◇夢幻
   9、最終話 君を護りぬく

自動的存在さま作

 憎かった。憎かった。
 ずっと殴ってやりたいと思っていた。私があんたより上なんだって思い知らせてやりたかった。もう二度と近づくなって言ってやりたかった。
 だけど、私はそんなことを実行する勇気がなかった。そもそも、こんな大胆な考えを持っていたなんて、自分でも気づいていなかった。
 男なんて大嫌いだ。
 男になんか興味は無い。
 だから、彼がどんな女と付き合おうが私には関係ない。
 そう自分に言い聞かせていた。また、これが私の本心なんだといつも思っていた。だけど……
「自分の願望を、自分で押し殺すなんてばからしいとは思わないかい?僕がほんの少しだけ手伝ってあげよう」
 そう言って、あいつは私の中に入ってきた。
 そして、あいつは私の奥底に秘められた今にも爆発しそうなその感情を、無理やり引きずりだしていった。
 すると、私は気づいた。
 そうだ。私は彼が好きなんだ。どうしようもないほど。狂おしいほど。
 でも、何もしないと彼は誰かに奪われてしまう。何か行動を起こさなければ。
 彼が他の女に取られる?
 嫌だ。
 嫌だ。
 あってはならぬことだ。絶対に奪われてたまるか。
 なんとかしなきゃ。
 なんとかしなきゃ。
 どうすればいい?
 え?
 そうか、簡単なことだ。
 彼を奪おうとする女をコロセバイインダ。
 彼を私のものにするには、ソウスルシカナイ。
 許すわけにはいかない。
 コロシテヤル。
 誰であろうと、ミナゴロシダ。
 で、誰を?
 ああ、そうか。今、目の前にいるコノオンナダ。
 シャンプー。私の憎むべき最大の仇敵。
 許さない。あんたが、あんたが、あんたがあんたがあんたがあんたがあんたがあんたがあんたがあんたが!
 彼を奪おうとするんだな!
 絶対に許さない。許さない。許さない。許さない。許さない許さない許さない許さない許さない!
 私の拳が、無意識のうちに固められていく。そこに最大限の殺意と憎悪がこめられていく。今、殴ればダイヤモンドでさえこなごなにできそうだ。
 その拳をシャンプーの顔の前にセットする。
 女は顔が命。
 それを今から私は殴り、潰そうとしている。
 当然の制裁だ。この顔で今まで彼をたぶらかしてきたのだから。
 ためらう必要はない。
 やってしまえ。
 私の意志が再確認できたところで、シャンプーに目をあわせる。軽蔑と憐れみをこめたその視線をもって。
 シャンプーは眉をひそめて、鋭く強い意志が内在されていると思われるその目を細めて、私の視線を受け止めた。最後まで気の強い女だ。
 だが、私は彼女の目に少しばかり涙がたまっているのを確認できた。心なしかその目の所々に、恐怖や絶望の色が写って見える。
 今更後悔しても遅いよ。私をこんな風にしといてさ。もう何をしても、全てが遅すぎるんだよ。
 うんと頷き、最後の決意を固める。シャンプーの身体がこわばるのを確認できた。
 やれ。
 私の中で何かの声が響いた。
 その声と同時に、一気にシャンプーの顔面に拳を叩き込もうとする。シャンプーが諦めたとばかりに目を強く閉じた。それと同時に私の拳が彼女の顔面に届こうとして……
 届こうとしたところで、何かにその拳を受け止められた。
「え……?」
 予期せぬ展開に思わず声が漏れてしまう。まさかシャンプーが受け止めたのだろうか。
 見ると、私が操っていた二人の男も気絶している。シャンプーは訳がわからないといった具合にその場に座り込んでいる。
「あんたの……」
 わたしの拳を受け止めたそいつがぼそりと私にしか聞こえぬ声でつぶやいた。
「あんたの相手は私がする」
 そいつは、何者にも負けぬ強い決意を私にぶつけてきた。
 他ならぬ私自身、天道あかねの決意を。


 そこまで思いつめているなんて、想像すらしたことが無かった。
 あれは確かに洗脳と呼べるべきものだろう。だが、火の無いところに煙は立たない。
 俺に彼女を追い詰める原因があったのだろうか?
 俺が悪かったのか? 
 俺が?
「君には彼女を渡せないな。悲しませるだけだ」
「そんなこと……」
 そんなことお前には関係ねえだろ。
 そう言おうとしたが、うまく声がでてこなかった。無理に喉のところでせき止められた感じだ。
 彼女は、あかねは、
 俺がいないほうが幸せなんじゃないだろうか?
 そんな恐ろしい考えが浮かんで、即座に首を振って否定しようとしたとき、顎に衝撃が走った。
「ぐ……!」
「彼女を返してほしければ、僕に勝つことだ」
 黒マントがぼそりと無音に等しいような声でつぶやいた。
「僕の名はリング。能力はDCC。空間を切り裂く能力だ。そして、ただ切り裂くだけではない。切り裂いた空間に内在しているエネルギーを塊にして、ぶつけることもできる」
「なんだって?」
「そして、この能力で僕は君の世界を救う。あかねも救ってみせる。そして、そのためにも、君には今ここで死んでもらう」
 ぷつり、と神経が切れたような音がした。
「勝手なことばかり言いやがって。ふざけんなああああ!」
 だが、無駄だった。
 また、やつは指をぱちんと鳴らした。すると、腹部に重い衝撃が走る
「ぐ……」
 なんとか、ガードするが衝撃を消しきれない。
 敵に攻撃が届く前に、どうしても敵にエネルギーの塊をぶつけられてしまう。威力が強すぎて、そのたびにガードに転じざるを得ない。おまけにいつ敵の攻撃がくるのか、どこから来るのかさえはっきりとしないのだ。とりあえず、敵が指を鳴らすのが合図だとみなしているが、指を鳴らすのと攻撃のくるタイミングがばらばらで、完全に攻撃の威力を殺すことはどうしても難しくなってくる。
 考えてみたら恐ろしい能力だ。
 自身は立っているだけで、勝手に敵の方で全滅してくれるのだから。
 そして、しばらく敵の攻撃をくらっているうちに、身体に限界が来てしまっていた。足が一瞬ふらついてしまう。
 その隙を見計らったかのように、敵が一瞬の内に乱馬の懐にもぐりこんでくる。
 はっと気づいた時にはもう遅かった。
「な……に」
 敵がにやりと自分の目の前で口元を歪めていた。
 そして、最後の宣告のように、目の前で指をパチンと鳴らす。
 その瞬間、
「つ……」
 死神が眼前で大鎌を振るったような気がした。
 身体中のあちこちに衝撃が走った。全身の骨が粉々になるのを感じた。
 だが、痛覚は幸いもうなかった。
 身体が後方に吹き飛ばされるのを感じながら、意識は深い闇の底に沈んでいった。
 あかねは、俺がいないほうが、あるいは本当に幸せなのかもしれないな、と最後に悲観的にそう思った。


「と、悪いがあんたは気絶させないよ」
 身体が誰かに支えられた。同時に意識が、ぐいと現実に引き戻される。
「あん?」
 誰だ?
「あんたに死なれたら、あたしこの先どうやって生きてけっていうのよ」
 この声。この匂い。この感触。おいおい、もしかしたら。
 いや、こんな都合のいい展開が現実に存在するものか。まず間違いなくこれは何かの罠に違いない。
 だが、だが、もう罠でも何でもいいと思った。たとえ、これで死んだとしても、もう何も悔やむことはあるまい。
 その可能性に最大限の執着と願望をこめてみることにした。
 震えきった声で、その名前を呼んでみる。
「あかね?」
 ほとんど、祈るような気持ちだった。目をゆっくりと開けてみる。
 そこには、なんだかもう随分と見ていなかったように感じられるその人の顔があった。砂漠を旅する途中でオアシスを発見できたような感覚。そんな渇望しきった感情が満たされていくのを感じた。
 ……現実って案外ばかにできない。
「あかね」
 もう一度名前を呼んで確認する。
 幻覚ではないと自分に言い聞かせるように。
「らんま」
 彼女がはっきりと意志のある目で反応する。
「……」
 涙が自分の目からこぼれ落ちるのを感じた。
 本当にこの世界には神様ってやつがいるのかもしれない、と少しずれたことを考えてしまった。
 だけど、こいつの前で泣くわけにはいかなかった。
 女の前で泣く男ほど惨めなものはない。
 そう考えていると、彼女の方から自分の胸に飛び込んできた。
 がくがく、とその肩が少し震えていた。
「会いたかった」
 抱きしめてくる力が徐々に徐々に強くなっていくのがわかった。声が震えて、湿っていた。
「会いたかったよう」
 彼女はもう今や完全に自分の中で泣いていた。
 その存在を確かめるように、その愛情をつなぎとめようとするように、強く乱馬の胸に顔を押し付けていた。
 ……俺ってなんて最低なんだろうな。女をここまで泣かせるたあ。
 だけどよ。だけど、
 もう二度と死んでも離れねえからさ、許してくれよ。
 そんなことを本気で思いながら、彼女の肩を抱いて、そっと彼女にしか聞こえぬ声で耳元につぶやく。

 俺も。


「いいのか、シャンプー。二人をあのままにしておいて」
 コロンが他人行儀という感じで、実に楽しそうに話しかけてきた。
「今日のところは見逃してやるね」
 その問いに、シャンプーはぶっきらぼうに返事した。
 あいにく今の彼女は、気をつかいながら返答するほど虫の居所がよくない。
 ……全くもってあれはなんだったのか分からない。
 あの時のあかねは本気で自分を殺そうとしていた。冗談ではなかった。冗談であんな冷酷な目を作ることは絶対にできない。
 その時に背筋を伝った汗と寒気の感触は、今でも忘れることができない。きっとこの先何年も、悪夢のように脳裏にあのあかねの目が焼き付いて離れないだろう。
 だが、そのあかねの拳が、自分の顔面に当たると思われたその直前で急停止したのだった。
 そして、意味不明の言葉を吐き始めた。
「どいてよ!私はこの女を殺すの!邪魔しないで!」
 そうは言われても、彼女の前には自分しかいない。
 不思議に思いながら見ていると、あかねはいきなり暴れ始めた。誰もいないはずの虚空に向かって、蹴ったり殴ったりし始めたのだ。
 ついに狂ったかと本気で心配した。
 だが、自分を拘束していた良牙も何故か気絶していたので、この機を逃すわけにはいかなかった。
 暴れているあかねの攻撃を避けながら、その首筋に思いきり手刀を放った。手刀は、どん、とあかねの意識を奪うには的確すぎるほどの角度で勢いよく入っていった。そして、あかねはその場にがくりと気絶した。
 ふう、とその時自分は本気で安堵したことを覚えている。
「一体どういうことか?」
 本気で誰かに問い掛けてやりたかった。ここまで荒唐無稽の展開は、未だかつて経験したことはない。
 そのままコロンの拘束を解いてやったりしていると周りの景色が変わり始めた。猫飯店だったはずの光景が、いつのまにか風林間高校のそれに変わっていた。
「ばあちゃん、これは?」
「幻覚を見せられていたようじゃな」
 そこで全て思い出した。
 確か学校に突如出現したブラックホールに飲み込まれてしまったのだった。そこからは記憶が曖昧になっていて、思い出すことはできない。
 ただ、気がつくと自分は猫飯店でいつものように仕事をしていた。
 何故かそれが当然という認識さえあった。
「ばあちゃん、何が?」
「わからん。ただ……」
 コロンが何か言いかけたとこで、校舎全体が大きく揺れた。
 近くにあった窓ガラスが、ぱりんと割れた。
「ばあちゃん!?」
 だが、コロンは落ち着き払って、何故か上を向いていた。天井に何かくっついているのだろうか。
「上……」
「はあ?」
 上がどうしたって?
「上に向かうぞ。屋上じゃ!」
 そう言うなりコロンは近くにあった階段を駆け上がっていってしまった。
「ちょ!?ばあちゃ……」
 しかし、そこでシャンプーは気がついた。つい先ほどまで気絶していたはずのあかねの姿も消えているということに。
「もう、一体何が起こっているね!?」
 とにかく自分も屋上に向かおう。そこに答えがあるかもしれない。
 うん、と頷いて、乱れた髪の毛を掻きあげた。
 さて、屋上に向かうにあたって問題がひとつあった。
「こいつら二人どしようかな?」
 床ですやすやと気絶しているというよりは気持ちよさそうに眠っている二人の男の対処だ。しばらく本気で検討した。
 そういえばこの二人、さっき自分を拘束していたな。
 それを思い出すと、なんのためらいもなくこのまま放っておくのがベストであるという結論を下せた。


 で、実際屋上に来てみると、二人の男女が実に愛しそうに抱き合っていた。
 来なきゃよかったと数秒だけ思った。
「で、ばあちゃん。一体なんだったね?今までの出来事は?」
「それはそこにいる黒マントが答えてくれるじゃろ」
 へ?と間の抜けた声をあげてしまった。
 黒マント?
 顔をあげると、あかねと乱馬のちょうど前方十メートルあたりの地点に、確かにそれらしき影が立っていることに気がついた。
 別に驚きはしなかった。もうこれまでの過程で、驚くという行為そのものに疲れきっていた。ただ、服の趣味が極端に悪いとは思った。
「お主があかねを操っていたのか?」
 この問いにもシャンプーは別段驚かなかった。あれがまさかあかね本人であるとは誰も思うまい。
 で、犯人はこいつか。全くろくでもないことをしてくれる。
「……」
「操作ね……まあ確かにそういうことになるのかな」
 なんだか曖昧な答えだ。
「何故そんなことをした?」
「別に、特別な目的があったわけじゃない。ただ、本心を知っておいたほうが君らのためにもあかねのためにもいいと思ったのでね」
「人の心を簡単に暴露することが、許されることだとでも思っているのか?」
「許される、許されないは僕にとって問題じゃない。君達の世界の常識的見解を押し付けられても困るな」
 そこまで聞いていて、シャンプーは自分が大分腹を立てていることに気がついた。なんて勝手なやつだ。
 こんな異常者に常識を押し付けるなんて確かに無茶なことだ。
 こういうやつに理屈はいらない。子供に理屈が通じないのと同じようなものだ。したがって、必要になってくるのは理屈ではなく力だということに自然と結論が収束する。
「ばあちゃん、こいつ殺す」
 ……シャンプーの言葉に大抵比喩はない。彼女は、力を暴力などと甘く捉えていない。それをさらに逸脱したところに、彼女の常軌は存在している。
 コロンは何も言わない。許可したとみなして構わないだろう。
 だが、ここで予想外なことが起きた。
 乱馬が立ち上がっていた。
「待ちな、シャンプー。こいつは俺が倒す」
 乱馬の闘気が、ひしひしと離れた自分にも伝わってくるのを感じることができた。背後しか見えないので確認することはできないが、きっとその目は見るものを圧倒するような力強さに溢れていることだろう。
 あかねが彼に与えたのだろうか。自分にはできぬ芸当だと思い、少し寂しくも感じ、むかつきもした。
「君では僕に勝てないよ」
 黒マントがそう宣言した。
「やかましい。絶対ぶっ飛ばす」
 その声と同時に乱馬の身体が……
 ありえないと思われるほどの初速で、敵に向かっていた。
 だが、敵は動揺というものをまるで知らぬかのように、その指をぱちんと鳴らした。
 すると、なにか得体の知れない塊が乱馬にぶつかった。きっと敵の能力でできたものだろう。
 だが、乱馬の勢いはとまらなかった。塊がぶつかった直後も、身体はまるで傾くことなどなく、バランスが保たれたまま一気に敵の間合いにたどり着いていた。
 黒マントがかすかに動揺するのがわかった。そして、乱馬から逃れるために後方に飛びながら、再び指を鳴らそうとして……
 そこを捕らえられた。
 鳴らそうとしているほうの腕を乱馬に押さえつけられたのだ。
 そして、その腕を、
 ばきり
 という音が鳴る方向へ強引に折り曲げた。
「つ……!」
 黒マントがかすかによろめいた。
 すると、この機を狙っていたかの如く、乱馬の拳に異常なほどの闘気が集まった。大気を振るわせるという形容さえ可能になりそうなほどの、その恐るべき量のエネルギーが彼の拳に収束していくのがわかった。
 シャンプーは背筋に寒気が押し寄せてきているのがわかった。あの時の、あかねが自分を殴ろうとしていた時のあの感覚。絶大なパワーが破壊を生み出すときに、人間が本能的に身体に発する警鐘のようなもの。理屈を通りこした理解不能なもの。
「あぶない!」
 シャンプーはぼけっとしているあかねを無理やり起こし、乱馬達のいる場所から離れさせた。何でこんな時に茫然としているんだ?
「らんま……」
 あかねの目はシャンプーの方を向いていなかった。
 乱馬だけを見つめていた。
「あかね、どうした?」
 シャンプーの問いにも彼女は返事をしない。独り言をぶつぶつ、つぶやいている。
「私、覚えがあるの、この感覚。私は……」
 何を言っているんだ?この女は。
 そして、今や乱馬の拳には人知を超えたエネルギーが集まっていた。今なら小型ミサイルほどの威力でも発揮できそうだ。
 そこで、乱馬は一呼吸し敵をにらみつける。死の宣告のように。そこにためらいは存在していない。
 だが、敵に臆している様子は見られなかった。それどころか笑っているようにも見えた。
 諦めたのだろうか?
 だが、ここでためらうことは乱馬の中で許されなかった。
 こいつを、こいつを倒さなければ……!
 あかねは自分の所に戻ってこない。
 そんな強迫観念に近いものが、乱馬の中で渦巻いていた。
 よし、と心の中で最後の決意をする。
 そして…
 次の瞬間、爆発が起こった。

 殴る直前こんな声が聞こえたような気がした。
「君になら任せても大丈夫かもしれないな」


「う……」
 なんだ、あの汚ねえ天井は、というのが目覚めて最初の認識だった。
 ああ、そうか。ここは天道家の自分の部屋だ。
 そう気づくとどうでもよくなって、再び眠りに落ちようとした。
 だが、眠りすぎたのかどうにもそれは困難だった。
 なんだか今まで随分長い夢の中にいたような気がする。
 しかし、どんな夢だったのか思い出すことがどうしてもできない。脳が思い出すという動作を拒んでいるようにも思えた。
 とにかくもう起きよう。寝てばかりいるとナマケモノになってしまう。
「ちょっと、いつまで寝てんのよ乱馬……」
「ん?」
 起きあがるとそこにあかねがいた。
 彼女らしからぬ、やけにうれしそうな顔つきで、こっちを覗き込んでいた。
 寝起きは機嫌が悪い自分だが、こういう場合に限って例外的に機嫌がよくなる。
「起きなさいよ、いくら休みだからってもうお昼だよ」
 あかねがはやくしろおとせかすように、自分の身体を押してくる。
 わかった、わかったと言わんばかりの緩慢な動作で乱馬は起きあがった。
 するとあかねが待ってましたという感じで服を手渡してきた。
「なんなんだよ?一体」
 こういうあかねの対応は初めてだったので、少し疑問を感じた。
「いや別に。ただ今日さ、家族も全員どっか行っちゃったみたいで、今私と乱馬しかこの家にいないのよ。だから、これから買い物行くから付き合ってもらおうと思って」
「ふーん」
 そういえば、近頃あかねと二人きりでどこかに出かけることがあんまりなかった。だから、こんなにも嬉しそうなのか。なかなかかわいいところもあるじゃないか。
「今日はいっぱい買うつもりだからさ〜。荷物持ちが必要なのよ」
 そういうことか。
 乱馬は少しがっくりと肩を落とした。まあ、この鈍感女に期待なんて抱くほうがばかなのかもしれないが。
「ほら、早く早く!急がないと、売り切れちゃうよ!」
「わかったわかった」
 やれやれ、と妥協したように寝巻きを脱ぐことにした。まあ、なんにしても彼女と二人で出かけることは嬉しいことには代わらないので、良しとしよう。
「とりあえずお前部屋出てけよ。それとも、俺が着替えるとこ見ていたいのかよ?」
「だれがよ……!」
 向きになって彼女は部屋を勢いよく飛び出した。
 やれやれ、単純という言葉が一番似合いそうな女だよあいつは。だが、ああいうとこに俺は惚れたのかもしれないな。
 苦笑しながら、いつものチャイナ服に着替えることにした。
 そうだな、だからおれは……


 その二人の様子を隣の家の屋根から観察している一つの影があった。その影の背丈はやけに小さい。
 そして、何故かその不自然な影の姿に誰も気がつかない。
 当然だ。人には見えないように設定してあるのだから。
 だが……
「満足したか?」
 その影に声がかけられる。
 影は一瞬びくりとしたが、すぐにその方向に振り向いた。
「まさか正体がこんな女の子だったとはのう」
 ふう、とため息をつくと、影はその姿をはっきりと現した。
 そこには、まだ思春期にも満たないような小さな少女がいた。
「これでも、君の何十倍は年とっているんだがね。いや、さすがだね。君にはばれてしまったか。人間には見えないはずなんだが、君は人間じゃないのかい?」
 その少女は、少女とは思えぬような皮肉っぽい笑みを浮かながら答えた。
「お主じゃろ?我々に幻を見せていたのは」
「まあ、そうなるね」
 少女は仕方なしに告白することにした。
「夢幻空間とは、つまるところ夢そのものだったわけじゃな?だから、関係者全員の記憶そのものも消すことが出来るんじゃろ?まあ、残念ながらわしにはその手は通じなかった。他の関係者の記憶は全部消せたみたいだが、わしはしっかり最初から婿殿がお主を殴ったところまで覚えているぞ」
「やれやれ、地球にもなかなかつかえる人材がいるみたいだね。見破られたのは久しぶりだな。まあ、君の驚異的な能力に免じて教えてあげることにしようか。全てを。だが、後悔するかもよ?」
「後悔?」
「そうだ。真実を知ることは、すなわちどうしようもない現実の残酷さを知ってしまうということだからね。あるいは死んだほうがましだと思うようになるかもしれない」
 コロンはその目の真剣さに一瞬気圧されたが、
「構わん。早く話せ」
 そこで、少女はにやりと「いい覚悟だねえ」と言った。
「まあ、そもそも夢幻空間なんて存在しないんだ。今まで君達が見ていた夢は全部僕が見せていた。僕の仲間もその夢に実際登場させてね」
「お主はそれでは一体何者なんじゃ?夢の中ではリングと名乗っていたが、それは本名なのか?」
「本名だよ。別にあとで記憶は全部消すから、本名を名乗ってもなんら問題はない。まあ、昔は記憶が全部消しきれずに黒い穴の部分だけ頭に残っていたりして、夢幻空間なんて名付けられたりしてしまったけどね。で、付け加えるなら、あの夢の中じゃ僕は男になっていたけど、実際はこんな姿なんだよね」
「つまり、お主達は実際異世界の者ということじゃな?」
「そうだよ。僕達が住んでいる世界は、こことは全く別の場所にある。もっとも次元を切るという技術が地球以外の世界には大体広まっていてね。こんな風に、僕が別世界から移動してくるということは他の世界ではあまり珍しいことではない」
「……で、お主の目的は?何故あんな夢を我々に見せた?」
「……僕らは他の世界じゃ守護人とも呼ばれている」
「守護人?」
「君はこんな話を信じるかい?」
 そういうと、少女はコロンから目をそらした。
「ほんとは予知の内容は関係者には話してはならない規則なんだが、これは僕の独り言で、勝手に君が聞いたということにしといてくれ」
「予知?」
「僕らの世界には、それはもう百発百中の予知者がいてね。その人が他の世界の予知を定期的に行っているんだ。で、今回対象は地球だったわけなんだが……」
「……」
 コロンはごくりとつばを飲み込んだ。
「これはあくまで我々の予知の結果であり、あくまで仮定と思って聞いてくれればいいんだが、この世界はもうじき戦争に巻き込まれる」
「……」
「前にも話したとおり世界には次元を切る技術があり、それを使って他の世界に侵入し、戦争なんかを仕掛けたりすることが頻繁に起きている。そのうちのひとつの軍事世界がこの地球に目をつけていたら……君はどうする?」
「……何故地球に目をつける?今までは、放っておかれた世界じゃぞ?」
「資質者」
「?」
「世界には資質者と呼ばれる者が存在している。その資質者と呼ばれる者は、一人で何千万もの数の軍隊を相手にできたり、もしくは一瞬のうちに崩壊した世界を戻したり、とにかくとんでもない能力をもっている。しかし、資質者は実にその数が少ない。何億年に一人の確率で生まれてくると言われている。だが、もしもだ。もしも、この地球に資質者が生まれているとしたら……」
「!」
「そして、その資質者の存在に気づき、利用しようとしている世界が存在しているとしたら……」
「まさか……まさか、その資質者というのは……」
「そう、それが天道あかねなんだよねえ、これが」
「……」
 時がとまったような気がした。
「我々はその資質者の特に関係の深いと思われる人物に警告を発することにした。僕の能力を使ってね。実際僕の能力は攻撃用としては次元を切るというものがあるんだが、実はこの能力を持つ者はひとつの世界に必ず数人は存在していると言われていてそこまで珍しいものではない。しかし、僕のもう一つの能力は大変珍しいもので、まあこっちが僕の真骨頂と思ってくれるとありがたい。僕のもうひとつの能力として対象にリアルな夢を見せるというものがある。ほら、すごかったろ。あの夢。痛みや匂いや音も全てが現実味を帯びていたろ?しかも夢の内容はこっちで勝手に決めることができ、その記憶も完全に消せる。まあ、君は例外だったみたいだが」
「だ、だが、あの夢が一体なんの警告だと言うのだ?」
「……あそこで試したんだ」
「試した?」
「そう。この夢の中では生物は何であれ本性を見せるからこういう使い方をされるんだ。で、上から僕みたいな能力者に命令が下る。試験してこいと。彼らがいざというときあかねを護り通せるかどうかをね。もし、我々が護り通せないと判断した場合は、あかねを我々の世界に連れ去り永久隔離するつもりだった。そうなれば、君らの世界も戦争に巻き込まれず、結果として救われることになるな」
「ならば、何故そうしない?」
「らんま君だね」
「ん?」
「彼なら護り通せるだろうと判断した。だから、資質者の保護は彼に任せることに我々の結論は一致した」
「しかし、我々の世界はどうなる?!戦争に巻き込まれるのではないか?!」
「そんなこと僕らの知ったことじゃない」
 少女の冷たい台詞に、コロンは絶句した。
「僕らは資質者が生まれるたびにこういうことを繰り返しているんだ。資質者が悪利用されるような世界からは、とにかく資質者を連れ去ることにしている。まあ、この地球ならば次元を切る概念が存在していないから大丈夫であろうという判断だ。我々は狡猾な超軍事世界に渡り、世界の秩序が著しく変動することだけを恐れている。資質者を悪利用すれば、それはもう想像を絶する破滅がもたらされるだろうからね。このように世界の秩序を一定レベルに保つことを生業としているため、我々は守護人と呼ばれているが、戦争ひとつ程度を残念ながら我々は世界の秩序の変動とはみなしていない。そもそも、予知された内容はできるだけ変えないようにとするのが我々の主義でね。だから、夢の記憶も出来るだけ消すようにしているんだ。自然の流れを破壊することになるしね。ただ、予知の結果あまりにも秩序が変動する場合は今回のように動かざるを得ないんだ」
「……」
 想像を超えていた。まさかここまで規模の大きい話だったとは。
「さて、僕はもう元の世界に戻らせてもらうよ。もう僕の役目は終わった」
「なぜ……」
「ん?」
「なぜ、あかねをあんな風にした?試すだけなら、あんな風に操る必要はなかったはずだ」
「ああ」
 その問いに少女は面倒くさそうに頭を掻いた。
「彼女が少し哀れな境遇だと思ってね。らんま君に伝えてやったほうがいいと思ったんだよ。まあ、これは個人的行動だから、帰ったら処罰されるかもしれないな」
「本当にそれだけか?」
「ああ、あと実際……」
 苦々しそうに顔を歪めながら、少女は答えた。
「彼らがうらやましかったというのもあるかな」
「?」
「じゃ、もう僕はいくよ」
 そう言うと、少女は指をぱちんと鳴らした。
 すると、目の前の空間に小さなブラックホールが出現した。
「じゃあね。あとのことは君達しだいだ。だから言ったろ。聞けば後悔するってね」
 少女は、最後まで皮肉な笑みを浮かべながら、ゆっくりと穴の向こうにそしてコロンの人生からも永遠に消え去っていった。あとには、もう虚空しか残されていなかった。
「……」
 戦争か。
 その時まで自分も生きていればいいが。
 コロンは本気でそう願った。
 もし本当に神様がこの世界に存在しているならば、どうか自分の寿命をあと10年ほど延ばしてもらえないかと願いたい。
 聞いたことに驚きはしたが後悔はしていない。やるべきことが増えたと思っただけだ。
 だが、その願いに答えてくれるものはこの場にはいなかった。
 代わりに、風だけが寂しそうにびゅんびゅんと吹いていた


「おい。あと何買うつもりだよ!?」
 一体いつまで買いつづけるつもりなのか。
 もうすでに自分の腕は、あかねの買ったもので埋めつくされている。彼女がここまで買いまくるのも珍しいことだ。
「いいじゃん。せっかく来たんだからさ」
 あかねが本当に嬉しそうに笑った。
 ふと、何故かその笑顔が急に遠ざかっていくような気がした。
 あかね?
「ん?なによ、じっと見つめて」
「あ、いや……」
 気のせいだろうか。急に自分の前からいなくなってしまうのではないかという考えが襲ってきたのだった。前にもこれに似たような体験をした気がする。既視感というやつだ。
「なんでもねえ」
 気のせいに違いないと自分に言い聞かせ、乱馬はあかねの後を追った。
「へんなの」
 あかねが不思議そうに乱馬を見つめた。
 確か前に……
 俺はあかねを傷つけているだけだ。
 そう考えこんだような気がする。
 何故自分はそんなことを思ったんだろう。そして……
 それは事実なんだろうか?
「らんまーはやくしなさいよ」
 あかねが手を引っ張ってくる。その横顔を見て乱馬は静かに決心をした。
 いや、過去はどうでもいいんだ。
 問題はこれからだ。
 これからこいつとどう関わっていくか。問題はそこだ。
 そして、俺は決意する。
 こいつを護りぬいてみせると。
 死んでも護りぬいてみせると。
「護り通してくれよ。頼むから。世界のためにもさ」
 どこかでそんな声を聞いたような覚えがある。
 だが、そんなこと他人に言われるまでもないことだ。
 護り通す。必ず。
 しかし、具体的に護り通すとはどう定義されるかというと、俺の中ではずっとあかねと一緒にだな……
「どうしたのよ、ぼおっとしちゃってさ。さっきからへんだよ」
 ふいに聞こえたその声に現実に引き戻される。
 何考えてんだ、俺。
「顔赤いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫でい!いきなり覗きこむなよ、お前は!」
 すると、ふふ、とあかねは微笑み、唐突に話をはじめた。
「私さ、夢見てたの」
「は?」
「なんか、シャンプーに嫉妬してる夢でさ。いや、ほんと情けない夢だった。だけどね、その時私は自分で抑えたんだ。自分のことを」
 あかねは寂しげに虚空を仰ぎ、そして、また乱馬に目を合わせた。
 乱馬はどう反応していいのかわからなかったが、その寂しげなあかねの顔に今までに感じたことのないような魅力があると思った。
 護り通さなければならないと見る者に思わせる魅力が。
「シャンプーには、ちゃんと実力で白黒つけないとだからね」
 あかねが寂しげに笑いながら言った。
「はあ?」
 なんだか、言っていることがよく分からないんだが……
 そんな乱馬の不思議そうな顔に笑顔を向け、乱馬の手をつかんで走り出した。
「いつかあんたにもわかるときがくるよ!ほら、はやくはやくつぎつぎ!」
「お、おい!」
 今日のあかねはやっぱり変だ。テンションの上がり下がりが激しすぎる。
 まあ、別にいいんだけどさ。
 風がそんな奇妙な感覚に包まれている二人の間を吹きぬけていった。
 夢から現実へ引き戻す寒さもあり、しかし二人の絆の固さも証明するような温かさもある、音のない不思議な風が。









 作者さまより

 自分で言うのもなんですが、ようやくこのとんでもない小説を終わらせることができました。はあ、ほんとに、これ読んでて疲れますよね。
 だけど、それでもここまで読み終えた人には、最大級の感謝を送りたいです。
 あとがきの定番な台詞ですが。
 管理人さんいろいろご迷惑かけてすいませんでした。終わるまで見守っていてくれてほんと感謝です。
 では、また会うことがあればいつの日か。
 この続編は、全く考えてないなあ


 長編を書き終えたときの達成感は実に壮観なものです。この感覚が忘れられなくて、また、白紙のメモを立ち上げてキーボードを叩く人もいらっしゃるのでは?
 乱馬はあかねを護り抜くでしょう。何があっても、たとえどんな状況におかれても。あかねも気付いている筈です。護られるだけの存在ではない彼女。

 特に受験期に作品を書くことは意識の持続でも大変かと思います。
 この続きでも新しい世界でも、また開けたときに作品をお寄せいただければ嬉しいです。
 素敵な作品ありがとうございました。
(一之瀬けいこ)

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