◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
   一、長途 〜始まり〜(後編)

かさねさま作


「じゃ、みんな…、いってきます」
 十八年、自分を送り出し、そして迎え入れ続けてくれた家の前で、あかねは出発の言葉を述べた。駅まで見送りに行くという家族の申し出を断り、あかねはこの「天道道場」の看板が掲げられた門での見送りを願い出た。
「あかね、気を付けるんだよ」
「あかね君、しっかりな。それにしても、うちのバカ息子は一体何をやっとるのだ。許婚のあかね君がこれから大変な修行の旅に出ようというのに」
「いいんです、おじさま。乱馬とは昨日ちゃんと…」
 その言葉に家族一同の目が輝く。
「い、いやっ、あの、そういう意味じゃなくて…!ちゃんと挨拶は済んだっていう意味で…!」
 家族の期待の眼差しを何とか跳ね返そうとする。しかし、そう簡単に説得される人たちではない。
「まぁ、二人もやっと大人になったってことね」
「いや、だからそうじゃなくて…」
「そうか、そうか。お父さんは嬉しいぞ〜」
「いやいや、やはり許婚同士だね〜、天道君」
「ちっ、違うって…!」
「乱馬、男らしいわ。決める時はちゃんと決めるのねっ」
「お、おばさま…」
「良かったわね、あかね」
「かすみお姉ちゃん…!」
 もう何を言っても無駄なのはあかねもこの三年間で学んでいた。抵抗する気力も失せ、家族たちの勝手な納得を黙って聞くしかなかった。
「…?」
 頭を垂れ、言われたい放題だったあかねは、ふとその肩に温かくて大きなものが置かれたような気がした。
「あかね」
「お父さん…」
 父の手が娘の肩を優しく包んでいた。
「お前が今までここで修行してきたことよりも遥かに厳しいものが待っているが、しっかりやるんだよ」
 あかねを道場の跡継ぎとして十八年間育て上げてきた武道家の父が、自分を娘としてではなく、一人の武道家として見つめてくれていた。
「あかね君、気をつけてな」
「無理しちゃだめよ、あかね」
「お金に困ったら連絡しなさいよ」
「がんばってね、あかねちゃん」

 『おめーは色んな人からたくさんの愛情もらってんだ』

 乱馬の言葉が胸の中で木霊する。
(本当だね、乱馬)
 自分のことをこんなにも思ってくれる人たちがいる。あかねは幸せで胸がいっぱいになっていった。

(みんなのためにも、無駄にはしないからね)

「それじゃ。頑張ってきますっ!」

 思いを新たにし、あかねはその一歩を歩き始めた。


 日曜のまだ早い時間とだけあって、どの車両にも乗客はぽつりぽつりといる程度だった。平日だったら、この上りの電車は会社員や学生などで超満員だろう。そんな中にあかねのような大きな荷物を持って乗り込むこと自体、大顰蹙になりかねなかった。
「よかった、空いてて」
 あかねはほっとしたように背負った荷物を下ろすと、自分の隣にドスンと置いた。そして、脇のポケットから紐の付いた定期入れのようなものを取り出すと、それを自分の首に掛けた。
「乱馬…」
 一つ上の姉、なびきが餞別代りだと言って、あかねにくれた乱馬の写真。
 少し横を向いて、「どうだ、参ったか!」とでも言いたげな、強気な笑みを浮かべる乱馬らしい表情。
「本当、性格がよく表れてる写真」
 くすりと笑った時だった。


(え…)


 本当にそれは偶然だった。
 いや、あかねが写真から視線を外し、ふと正面の車窓に目を向けたのは偶然なんかではないのかもしれない。
 少女の目に赤いチャイナ服が映った。


「ら…んま…」


 屋根の上に立ち、あかねの乗る電車をじっと見送る乱馬の姿が、あった。
 あかねは急いで向かいの椅子に飛び移り、窓を開けられるだけ開けた。

「乱馬ーっっ!!」

 窓から体を乗り出し、その名を叫んだ。
 電車の音に掻き消され、あかねの声は届かなかったのか、それとも聞こえていても返さなかったのか。乱馬はただじっとあかねを見つめていた。
 あかねが乱馬に気付く可能性は、一体どれほどのものだったのだろう。ほとんど奇跡に近い確率だったと言っていいかもしれない。しかし、たとえ気付かれなくても、少年は少女を乗せた電車を見送りたかったのかもしれない。或いは、もうこの腕には引き戻せない少女の姿を見ることで自分自身にけじめを着けたかったのかもしれない。
 
(あかね…)

 乱馬は電車が消えて行った先をいつまでも見つめていた。湧き上がる様々な思いを胸に…。


 あかねは、乱馬の姿が小さくなり見えなくなってしまった後も、遠くなっていく街を眺めていた。
 自分を今まで育ててくれた街。そして、乱馬と出逢った街。流れていく景色の中に少年との思い出が次々と浮かんでは消えて行った。
(乱馬…)
 胸にしまった写真にそっと手を当てる。
 自分をいつでも突き動かし、変えてくれた人。
 彼がいなければ、こうして武道家としての気持ちを育てられなかった。彼がいなければ、これほどまでに人をいとおしいと思う気持ちを知らなかった。あかねという少女をいつも動かしてきたのは理論や理屈じゃない。たった一人の少年との「出逢い」であり、またその「存在」だった。

(行ってくるね…)

 少女は、胸にいる少年へそっと旅立ちの言葉を送った。



「え…?」
 小さな可愛らしい口から戸惑いの言葉が漏れる。
「…すまない」
 丸い澄んだ瞳がゆらゆらと揺れているその少女を前に、少年はそう言うしかなかった。爪が食い込むほど拳を握る手に力を入れ、その顔は苦渋の色に満ちていた。
 若草の匂いのする風が吹き抜け、少女の長い髪を揺らす。二人の間にある長い沈黙の中、犇めき合って伸びる桜の枝々が風に揺れる音だけが聞こえてくる。
 少女は瞳を閉じ、何かを心に決めたように一呼吸すると、自分に頭を下げる少年に向かって声を掛けた。

「分かりました、良牙様」

「え…」

 バンダナの少年は、少女の澄んだ声に項垂れていた頭を上げた。
「私、待っています」
 あかりは、はっきりと告げた。
「あかりちゃん…」
 良牙は戸惑っていた。いつもどこか頼りなくて、守ってやらなければと思わせる愛くるしい少女が己をしっかりと見つめてきている。彼女の芯の強さを感じずにはいられなかった。
「でも、あの…」
 それでも、すぐに躊躇いがちな顔には戻ってしまうのだが。
「…待ってても…、いいんですよね…?」
 あかりの自分を見上げる少し不安そうな瞳を前に、良牙は即答した。

「もっ、勿論だっ!必ず誠心誠意の答えを見つけてくるから、待っててほしいっ!」

「はい、分かりました。良牙様」
 良牙の強く真っ直ぐな気持ちにあかりは笑顔で答えた。



 かぽーん…
 浴槽いっぱいに張られたお湯から、強靭な筋肉をつけた肩と厚い胸板が覗く。締まった首筋と太くしっかりとした鎖骨は、武道で鍛え上げてきた者のみが持ち合わせることのできるものかもしれない。
「ふぅー…」
 乱馬は深く長い溜息を吐くと、天井を仰ぎ見た。
 明日はいよいよ己の出発の時であった。
 しかし今、彼の胸の内あるものは、新しい旅路への強い決意でも意気込みでもなかった。
「けっ、情けねえ…」
 そう自分に言い聞かせるが、己の心を占領する気持ちは拭い去れない。
(あかねも、こういう気持ちだったのか…?)
 もくもくと上がる蒸気の中に色々なあかねの顔が浮かんでくる。
 自分を置いて愛しい者が旅立つ心境。
 決して「残される」訳ではないが、修行に行かれ、待たされる者の気持ちがほんの少し分かったような気がした。
「しゃーねーな、ったく…」
 自分自身に愛想を尽かしたような言葉を吐くと、ざばっと湯船を出た。

(……)

 浴槽から片足を出し、今まさに湯船から出ようとしたその時、乱馬は思わず引き戸の方へ目を遣った。

 初めて男の姿であかねに逢った場所。
 お互いとんでもない格好で出逢った。
 自分がこうしてここにいて、あかねが戸の所に立っていた。

「こりゃ、重症だ…」

 そう言い放つとひたひたと戸の方へ歩いていった。


「ん?」
 浴室から部屋に戻ると、荷造りされたリュックの上に一通の封筒が置かれてあった。
「何じゃ、こりゃ」
 夜だから郵便ではないだろうし、親父かおふくろからの手紙だろうかと思って封筒を手にして、はっとした。

「…っ///」

 封筒の中から出てきたのは、あかねの写真と一通の手紙だった。

『乱馬君へ
 餞別代りよ。素直に受け取ってね。
 よく撮れていたので、売らずに取っておいたものだから大事にしなさいよ。
 なびき』

「…ったく、なびきのやつ…」

 ぼそっと呟くと、そっとリュックに仕舞い込んだ。



「じゃ、いってきます」
 乱馬の出発の日も麗らかな空が広がる気持ちのいい日だった。
 いつもの修行の旅と変わらない出で立ちと言葉。しかし、もう暫くはここへ戻ってくることはない。
「乱馬、気をつけて」
 のどかは再び乱馬と離れ離れになるかと思うと、修行のためとは言えやはり寂しさが込み上げてきた。
「ああ。おふくろも元気で。また一段と男らしくなって帰って来っからよ、待っててくれよな」
 母の寂しさを分かっていたのか、「再会」を約束した。
「うむ。しっかり修行してくるんだぞ、乱馬」
 のどかの隣で威厳ある父親らしい言葉を送る玄馬…だったが、
「…男溺泉、忘れずに送るのだぞ」
 とスチャラカ振りも相変わらずだった。
「わーってるよっ。ったく、自分で行けよなっ、んなのよー」
「何を言うか、乱馬っ。父のために孝行するのは当たり前ではないか」
 屁理屈で自分の立場を正当化するところも相変わらず。本当にこれが自分の父親かと思うと情けなってくる。
「へいへい」
 争うのも馬鹿らしくなり、適当にあしらう。ここら辺は少し乱馬のほうが大人になったのかもしれない。
「乱馬君、しっかりやりたまえ。将来の無差別格闘早乙女流、そして天道流のためにも」
「…はい、おじさん」
「気をつけてね、乱馬君。でも、女の子に変身しなくなっちゃうなんて、ちょっと残念ね」
 仏のような顔をして、かすみは時々キツイことをさらっと言う。
「ざ、残念って…」
「最後の見納めに、もう一回女になっちくり〜」
 どこから現れたのか、バケツを持った八宝斎が飛んできた。
 バシャッ
「何しやがるっ!」
 間一髪で変身を避ける。
「嫌じゃ、嫌じゃ〜。女の乱馬がいなくなるなんて、嫌じゃ〜」
 うるうるお目目で訴える八宝斎。
「…てめーは、どっか消え失せろっっ!このエロじじいっっ!」
 どっぴゅーん
「乱馬、女になっちくり〜」
 という言葉を残し、空高く飛んでいった八宝斎が蹴り上げた乱馬の足先の彼方で光った。
「まっ、おじいさんの言うことも一理あるわね」
「何だよっ、なびきまで」
「いい商売だったのよ、女の乱馬君」
「……」
 必死に抑えた怒りと、なびきの好餌となったこの三年間の記憶でぷるぷると体が震える。
「まぁ、まぁ、乱馬君。過ぎたことは忘れて、今はこれからのことを考えて頑張らないと」
「おじさん…」
 確かに、これから訪れるであろう厳しい修行の日々のことを考えると気が引き締まる思いだった。
「じゃ、行ってくるぜっ」
 すちゃっと二本指を立て見送る家族たちに挨拶をするとその一歩を踏み出した。角を曲がるところでもう一度家の方へ振り返ると、まだ皆が見送ってくれていた。
(よしっ!行くぜっ)
 そう気合いを入れて角を曲がった時だった。

 どかっ

「どわっ!」
 出会い頭に何かに衝突した。

「りょっ、良牙っ!」

「俺も行く」

「は?」
 ぶつかったのが良牙だったことにも驚いたが、その良牙から飛び出した言葉に耳を疑った。
「俺もお前と一緒に呪泉郷に行く」
 良牙は冷静に言ってのけた。
「なっ、何言って…!だっ、だいたい、あかりちゃんはどうすんだよっ。方向音痴のお前が呪泉郷なんかに行ってみろ。一生掛かっても日本になんか戻って来れねーぞっ」
「だから貴様と一緒に行くと言っとるだろうが」
 事もなげに返してきた。何の疑問があるのだろうか…、そんな表情を手向ける。
「…お前、人の話聞いてたのか?たとえ、俺と一緒に呪泉郷に行ったとしても、そこからどうやって一人で帰るっつてんだよっ」
「お前、頭悪いな。それとも察しが悪いのか?」
「な゛っ!」

「貴様の修行の相手になってやると言ってんだ」

(!!)

「…って、お、お前、何言って…」
「耳まで悪くなっちまったか」
「ばっ、ばかやろうっ!お前、自分の言ってることが分かってのか?!俺の修行は、数年はかかるんだぞっ。あかりちゃんはどうすんだっ、あかりちゃんはっ!」
「…彼女にはちゃんと言ってある」
「言ってあるって…」
「俺も、彼女にきちんと答えなきゃならねえんだ」
「答えるって、良牙…」
「豚のままじゃ、いざって時に守ってやれねえだろ。それに…」
 ふっと言葉が途切れた。
「それに…?」
「…いや、何でもねえ」
「何だよ、もったいぶらないで言えよ」
「おいおいな。さっ、行くぞっ」
「おいっ!『行くぞ』って、俺はまだ承諾してねーぞっ」

「嫌だとは言わせねえ」
 振り返った良牙の瞳がぐっと乱馬を見据えた。

(良牙…)

 その強い瞳から、良牙がそれ相当の覚悟でいることが同じ武道家である乱馬には伝わってきた。
「…ったく…」
 拒むことはできなかった。というより、唯一のライバルである良牙の決意を認めたかった。
「仕方ねーから連れてってやるよ」
「何が『仕方ねーから』だ。感謝しろよ、俺みたいな相手がいるんだからな」
「けっ!よく言うぜっ」
「大体お前はなあ…」
「何、言ってんでいっ。お前こそなぁ…」
 二人の終わることのない押し問答が、春の空へ消えていく。

(あかね…)
 乱馬は自分の胸にそっと手を当てた。しなやかな身体を包むチャイナ服の下には、なびきからもらったあかねの写真が入っていた。
 『よく撮れているから…』
 そう書かれた写真のあかねは、夕日を受け笑っていた。
 一目で恋に落ち、虜となったあの無邪気な笑顔。

(行ってくるぜ…)
 乱馬もまた心の中で旅立ちの言葉を呟いた。


 二人の長い旅が、今、始まった。



愛する者へ 萌芽の章 長途  完




作者さまより

 「愛する者へ」…。ついに始めてしまいました。シリーズ化…。
 最後まで走り切れるのだろうか…(汗)
 次回からはいよいよばらばらになった二人の話を進行させていくので
 視点ものをミックスで書いていこうかと思っています。
(作者さまからのメール本文より)


 ふっふっふ・・・ラブコールしてしまってシリーズ化成功。
 だんだん邪悪になってゆく、呪泉洞管理人。
 どう作品が展開してゆくのか・・・楽しみがまた一つ♪
(一之瀬けいこ)

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