◆朝靄
半官半民さま作


 夕闇が迫っていた。足元はすでに暗くなり朽葉を踏む音も心なしか湿っている。息を荒げ、麓を目指す男の肩で、日に焼けた髪が一束揺れている。遠くで鳥の声がした。男がふと顔を上げる。林の切れ間から遠く山の端が見える。そこに消えた落日の残照が染めた空は、すでに夜の闇に覆われ始めていた。第2薄暮期の終焉。やがてここも闇で覆い尽くされるであろう。そうなる前に少しでも麓へ近づかなければならない。男が舌打ちした。腱の発達した手が無造作に枝を掴む。跳躍するそぶりなど見せず、男の身体はふわりと木の上へと舞い上がる。幹を蹴って飛んだ。惚れ惚れするような躍動。まだ少年の甘さを残す精悍な顔の中に、鋭く光る双眸があった。男の名は早乙女乱馬。迷い込んで3日。彼はこの山を降りられないでいた。

 暗い山は彼を飲み込みなかなか放そうとしない。行けども行けども森が彼を阻む。走り続けて2時間ほど経っただろうか。一休みしようと木の根に腰をおろし、乱馬はふうと息をつく。革製の半長靴は泥で汚れ、ゴアテックスのパーカーも所々破けている。腰に装着した水筒を外すと、ぐいとあおった。ぐびりぐびりと太い喉に水が流し込まれる。水筒の栓を締め、乱馬は軽く揺すった。底に近いほうで音がする。残り水は少ない。
「あいつ……心配してっかな……」
じっと正面の闇を見ながら乱馬はつぶやく。懐に手を伸ばすと、首に掛けたDOGTAGを取り出した。そのプレートを裏返す。写真が貼られていた。黒目がちの大きな瞳が彼を見ている。艶やかな頬は白く、柔らかい栗色の髪がその小さな顔を縁取っている。誰をも魅了するような愛くるしい笑顔で微笑む少女は、彼と同じくらいの年だと思われた。防水シートで丁寧に覆われたその写真を、乱馬はじっと見つめる。
「あかね……」
乱馬の脳裏に浮かぶ。優しい微笑。可愛い笑顔。彼を取り巻く暖かい家族。おずおずと乱馬はあかねの写真を目の前に持ってきた。熱い眼で見つめていたが、こらえきれないようにぎゅっと握り締め、自分の胸へと強く押し当てた。
「あっ……」
妹が上げた声に、台所で皿を拭いていた長女のかすみが驚き声をかける。
「あかね、どうしたの?」
姉の隣で片付け物をしていたあかねは、両手で自分の肩を抱いたまま、姉に向かって大丈夫よと微笑む。
(今……あたしを抱きしめたの、乱馬なの……?)

あかねは部屋へ戻る。じっと壁を見た。そこに掛けられている年季の入った拳法着。彼女が着るには遥かに大きいそれは、彼女の婚約者、乱馬のものである。じっとあかねはその拳法着を見つめた。ふいにボールを取り、ぽんとぶつける。
「ばか……」
ボールは跳ね返って足元に転がる。あかねはそれをまた手にした。
「ばかばかばかっ!」
ボールは幾度もあかねの手につかまれ、ぽんぽんと拳法着にぶつけられる。あかねがふいに立ち上がった。拳法着を壁から下ろす。ぎゅっと抱きしめた。透明な涙が白桃の頬を滴り落ちていく。
「乱馬……乱馬、無事なことだけ知らせて……」

(あかねが泣いている。)
乱馬の心に切ない感情が流れ込んでくる。あかねが泣いているのだと、ためらいもなく確信する。
(そうだ……早く帰ってやらねえと……)
生臭い気配があたりに立ち込め始めた。乱馬の表情が一変して厳しいものに変わる。闇の中から2つの緑色の光が現れる。4つ、6つ、12、20。
(ちっ……囲まれるまでわからなかったなんざ、おれも相当疲れてやがる……)
ゆらりと乱馬は立ち上がる。彼を囲んだものたちが姿を現す。口々に低い唸り声をあげていた。泡を吹き、今にも跳びかからんばかりに低く構えている様が、山犬たちの空腹を物語っていた。
…ぐるるるる……
……うるる……ぐわううう……
「悪いがよ……ここでおめえたちに食われてやるわけにゃあいかねえんだ……待ってるやつがいるんでね。」
太い笑みが乱馬の口元に浮かぶ。すう、と殺気が宿る。ひたりと山犬たちに視線を据えた。乱馬の瞳が薄い緑色の光を放ち始める。底光りする野獣の瞳。その口元がつりあがる。
「来いよ……!」
山犬たちの唸り声がやんだ。じっと据えられた乱馬の目を見てびくっと硬直する。怯えたような気配が山犬たちの間を走った。
……きゃん……きゃんきゃんきゃいん!
1匹残らず一目散に逃げ出した。
「気づくのが遅せえんだよ。」
ふう、と一息吐き出すと、乱馬はまた大地を蹴って走り始めた。
(あかね……もうすぐ帰るぜ。必ず帰るから……!)

 日の出を待つ黎明期、その薄青い空気の中、乱馬はようやく人里へ辿り着いていた。一晩中走り続けた疲労は極限まで来ていた。しかし、彼は帰りたかった。一刻も早く彼女のところへ。鞭打つようにして身を起こす。あの街へ、あかねの待つあの街へと乱馬は歩き続ける。どのくらい歩き続けただろうか。日が昇り始め、乳白色をした朝靄が立ち込め始めていた。誰もいない道に、うっすらと人影が見えた。1歩1歩、踏みしめるように乱馬は歩き続ける。やがて人影が鮮明な映像を作った。
「………あ……かね?」
朝の冷たい風が、あかねの髪をさらさらとなびかせていた。大きな瞳がいっぱいに見開かれて、そして乱馬が愛してやまないあの笑顔で、あかねはそこにいた。
「おまえ……わかったのか……?」
あかねが艶やかに微笑む。
「今日帰ってくるって……気がしたの。」
あかねが笑った。透き通る雫がいくつも彼女の頬を滑り落ちる。息が詰まるほどの愛しさを覚えながら、駆け寄って骨が折れるほど抱きしめたい衝動に駈られながらも、乱馬はただ歩くことしかできなかった。疲弊しきった身体は言うことを聞かなかった。腕が上がらなかった。足が強張っていた。それでも1歩1歩あかねへと歩き続ける。あかねがゆっくりとそのしなやかな腕を開く。知らず、笑っていた。笑顔が2人の表情を輝かせていた。ようやくあかねの前へと辿り着いたとき、ふいに乱馬の身体が傾いた。あかねの腕に倒れこんだ。限界を超えた疲労は、欲してやまなかったそのぬくもりに触れ、乱馬を深い眠りへといざなった。あかねが微笑む。自分の胸の中で眠り始めた乱馬の髪をそっと撫でる。
「おかえり……乱馬。」

 朝の光が差し始める。子供のように無邪気な顔で眠る乱馬と、微笑んでその寝顔を見つめているあかねの横顔を照らしていた。







作者さまより

 えーと、どもっす。皆さんのような心が温まるラブラブ話が書きたい!と勇んで取り掛かったのですがこのざまです。
心が寒くなる話を読んでくださってまことにありがとうございます。それと、これと同時期にお送りしました長編で乱馬をこき下ろしてしまいましたので、この作品ラストではちっといい思いさせてやろうじぇねえかと(えらそう)思いましてこんなん書いてしまいましたっす。こんなもの送りつけられるケイコさままことにすんまっせん。

 もう・・・乱馬くんったら!幸せ者めいっ!
 
 待つ人がいる住処へ帰るのは幸せです。
 いつもは守っている人の腕に眠るのは、男冥利に尽きるのではないでしょうか?
 ごちそうさまどした!
(一之瀬けいこ)



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