわす。
「たぁーーーっ!」
 空を切った蹴りのまま着地すると、あかねは間髪入れず、避けたカッパに次から次へと激しい攻撃を仕掛けていった。
 バシャッ、バキッ
 バキッ、パシャッ
 カッパはあかねの攻撃をかわしては身を翻し、逃げ回っていく。
「ちょこまか、ちょこまかと小賢しいっ!…はっ!」

 バウンッ

 バシャッ!ドカッ

 あかねの掌から白く小さい光が出ると、カッパの腹に命中した。
 滝乃川の下で積んできた気を扱う修行。
 中国拳法の技法や戦闘理論の基本として、「勁(けい)」というものがある。これは、相手を倒す時に使う威力のことで、力を圧縮し瞬間的に爆発させて発生させるパワーのことだった。これを攻撃に使うものを「発勁(はっけい)」といい、勁を封じる防御方法を「化勁(かけい)」という。この発勁を完璧に会得するにはまだまだ長い年月と厳しい修行が必要だが、あかねはある程度の発勁なら攻撃として使えることはできた。
「やった!」
 川岸に吹っ飛ばされ、転がっているカッパを見てあかねはガッツポーズを取る。
「お〜〜〜い!大丈夫かーーっ!」
 騒ぎに気付いて、仲間の弟子たちが集まってきた。
「大丈夫よーーーっ!」
 と大声で返して、あかねははっとした。

「いない…!!」

 カッパの倒れていた川岸に目を遣ると、そこには仰向けで倒れているはずのカッパが忽然と姿を消していたのだった。
「みんな!気をつけて!まだどこかにいるわっ」
 ザワザワザワザワザワ…
 生暖かな湿った風が、肌にまとわりつくように吹く。

 ザザザーーーーーッッッ

「なっ…!!」

 背後にした轟音に振り返ると、そこには浅瀬であるはずの川から巨大な水柱が立ち上がっていた。


「きゃ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
「うわぁ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」


 そして、一気にあかねたちを飲み込んでいった。



つづく




作者さまより

(小人のつぶやき)
九州地方の方がいらっしゃいましたら、どうかお許しください。生まれも育ちも関東でして、今後も色々な所への武者修行が続きますが、その土地の言葉は使えませんので…。本当は九州の言葉ができるといいのですが…(汗)。
九州ではカッパのことを「ガラッパ」と呼ぶそうで…。「カッパ」も本当は子供の姿を強調した言い方だそうです。

今回の武者修行では主に中国拳法を参考にしました。拳法をやっている方がいらっしゃいましたら、どうか大目に見てください。ネットでいろいろ調べましたが、所詮かじり付きの付焼刃的な内容。真髄は語れません。。。。。(「らんま1/2」に嵌ってから、やってみたいとは思っているのですが…)


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