◆大きな古時計
半官半民さま作


 その時計は、2階の踊り場にあった。
 階段を昇ると、ちょうど真正面に見える。
 背の高い、アンティックなデザインの箱時計だった。
 しかし、動いていなかった。ちょうど11時5分を指したままで。
「この時計壊れてるの?」
「どうして壊れたものそのまま置いてるの?」
 珍しい時計を面白がって見ていた子どもが、振り返って父親に尋ねる。
「この時計にはね、ちゃんとしたお話があるんだよ。」
 父親は動かない古時計を見て微笑を浮かべ、軽く子どもの頭を撫でる。
 そして、ゆっくりと話し始めた。
 




 この家―ある格闘流儀の宗家であるこの家には、一組の若い夫婦が住んでいた。
 夫は、その世界でめきめきと頭角をあらわしてきた若い格闘家だった。
 妻もまた夫と同じ流儀を修めた格闘家であり、この道場を守っていた。
 血気盛んであるが故によくけんかもしたけれど、仲の良い夫婦だった。


 年に何回か夫は山ごもりに行く。
 その間、じっと妻は家で待つ。
 送り出す胸の痛み、待つ身の辛さは、何度経験しようと変わらない。
 無事に帰ってくる姿を見るまで、妻は心穏やかならぬ日を過ごしていった。

 だが、ある日を境に、妻の表情に落ち着きが現れた。
 にこやかに夫を送り出し、普段と変わらずくったくのない笑顔を見せた。
 稽古にも顔を出し、よく切り盛りして、穏やかに夫の帰りを待った。
 どういう心境の変化かと、妻に尋ねる者がいた。
 妻は微笑んで、2階へとその者をいざない階段を昇っていった。
 やがて、正面に大きなアンティークの箱時計が現れる。
 妻は、嬉しそうにその時計を眺めた。


 夫が修行に出ている間、彼女はずっとその時計を見ていた。
 規則正しく、1秒の狂いもなく刻まれるリズム。
 ああ、夫は元気なのだと、時計を見るたびに安心できた。


 夫からこれを贈られた時のことは今でも忘れない。


「なんだあかね。おまえ洋モン好きだったのかよ?」
 アンティーク家具売り場の一角で、箱時計に見入っている妻を夫が茶化す。
「だって、この落ち着いた色や装飾、好きなんだもん。」
 おもむろに夫はその箱時計の隣に立つ。
「お、この時計、おれと背の高さ一緒じゃん。」  
 手を頭の上で水平に振り、彼は妻を振り返ってにっと笑った。
「欲しいのか?これ。」
 妻は少し頬を染めたが、軽く首を振る。夫はじっと妻の表情を見た後、すっと時計に目を移した。
「そーいや、結婚記念日におまえに何もやらなかったよな……。」
「ううん。乱馬いつもあたしや子どもたちや家を守ってくれるでしょ。それで十分。」


 数日後、彼女にあの時計が配達されてきた。
 贈り主は早乙女乱馬、彼女の夫。
『記念日祝い』と、乱暴な字で書かれたカードが添えられていた。
『高かったからあと3回分込みってことで許してくれ』
 妻は思わず吹き出した。


 その時計は実に精巧極まる品だった。
 時を刻むその動きに1秒の狂いもなかった。
 北欧の誇り高き時計工の手によって創られた逸品。
 夫と同じ背の高さのアンティークな箱時計。
 彼女は、それを2階の踊り場へと設置する。
 そして2階にある自分たちの寝室に戻るたび、嬉しそうに眺めた。


 夫が家にいるときは彼と二人で。
 夫が修行に出ているときは時計の側に寄り添うように見上げながら。
 変わらぬ響きに耳をゆだねて。
 彼女は時計を眺め、そしてこまめに手入れした。



 時が流れる。時計が正しく刻む音とともに。



 ふと、夫は気づいた。
 妻の髪に白い物が多数混じっていることに。
 童顔であどけない妻の笑顔は変わらなかったが、その顔にはいくつものしわが見て取れた。
(ああ……わしらもそんな年齢になったか。)
 彼は鏡の前に立つ。白髪交じり、いやむしろ白髪のほうが多い髪。深く顔に刻まれたしわ。
 特に意識することなどなかった。
 無我夢中で生きてきた。二人しっかりと手を取り合って。
 だが、気づいた。
 彼が修行に行くことはもうあまりなくなった。
 彼女が自宅で稽古に出ることもなくなった。
 子どもたちはみな大きくなり、やがてそれぞれに家庭を持つ。
 小さな子どもの手を引いて彼らの前に現れた。
 孫の数はどんどん増え、彼らは穏やかな老後を迎えた。


 時は変わり、季節は変わり、時代は変わる。
 老いたる者は次の者へ道を示し、開け、そして見守る。
 その時期にたどり着いたことを知った。



 二人並んで、久しぶりにゆっくりとあの時計を見た。
 時計は相変わらず、コチコチと正確なリズムを刻んでいた。
 この家に来てから、1年中正確な時間を知らせていた。
 一度も調整や修理が必要だったことなどなかった。
「おじいさんみたいですね。」
 老女はくすっと笑う。
 夫である老人は若い頃から異常なほどに丈夫で、病気らしい病気などしたことがなかった。
「まだまだ、わしらは十分やれるってこった。」
 老人は、まだ時計と同じ、つまり若い頃と同じ背の高さをしていた。
 しっかり伸びた背筋は、手足の骨格はかくしゃくとしており、わずかな歪みすらまだ見せてはいなかった。
 顔を少し赤くしながら、老人はきゅっと傍らの老女の手を握る。老女が驚いたように老人を見上げた。
「嫌ですよおじいさん年甲斐もない。」
 恥らって頬を染める老女の表情は若い頃のあどけない面影をほうふつとさせ、老人は久しぶりに胸のどきどきする思いでさらに強く彼女の手を握る。じっと時計の文字盤を睨んだ。
「もうお迎えも近いかもしれんが、精一杯生きようじゃないか、のう。」
 老女が少し手を握り返してくる。
「なあ、先に行ってはならんぞ。」
「はいはい。」
 くすくすとこらえきれないように、老女はまたあどけない微笑を見せる。
「わしはまじめに言っておるのだぞばあさん!……いや、あかね。」
「……ええ、乱馬。」
 時計が12時を告げるベルを鳴らした。


 その数ヵ月後だった。
 ふとしたことから老女は寝込むようになった。
 日に何度も枕辺に座り心配そうに彼女を見る老人に、安心させるように柔らかい微笑を見せつつ、老女は何日も床について過ごした。
 病が彼女を蝕んでいた。
 もう日の当たる場所に立つことも適わないだろう……と、彼女は自分の死を悟っていた。

「最後は、ご本人の望む場所で迎えさせてあげて下さい。」
 老女の入院先にいる主治医は、静かに言った。
 もはや手の施しようがないことを、暗に含めて、言った。

「先に行ってはならんと言ったじゃろうが!」
 だだっこのようにその言葉を繰り返し、老人は老女の枕もとで、固くその手を握り締め涙する。
 もはや、握り返す力も残っていない老女は、優しい瞳で老人を見つめる。
「わしより先に行ってはならんとあれほど……!」
「寿命だから仕方ないじゃないですか。」
 薄く唇に微笑を浮かべ、老女はあやすように彼を見る。そしてふっと視線を天井に移した。
「わたしは、幸せでしたよ……おじいさん。」
「ばあさん……。」
「……お先に行って待ってますね……。」
 一度ゆっくりと、老女はまぶたを閉じる。そしてまた薄く開けた。覗き込む涙でぐしゃぐしゃの夫の顔を見て、笑った。
「さようなら、乱馬。」
 閉じた目はもう開かなかった。

 老女の死に瀕し、茶の間に集って暗く頭を垂れていた家人は、いきなり時計がベルを鳴らしたので驚く。
 慌てて2階に上がってみると、時計は変わらず正確に時を刻んでいた。だが、決して鳴らすはずのない時刻にベルが鳴ったことに家人は首をひねる。
「空耳だったのか?」
「いや、あたしも聞きましたわ。」
「今まで一度も狂ったことなどなかったのに……。」
 やがて、泣き腫らし目を真っ赤にした老人が老女の寝室から出てきた。
 そして家人は、老女の魂がこの世から去ったことを知った。


 葬儀が終わった。
 老人は急に老け込んだように見えた。
 一人ぼんやりと自室で過ごす時間が多くなった。
 その頃から急に時計の調子がおかしくなっていった。50年以上も正確に時を刻み続けた働きものの時計だったのに、徐々に遅れの度合いを増し始め、1日に15分も時間が遅れてしまう。
 何度も修理工に頼んだが一向に直る様子は見せなかった。わざわざ北欧から技師に来てもらったが、それでも遅れは直らなかった。
 彼らは首をひねる。きれいに調律してもなぜうまくいかないのかと。普通の時計だったらこれで直っているのにと。
「もう時計も寿命なのかな?」
「でも、これすばらしく精巧なつくりで、もっとちゃんと動くはずだって言ってたわ。」
「けど、遅れるんだよなあ……。」
「ほんとねえ……。」
 今ではもう、1日に30分もの狂いが生じていた。
 原因は誰にもわからなかった。

 老女のいない日々の中で、時計は少しづつ狂った時刻を刻んでいった。


 
 老女の四十九日が終わった日のことだった。
 家人は茶の間でほっと一息ついていた。
 老人は、一人外れて縁側からぼんやりと外を見ている。
 風は少し春の匂いがする。
「ばあちゃんが死んでもう1ヶ月以上になるんだなあ……。」
 小柄な老女は、春が好きだった。春に生まれた彼女は、小さくかわいく膨らんだ花のつぼみがほころび咲くのを見るのが好きだった。
 老人は、生前彼女が丹精していた庭のチューリップを見る。
 もうすぐ咲こうと、健気に天を向いている。
「ばあさん……。」
 見ていると、老女のあどけない笑顔がその膨らみかけたつぼみに重なる。
 今年、これが咲くのを楽しみにしていたのに、彼女はもう見ることができない。
 ぼたり、と、大粒の涙が床に落ちた。

(泣いてちゃだめよ。乱馬。)
 驚いたように老人が顔を上げる。その耳に響いたのは、生前の老女の声……いや、若い頃の彼女の、はりのある愛らしい声だった。
(あなたの寿命をまっとうして。)
 久しぶりに聞く妻の声に胸が高鳴りつつ、彼は言葉を返す。
(おれ、そろそろだよ、あかね。)

 空気中をふわふわ漂うような愛らしい声が、驚いたようにふっとつぐまれる。
(……もう、そんなに急いで来なくてよかったのに。)
(やだ。おまえの側がいい。)
 だだっこのような言葉に、苦笑する気配はなかった。
 彼女の目にははっきりと映っていたのだろう。
 老人の命の光があとわずかで消える運命にあることを。
 
(もうすぐおまえの側にいけるんだ。) 
 うきうきと心を弾ませるように老人は言う。若い頃に戻ったような口ぶりで。
(そんなのわからないわよ。)
(自分が死ぬときぐれえわかるさ。)
 空気中の愛らしい気配は、とまどったように瞬く。
 死期を悟った老人のその言葉に。
 
(おまえが迎えに来てくれんだろ?)
 気配が、恥らうように震える。初々しく頬を染めた妻の顔を見たような気がした。 
 妻を失ってから初めて、彼は心の底から嬉しそうに微笑んだ。
 そしてかすかに呟いた。
「あかね……。」



 縁側にあった老人の身体が、一瞬ぐらっと傾いだ。糸が切れたようにばったりと倒れる。
「じいさんっ!」
「おじいちゃんっ!!」
「救急車呼んでっっ!!」

 この日、老人は帰らぬ人となった。
 死亡時刻 11時5分。脳溢血だった。



 老人の葬儀を終え、家人はふと時計を見て驚く。
 時計は、11時5分、彼の死んだ時刻を指したまま、動きを止めていた。
 その日の朝までは確かに動いていた振り子も、ぴたりと止まったままだった。

「じいちゃん……。」
 止まってしまった動かない時計を見て、孫の一人がぐすっと鼻を啜る。
「じいさんは、嬉しそうに逝ったよ。穏やかな顔だったじゃないか。」
 家人の胸に残る老人の姿。元気で、病気知らずだった老人の姿。
 老いてもしっかりしていた背筋。確かな足腰。広く立派な背中。
 しかし、仲良く人生を歩いてきた妻に先立たれ、その背はどんどん小さくなっていった。

 急いで逝ったのだ。
 妻が寂しくないように、なるだけ急いで。
 四十九日の勤めを終えて。
 急いで、急いで、妻の元へと飛んでいったのだ。

 本当に、仲の良い夫婦だったのだ。



  
 その時計を直そうとあちこちの時計工に依頼しても、2度と動くことはなかった。
 針は、11時5分を指したまま、動くことはなかった。
 だれかれともなく、「じいさんの時計」をそのままにしとけよ、と言い始めた。
 彼の妻が、彼の無事を祈って見つめたその時計。
 彼とともに、すべての時を止めたその時計。




 古ぼけた大きな時計は、今もその家の2階の踊り場にある。
 古ぼけたガラスケースの内側に、静かに二人の物語を包んで。

 
 "It stopp'd short, Never to go again."
 "When the old man died."




 完

 【ヘンリー・クレイ・ワーク作詞・作曲「My Grandfather's CLOCK」参照】


(後書き)
 トッパツお送りしてすんませんです。なんとなくこーゆーのが出るようになるとやっと自分が小説モードに切り替わったなとジッカンす。様々なお詫びとお礼を込めて陣中見舞いってとこで。
 と、ところで、これって禁忌すか?(大汗


 半さんからこの作品を頂いた丁度、その日、一之瀬の娘は、大和高田市のホールで行われた県小学校金管バンド音楽会で、この曲のソロを吹いておりました。

 実は一之瀬にもこの曲に思い出がちらほら・・・母方の祖父の家に、ネジ式の大きな振り子時計がありまして、やはり、祖父が亡くなってネジを巻く人が代わったせいでしょうか、程なくして壊れてしまったそうです。祖父は八十歳で身罷りました。
 祖父は大往生で、突然の心臓麻痺であっという間に帰天しました。大好きなテレビ番組「水戸黄門」を見ながら、伯母に抱かれてそのまま救急車が来る前に息絶えたそうです。年末、大晦日が葬式の日でした。祖母はそれから8年後、祖父の命日の次の日に身罷りました。祖母も大晦日に密葬でした。夫婦というのはかくも絆が強いものかと、親戚縁者一同感心しておりました。
 その次の夏、私は息子を産んだのですが、赤ん坊の癖に顔が祖母にそっくりでびっくりしました。彼は家族の誰よりも、実は私の祖母に一番似ているでしょう。(笑
 さて、この曲の原曲は時を刻んだ年数は「100年」ではなく「90年」だったそうです。
 一之瀬の人生の師、高石ともやさんもこの曲を訳して歌っておられます。彼は「80年」で歌われるのですが・・・。私は彼の訳した訳詞の歌詞が大好きです。あまりにマニアックなので滅多に彼の歌で遭遇する方はいらっしゃらないでしょうけれど。
 この曲語らせると長くなるぞ・・・ということでこの辺でやめときます。

 流石に半さん・・・深いなあ・・・。完成度の高い情感の燻し出し方は、お見事と言うしかありません。
 乱馬あよりもあかねの方が短命なのは、彼が色々彼女に心配をかけ過ぎたせいなのでしょうか?
 ふと思ったのですが、あかねが身罷った時は、きっと乱馬の腕の中で微笑みながら、幸せに眠りに落ちていったのでしょうね。いや、そうあって欲しいと思いました。




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