◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  一、長途 〜始まり〜(前編)
かさねさま作


 外から暖かな日差しが入り、東風(こち)の運ぶ沈丁花の香りを楽しむように部屋のカーテンが揺れている。窓の外からは、澄んだ空色の下、屋根の色で何色にも染まる街の間に薄い桜色と青々と光る草色が所々に点描されたキャンバスが広がっていた。朗らかな陽の光を浴びた全てのものが微笑んでいるように見える。
 どこからともなく聞こえる鶯の鳴き声に耳を澄ませ、あかねは動かしていた手を止めた。
「ふぅ…。だいたいこれでOKかな」
 少女の目の前には、いつも山篭りで愛用している大きなリュックがほとんどの荷造りを終えた状態でその大きな口を開けていた。
 高校を卒業して要らなくなった物を整理したり、今回の修行の荷造りなどをしたりして、少女の部屋はずいぶん片付けられていた。いつでも帰ってこられるようにと、ベッドや机などの家具はそのまま残されていたが、それでも、これからこの部屋の主がいなくなるというのが充分に分かるほど綺麗さっぱりとしていた。
「もうすぐ、この部屋ともお別れか…」
 感慨深げに十八年過ごした自分の小さな城を見渡す。

 あかねの出発まであと三日と迫っていた。



 バンッ
「それ、本当あるか、良牙っ!」
 本日休業という札を下げた猫飯店に、円卓を叩く音とシャンプーの声が響いた。伸びやかな肢体からは想像もつかないような力でテーブルを叩き、時折魔性的な光を放つ大きな瞳を目の前に座る少年にぐっと捉えていた。たった今彼から聞いた話に驚きを隠せない様子だった。
「…ああ、間違いない。あかねさんがPちゃんの俺にはっきり言ったんだ」
 良牙は膝の上に乗せた拳をぐっと握り締めた。全身を覆う鍛え上げた筋肉が硬く緊張し、盛り上がる。
「でも、なんであかねちゃんが修行の旅に?乱ちゃんならまだ分かるけど…」
「春は頭がおかしくなる人が増えますから、天道あかねもその類いなんじゃございませんの?」
 どういうわけだか、右京や小太刀までもがこの猫飯店に居合わせていた。
「あかねさんに対する侮辱、許さんっ!」
「まっ!やりますのっ?お相手いたしますわよ!」
 ばっと構える二人。
「まぁ、まぁ、良牙、落ち着いて。で、なんであかねちゃんまで?」
 店を切り盛りする少女はその如才なさで興奮した良牙を宥め、椅子に座らせると話の先を促した。
「…いや、そこまでは…」
 しかし、少年は己の未熟さを恥じるように俯いてしまう。
 良牙は、あかねがいなくなるという事実を本人の口から聞いた瞬間、頭が真っ白になり、後のことは良く覚えていなかったのだった。というより、修業の旅ことを聞いた途端、ショックの余りあかねの部屋を飛び出してしまっていた。そして、闇雲に走っているところへ戦闘体制に入り掛けていた三人に拾われたのである。
「まったく、情けない男ね。だいたい、お前にはちゃんとガールフレンドがいる違うか?」
「それとこれとは別だっ」
 思わぬ図星を指され、躍起になって反論する。
「とにかく、どういうことなのか真相を確かめなぁあかんな」
「きっと乱馬様に振られたショックで傷心の旅にでも出るんじゃございませんの?おーほっほっほっ!」
 レオタード姿の小太刀はリボンを手にしていた右手を口に持って行き、高らかに笑う。
「あかね本人より、乱馬に聞いたほうがよさそうあるな」
「せやな。あの乱ちゃんが素直にあかねの修行の旅なんて認めそうもないしな。…一体どういうつもりなんやろ」
 さすが長年の幼馴染とあって、この四人の中では一番乱馬のことを分かっていたのかもしれない。
「そうと決またら、早速乱馬のとこ行くねっ」
 シャンプーの声を合図に3人娘は一斉に店を飛び出していった。
「まっ、待ってくれ!俺も行くっっ」
 ド方向音痴の良牙は取り残されまいと必死に三人の後を追った。



「…はっ!」
 鍛え上げらえた肉体から汗が迸り、道場の格子から差し込む陽春の光に反射し煌く。
 筋肉の隆起が織り成す綺麗なまでの肢体が、研ぎ澄まされた神経と集中力が生む張り詰めた空気を素早く切っていく。
「…ふっ!」
 突き出される拳と蹴りに合わせて、気合の声とも息とも取れる音が漏れてくる。
 少年は何かに取り憑かれたように、一心不乱に稽古をしていた。ここ数日は特にそうで、稽古中は何者をも寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
 しかし…

「乱馬ぁ!」
 ドカッ
「でえっ!」

 シャンプーの声と共に道場の壁が壊され、自転車の前輪が乱馬の頭に激突する。と同時に、シャンプーの後を追いかけていた二人と、途中で水を掛けられた子豚一匹が道場へ躍り込んできた。

「乱ちゃん!」
「乱馬様〜!」
「ぶぎぎぎぎぎっ」

「な゛っ、なんだ〜!」
 稽古を途中で邪魔され気分を害している暇もなく、乱馬は三人と一匹に囲まれた。
「ちょっ…、何なんだよっ、お前らっ」
 いきなり登場されて、しかも現れたかと思ったらものすごい形相でこちらを凝視しているのである。乱馬には事の事情がさっぱり掴めなかった。
 しかし、すぐにその疑問を解消する彼らの言葉が乱馬を固まらせることになる。

「「「あかねが修行の旅に出るっていうのは」」」
「本当あるか?!」
「本当なんか?!」
「本当なんですの?!」
「ぶぎぎぎぎぎ〜っ!」

「…!」

 その表情が一瞬でも変わったのを逃した者はいなかった。
「…本当のことあるな」
「一体、なんでや?」
「乱馬様に振られたんでございましょ?」
「ぶぎ〜!」
 乱馬はゆっくりと四人を見回す。そして、視線を落とすと小さく溜息を吐いた。

「…とにかく、場所を変えよう。ここじゃ話せねえ」

 そう言って、壁際に置いてあった上着のチャイナ服を拾い上げるとそのまま道場を後にした。
 残された者たちはお互い顔を見合わせると小さく頷き、乱馬の後を追った。



「入るわよ」
「お姉ちゃん」
 荷造りをほぼ終え、きれいに片付いた部屋に残る思い出の一つ一つを名残り惜しんでいると、開け放たれたドアの向こうに一つ上の姉が立っていた。
「へぇ〜、ずいぶんすっきりしたじゃない」
 なびきは部屋に入るとぐるりと中を見渡した。
「うん。この際だったから、小学校とか中学校とかのも一緒に整理しちゃったんだ」
 そう言った妹の背中越しに荷物がいっぱいに詰められたリュックが見えた。
 情よりもお金を信じるなびきだが、かわいい妹がこれから長い旅路に就くのかと思うとやはり複雑な思いがするのであった。

「はい、これ」

 リュックから妹へと視線を戻し、なびきは明るい声で一枚の封筒を妹に差し出した。
「…?」
 手紙だろうかと思って受け取ると、触った感触から手紙よりも何かしっかりした厚さのものだということが分かった。
「お姉ちゃん、これ…」
「開けてからのお楽しみ」
 そう言って嬉しそうに微笑むとあかねの部屋を出て行った。
「餞別代りよ」
 という言葉を残して。

 姉の去った後、あかねは手にした封筒の折り返しをそっと開けてみた。
(写真…?)
 折り返しを開けた部分から写真の裏面らしきものが見えた。さっと中身を取り出し、表に裏返す。

(!!)

 頬が染まり、思わず顔が緩む。
 嬉しいような、恥ずかしいような、そんな複雑な気持ちがじわりと込み上げてくる。

「やだ…、もう。お姉ちゃんたら…」

 あかねはその写真をしっかりと両手で持つと自分の胸に持っていき、大事そうに抱きしめた。
 そこにいるのは、これから修行の旅に出ようとする一人の武道家ではなく、ただ一人の恋する乙女だった。
 午後の日差しと胸に当てた写真が、その場に佇む少女の体を温かく包み込んでいった。



 空からは麗らかな陽気に胸を躍らした小鳥たちの囀りが聞こえ、地にはその歌声に合わせるように蒲公英が揺れている。ともすれば、そんな穏やかな午後に日向ぼっこでも出来そうな空き地に、ただならぬ空気を漂わす五人がいた。
 道場を出てから一言も話さない乱馬を、シャンプー、右京、小太刀、良牙が囲む。腕を組み、黙ったまま目を閉じるおさげの少年を四人はじっと見つめていた。
「一体、どういうことなんだ、乱馬っ」
 口火を切ったのはお湯を被り人間に戻った良牙だった。
「…どうって、おめーらが言ってた通りだ」
 乱馬はすぐには口を割ろうとはしなった。
「そんなこと聞いてるんじゃねえ!なんで、あかねさんが修行の旅に出なきゃならねえんだって聞いてるんだっ!」
 はっきりしない乱馬に業を煮やし、チャイナ服の胸倉をがしっと掴む。
「良牙っ!ちょっとは落ち着いたらどうなんやっ!」
 二人の間に入り、良牙を引き剥がす。だが、押し黙る無抵抗の乱馬に右京も説明を求めた。
「…乱ちゃん。ちゃんと話してくれてもええんちゃうか」
「どういうことね、乱馬」
「乱馬様…!」
 自分を囲むこの四人は真相を聞き出すまで梃でも動かないだろうし、こちらが話さなければ、何としてでも口を割らせようとするだろう。自分が場所を変えようと言った手前、黙り通すわけにはいかなかった。
 ふぅっと大きく溜息を吐くと、乱馬は静かに口を開いた。

「修行して、俺みたいに強くなりたいんだとよ」

 あかねの気持ちは分かっているつもりだった。
 彼女の武道家としての目覚めを妨げるつもりはないし、己の気持ちにも整理をつけたつもりだった。
 だが、いざあかねの出発の日が近付いてくると、その納得した気持ちがどうしても揺らいでくるのだ。頭では分かっていても、気持ちが付いていかなかった。
「乱馬様みたいって…」
「そんなの無理ある」
 シャンプーは冷たく言い放った。
「んなの、やってみなきゃ分かんねーだろ」
 気持ちの整理がまだついていないのは事実だったが、あかねの決意を無碍にされるのは許せなかった。

「修行の旅ってどのくらい行くん?」

 乱馬にとっては一番聞かれたくないことだったかもしれない。いや、何よりも、あかねが武者修行の旅に出るということ自体、知られたくなかった。良牙はともかく、あかねを邪魔者だと見ている三人、特にシャンプーと小太刀の二人にしてみたら、この状況が有利に働くことは必至だった。

「…さあな」

 ここは曖昧に答えておくほうが賢明かもしれないと思った乱馬は知らないふりを装う。
「さあなって、お前っ!」
 納得しないのは良牙だった。
 あかねと乱馬のことは呪泉洞でのことや祝言未遂事件のこと以来、少しずつ自分の中で納得をさせてきた。それでも、あかねは良牙にとっては初めて本気で好きになった女性だった。あかりのこととは別に、大切にしたい女性でもあった。そんな女性の一生を預ける男がこんな優柔不断で自分の気持ちも碌に言えないような野郎だということに怒りを感じずにはいられなかった。

「どうせ乱馬も修行の旅に出るね」

(…!)

 誰に言うでもなく呟いたシャンプーの言葉の裏に、『乱馬がいない間にあかねを亡き者にするね』という心の言葉があるのを、乱馬はしっかりと読んでいた。
「シャンプー」
 いつになく低く、そして静かな声。
「何あるか」

「お前も武道家なら正々堂々と戦え」

「…!」
 シャンプーには乱馬が何を意味しているのかすぐに分かった。
「うっちゃんや小太刀にも約束してほしい」
 シャンプーに向けていた鋭い視線を少し緩めると二人のほうへ向き直った。
「俺がいない間は…」
 ぐっと拳を握る。

「俺がいない間は、絶対にあかねには…。頼む」

「乱馬…」
「乱ちゃん…」
「乱馬様…」
「乱馬、お前…」

 乱馬を取り巻いていた四人は言葉を失っていた。
 あの負けず嫌いで、決して人に頭など下げない乱馬が、今、頭を下げて請うているのである。
 それは、優柔不断でいつも己の気持ちをはっきりさせることから逃げてきた男が、初めて自分の意思と気持ちを見せた瞬間だったかもしれない。
 『俺がいない間に、あかねに手を出すやつがいたら許さない』
 そう言っているのが、少年から出る凄まじい気迫で分かった。
「乱ちゃん。そないなことせんでええから」
 三人の中でも一番あかね寄りと言ってもいい右京が、当たり前やと言うように声を掛けた。
「そうですわ、乱馬様。わたくしたちはいつもフェアーに戦っておりますわよ」
(おめーが言うと白々しいぞ、小太刀…)
 誰もが内心そう思っただろう。
「…分かたある」
 そう静かに答えたシャンプーはほんの少し下唇を噛んでいた。
 彼女は、乱馬の心の奥深くにどっしりと根付くあかねへの想いを改めて思い知らされていた。しかし、だからと言ってそのまま引き下がるシャンプーではなかった。
「でも、乱馬が修行の旅で呪泉郷行くならわたしも行くね!」
 あかねを亡き者にできないなら乱馬への直接アタックを狙うというシャンプーの転換の早さ…いや、自分の気持ちを決して偽らない、その正直すぎるほどのストレートな性格は、今の乱馬やあかねには必要なものなのかもしれない。
「それはできねえ」
「なぜあるか?私も呪泉郷で溺れた。娘溺泉ほしいある!」
 当然の主張だった。
「おめーが、娘溺泉をほしいのは分かる。でも、それと俺の修行に付いて来るのとは話が別だ」
「じゃ、一生猫に変身する体質のままでいろと言うあるか?!」
「そんなこたー言ってねえ。なんだったら、俺が呪泉郷へ辿り着いた時、お前の所に娘溺泉を送ってやってもいい」
「嫌ね!私、乱馬と行くある!」

「女連れで修行なんて真っ平ごめんだ」

 有無は言わせない…、そんな声だった。
「……」
 シャンプーにはもう何も言えなかった。これ以上取り合っても無駄だということが乱馬の瞳と声から充分すぎるほど伝わってきた。

「せやけど、乱ちゃん。待っててもええんやろ?」

 シャンプーとのやり取りを黙って聞いていた右京がにっこりと笑い掛けていた。
 彼女もまた自分の気持ちに正直だった。乱馬の心が疾うにあかねに向けられていると分かってはいても、「好きなもんは好きや」と胸を張って言えた。このカラッとした性格の少女は卑屈になることなく前向きに進もうとしている。乱馬が右京のことを男女の関係抜きで好きだと思えるのは、この幼馴染の持つ元来の性格からなのかもしれない。

「……」
 乱馬はイエスともノーとも答えなかった。いや、答えられなかった。

「ほな、そういうことで!ぼちぼち開店の準備せなぁあかんからな。またな、乱ちゃん」
 その沈黙の答えをはっきりとした言葉で聞いてしまうのを避けるかのように、右京は足早に去って行った。
「わたくしも部の練習がありますので、これで失礼いたしますわ、乱馬様。ごきげんよう!お〜ほっほっほっほっほ!」
 小太刀も黒バラを辺り一面に撒き散らし、屋根伝いに消えて行く。
「乱馬」
 二人が去るのを見ていたシャンプーは、キッと乱馬を見据えた。
「私、絶対あきらめないっ!必ず私の婿にするね!!」
 そう言い放ち、乱馬の前から去って行った。
(シャンプー…)
 彼女の残した言葉とその表情が乱馬の脳裏に焼き付く。そして、その心に不安の一雫が深く落ちると、いつまでも波紋を描いていった。

「…なぜ『ノー』と言わなかった?」
 三人が去り、乱馬と二人きりになった良牙は相変わらずの優柔不断さを責めた。
「…おめーには関係ねーよ…」
 視線を合わすことなく答える。
「関係ねーって…!」
 良牙が食って掛かろうとすると、
「わりぃ、稽古の途中なんだ」
 と言って制し、乱馬は遠く屋根の向こうへと消えて行った。

 日が傾き出し、日中の暖かな陽射しは影を潜め出す。代わりに長く伸びる黄金色の光が西に浮かぶ雲を照らし、その周囲を銀色に縁取っていた。
「…ばかやろう…」
 静かになった空き地に弱々しい呟きが漏れた。
「…どうやって帰れって言うんだよ…」
 一人取り残されたバンダナの少年は途方に暮れていた。



 居候の身とはいえ、すっかり自分の家のようになってしまった天道家に帰ったのは、日が西の空に暮れ始めた頃だった。
「あ、乱馬君」
 水をもらいにいこうと台所へ向かう途中、この家の家事全般を取り仕切るかすみに呼び止められた。
「これ、あかねに持っててくれない?」
 そう言って、風呂敷包みを乱馬に手渡した。
「これ…」
 手渡された包みには何か服のような柔らかいものが入っているように思えた。
「お母さんのね、マフラーなの」
「…マフラー。亡くなったお母さんの…」
「そうなの。あかね、そのマフラーがお母さんに似合ってるって言って、とても好きでね。これからきっといろいろ大変だろうから、持って行ってもらおうかと思って」
 この天道家の長女は、天然おっとりで世間の常識からかなりずれているところはあったが、菩薩のような心と優しさはどんな時でも変わらなかった。
「分かりました」
 そう言うと、乱馬はまっすぐあかねの部屋へ向かった。


「あかね?」
 ほんの少し開いていたドアの隙間からノック代わりに部屋の主の名を呼び、そっと扉を開けた。
「あれ?いねーのか」
 頼まれ物を渡そうとした相手は不在だった。

「……」

 西から差し込む茜色の光が机を照らす。その机の上には教科書もノートもない。電気スタンドと、中身を失った本立てがあるだけだった。そして、その机の前には荷造りされたあかねのリュックが置かれてあった。 
 突然、言いようのない寂寥感が襲ってきた。
 誰もいない部屋は、乱馬の知っているいつもの部屋とは違っていた。きれいに片付けられた部屋。しかし、そこはもうすでに誰かが使っていたという気配さえ感じさせないほどがらんとしていた。否応なしに、あかねがこれから旅立ってしまうという現実を突き付けられる。
 乱馬はあかねの温もりが消えかけた部屋の真ん中で立ち尽くしていた。

「乱馬…?」

 はっとして振り返ると、部屋の入り口にあかねが立っていた。
「あ…、いや、かすみねーちゃんに渡してほしいって頼まれてさ…」
 体中を覆っていた寂しさが、あかねが現れたことによってすうっと退いていくような気がした。
「ありがとう…」
 乱馬から風呂敷を受け取ると、ゆっくり包みを開けた。
「これ…」
 あかねの瞳が大きく見開き、静かに揺れ始める。
「…お母さんの…だってな」
「うん…」
 嬉しそうに小さく頷くと、あかねは手にしたマフラーに顔を近づけ、そっと瞼を閉じた。
「お母さんの、匂いがする…」
 そう呟いたあかねはへへっと照れたように乱馬に笑いかけた。
「…きっとこれから大変だろうから、かすみねーちゃんが持ってけって…」
 乱馬は静かに微笑み返すと、かすみの妹を心配する思いを伝えた。
「…うん、ありがとう」
「礼ならかすみねーちゃんにな」
「うん」
 そこで二人の会話が途切れてしまった。

 夕闇が迫り、徐々に薄暗くなっていく部屋に佇む二人。
 お互い、溢れんばかりの気持ちと言いたいことがあるのに、不器用過ぎる二人はそれをうまく言葉にする術を知らない。

「乱馬、あたし…」

 あかねがそう言い掛けた時だった。
「「ご飯ですよ〜」」
 かすみとのどかの声が下から聞こえきた。
「メシだってよ。行くか」
「…うん」
 言い出す機会を逃したあかねは、喉まで出掛かった言葉を飲み込むと乱馬と共に階下へ降りていった。



つづく




一之瀬のラブコールの甲斐あって「愛する者」がシリーズ化になりました。
青春の二人の近未来編。
この先を握っている邪悪な私をお許しくださいませ。
(一之瀬けいこ)

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