「沖縄−傷を孕む島−にて」
半官半民さま作


 東京都練馬区にある風林館高校。その2年生に進級して約2ヶ月、高校生活はようやくたけなわといったところ。最大のイベントである修学旅行が彼らを待っていた。その年の風林館高校、つまり彼らの修学旅行は沖縄に行くことが決定した。
「ホントーは、ミーの第2の故郷、ハワイにご招待したかったのデエースが、一部の大変プアなファミリーのため沖縄に変更とナリマーシタ。ソーリーねリッチなスチューデンツ。」
「大変プアなファミリーってまさかおれのことじゃねーだろな……」
「そのファミリーってあたしも入ってるんじゃないでしょーね……」
HAHAHA―HAHAと高笑いしている校長の前で、面白くなさそうな顔をしたカップルが二人。2年F組早乙女乱馬と同じく2年F組天道あかね。その肩をぽんとクラスメイトたちが叩く。
「いいじゃないどこだって。修学旅行だもんあたし1年の時から楽しみにしてたんだから!」
にこにこと笑うクラスメイトに、乱馬もあかねもつられて笑顔になる。そう、明日からは3泊4日の修学旅行。しかも1度も行ったことのない未知の土地への旅立ちだ。否応なく心は躍る。
「乱ちゃーん。いっぱい思い出作ろうな!」
乱馬の腕にぴったりすり寄る隣のクラスの右京にむっとしながらも、あかねも心をときめかせていた。高校生活の最大の山場といえるこの旅行で、何かひとつ、大切な思い出を作りたいと思った。それは彼女の片割れも同じだった。家族の邪魔が入らない日常から離れた場所で、乱馬は何かひとつ、あかねと大事な思い出を共有したいと、そう願っていた。
「明日、正門前、8時30分までに来ること! 遅刻したコは置いていきますからね〜!」
明日の旅行を誰よりも楽しみにしている様子のひな子先生が嬉しそうに言った。

 翌朝、早くから目が覚めたにもかかわらずあかねはどたばたと荷造りに焦る。概して女の『お出かけ前の準備』というやつは時間のかかるものだ。
「ああん、やだお菓子買ってない!酔い止めどこ?あーんお気に入りのハンカチどっかいったあ!」
そのあかねの慌てぶりを、入り口に突っ立ったまま乱馬はじとーと見ていた。彼はすでに15分間待たされている。
「あかね……もういい加減にしろって……」
乱馬のぼやきに貸す耳などないのか、あかねは相変わらず家の中を走り回っていた。
「あっ、おかあさんにあいさつ!」
毎日欠かすことなく、彼女は仏壇の母に手を合わせる。その日も、行ってきますと元気に心の中で叫んだ。そして写真の中の母にあかねはとびきりの笑顔を向ける。その写真の母の顔が、その日は心なしか沈んでいるように見えた。
「あかねえーっ!」
しびれを切らしたような乱馬の声に、あかねは時計を見る。もう時間がない。慌ててかばんをつかむと外に出ようとした。
「待って、あかね。」
穏やかな声が彼女を引き止める。かすみがいた。小さな鈴を持っていた。そっとあかねに差し出す。りん、と鈴が音を立てた。
「お姉ちゃん……これ……」
「そうよ。あかね。おかあさんのお守り忘れちゃだめよ。」
その小さな銀色の鈴は、あかねが小さい頃から必ず旅行の際お供していたもの。母が幼い彼女に買い与えた赤い組紐のついた愛らしい鈴だった。あかねがはにかんで受け取る。もう一度とびきりの笑顔を姉に見せ、次の瞬間は外に飛び出し、その姿はもう彼女の許婚とともに見えなくなった。微笑んで二人を見送ったかすみは、仏壇で音がしたのに振り返る。母の写真立てが倒れていた。風が吹いた様子もない。慌ててもとどおりに飾ったが、その写真の母の表情が心なしか沈んでいるように見える。かすみはふと、末の妹のことが気にかかった。

 心躍る2年生の集団を乗せたバスは一路羽田空港へと向かう。沖縄行きのボーイング747、2機に生徒たちは搭乗した。搭乗口から、シートへ。緊急避難の案内についてのアナウンスが流れる中、シートに身を沈めるといやがおうにも期待が高まってくる。未知なる土地への旅立ち。仲間たちとの、親しい人との楽しい時間の共有。機体はゆっくりと滑走路を動いていた。そして、その端につく。ごおう、と全身に響き渡る低いエンジン音。ジェット推進力への移行。今までとはまるで異なる激しいGが強く身体を後方に引っ張る。加速、加速、加速そして……TAKEOFF! 上昇の力が溢れんばかりの期待を空の上へと押し上げる。そして、彼らの旅は始まった。

 那覇空港を出ると、眩しい日差しが全身を叩いた。足元のコンクリートも太陽にあぶられ加熱しているかのごとく照り返しが激しい。東京とは大気の熱さがまるで違う。ほどなく彼らをハイビスカスの花の絵が鮮やかに描かれた観光バスが迎えに来た。
「全員ちゃんとおるかー? 乗り損ねたばかはおらんだろうな?」
「早乙女くんがまだでーす。」
「何をやっとるんだ? 天道。しっかりひもで繋いどけよ。」
教師の冗談にクラスメイトは大声で笑い、あかねはただ身をすくめて顔を真っ赤にしていた。この2人が仮祝言を挙げたことはすでに周知の事実で、もはやクラス内では公認に近い関係である。むきになって否定するのは当人同士とその周囲におわす元気の良いお坊ちゃんお嬢ちゃん方で、1年のときから同じクラスにいる殊に仲の良い友人たちはそんな2人をほほえましく見守っていた。
「ひゃー、セーフセーフ。」
「何がセーフよ。集合時間から2分も遅れて。」
「んなこと言ったって生理現象って奴が……」
飛び込んできた乱馬の荷物を網棚の上に上げながら世話女房ぶりを発揮するあかねを見て、クラスメイトはまたほほえましく笑った。

 修学旅行行程の最初は、首里城である。琉球王朝最大規模といわれる建物だ。日本のそれとは明らかに趣の異なる赤や金で彩られた建築物には、ここがもともと中国や台湾の影響を受け続けてきた文化圏であることを感じずにはいられない。関が原の戦いで勝利した徳川家康に反旗を翻していた薩摩島津藩は、幕府に根底では従わず独自の運営を模索していった。その中で、琉球王朝は薩摩の侵略にあいその属国となったのである。したがって琉球が日本に統合された歴史は比較的新しい。しかし、その中で更なる悲劇が、敗色濃厚となった第2次世界大戦で、沖縄はアメリカ軍の上陸攻撃に遭い、日本軍のみならず民間人までもが惨い戦火にその命を散らされた。その爪あとは沖縄本島のいたるところで見ることができる。大戦以降の戦後処理で、沖縄はアメリカの統治下に置かれた。沖縄を語るに侵略の歴史をなくしては語れない。陽の光は熱く明るく人々は穏やかで優しいが、辛い経緯をたどっている。閑話休題。
 さて、殺しても死なないようなタフな少年と少女は、感嘆の声を上げて守礼門に見入っていた。鮮やかな民族衣装を身にまとった美しい観光ガイドのお姉さま方がにっこりと微笑んでいる。ここで必ず1枚記念写真を撮るのは常識らしい。
「はい、1たす1は……」
「に!」
1枚、旅行のメモリアルが焼き付けられた。

 さっそく門をくぐり広い石畳の階段を正殿へと駆け上がる。
「のろまー。先行くぜ!」
ひょいひょいと石畳のみならずその壁も伝って前を走る乱馬に、あかねが制服姿にもかかわらずむきになって壁を蹴り上へと駆け上る。乱馬に追いつこうとしたその視界に、広がる一面の光景が飛び込んできた。
「うわあ……」
真っ青な空。南国特有の濃い緑の樹木。しっくいで塗り固められた民家の朱色の屋根。所々見られるシーサーという魔よけの置物。コントラストのはっきりしたまさに沖縄という景観に、あかねは自分がどこにいるのかも忘れてうっとりと眺めた。
「ばか、危ねえっ!」
景色に気をとられたあかねは、足場の悪いそこでうっかり足を踏み外しそうになる。バランスを失ったその身体をとっさに乱馬は引っ張り、抱きかかえてそのまま下の階段へと着地した。
「ぼーとすんな。おめえは鈍いんだからここからはおとなしく階段上って行きな!」
ちょっと失敗したかな、とあかねが首をすくめた。言われたとおりおとなしく階段を上ることにする。乱馬は先に行こうとしたが、また落ちでもしたらたまらんと言うようにぶすっとした表情であかねの隣を歩いた。
「じゃ、次はこの場所に集合だ。時間に遅れるなよ。」
正殿前の広場で昼食を兼ね一時解散である。その間あかねは友人のさゆりとゆかと3人で楽しくみやげ物を見ていた。片や乱馬は悪友のひろしと大介に連行されてナンパのお手伝いである。
「なんでおれがんなことしなきゃなんねーんだよ……」
「まあまあ、おまえがいると食いつき方が違うんだよ。あかねが帰ってくるまでちょっとでいいから付き合えって。」
ワイロのさーたーあんだーきー(沖縄特産ドーナツのようなもの)一袋を先に食した手前むげにはできず、仕方なしに乱馬は愛想笑いをした。
「ねえねえ、君たちここの人?」
「沖縄の女の子ってかわいいよねえー♪」
二人が盛んに声を掛ける様子を乱馬はじっと見ていた。狙いはなかなか高いが別に何ほどのこともない。乱馬の嫁さん(当確)は彼が来るまでは学校中の男に言い寄られていたほどの美少女である。加えて乱馬に言い寄ってくる3人もいずれ劣らぬ美人ぞろいである。もうひとつ言うならば彼が女に変身した時の姿がまたとんでもなく可愛らしい美少女である。彼は目だけはやたらと肥えていた。
(あかねより肌のきめが粗いな。色も黒すぎる。おれだったらパスだな……)
あかねより美少女なんてそうそうお目にかかれるわけもない。男の本能に備わった狩の欲求も格闘をやっている身なればそこで昇華される。そういう事実も手伝って乱馬はこの手の遊びに大して興味を示さなかった。
「おーい、風林館高校集合―ぅ!」
教師が手を振っている。その声にほっとし乱馬は身を翻して集合場所へと向かう。その後を残念そうなひろしと大介が追った。

 午後からは琉球王朝廟があるという嘉数高地の見学である。そこには、旧日本軍が上陸してきたアメリカ軍と戦ったといわれる壕がいくつかあった。空ろに穴を開けた暗い洞窟の前には、慰霊の祭壇が祭られている。旧日本軍は、上陸してきた敵の砲弾攻撃に耐えるためこのような天然もしくは構築した洞窟を利用して戦った。しかしその戦闘は凄惨極まるものであった。壕にいる日本兵を撃滅するため、その中に手榴弾が投げ込まれ、火炎攻撃が仕掛けられた。幾多の命が、そこで終焉を迎えたであろう深い洞窟。高校生たちは恐る恐るその壕を見学する。ひんやりした岩肌は外の熱さとは別空間を形成しており、その静寂なたたずまいにはすでに戦闘の面影はない。
「ただの洞窟じゃん。」
興味深そうに入っていった男子生徒が出てくる。その様子に恐々覗き込んでいた女子生徒も次第に中へと入っていった。
「あかね、見てみようよ。」
「でも……」
あかねは元々おどろおどろしいものは苦手だ。しかし今、彼女を尻込みさせているのは持ち前の怖がりではない。何か確信めいた圧迫感、そう、いやな予感があった。
「こんな機会ってそうないわよ。」
さゆりに再度促され、あかねも渋る気持ちに活を入れ恐る恐る階段を下りて洞窟へと近づく。次第に高まる圧迫感。気のせいだ、と自分を鼓舞しつつあかねはその暗い穴を覗き込んだ。何もない。そこには静かな岩肌があるだけだった。ほっとあかねが胸を撫で下ろす。その時だった。洞窟の奥で重い空気の塊がぞろりと動いた。首筋にざわっと寒気が走る。次の瞬間、あかねは、自分に向かって押し寄せてくる透明なしかし禍々しい気魂をはっきりと感じ取った。
「いやあああああーっっっ!!」
洞窟に背を向け、あかねは一目散に階段を駆け上がる。クラスメイトが何事かと彼女を見た。
(なんだ、この気の乱れは!)
洞窟から100mほど上に登った見晴台で、乱馬は洞窟方向にはっきりとした禍々しい気配を感じた。そして、それに追われ飲まれようとしている気も同時に感じ取った。慌てて彼は引き戻す。この舌のざらつくいやな感じ。彼女の危機だ。
「あかね!」
駆けつけたその場に、こちらに向かってすごい勢いで走ってくるあかねがいた。
「乱馬!」
どん、とあかねは乱馬の胸にぶつかる。そのまま彼女の衝撃を吸収して乱馬は後ろ足で踏みとどまる。あかねが酷く怯えているのが手にとるようにわかった。あかねを安心させるようにしっかりと抱きしめながら、乱馬はぎらりと彼女の後方、洞窟の暗い入り口を見る。そこに巨大な血走った目が二つ、はっきりとあかねを睨んでいるのを見たような気がした。
「おーおー、オアツイですねえお2人さん。」
「独りモンには目の毒ですなあー」
クラスメイトの冷やかしに乱馬は四方を向きながら毒づいていたが、まだ自分の腕の中で震えているあかねと、先ほどの血走った目が酷く心に残った。

 1日目が終わってホテルへと戻る。あかねはあれから一言も口をきかない。よほど怖かったのだろうか。友人たちが心配して彼女に声をかける。あかねも、いつまでもこういう態度では皆に余計な心配をかけると無理に明るい笑顔を作った。
「あかね、お風呂はいっちゃおうよ。」
「ここね、ジャングル風呂あるんですって。」
うきうきとした声に、あかねもさっきのことはさっぱり洗い流して忘れようと入浴セットを手に風呂場へと向かう。階段を下りていくその姿をわくわくと隠れて眺めている数名がいた。
「おい、今女の子たち風呂へ行ったぞ!」
「やたっ! さっそくおれたちも風呂場へ向かうぞいいか送れ!」
「らじゃー!」
うふうふと満面にしまりのない笑みを浮かべつつ野望に燃える男の集団がわれ先に風呂場へと殺到する。
「……おい、何やってんだよおめーら。」
「お☆フ☆ロ♪」
「なーにがお☆フ☆ロ♪……」
胡散臭そうに大介たちのしまりのない笑顔を眺めていた乱馬は、階段下からあかねたちの笑い声が聞こえたのにはっと気づいてぎろりと睨んだ。
「おめえら……まさかのぞきやる気じゃねーだろーな……」
声がかなり低い。ぎくりと大介たちの動きが止まる。
「やだなあ乱馬くん。ぼくたちわ1日の旅行の疲れをさっぱりと洗い流し明日への活力を……」
「そうそう。きみはしょっ中天道あかねの風呂上がりを見てるだろうけど、ぼくたちわそんなヨコシマなことは考えてないからねー♪」
「ばばばっきゃろー! どわれがあんなかわいくねー女の風呂上りなんか……!」
「へー。じゃおれたちが見てもいい?」
毒気を抜かれた乱馬を尻目に男の集団が一気に風呂場へと走り出す。はっと乱馬が我に返った。
「まっ待ちやがれてめーら!」
まことこの年頃の男の子は騒がしい。乱馬がタオルと洗面用具片手に男湯へ駆け込んだ時には、すでに女湯と隔てている壁に野郎どもが鈴生りになっていた。
「ああ……笑い声が聞こえちゃう……♪」
「あの声きっとあかねだぜ。」
「おい押すなってば。」
あほくさ、と乱馬はため息をひとつつくとどっぷりと湯船に浸かった。その間も野郎の集団は頬を赤らめ女湯の様子に全神経を集中している。しかし鈴生りの集団の一人が、乱馬を見て怒ったように叫んだ。
「乱馬、何だ一人だけその態度は! 団体行動を乱すな!」
「あー?」
「だいたいおまえはけしからん。あんな可愛い許婚と毎日同じ風呂を使っているとは!」
「そうだ! 今すぐおまえがやるべきことは……」
殺気を感じ乱馬は身構えた。
「我々のために水を被って女になることだあー!!」
「どわああーっ!」
野郎の集団がいっせいに乱馬に水攻撃を仕掛ける。
「男湯が騒がしいわねえ……」
むさくるしく騒々しい男湯とはうって変わって麗しい女湯では、桜色にほんのり染まる肌も美しい乙女たちが小首を傾げていた。しかしすぐ忘れたかのように笑いさざめく。まことこの年頃の女の子は可愛らしい。
「先に上がるわよー。」
湯気の立ちこめる中からりと音がしてドアが開く。数人の女の子が上がって行った。脱衣所から笑い声が聞こえる。たわいもない少女たちのおしゃべり。あかねはぼんやりとその声に聞き入っていた。しかし、その声が急に遠くなったかと思うと、あらゆる音と人気が消えた。
「あれ? みんな? もう出てっちゃったの?」
広い浴槽に、あかねは一人になった。隣の男湯から聞こえていた声も、脱衣所から聞こえていた声もすべて止んでいた。
「いやだー。置いてかないでよう……」
心細くなりあかねは急いで浴槽からあがりかける。お湯の中に何か揺らめいたような気がした。何の気なしに、そう、何の気なしに彼女は天井を見上げた。

だらりとたれさがった、血の気を失った女の顔があった。

「い、いやあああああああーっっっ!!」
あかねは無我夢中で浴室を飛び出す。ぴしゃりとドアを閉める。半べそになりながら急いで服を身につけた。目の前に姿見の大きな鏡があった。その中で、自分の後ろにある浴室のドアがゆっくりと開いていく。見たくないのに、なぜ、目がくぎ付けにされるのだろう。空気が張りつめて異様に冷たい。開いていくドアからのぞく青白いどろどろとした手。ずるっ、と伸び、ぼたりと床に落ちる。蠢く指が床を這う。ずるり、ずるりとこちらに向かっていた。叫び出しそうだった。しかし、声が出なかった。がくがくと全身が震える。だが、あかねはここから本能で動いた。無意識のうちに丹田に気を込める。
「破ぁっ!!」
一気に気合をはいた。瞬間、彼女の周囲に音が戻った。あの青白い手は消えていた。異様な気配も消えていた。浴室のドアも閉じられたままだ。放心したようにあかねは床に座り込む。ふうっと気が遠くなった。そのまま、ばったりと倒れた。

 浴室の騒動で一般客から苦情が出たのか、乱馬たちは教師に呼ばれこってりお小言を頂いていた。頭を掻き掻き彼らは部屋へと戻る。そこで、慌てたように廊下を走るゆかと鉢合わせした。
「おい、なんだよそんなに慌てて。」
ゆかは彼らの中の一人、乱馬に視線を向けると、ばっと後ろを指差しながら言った。
「あかねがお風呂で倒れちゃったのよ。すごい熱なの。今ホテルの人がお医者さん呼んでるの!」
乱馬は息をのんだ。すぐさま走りあかねのいる部屋へと踊りこむ。
「あかねが倒れたって?」
彼の姿に、心配そうにあかねを見守っていた友人たちが傍の席を開ける。あかねは布団に寝ていた。
「あ……乱馬。大丈……夫、よ……」
あかねの傍に座りながら、乱馬はあかねの顔を覗き込む。顔が真っ赤だ。かなりの熱があるらしい。どう見たって大丈夫じゃない。それに、瞳からいつもの輝きが消えている。
「どうしたんだよ一体。」
乱馬の言葉に、あかねは浴室での件を話そうかと口を開きかけたが、やめた。自分が変なことを言い出せばせっかくの皆の楽しい修学旅行に水を指してしまう。見たのは自分一人だったのだし、ひょっとしたら見間違いかもしれないし……そう自分に言い聞かせつつ彼女は持ち前の気丈さでこの件を跳ね除けようとした。自分だけの力でがんばろうと思い、乱馬に作った笑顔を向ける。
「……慣れない所、だから、ちょっと身体がびっくりしちゃっ……たの……かも。」
あかねはこの後乱馬の悪態を予想した。普段の彼なら必ず言うはずだった。しかし、予想に反し乱馬は黙ったままだった。ただ、沈んだ表情であかねを見ていた。じっと見つめている。何か言いたそうな眼差しだった。
「あかね、お医者さん!」
その声に乱馬は席を立つ。診察するなら当然男は締め出される。部屋を出る自分の背中にあかねの力ない視線を乱馬は感じた。
(そうやって……いつもおまえはそうやって無理するんだ……)
団体行動の中では思うような動きがとれない。甘える時は甘えて欲しいと思いながら乱馬はあかねの部屋に心を残し自分の部屋へと戻って行った。
 集団での食事風景もまた修学旅行の楽しいひとコマである。しかし乱馬は、その珍しい沖縄料理に他の友人たちのような舌鼓を打てなかった。心はあかねのところにあった。味気なくただ口へ運ぶだけの動作を繰り返す。あかねへはホテル側がおかゆを用意してくれていた。この料理を一緒に楽しめない。からかって、反論されてまたからかって、そんな楽しい食事の時間を共有できない。あかねの席だけがぽつんと空いているのが無性に寂しい。
「よー乱馬、あかねがいなくて寂しいんだろー♪」
クラスメイトがちょっかいをかける。しかし乱馬はうるさそうに首を振った。
「……うっせえなあ……」
隣にいる生徒が余計なこと言うなとばかりに最初に口を開いたクラスメイトを小突く。乱馬がふう、とため息をついた。
(こいつらほんとにおしどりなんだなあ……)
口ではどんな裏腹なことを言っていても、その態度は雄弁だった。

 あかねは一人部屋にいる。おかゆは手付かずのまま残されている。眠ろうと寝返りを打ったが神経の一部が緊張しているらしくなかなか寝付かれない。一人でいると、風呂場での恐怖が思い出されあかねは思わず自分の肩を抱いた。早く友人たちに帰ってきて欲しい。一人にしないで欲しい。ただそれだけを願っていた。安静に、と言い残し医者は帰っていった。まだ身体の熱は下がらない。友人たちはもしかしたら自分を気遣って他の部屋に行っているのではないだろうか。あかねは泣き出しそうなほどの不安に襲われる。その時、部屋の扉が開いた。体中の神経がびくんと緊張する。先ほどの恐怖がまだ生々しく彼女の体に残っていた。
「なんか、欲しいのあるか?」
乱馬が布団に横たわったままのあかねに話しかける。穏やかな声に緊張が一度に緩んだ。
「おまえ……あれからおかしくねえか……」
自分を見上げるあかねの瞳がひどく頼りなさそうで、何かに怯えているようで乱馬は心配の度合いが増す。あの洞窟の中に浮かんだ2つの血走った目のことを話そうかどうか迷う。もしあかねがそれを見ていないとすれば、徒に彼女を怯えさせるだけだ。あかねの不安を取り除きたいと、乱馬に心配をかけたくないと、互いのことを思い合っているのに歯車がずれていた。あかねは乱馬に向かい今度は少ししっかりした様子で笑って見せた。
「ほんとに大丈夫よ。ありがと……」
がやがやと声がして友人たちが帰ってくる。乱馬が席を立った。おとなしく寝てろよ、と小さく言い残し彼は部屋を出る。すれ違う友人たちにあかねを頼む、と照れくさそうに言ってそのまま走り去った。
「あらあ〜、お邪魔だった?」
「ねーあかね。乱馬くんあんたいなくて寂しそうだったわよ。」
友人たちのたわいもない冷やかしが今のあかねには嬉しかった。

 その夜、あかねは理由のわからない不安に終始悩まされ続けた。何度も寝苦しそうに寝返りを打つ。背中側にいやな気配がべっとりと貼りついているようだ。生々しい湿った気配。なぜか、にやりと笑っているような気がした。

 修学旅行の2日目。しかしあかねはまだ熱が下がらなかった。原因不明の熱だった。だがその発熱以外身体に異常は全くない。いや、むしろ気分は良く、このまま同行しても何の問題もなかった。一人になるのはいやであかねは同行を申し出たが、教師や友人たちに止められホテルに居残ることになる。
「あかね、あんたの分まで写真撮ってきてあげるから。」
「おみやげも買ってきてあげるって。」
そしてバスは目的地へと向かった。不安そうに見送るあかねの表情が酷く乱馬の心に残った。漠然とした焦燥感が確かに彼の中にも生まれていた。
 
 一人残されたあかねは、部屋に戻ると心細そうにTVをつけた。できるだけ楽しそうな番組を探してチャンネルを回し続けた。しかし、なぜかどのチャンネルも映像を映さない。ざああ、と砂嵐が映し出されるだけだ。おかしいな、と思いつつあかねはチャンネルを回した。しかしその時、がきん、とチャンネルが固定される。いくらリモコンのボタンを押してもTVは反応しない。そのチャンネルにゆっくりと映像が映り始めた。
(見てはいけない!)
本能が警告を発していた。しかし、彼女は目をそらすことができなかった。その映像を、映し出された血走った2つの目を、あかねははっきりと見てしまった。ばちん、とテレビの電源が落ちる。同時に、部屋の電源も落ちる。恐怖に引きつったあかねの目の前で、その今や真っ暗となった部屋の中央に、巨大な目玉が二つ、ぎょろりと彼女を見据えていた。
『来…ル………オマエ……来ル……』
陰にこもった声が直接脳裏に響く。あかねの瞳から涙があふれていた。今まで接したことのない最大の恐怖が彼女を襲っていた。
「いや……いや、来ないで……え……」

 2日目の行程である間文仁の丘で、彼らは日本最南端といわれる岬から遠く海の向こうを望んでいた。向こうに見える島々は日本ではないのだというガイドの説明に感歎の声が沸き起こる。その場から外れた影がひとつあった。クラスメイトの一人がその影に気づいて声をかける。
「おい、どうしたんだよ乱馬。こっち来て見ろよ。」
しかし、その友人は彼の顔を見るなり慌てたように教師を呼んだ。穏やかならぬその様子にクラスメイトたちが次々に集まってくる。
「乱馬、おい、どうしたんだよおまえ真っ青じゃねーか!」
「うわ、汗すごいぞ。気分悪いのか大丈夫かよ!」
苦しそうに乱馬は目を開けた。右手はしっかりと心臓の上辺りをつかんでいる。普段の彼からは予想もできないその姿に教師も心配になって救急車を呼ぼうかと携帯電話を握る。
「だ……大丈夫……だ。おれに構うな……おれ……自分でホテルに戻るから……」
よろりと乱馬は立ち上がった。ここまで身体に変調を来たすことは初めてである。なぜ自分がこんなになるのか彼にもわからなかった。だが、酷い焦燥感だけが充満していた。直接魂をつかまれて、揺さぶられているような気がした。誰かが自分に何かを教えたがっている。もはや一刻の猶予もないという焦りが伝わる。
(まさか……あかねが?)
急に魂から手を放された。間違いない。あかねだ。あかねが危ない。病院になど送られている暇はない。この変調の原因が、彼の片割れが遭遇した危機が、命に影響を及ぼすほどの危険なものだということを乱馬は直感で理解した。
(急がねえと……急がねえと!)
心配そうに見送る教師と友人たちの前で、彼を乗せたタクシーは一路ホテルへと向かう。不思議なことに、あかねに近づけば近づくほど彼の身体にある苦しみがはらり、はらりと落ちていった。身体に力が戻ってくる。その最中、タクシーは渋滞へと巻き込まれた。
「変だな……?こんなとこ、渋滞するわけないんだけど……?」
不思議そうに運転手はぼやくと、さらに近道を探し進路を変える。しかしことごとく、まるで待ち構えたかのように渋滞にぶつかっていった。乱馬をあかねに近づけない、という邪なものの意思を感じさせた。
「ここでいいぜ。」
らちが明かないと判断した乱馬は、まだホテルまでは遠いと引き止める運転手に諸額の金を払い、ひらりと身をかわし瞬く間にビルの向こうへと消えた。

 走り続けた乱馬の目の前に見慣れたホテルが現れる。めんそーれの声も聞き流し乱馬は一目散にあかねの部屋へと向かった。はっきりと禍々しい気を感じる。部屋の扉に手をかけた。びりっと電気のようなものが触れたところから全身に走る。自分を拒否する禍々しいもの。負けるか、と乱馬は引きちぎるようにドアを開いた。
「な、なにぃ!」
部屋の中には、何もなかった。ただ真っ暗い闇が存在するだけだった。足元からすくわれそうな虚脱感が彼を襲う。しかし、禍々しい気配ははっきりその中から感じられる。そして、乱馬が求めて止まない片割れの気も、はっきりとその中に存在していた。
「あかねーっ!」
声を限りに叫んだが闇に吸い込まれていっただけだった。何の声も返ってこない。不安が黒い手のように彼の中を撫でまわす。苦渋の汗がこめかみを流れ落ちた。
「!!」
その闇に、ぼうっと白い人影が浮かんだ。乱馬に向かって穏やかに微笑みかける白い顔。その微笑みはかすみによく似ていた。口元の感じはなびきに似ていた。そしてその黒目がちのくりっとした大きな瞳は……あかねによく似ていた。いや、彼はその顔を知っていた。いつも手を合わせる仏壇の、写真たての中からこちらに微笑みかける、優しい笑顔の……
(あかねの……おふくろさん……!)
その手がゆっくりと乱馬に向かって差し伸べられた。一条の淡い光が彼の足元まで伸びる。光の先に、彼ははっきりと、闇に飲まれようとしているあかねの姿を捉えた。
「あかねぇえーっっ!」
夢中で乱馬はその光を伝いあかねのもとへと走る。乱馬の声が、あかねの耳にようやく届いた。涙にぬれた顔を輝かせあかねは振り返る。その目は、こちらへ向かってくる乱馬の姿をはっきりと捉えた。
「乱馬あーっ!」
あかねにまとわりついているその汚らわしい闇を一気に蹴散らそうと、乱馬は構え、気を集中する。しゅんしゅんと彼の凄烈な闘気が高まり、圧縮された塊となり掌から闇に向かって一直線に突き刺さった。乱馬の光の牙にも似た闘気は、そのままねじり込むように闇をがくがくと震わせる。手応えはあった。だが、一瞬怯むと見られた禍々しい気配は、その刺激に呼応するかのごとくさらに膨れ上がる。闇の中から血走った目が現れた。闖入者である乱馬をぎろりと睨みつけた後、さらにあかねを飲み込もうとするスピードを増す。乱馬の顔色が変わる。あかねの全身に撒きついたその闇の束は、あと少しで彼女を飲み尽くそうとしていた。その時、また白い手が動いた。母は、娘の危機に、娘を守るその男に力を託す。あかねのかばんの中から、小さな鈴がりんと音を立てて現れる。ずっと娘を守ってきた母のお守り。それがすうと宙を飛び、乱馬の手元へと収まった。
《息を……吹きかけて……あの目の真中へと投げるのです……》
驚いて凝視する乱馬に、もう一度母は声を重ねた。
《武道家の息吹は……降魔調伏の力を持つもの。あなたの気を込めて、そして、あの子を……あかねを、助けてあげて……》
直接脳に響いたその言葉に、乱馬はためらうことなく手元に現れた鈴に気を集中する。そして、鋭く気合を発するように息を吹きかけ、巨大な血走った目の真中へと投げつけた。鈴は、ちりー……んと涼やかな音を伴って闇に吸い込まれていった。

その時だった。

闇の中に表れた幾条もの白い光が、瞬く間に闇を溶かしていく。あかねの全身に撒きついていた汚らわしい闇の束も、跡形もなく消えていく。闇に棲むものの断末魔の叫びのように、部屋に張り巡らされた闇は震え、そして、霧のごとく溶け去った。

呆然と、二人、その場に座り込んだ。乱馬があかねを見る。あかねも、乱馬を見る。そして、急に笑い出した。助かったと思う安堵感で、二人笑っていた。どちらからともなく身を寄せ合って、そして、笑った。にこにこと見つめる母の影。あかねが気づいて手を伸ばす。
「おかあさん。」
母は穏やかに微笑んでいる。
「おかあさぁん!」
母はもう一度やさしく娘に微笑みかけ、ゆっくりと大気に溶け込むようにその姿を消した。伸ばした手の先にすでに母の姿はなく、あかねの頬を新たな涙が零れ落ちる。
「おかあさん……ありがとう、ありが……とう……」
そっと支えてくれる乱馬の肩にあかねは顔を伏せ、ただ、泣いた。

 修学旅行の最終行程。土産所としても有名な玉泉洞で、あかねは小さな琉球焼きの湯飲みを手にとっていた。
「それ……ひょっとしておまえのおふくろさんにか?」
乱馬の言葉に、あかねはこっくりと頷き、じっとその湯飲みを見た。
「おかあさんに、ありがとうって伝えたいの……」
あかねの手の中にある小さな湯飲みを乱馬もじっと見ていたが、ついと手を伸ばし、それとは少し色の違う、同じような湯飲みを自分も手に取る。
「おれも……みやげ。」
「同じようなの2つも?」
「おまえのはお茶で、おれのは水入れりゃいいだろ。」
ちょっと照れくさそうにそう言うと、乱馬はあかねの手の中にある湯飲みもひったくってレジへと持っていく。
「ご一緒でいいんですか?」
前に並んだ二人を見比べながら店員が乱馬に訪ねる。
「一緒でいいです。」
支払い終わると、乱馬はその包みをあかねへと手渡した。
「帰ったら墓参り行こうな。」
その言葉に、あかねは嬉しそうに頷いた。

 修学旅行から帰ってきた翌日、天道家の菩提寺に参拝し、墓の前で手を合わせるあかねの後ろで、乱馬も同じように手を合わせる。
(ありがとうございました……こいつの危機を、教えてくれて……)
墓を後にする。ふと、呼び止められたような気がして乱馬は振り向いた。彼の人が、限りなく慈愛あふれる微笑でそこに立っている……ような気がした。
(お義母さん……)
思わず心で呟いた乱馬の声が聞こえたのか、彼の人はさらに柔らかく微笑んだ。次に目を凝らしたときは何もなかった。ただ、5月の薫風が彼の髪を吹き流していった。


(終)

けいこ母さまと、いなばRANAさまと、我が母上殿と、母と呼ばれるすべての方々に捧ぐ。
母の日おめでとうございます。


(あとがき)
 楽しいはずの修学旅行の課題が何ゆえこんなことに? しかもこんなオカルト話をプレゼントに捧げるわしってなんて暗いやつなんでせうかすんません。偉大なる母の力つーのを表現したかったんすが……自分の修学旅行にろくな思い出残ってないからかなあ……原爆記念館で迷子になったとか。一晩中トランプしてて翌日爆睡して先生に殴られたとか。おかずの蟹グラタンが水っぽかったとか。ちなみに、プロットの一部に自分の体験が入ってます。この世には、理屈で説明できない何かがあると思いやす。でもこの構成、一番最初に書いた「潜む視線」と基本は一緒っすね成長のない……プロット詰め込みすぎて主題がぼけとるようですし。


 幸いなことに私は左程霊感が強くありません・・・できればこのような恐怖とは生涯縁遠く暮らしたいものです・・・(^^;

 あかねちゃんには乱馬くんがいますからこのような霊現象にも心配ないのでしょうが・・・。
 沖縄もまだ未踏の地です。私は天草より南へは行ったことがありません。未踏の地であります。
 旅先で霊的体験に遭遇するのが嫌な人は「塩」を一掴み鞄に忍ばせるといいらしいです。塩はやっぱり古来からの清めの品物だそうで・・・。引っ越すたびに、立つときの塩を敷地の四隅に撒いたり、入る部屋の四隅に置いたり・・・気持ちの問題なんでしょうけどね。
 聞くところに寄ると、半さんは物凄く霊感がお強いそうで…。以前に霊が乗っかった経験をしたというような、興味深いお話などを聞かせていただいたこともあります。(清めの塩は必需品ですな…。)
(一之瀬けいこ)


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