◆景色 〜中編〜
自動的存在様作


あかねは、外の景色をぼんやりと眺めこんでいた。
一体いつの間にあんなメモ書いたのだろう?覚えがない。
かと言って、乱馬に聞いてみるのも気恥ずかしい感じがした。それに乱馬にこそ迷惑だろう。こういうことを知り合いに胸を張って自慢できるほど、あの男の器はでかくない。
何より、覚えてないなど口が裂けても言えない。あの優柔不断の男が、せっかく誘ってくれたである。こんなことは滅多に無い。言うだけ乱馬の怒りを買うだけだろう。
(でも、話ってなんだろうな?やっぱたいしたことじゃないのかな?でも、わざわざ前もって伝えるなんて珍しいし)
そのあかねの複雑な心境などまったくお構いなしという感じに、乱馬は熱心に大富豪にふけこんでいた。
(やめとけばいいのに)
案の定、今、数回目ぐらいの大貧民気分を味わっているようだった。現実にこうならないよう、こんなとこで運は使うなと言ってやりたい気分だ。
外は雲一つ無くなっていて、見事な快晴になっていた。満開の桜が春の到来を告げていた。こんな日はどこかお花見でも行きたいものだ。まさに、絵に描いてあるような爽快な景色である。この教室は三階の中で一番見晴らしが悪いのだが、これで充分だった。街中の喧騒な風景もここから見えるはずだが、今だけは彼女の視線には入っていなかった。あかねは、しばらく時が過ぎるのも忘れて、茫然と景色を眺めていた。
(爽やかな景色ってやつかしらね)
なんだか、心まで洗われるような気分だった。うきうきと弾むようだった。
もう少しこのまま現実逃避を決め込んでいたい。
(そう。もう少し…)
ところが、そう思ったのと同時に、彼女の世界など一瞬で吹き飛んだ。
ちなみに、ここは三階である。地上から10メートル近く離れている。普通の人間ならば、ここまで来るのに階段というものを使用する。
そう。「普通」の人間ならばだ。
「ニーハオ」
そう聞こえたなり、突然目の前に一人の少女が現れた。青いロングヘアに、大きな瞳。美人と呼ぶには、充分すぎる少女だった。しかし、そんな彼女の外見など、今起こったことに比べればまるで問題では無い。彼女の向こうには、先程まであかねがふけこんでいた「爽やかな」景色が広がっているのだ。
風景をぶち壊されたあかねは、熱湯を耳に入れられた気分だった。他の生徒も一様に、驚愕の余り顔が強張っている。一体どうやって、この少女は三階の高さを登ってくるのか、毎度不思議に思ってしまう。しかも、片手にラーメンを持ってである。それも、この登場には周期というものが無いので、いつまで経ってもみんな慣れないのであった。
しかし、肝心のその少女シャンプーは、そんなみんなの気味悪がる視線などお構いなしに、その男の傍に寄っていった。
「ニーハオ、乱馬」
「お、おう。シャンプー」
その男、早乙女乱馬は、気が退けるような答え方をした。
「お昼ご飯持ってきたね」
そう言って、シャンプーは手にしたラーメンを乱馬に差し出す。
「あ、いや、おれさ。もういいって…」
「食べてくれるあるな!」
「いや、あのよ…」
乱馬は、しどろもどろになりながら、曖昧な返事しか返さない。他の生徒達は、いつものことか、と知らん顔をしていたり、興味を示していたり、うらやましそうな目で見ていたり、くすくす笑っていたり、全く興味無しだったり、といろいろ行動パターンがある。
「ええかげんにせんかい!」
その時、そのある意味、注目を浴びている二人にいきなり声を張り上げる猛者が現われた。
しかし、これも大体全員が予測していたことだった。別に驚きもしない。むしろ待ち望んでいた者もいるぐらいだった。
「なにあるか?」
シャンプーは打って変わって、どすの効いた声を響かせながら、その相手久遠寺右京を睨みつけた。
「乱ちゃんが嫌がっとるやないか。毎度毎度ええ迷惑や!」
「そう言うお前のセリフこそ迷惑ね。引っ込んでるある」
「なんやと!」
「お前の存在自体、乱馬にも私にも迷惑ね。消えるよろし」
「こ、このアマ…言わせておけば」
右京は顔を真っ赤にして、背中から巨大なへらを取り出す。
シャンプーも負けじと、ぐっと腰を落とす。
「しつこい女は嫌いね。こういう女は、一度ぐらい痛い目見て病院に行くことにならないと分からないあるからな。丁度いい機会ある」
「それは、こっちのセリフや!」
「お、おい。やめろよ、二人とも」
そんなおどおどした声に効果なんぞあるか、と言ってやりたかった。全く、何度同じことを繰り返せば、この男は理解できるのだろう。一度ぐらい、びしっと言ってやればいいのに。
教室の中には、今にも一触即発しそうな危険な空気が充満しているというのに、そのことを全く生徒達は気にかけない。のんびりとトランプをしていたり、雑誌をめくりながらのんきに談笑していたりする。
しかし、この時意表を突く者が現われた。
「乱馬さま〜!」
その女は、いきなり廊下の窓ガラスを蹴破って侵入してきた上に、教室に入ったや否や、空中で回転して乱馬の机に降り立った。これには、さすがにみんなも目を剥いた。全員口をあんぐりと開けている。あかねの前の席の男子生徒など、飲みかけていたお茶を机に吹き出している始末だった。
「こ、小太刀…」
「お久しぶりです。乱馬さま」
丁寧にお辞儀をして、その制服に身を包んだ女、九能小太刀は乱馬に擦り寄ってきた。
乱馬は、あからさまに嫌そうに後ずさりする。
「お、お前何しにきたんだ?」
「はい。私の学校の方でクッキーを焼きましたので…」
小太刀は懐から、見た目には普通そうな小さな包みを取り出した。
「乱馬さまに食べてもらおうと思いまして」
そして、小太刀は包みの中からクッキーを取り出し、乱馬に差し出した。
「どうぞ」
「いや、俺は…」
「ちょっと待たんかい!」
「割りこむの良くない!」
小太刀に負けじと、二人も口を挟む。しかし、小太刀はそんな二人の熱気など関係無いと言わんばかりに、完全に無視している。
そして、乱馬の答えを聞かずして、口の中にそのクッキーを放り込むのだった。
「ぐ…」
乱馬も、ごくり、とそれを飲みこんでしまう。
途端に、乱馬の様子に異変が現われる。まさに一瞬である。どん、と机に頭をついた。
「し、しびれ、ででで…」
ぴく、ぴく、と小刻みに痙攣している。
「こ、小太刀…てめえ…」
弱弱しくいう乱馬に、小太刀は勝ち誇ったような視線を向けた。
「おほほほほ。今度の痺れ薬は、速効性が強いんですの」
「な…」
「では、行きましょうか、乱馬さま」
そう言うなり、小太刀は乱馬の足首に新体操で使うリボンをくくりつけた。そして、一気に廊下まで引張っていく。乱馬は、体中をあちこちにぶつけながら、されるがままに、引張られて行く。小太刀はそのまま、ぴょんぴょんと、軽やかに飛び去って行ってしまった。
「な、」
不意を突かれ、右京もシャンプーも呆然としていた。しかし、すぐに我を取り戻し、二人の後を追いかける。
「ま、待たんかい!」
「乱馬を返すよろし!」
二人とも風のように廊下に飛び出していった。
生徒達も、くすくす、と失笑を漏らし続けている。大介や乱馬を取り囲んでいた男子達も、あちゃあと呆れている。それというのも、ここには乱馬の許嫁であるあかねがいるからである。すでに風林間の名物となっているこの戦闘は、生徒達にとっては話題の種だった。が、それに一番関わっているあかねの前では、さすがに気も使うのだった。
あかねはうんざりとした。はあ、とため息をついた。
(あいつには成長というものがないのかしら)
その時、事の一部始終を見ていたゆかとさゆりが戻ってきた。二人とも、哀れむような呆れているような顔つきだった。
「苦労するわね、あかねも」
開口一番、そう言ってきた。
「ごめん、待たせちゃって」
「ううん。いいよ」
「はい、これ。待たせたお詫び」
ゆかはあかねに缶ジュースを差し出した。あかねも静かにそれを受け取る。
「つうかいいの?ほっといて」
「良いわよ、別に。いつものことだもの」
「そう?にしても、毎度不思議に思うんだけど。あの変態女。学校どうしてんのかしらね?」
「さあ」
あかねは、冷静にそう言いながら、鞄の中から弁当を取り出した。しかし、冷静に見えるのも外見だけだ。内心ではかなり、失望のため息を漏らしていた。もちろん、ゆかもさゆりもそのことを見ぬいている。こういう時のあかねは柄にもなく、やけに冷静になるのである。
あかねは、ストレスで憔悴しきっていた。
全くをもって一体なんなんだろう?映画のリングでもあるまいし。いつまで同じ事を繰り返せば気が済むのだ?もうここまで来ると怒るというより呆れてしまう。
そう思いつつも、乱馬の行動一つ一つに一喜一憂している自分が恥ずかしかった。
(そうよ、なんで私が煩わなきゃいけないのよ)
そう思えてくると、抑えていた怒りが静かに湧き出してきた。ぎゅっと手に力が入ってしまう。
「ちょっと、あかね」
見かねたように、さゆりが落ち着き払って伝えてきた。
「缶が潰れちゃうよ」
あかねは、はっとして自分の右手に目を向ける。缶に指圧が加わった痕が入っていた。通常、中身の入った缶に痕をつけるだけでも、ものすごい握力を要する。
あかねは落ち着いて、もういいや、という感じに弁当箱の蓋を開けようとする。妥協しきっていた。
しかし、収まりかけていたあかねの怒りも、すぐに爆発することになるのだった。
あかねが蓋を取ろうとした、その瞬間
「どわ〜!」
という、なんだか人が耳に入れたら警察でも呼びそうなその声があかねの方に迫ってきていた。へ?とあかねもその方向に振り向く。
目の前に、疲れ切って、驚ききった顔があった。乱馬だった。
「ちょ…!」
避けるまもなく、あかねの頭に乱馬の体が当たり、あかねは、ごつんと派手な音を立てて、額を固い弁当箱にぶつけた。乱馬はそのまま、床にどしんと墜落した。
「いてててて」
乱馬は、顔をしかめながら体をさする。いつのまにか、痺れ薬から開放されたようだった。だが、彼の悪夢は、これだけで終わるはずも無かった。
そして、乱馬を吹き飛ばした張本人は、教室のドア付近に立っていた。それは、シャンプーでも右京でも小太刀でもない。
「三人ものうら若き少女をたぶらかした上に、学校にまで連れ込んでくるというこれまでの破廉恥極まりない所業の数々。許しがたいぞ、早乙女乱馬」
なんだか、やけに芝居がかったしゃべり方をするその男、小太刀の兄、九能帯刀がそこに立っていて、木刀を振りかざしていた。
「たく、うるせえな」
乱馬は、つくづく面倒くさそうにそう言った。その時は、まだ自分のしでかした重大な過失に気づいていなかった。
「ん?」
乱馬が、不思議そうに見つめる。
「どうした、あかね?」
乱馬は、目の前で、ぷるぷる震えている少女、天道あかねに目線を移した。
そして、気がつき、顔が強張っていく。この震え方は泣いているのではない。怒りが爆発している時の震え方だ。
「お、おい」
乱馬は焦って、おずおずとあかねに話し掛ける。しかし、そんなその場つなぎの声など、あかねの耳には入っていない。そして、あかねは顔をあげた。怒りで顔が真っ赤になっていた。右手に持った未開封の缶ジュースが、今にも潰れそうだった。
「あ〜ん〜た〜ね〜」
ごごごごご、と闘気の片鱗のような効果音がクラス中に響いている。他の生徒も、どきり、と視線を向ける。常に冷静な親友二人でさえ、顔に冷や汗を浮かべている。乱馬は、声も出せない。今、まさに日頃溜まっているストレスが爆発するところだった。
「いいかげんにしなさいよ!!」
そう怒鳴りつけ、きっ、と乱馬を睨みつけた。
乱馬は、蛇に睨まれた蛙のように、身動きひとつ取れなくなっていた。やっと、命からがら三人から逃れてきたと思ったら、今度はあかねである。今日は、つくづくついていないと思った。
「お、おい。落ち着けって」
「何が落ち着けよ!人にぶつかっといて謝りもしないの?この女たらし!」
「な…」
さすがに、乱馬もむっとくる。
「女たらしは関係ねえだろ!大体俺は女たらしじゃねえ!」
「そうじゃないの!百人に聞いたら百人がそう答えるわよ!」
「お前な〜」
乱馬は自分の立場も忘れて、声を張り上げていた。それが、この男の悪い所なのだ。すぐに自分のしでかした過失を忘れて、感情的になる。まあ、あかねも人のことは言えないが。
そして、乱馬はつい感情のままに、自分でも愚かだと自覚できることを口走っていた。
「あんまり焼きもち焼いても、かわいいもんじゃねえぞ」
その瞬間、空気が凍った。その場にいた全員が、一斉に乱馬を睨みつける。その視線には共通して、この馬鹿!、という感情がこもっていた。あかねは、自分の目の前が真っ白になる感じを覚えた。あまりの怒りに、五感がまともに働いていなかった。
「だれが…」
やっと、そう言い乱馬を凝視する。乱馬はここに来て、自分がいかに重大な過失を犯してしまっていたのか、ようやく気がついた。しかし、もう遅かった。痺れ薬から開放されたことが、返ってあだになった。
それは、あかねの右手の缶ジュースが潰れるのと同時だった。
「あんたなんかに焼きもち焼くか!!」
その言葉が発せられ、どかん!という鈍い音が聞こえると、すなわち、彼の行く先は大空の彼方だった。
ついでにこの後、「さあ、忌まわしき過去は忘れて、僕の胸に飛び込んでくるがいい」、と言ってあかねに擦り寄ってきた九能も、5,6時間目を欠席することになる。

乱馬はさぼりということに収まり、5、6時間目はあっという間に過ぎ去った。
それでも、あかねの怒りは収まっていなかった。
全く、あの男は反省というものを知らない。私に謝るどころか、自分の立場を棚に上げて喧嘩腰で来るなんて、呆れて物も言えない。おかげで、入って早々新しいクラスでとんだ恥をかいてしまった。大体あんたは、私に前もって言うほどの話があったんじゃないのか?それなのに、よくあんな真似ができるな。それとも、それはやっぱり私の思い過ごしなのか?そうだ。そうに決まっている。あの男に白黒つけられる度胸があるはず無い。そんなことが起きでもすれば、きっと夏に大雪が降るに違いない。そうだ。
(私には、あの男が何を言おうが関係無い。所詮は親同士が勝手に決めた許嫁。所詮は他人同士)
「帰ってやるんだから!」
あかねは、憤然と教室を飛び出した。帰る気満天だった。
その時だった。
後から唐突に声がかかったのである。
「あかね〜」
あかねは振り向く。ゆかとさゆりが立っていた。
「今日、図書館で勉強してこうよ」
「数学教えて〜」
ゆかとさゆりは笑顔で話し掛けてくる。気を使っているのかどうだか知らないが、別に断る理由もなかった。
「いいわよ」
あかねは、できるだけ機嫌を損ねていることが悟られないよう、笑顔で答えた。しかし、それはやはりどこかぎこちなかった。
「サンキュー」
「感謝感謝」
「後でなんかおごってもらおうかしら」
「大学受かった暁には、きっとなんかおごるわよ」
「随分先になりそうね」
「ちょっと、それどういう意味?」
三人の少女は、けらけら笑いながら、図書館の方へ消えて行った。
そして、ここからあかねの記憶はあやふやになり、事態は現実離れしていくことになる。

夢を見ているような気がした。これは現実ではなく、夢だと自覚できる。何故だかは分からない。でも、それは内容がいまいちよく理解できない夢だった。ただ、直感的に分かった。この夢は喜ばしい夢ではない。
むしろ悲劇のかたま…
「…おい…」
(…ん…?)
「…お、い…起きろって」
(…何よ、うるさい…)
「おい、あかね!」
(は?)
「………」
(え?)
あかねは覚醒した。それでも、まだ眠気が体中に残っているのが自覚できた。だるかった。
それでいて、変な気分だった。なんだか自分がここにいることがすごく場違いな気がした。
(あれ?私、確か…)
うーん、と悩みこむが記憶がうまいこと蘇らない。
ここはまぎれもなく、自分の教室である。でも何故ここにいるのか分からない。時計をみると、放課後であることが分かった。しかし、部活動に所属していないあかねが、何故ここにいるのか不明である。
「たく、何寝てんだよ」
顔があった。見覚えのある顔だった。
そうだ。あれは確か早乙女乱馬。
私の許嫁。
「ら…んま?」
「あ?」
乱馬は怪訝そうな視線を向ける。不機嫌そうだった。
「なんだよ?」
「あ…んた」
あかねはやっと思い出した。そうだ。自分は、この男に腹を立てていたのだ。何故だかは分からないが、とにかくそんな感じがする。話し掛けることがひどく気難しい。この男に謝ってもらいたい。
「あんたね!」
いきなり体を起こし、乱馬を凝視した。乱馬も、びくっ、と体が強張る。
あかねはわけもわからず、ただ、ただ、腹を立てていた。窓から差し込んでくる夕日さえ、今はうっとうしい気がした。乱馬も機嫌が悪そうだった。だが、自分はそれ以上に立腹している。
(なんであんたが怒ってんのよ?)
それが、一番理不尽で怒れてくると思った。
「な、なんだよ?」
乱馬は、おどおどしながらも、強気に返答した。あかねも負けじと睨み返す。
「なんで…」
「あ?」
「なんで、怒ってるの?」
「は?」
「私が何かしたの?」
「お、おい」
「人にやつあたりしないでよ」
「べ、別に怒ってねえよ…」
「そう…」
あかねは、寂しそうにうつむく。乱馬は皆目分からんという感じで、首をひねった。
「ねえ」
あかねが話し掛けてくる。
「なんだよ?」
「私さ…」
あかねは、言葉を切った。言ってもどうしようもないと思った。そして、それが分からない限り、自分に乱馬を責めたてる権利はない。
「な、なんだよ」
「いや、なんでもないわ」
あかねはこう尋ねようとしたのだ。
(私はなんであんたにむかついてるの?思うところがあれば、謝ってよ…)
ひどくアホらしいと思った。
そして、沈黙が続く。双方何を話し掛けたらいいか分からないらしくて、当惑している。
先に乱馬が、この重圧に耐えられなくなった。
「おい」
「ん?」
あかねは、乱馬の目を見つめる。その視線には、感情があまり見うけられなかったが、乱馬はどきりとした。
「帰るぞ…」
やっとそう言って、頭を掻き、廊下の方へ消えて行く。
あかねは後を追った。
廊下は放課後の寂しさが漂っていた。誰もいなくて、見たことないぐらい閑散としている。夕日も今にも沈みそうで、蛍光灯も一つもついていない。薄暗かった。あかねは、こういう暗さは嫌いだった。
あかねは窓の外に目を向けた。街全体が一日の終わりを告げるかのように、人工的な光を灯している。それは無機質に明るい。日光の明るさとは全然違う。ぴんとこない景色だ。よく観察してみると、野球部が未だにグランドの整備をしている。それに加えて、頭の禿げた40代ぐらいのおっさんが、やっと帰れるか、と、うんざりした表情で車に乗りこもうとしている。それはまぎれもなく、乱馬に先程まで嫌味をたれていた人物、あかね曰く「あの親父」なのだった。
「………」
景色を見ているうちに自覚してきていた。寂しかったのだ自分は。普段はこんな感情表れない。でも今はとにかく寂しい。一人じゃ心もとない。何故だか世界中に取り残された気分だ。
前を見る。チャイナ服に身を包んだ男がいる。その足取りはひどく速い。自分を置いていくかのように。
「…かないで」
「あん?」
乱馬は振りかえる。その途端、ぎょっとした。あかねが泣いているのだ。強気なあかねが、乱馬の前では滅多に泣かないあかねが、大粒とまではいかない、目ににじむような涙をぽろぽろ落としている。
「行かないでよ…」
乱馬は、しばらく身を固めていた。わけがわからなかった。数学の教師に怒られ、あかねとは昼に大喧嘩し、結局放課後にまで言い合いをし、今日はもう無理だな、と諦めていたところのカウンターパンチだった。しかし、何故あかねに泣きつかれなければならないのだ?それは全く思うところがなかったのだが、今すべきことは一つしかなかった。
乱馬は、うつむいているあかねに近づいて行った。そして、あかねの前で立ち止まった。
「悪かったよ」
「………え?」
「俺が悪かった。だから、もう泣くなよ」
あかねは乱馬を見つめる。乱馬は照れくさそうに視線をそらす。その目は、双方いつになく澄んでいてきれいだった。そして…
「え?」
乱馬の両腕があかねの後に回った。抱きしめてきた。理由などはなかった。ただ、抱きしめたかったから抱きしめてきたという感じだ。あかねは、両腕をぶらぶらしている。驚きのあまり、抱き返せなかった。
「泣くなよ」
切実にそう言った。
「おめえに泣かれると俺まで辛くなるからよ」
「………」
「わりいな、いろいろ」
「…うん」
自分だって何故泣いたかよく分からない。本当に今日は不可解なことばかりだった。だけど、
「もう、いいから」
あかねは嬉しかった。彼が傍に来てくれただけで嬉しかった。自分は取り残されたわけじゃない。もう、それだけで充分だ。
「ふう」
乱馬はあかねを抱きしめたまま言ってきた。
「今日の朝の約束だけど」
「え?」
「あれ、やっぱ、また今度にしてくれや。なんか今日は気がのらねえ」
本当はこのまま伝えてもよかった。だが、それはなんだか卑怯な気がした。状況に助けてもらっただけだ。そう、自分の力だけで、こいつに伝えたい。いつか必ず。
しかし、そんな乱馬の心境など見当もつかず、あかねはきょとんとしている。
「う、うん。そうか、そうだよね」
とりあえず、便宜を図るつもりでそう言った。何事も臨機応変だ。
「んじゃ、帰るか」
あかねは、急に恥ずかしくなった。思考が状況にようやく追いついたのだ。放課後、二人きりで、しかも抱き合っているときている。こんなところ教師にでも見られたりでもしたら一たまりもない。
だが、そんな気恥ずかしさなど一瞬で吹き飛ぶのだった。乱馬が、腕を離そうとしたその瞬間、
「?」
あかねは目をこすった。なんだか空中に奇妙な突起物があるのだ。廊下の飾りにしてはえらく不自然な。そもそもあんな所に壁は存在しない。
「………」
あかねは、悪寒が背筋を駆け上ってくるのを自覚していた。あれは、まさか。記憶を辿る。
「………!」
体中の血全てが凍結していくような気がした。顔が、おぞましいまでに強張ってしまう。全ての記憶が、生々しい映像と共に戻ってくる。そう、乱馬は今日の放課後、話があると言っていた。そして、それは廊下にでた直後のことだった。血が、ガラスが、記憶が、そして全てが吹き飛び、悪魔の存在さえ信じかねない悪夢のようなできごとだった。そうだ。だから、自分は妙な孤独感を覚えていたのだ。
あの「拳銃」があったから。





作者さまより
すんません。中編まで作ってしまいました。は〜まとめるのへたくそ。でも、ここまできたら後編も見てくれると嬉しいです。
ちなみに、この後でてくる拳銃ですが、正式名称はもう少し長かったのですが、忘れました。なんかのマンガに載ってたと思います。では。あ〜内容重くなってすいません。




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