狼 王 その1
半官半民さま作


 がらんとした静かな居間だった。テレビの光だけが青く部屋の中を照らしていた。少女が一人、その画面を見つめている。沈んだ青い光は暗く、画面の中も暗い。夏場に良く組まれる恐怖スペシャル番組のようだった。おどろおどろしい内容。女のひきつった顔。恐怖の叫び声。物陰から何かが姿を現してくる。少女が思わず掌で顔を覆った。こわごわと指を開く。その途端、何者かの腕が不意に少女の肩を掴んだ。
「きゃあああああっっっ!」
静かな家に悲鳴がこだまする。目に涙を溜めて後ろを振り返った少女の目の前に、にやにや笑う少年の顔があった。
「へへー。怖がり〜ぃ」
「ら〜ん〜ま〜! いきなり何すんのよっ!」
声と同時に少女の平手打ちが少年の頬に飛ぶ。ひょいと少年はそれをかわした。しかし次にきた蹴り攻撃をくらい少年の体が襖を突き抜ける。むくりと少年が起き上がった。
「何だよ。ちょっとからかったくれえで、ンなムキになって怒ンなよ。」
「ばかもうっ! びっくりしたんだからっ!」
ぺたんとテレビの前に座り込み、ぷいと少女が拗ねる。その瞳はまだ涙を溜めたままだ。本気で怖かったんだな、と少年が少し反省した。
「……ごめん。泣くほど怖がるとは思ってなかったからよ……」
「泣いてなんかいないわよ!」
ついと少年の指が伸び、指先で少女の涙をすくった。ぺろっと嘗める。
「へへっ。しょっぱいぜ。これ。」
思わず少女の顔が赤くなる。そのままそむけた。その少女の顔を覗き込むように少年が追う。指先で少女のほっぺたをつつき始めた。
「あかね。機嫌直せよ。一緒に見てやるからよ。」
そう言いながら少年は少とんと少女の傍に腰を下ろした。テレビの映像を自分も見た後、また少女に視線を移し軽くため息混じりに言う。
「ほんとおまえ、こんなの好きだよなあ。」
少年、乱馬のぼやきに少女、あかねがじろりと彼を睨んだ。二人は市井に道場を構える無差別格闘流の跡取りで、許婚の間柄である。乱馬は無差別格闘早乙女流の、あかねは無差別格闘天道流の二代目だ。親が一方的に決めた許婚であることに反発を続けていた二人の間にはいつしか愛が芽生え、ゆっくりと育っていった。今は互いに認め合いってはいるものの表面上はなかなか素直になれない、奇妙な恋人同士といった間柄だ。同じ屋根の下に住む家族の関係でもある。だから同じ居間でくつろいでいる。あかねはじっとテレビを見ている。乱馬も画面を見た。
「……とすると、これは轢き逃げ犯を恨んで死んだ女性の霊ですか?」
「恐らく、間違いないでしょう。」
淡々と語る言葉に怯えたようにあかねがぎゅっと乱馬にしがみつく。服を握って離さない。その目はじっと画面に注がれている。テレビの中では次々に恐ろし気な写真が続いていた。乱馬にしがみつつも、あかねはテレビを見つめている。その真剣な様子が妙にかわいくて、乱馬はそっと微笑む。画面に目を転じた。こういったオカルトものにあまり興味のない彼にはたいして面白くない番組だが、あかねは怖がりながらもこの手が大好きでよく番組欄をチェックしている。
(ったく、そのたびにおれをつきあわせやがって。)
自分からちょっかい出したことは棚に上げ、乱馬はまたあかねを見た。表情が真剣そのものだ。
(こんなもんにまで一生懸命なのか、おまえは。)
またからかいたくなった。
「ひやっ!!」
あかねが思わず身をよじる。乱馬をぎろっと睨んだ。乱馬はあさっての方向を見てそ知らぬ振りを決め込んでいる。
「くすぐったいからやめてっ!」
もう一度テレビを見ようとしたあかねは、またきゅいっと身をよじった。
「乱馬!」
なかなか集中できない。見るのをわざと邪魔されているようである。子どもっぽい乱馬のちょっかいは、かまってとあかねにじゃれかかる子犬のようだ。頭でも撫でれば落ち着くのであろうか。
「もう……」
ため息混じりにテレビに視線を戻したあかねの瞳に、不意に気味の悪い映像が飛び込んできた。
「いやあーっ!」
思わずあかねが悲鳴を上げて乱馬にぎゅっとしがみついた。声に驚いてあかねの顔を覗き込もうとした乱馬の胸に、怯えてあかねはしっかり顔を埋める。あかねの怯え方を訝かって乱馬がテレビを見た。さすがにその写真の不気味さに顔色を変え息を飲む。声が出なかった。画面の中ではちょっとしたパニックが起こっていた。そこに紹介された心霊写真は、とある山中の湖を写したものだが、なぜがくっきりと男の顔が浮かんでいた。まるで別の写真を切り取って貼り付けたようにはっきりした映像だった。しかも、首だけだった。首だけがその湖水に浮かんでいたのである。その首がアップになった。解説者が恐る恐る拡大されたその写真の首を示す。
「………これは、どういった類いの霊でしょうか?」
話を差し向けられた霊能者は、食い入るようにその写真を見つめていた。その姿が尋常でない。顔色は青褪め、冷や汗がいく筋も顔を伝っている。ようやく、一言を絞りだした。
「早く、早く供養しなければいけない。さもないと………!」
その途端、生木を裂くような音が轟き、画面がばっと暗くなった。スタジオ内の照明がすべて消えたようである。声だけが聞こえる。悲鳴や、早く明りを点けろと怒鳴る声に混じって、落ち着けと必死に呼びかけていた。ふいに鋭い悲鳴が上がる。その声はさらに広がった。ぼうっと、スタジオの宙に人間の顔が浮かんだ。紛れもない先ほどの写真の男だった。ゆらゆらと動いている。立て続けに悲鳴が上がった。
「……何、何なのこれ。こんなの見たことないっ!」
怖い物見たさに恐る恐る乱馬の胸から顔を上げたあかねが、その異様な映像に再び乱馬の胸へ顔を伏せた。じっと画面を睨んでいた乱馬の顔色が変わる。宙に浮いた男の目がぎょろりと動いた。その目は、明らかに画面の中からこちらを見ていた。ふいに言い様のない恐怖感が乱馬を襲う。乱馬の様相の変化に、あかねが顔を上げて画面の中を見ようとした。
「だめだあかねっ! 見るんじゃねえっ!」
直感で乱馬はこの霊の凄まじさを知った。舌がザラつくような危機感があった。あかねのことが酷く気にかかった。こいつはあかねを狙っている。乱馬ははっきりと確信した。見ようとしたあかねの頭を掴み自分の胸へ戻した。しかし、あかねははっきりと画面の中の、男のその目を見てしまった。がくんと、あかねの体が大きく揺らぐ。乱馬の顔色が瞬時に蒼ざめた。がくがくと震え続けるあかねの体をしっかり抱き締める。しかしその震えは止まらなかった。
「あかね、あかね! しっかりしろあかねぇっ!」
あかねの体は乱馬の腕の中でなおも動き続ける。意識がないのか、乱馬の必死の呼び掛けに答えようとしない。乱馬が画面を睨む。男の首は明らかにこちらを見ていた。ぞっとする笑いがその顔に浮かぶ。
《ミツケタ…………》
ふいにスタジオの電気がついた。ざわめきがおさまってくる。
「な、何だったんでしょうか今のは。」
「すごい霊体験をしたぞ。」
「あの首消えたわよ。写真に戻ったのかしら。」
また悲鳴が上がる。心霊写真の中から首の姿は忽然と消えていた。スタジオ内にざわめきが広がる。誰しも不安な表情を隠せなかった。
「消えた……」
霊能者がぼつりと言った言葉に皆一斉に彼を見た。
「気配がない。あの霊はどこかへと消えた。」
このスタジオにはまったく霊の気配がないと言う言葉に、ようやく安堵の声が漏れる。
「しかし、一体どこへ行ったのでしょう?」
一人の問いかけに、誰しも、当の霊能者でさえ首を振るばかりだった。うやむやのうちに番組の終りの挨拶がある。しかしスタジオ内はいく分かの興奮状態にあった。
「……んなテレビ、見せるんじゃなかったぜ……」
じっとあかねを抱いたまま、乱馬は部屋の天井を睨んだ。そこに浮かぶのは、先ほど画面の中にあった男の首である。嬉しそうにあかねを見ていた。乱馬が渡してたまるかと言うようにあかねをぎゅっと抱き締める。
「あかねに何の用だ。なんだってこっち来たんだ!」
首がふうっと消えた。ふいに乱馬の顔の真ん前に現れる。ぎょっとなって乱馬が引いた。しかしあかねの体はしっかり抱いて離さない。
《……ミツケタ……ソノ女。捜シ続ケタ……》
首が物凄い顔で笑った。
《ワシヲコノ呪イカラ解キ放ツ女! コノ女ノ血デ、命デワシハ救ワレルノダ!》
「冗談じゃねえぞっ! あかねが何したってんだ! てめえなんぞにあかねをどうこうされてたまるか!」
乱馬が首を強く睨んだ。だが首は、乱馬の方を見ようともせずあかねを凝視していた。
《……小僧、ソノ女ヲ渡セ。邪魔ヲスレバ命ハナイト思エ……》
「絶対に渡さねえ!」
乱馬が吠えるように叫んだ。部屋中に乱馬の、殺気をともなったびりびりする闘気が満ち溢れる。焼き尽くすような激しさで乱馬は首を睨み続けた。
「あかねはおれの許婚だ。おれがあかねを守る。てめえなんぞに指一本触れさせやしねえ!」
首に向かい放出される乱馬の恐れを知らぬ闘気の凄まじさに、首がようやく乱馬を見た。その表情が凄まじいものに変化する。悪鬼・悪霊の形相だ。
《小僧……死ニタイカ……》
かっと口を開く。耳まで裂けた。血走った眼球が今にも飛び出しそうだ。怪しい金色の光を放っている。だが乱馬は怯まなかった。腕の中のあかねはまだ意識を取り戻さない。腕に包み込んで自分自身の体で覆うように乱馬はあかねをかばいつつ激しく首を睨む。
「おれは武道家だ。んな妖怪まがいのこけおどしなど通用しねえぜ!」
首を睨んだまま乱馬が唇の端を吊り上げ笑い顔を作った。不敵な表情とともに闘気が充満してくる。彼の体を取り巻き渦巻き始める。雷鳴に似た轟がその闘気から響いてくる。ふいに、首の表情が戻った。じっと乱馬を凝視している。
《……ソノ、気配………覚エガアル………》
なおも乱馬を見続ける。遠い記憶を探っているようだ。やがて、首が笑い始めた。
《貴様ダ………ワシヲ殺シタノハ貴様ダ! 思イ出シタ。思イ出シタゾエ!》
首はさらに笑い続ける。ようやく仇敵に巡り会った嬉しさに気も狂わんほどに笑い、飛び回った。
《貴様ニ会エタダケデコノ身ノ痛ミガ和ラグヨウジャ》
そして首は宙に止まる。ぎろりと乱馬を睨み下ろした。凄まじい笑いがその顔に浮かぶ。
《ヒト思イニハ殺サン。ワシノ受ケタ苦シミ、スベテソノ身ニ受ケサセヨウゾ》
「しつけえ野郎だな。おれもあかねもてめえなんざ知らねえって言ってるだろ!」
《ワシヲアノヨウナ目ニ遭ワセテオキナガラ、自分ラハヌケヌケト生マレ変ワッテコノ世ノ享楽ヲ謳雅シテオル。断ジテ許サヌゾ》
「一体おれたちが何したってんだ!」
あかねの体がぴくりと動いた。そっと乱馬の頬に触れる。むくりと起き上がった。
「あかね……?」
乱馬の前にふわりと立ち、あかねはじっと首を見つめた。その姿を見上げていた乱馬だが、その表情が変わる。
「おまえ、あかねじゃねえ。あかねはどうした!」
あかねが乱馬を振り返った。穏やかに笑う。その表情はいつもの明るく愛らしいあかねとは違っていた。確かにあかねの体なのだが、別人の気配をまとっていた。
『やはり、おまえは鋭いのう。迦颶馬(かぐま)……』  
「かぐま?」
『おまえの名じゃ。わたしの愛しい夫……』
「わからねえ。おまえ誰だ。あかねを返せよ。」
『わたしは雪茜露(ゆきしろ)。おまえとは妹背の契りを結び、ともに生きともに死ぬことを誓い合った間柄じゃ。』
「ゆきしろだって?」
ふっとあかねが笑う。乱馬が見たこともない表情だった。
『あの山を覚えてはおらぬか。遠い昔、おまえが迦颶馬(かぐま)としてわたしと暮らした、あの雪深い山を。』
じっと乱馬はあかねの体の中にいる雪茜露という女の言葉を聞いている。
『死する時、わたしは次に生まれ変わってもおまえとともに生きる事を望んだ。そしておまえも、それを望んだ。おまえとわたしが出会うのはさだめだったのじゃ。』
「………まさかおめえ………あかねの前世とかいうやつか? んでおれは、その……迦颶馬とかいう男の?」
あかねが、いや、雪茜露がうなずいた。懐かしむように遠い目をする。だがその次の瞬間、ぎらりと首を睨み上げた。
『久し振りじゃのう、幻獣瑯(げんじゅうろう)。わたしをあのように惨く殺しておきながら、今さら何を逆恨みして血迷うのじゃ。』
《黙レ! アノ恨ミ、アノ苦シミ忘レヌゾ。ワシヲ生キナガラ腐ラセ、殺シタ貴様ラヲ!》
『先に手を出したのはおまえじゃろう。しかも、生きるか死ぬかの戦いに負けたとて、恨むのは筋違いと言うもの。』
《畜生ノ分際デ何ヲホザキオルカ! 貴様ラハ村ニ仇ナス害獣デアッタロウガ! 退治ニ向カッタワシヲ、アノヨウナ目ニアワセタ。コノ恨ミハラサデオクベキカ!》
不意に空間が歪んだ。凄まじい勢いで渦を巻く。見たこともない周囲の異常に、乱馬は身構えているあかねを即座に腕に抱いた。色彩が宙空でスパークする。自分たち以外は不気味に渦巻く風があるのみで、声も空間に吸い込まれていく。
《コノ時ヲ待チ焦ガレテイタゾ! 今コソ、貴様ラニ血反吐ヲ吐カセ汚キ骸ニ変エテヤロウゾ!》
気味の悪い雄叫びを上げ、首は高らかに笑い、消えた。次第に周囲が明るくなってくる。サイケデリックな空間が消失し、乱馬はそこに、穏やかに広がる小さな山間の村を見た。
「………こ、ここは………!」
見慣れた天道家の部屋も、庭も、家並もビルもそこにはなかった。ただ森と、山と、草地が広がるだけだった。
「う……ん。」
乱馬の腕の中であかねがゆっくり目を開ける。もしかしたらまだ雪茜露のままかもしれない、と乱馬はあかねを下ろし、少し離れてじっと見た。相手が本当にあかねなら抱いておくことに何の躊躇もない。だが、あかねの中にいるのは雪茜露という別人だ。いくら体があかねでも、あかねの前世だと言われても、昔は夫婦だったと言われても、別人を抱き締めたくはない。あかねが乱馬の顔を見上げる。なぜ急に下ろされたのかよくわからない、という表情だ。おや、と乱馬が怪訝になる。
「何よ乱馬。どうしたの?」
顔も、声も、先ほどのあかねと寸分変わることはなかった。だが、今乱馬の前にいるのは間違いなくあかねだった。途端に乱馬の表情が嬉しそうに変わる。あかねに歩み寄り、ぎゅっと抱き締める。ちゃんと戻って来たあかねに安堵の色が隠せなかった。あかねは訳が分からず、乱馬の唐突な行為に驚いている。乱馬が腕の中からあかねを離した。
「何なのよ乱馬。」
「おまえ、今までのこと覚えてねえのか?」
首を傾げるあかねに、乱馬はあかねの中にいた雪茜露と名乗るあかねの前世のことを話した。そして自分の前世、迦颶馬のことも。前世で自分とあかねは夫婦だったことも話した。あかねが目を丸くする。そして、顔を赤らめた。乱馬と結婚することは、自分の運命だったのかと思い恥ずかしくなる。そのあかねのはにかむ愛らしさに、乱馬が自分も照れくさくなりぽりぽりと頭をかいた。視線をそらしたあかねの顔をそっと見る。かわいかった。自分とあかねが過去も見えない絆でしっかり結ばれていたことが嬉しかった。
『乱馬、あかね。わたしたちの暮らす山へ案内する。ついておいで。』
急に脳裏に声が響く。はっと二人は身構え、辺りを見回した。だが、人影はない。がさがさと音がして藪が二つに開く。身構えた二人の前に現れたのは、一匹の白い狼だった。語りかけるように狼の口が開く。
『わたしは雪茜露。迦颶馬とともにこの山を守る狗族(くぞく)。』
そして、あかねに目を向けた。
『あかね。おまえはわたしの生まれ変わりじゃ。』
「……う……そ! あたし、前は狼だったの?」
驚くあかねの横で、乱馬はあの首の言葉を思い出していた。畜生の分際で、と首は言った。
「……じゃあ、おれも……狼だったのか。」
雪茜露が笑った。
『この山の主、狗族の長たる猛き黒狼、迦颶馬。それがおまえの前世じゃよ。乱馬。』
途端にびりびりと山の空気を震わせるような凄まじい咆哮が響き渡った。逞しい雄狼の雄叫び。山中から鳥が一斉に飛び立つ。乱馬とあかねの二人も、その声に驚き、びくっと体を震わせた。だが、二人ともその声に奇妙な親しみを覚えた。乱馬の中の深いところで、何かが呼び覚まされようとしていた。酷く馴染み深い声だった。まるで体の一部のようだった。
「……あれは……おれの声だ。」
雪茜露が、嬉しそうな顔をして乱馬を見る。
『そうじゃ。思い出したか乱馬。何者にも囚われず、この山の霊気をまとい天駆ける自分自身を。』
気配が近づいて来る。強大な気。すぐ側まで迫って来た。圧倒される野獣の気。乱馬がその方向をじっと見る。物凄い気配の塊がやってくるのに、葉擦れの音も、大地を蹴る音も聞こえなかった。その主は音もなくふわりと姿を現した。雪茜露が歩み寄る。胸元に頭部を擦りつけ親愛の情を表す雪茜露を、その逞しい黒狼は目を細め見て、首筋を舐めた。その様子を見つめる人間の少年と、少女を、黒狼は緑色に光る目でじっと見た。
『そうか、おまえはわしの生まれ変わり、隣にいる人間の女は、我が妻の生まれ変わりというわけか……』
乱馬がじっと見返す。雪茜露とは対象をなす、黒く艶やかな毛並みをした黒狼、迦颶馬。その圧倒的な存在感は、山の主と言うに相応しい風格を醸していた。妻の首筋を舐めながら迦颶馬は乱馬からその傍らにいるあかねへと目を移す。あかねが少し身を強張らせたのを乱馬は感じた。
『うむ……雪茜露の面影がある。その瞳の輝きは我が妻と同じ。強く、そして優しい、愛らしい気を持つ人間の女よ。』
眼光鋭い迦颶馬の緑色の瞳が、ふっと細められる。おや、とあかねは目の前の黒狼と乱馬を交互に見比べた。そしてようやく笑顔を浮かべる。
「……乱馬なのね。あなたには、確かに乱馬の気を感じるわ。」
迦颶馬の肩先に鼻面を擦りつけていた雪茜露が、ふり返りあかねを見て微笑む。
『わかりおるか、あかね。』
今度はあかねは雪茜露を見て、同じように微笑んだ。
「わかるわ。あなたがあたしだってことも……」
その微笑みは、一つは少女で一つは狼のものであったが、確かに同じであった。その二人を巨大な体躯をした黒狼と、それと同じ気配を持つ少年が優しい眼差しで見つめている。ふいと、迦颶馬が低い唸り声を上げた。同時に乱馬も身構えていた。その睨む先に、元凶の首はいた。
《復讐ノ舞台ニヨウ来タノウ……》
『幻獣瑯よ。貴様は我が妻を殺し、わしから妻を奪った報いを受け我が牙にて死した。これ以上貴様と関わりあう気などない!』
《オオ、覚エテオルゾ。幽鬼トナッタ身ナレド、コノ体ニ受ケシ屈辱ハ忘レヌ。貴様ハワシヲ苦シメルタメ、ワザト急所ヲハズシタ。ソシテワシハ身動キスラママナラズ、生キナガラ腐レ死ンダノジャ。》
『……貴様が雪茜露に与えた苦しみは、その程度ではなかっただろうが。わしは八つ裂きにしても飽き足らなかった。』
不意に乱馬の胸に例えようもない哀しみと憤りの感情が溢れ出る。心の奥底から古い映像が浮かび上がり、脳裏に投影される。白狼が倒れていた。真っ白い毛皮を血で染めて。特に、腹からの出血が酷かった。その周りを取り囲み奇声を発している醜悪な一群。その中にかの首、幻獣瑯の姿もあった。白狼を足蹴にしている。すでに虫の息となったその体をさらに玩んでいる。パシン、と、脳の中にあるヒューズが切れたような気がした。後の映像はスローモーションのようにおぼろげだった。散り散りに逃げまどう醜悪な生き物を次々と殺しているような感触があった。やがてまた映像がしっかりと脳裏に映る。白狼の姿があった。自分は泣きながらその傷を舐めていた。白狼は自分を見上げ、力なく笑い、鼻をひと舐めしてそのまま息耐えた。瞬間、自分の中でがくりと何かが崩壊するのがわかった。知らず、乱馬の頬を涙が零れ落ちる。雪茜露がその姿を切なそうに見た。
『思い出したのか……』
その言葉に乱馬は慌てて涙をぬぐう。隣にいる巨大な体躯の黒狼も、同じ感情を抱いているのか、切ないがしかし険しい表情をしていた。
《クッククク……迦颶馬。ナゼワシガ貴様ラノ転生体ヲ探シテイタト思ウ?》
『薄汚いおまえの考えそうなことよ。おおかた、わしと妻の魂を消し去ろうという魂胆であろう。』
《ソウヨ! 貴様ラトソノ転生体、マトメテココデ葬り、未来永劫輪廻ノ輪カラ脱落サセテヤルノジャ!》
「ちょっと待て。さっきから黙って聞いてりゃ言いたい放題ぬかしやがって……」
乱馬が口をはさんだ。ずいと進み出る。刃物のごとき鋭い気を込めた瞳が、強く幻獣瑯を睨み据える。
「おれはな、てめえのその復讐とやらにつきあう気はこれっぽっちもねえんだよ。だがな、どうしてもやるってんのなら容赦しねえぜ。」
凄みのある笑いが乱馬の顔に浮かぶ。
「ぶっ潰して、地獄に蹴落としてやる。」
『さすがに我が生まれ変わりよのう。わしが言わんとする所すべて言いおって。』
迦颶馬が楽しそうに笑った。そして乱馬と同じような凄みのある表情で幻獣瑯を睨む。
『またしても雪茜露を手にかけるつもりなら、今度こそ八つ裂きにしてくれるわ。』
からからと首が乾いた笑い声を立てた。
《貴様ラハ生マレ変ワッテモ進歩ナイノウ。ワシガ貴様ラノ弱点ヲ知ラヌトデモ思ッテオルノカ?》
『貴様、何が言いたい。』
ふいに風が唸った。次いで生臭い気配が縦横無尽に走り始める。
「え……い、いやっ、何これっ!」
本能的嫌悪感からあかねが悲鳴をあげる。乱馬はとっさにあかねを守るようその傍に立った。同じように迦颶馬も雪茜露をその巨大な体躯でかばう。しかし、生臭い気魂は引き裂くように飛び交い始めた。向かってくるそれらを乱馬は叩き落していたが、いかんせん数が多い。両腕に巻きつかれ、あかねの傍から離される。
「乱馬あっ!」
あかねが乱馬に手を差し伸べた。しかし、その手は気魂にはじかれる。そして、気魂が一斉にあかねに襲いかかった。
「あ、あかねーっ!」
瞬く間にあかねを取り巻く気魂が一つに融合し巨大な気魂となる。その中に気を失ったあかねが取り込まれていた。
「あかね、あかねーっっ!」
乱馬の声に思わず迦颶馬と雪茜露が反応する。その一瞬の隙を幻獣瑯は逃さなかった。気魂が流れるように迦颶馬の上空から襲いかかりその背を強打する。迦颶馬は地に叩きつけられた。そして、雪茜露もあかねと同じように気魂に取り込まれ、上空へとさらわれた。迦颶馬が咆哮する。しかし、雪茜露には届かなかった。
《グアハハハハ! 貴様ラノ弱点、確カニコノ手ニ貰イ受ケタゾ!》
「あかねーっっ!」
乱馬の呼びかけも空しく、2つの気魂は虚空へと消え去った。

(続く)

輪廻転生・・・
良く親子は一代の、夫婦は二代の、師弟は三代の縁(えにし)と言いますが・・・
(じゃあ何?私も旦那と前世で一緒だったのか?それとも・・・以下略)
続き気になります・・・物凄く・・・
が・・半さんお忙しいようで、この続きはいつただけるか再開のめどが立っておりません(涙
折に触れて突っつくように催促はしているのですが、未だ筆は上がらずです。
(一之瀬けいこ)




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