第八章 きれいな感情




 冬の空は高い。
 天に近い場所にいてすらそう感じるのだから、下の町に住んでいる者にとって、その距離はもっと存在するに違いない。
 雲が流れ、太陽を隠す。
 けれど決して消えることなく、その陽射しは世界に降り注いでいる。
 光とは、心の拠り所だ。
 闇を晴らすもの。
 邪を祓うもの。
 崇められるには十分な要素を含んでいる。
 それはわかっているけれど、その重荷を背負うには自分は力不足だと、あかねは考える。
 何かを期待されても、それを満足のいくように返すことは出来ない。もともと器用ではないのだから、尚の事だ。
 以来、「不器用」という言葉には敏感になった。
 上手くいかないもどかしさや、どうしてできないんだろうというやるせなさ、そしてできないことへの焦燥感──。
 まわりに置いていかれているような錯覚に捕らわれるあの感覚は、きっとなんでもすんなりとこなしてしまう人にはわからない気持ちだろう。
 そう、例えば乱馬のような人には──


「──どうしてここであいつが出てくるのよ」

 自分で考えたことに対して、自分で驚いてあかねは口を尖らせた。そしてそのすぐ後で、深い溜息をつく。連れて肩から流れる長い髪を掻きあげ、複雑な表情を浮かべた。
 この髪も随分伸びた。
 思えば幼い頃の自分は、姉妹の中でも好んで髪を短くしているような子だった。自身もその短さを好んでいたし、父親もまた「似合う」とあかねの頭を撫でたものだった。
 いつからだろう? 髪を伸ばすようになったのは──。
「光明心」という目には見えない力の束縛を漠然と感じながら、あかねにできたことは受け入れることだけだった。言われるがままに行動する。なにをすればよいのかがわからないから、周りの者の助言に従って、あかねなりに努力を重ねてきたつもりだった。
 魔力が宿るとされる髪を伸ばしつづけたのも、その助言のひとつ。今では一番上の姉・かすみよりも長く伸びた髪だけれど、伸ばせば伸ばすほど、それに伴わない自分の力のなさに打ちのめされるような気がして、重たく感じている。
 いつも思考は、ここの堂々巡りだ。

 どうしてだろう。
 どうしてあたしなんだろう。
 どうしたらいいんだろう。
 どうしたらすべてうまくいくんだろう。

 負の心はいつもこうして身体をまとわりつくようにして渦巻き、身体を絡めとる。そしてあかねは苦しさに耐えられなくなって、うずくまる。
 あたしは一体どうすればいいんだろう──
 溶けない重りのように、解けないパズルのように。
 それはあかねを苦しめるのだ。








 天道が──


 そんな言葉が聞こえて、あかねは思わず立ち止まった。
 露店には人が溢れていて、その声の主が誰であるのか判別がつかない。
 それでも精一杯集中して、あかねはその声に耳をすませた。


 天道が許すはずがない。
 でも土蜘蛛ってのは、案外としぶといらしいぞ。
 やっぱり天には敵わないだろうよ。
 天誅人の動きも活発だ。
 土蜘蛛が手強い証拠だろう。
 今に天罰が下るに違いない。
 だからといって、天が正しいとは限らねえだろう。
 土の言い分もわからんでもないしなあ。
 まあ、どちらがどうしようと、中の町は関係ないさ。
 どっちの町も、この町がなきゃ暮らせねえんだからなあ。


 そんなような会話だった。
 あかねは驚いた。
 その内容にも驚いたし、なによりもそんな情勢を認識している民の情報力に驚いた。そして、争いに対して「自分達には関係がない」と他人事のように笑っていることにも、驚きを隠せなかった。
 自らの国について、民はそんな風に考えているのだろうか。
 警務官のこと、そしてなによりも国王である父の心情を思いもしないで、あんなことを──「正しいことは限らない」などと、そんな言葉を口にし合うだなんて。
 信じられなかった。

「善政を敷くとは難しいものだよ、あかね」

 そう言った父の声が頭に蘇る。
 父は優れた王だと思っていたあかねは、その弱気な言葉に大層驚いたのだ。
「お父様は、きちんと町を正しているじゃないの」
 そう言うと、少し困ったように笑っていた。
 父は、民のこんな声を知っていたのかもしれない。
 そこまで考えた時、ふとあかねは思い出した。
 天道を擁護する奴も珍しい。
 いつだったか、乱馬が口にした言葉だ。
 乱馬もそうなのだろうか。
 乱馬もまた、「天」を軽視する人々の一人なのだろうか。
 怖いと思った。
 もしも自分が「天道の娘」であることを知ったとしたら──
 かつて、学友達が自分を見る目が変化した時のことを思い出し、あかねは唇を噛みしめる。
 なぜか、乱馬に違う目で見られることが嫌だった。
 乱馬にだけは、そんな風に変わったものを見るような目で、自分を見て欲しくなかった。
 一方の乱馬はといえば、彼は彼で、別のことに思いを馳せていた。
 最近、以前にも増して思うようになったこと──それが己の身体のことだ。
 父親の不用意な発言と行動によって、己と父は呪いを受けた。
 受けた呪いは「変化」
 そもそも人が自分以外の姿へと変化する術は「邪法」であるとされている。故に、普通の術者とて、その術を知らないとっても過言ではない。闇に身を投じたような──魔に染まった者でもないかぎり、人が扱える術ではなくなっているのが、今の時代の認識だ。
 その世にあって、この体質。
 知らない者が見れば、魔物であると騒いだとしても、彼らを責めることはできないだろう。
 呪いの発動が、ひどく身近にある「水と湯」であることから、人前に出るときは常に気を配っている。間違っても大衆の前で「変化」など、出来ない。
 もし、それが知れたとしたら。
 もし、それをあかねが知ったとしたら──

 知られるわけにはいかない。
 双方が、双方ともに、心の内で思っていることを、
 やはり双方共に、知らないでいるのである。




「あ……!」
 例え声を洩らしたとしても、それはもう手遅れだった。
 あかねの手の中でその布は、大きく破れている。裂け目は、さらに広がっていた。
 そもそも乱馬が羽織っていたベストに、破れ目を見つけたのがはじまりだった。
 乱馬はたしか父親と二人で暮らしているはず──、こういった裁縫をする者もいないに違いない。あかねはそう考えて、乱馬から剥ぎ取るように奪い取り、意気揚揚と繕いはじめて、数分後にこうなった。
 情けない。
 己の不器用さはわかっているけれど、それでも情けなくなる。
「……ごめん、なさい」
 唖然として見ていた乱馬であったが、傷心しているあかねを見て、怒るどころか笑い飛ばした。
「ほんっとに不器用だなー」
「どうせあたしは不器用よっ、悪かったわね」
「なに、怒ってんだよ」
「誰のせいで怒ってるのよ!」
 誰のせいもなにも、自分が蒔いた種であるが、あかねはつい牙をむく。
 もっと素直に謝ればいいと思うのに、乱馬にからかわれると、どうしてか言い返してしまうのだ。
「そんなカリカリしてたんじゃ、嫁の貰い手もねーぞ」
「──か、関係ないでしょ!」
 こうまで露骨に言われたこともなかったあかねは、一瞬ぐっと詰まって言い返す。
「大体、まだ、結婚なんて……」
「まだって──、おまえだって十六だろ?」
 たしかにあかねぐらいの年齢ともなると「婚姻」の文字も近いものとなる。事実、同じ年で嫁ぐ女性も少なくはない。だが、階級が上がれば婚期は遅くなるという言葉がある通り、あかねの姉二人はまだ未婚のままだ。無論、それなりの相手を探さなければならないという問題もあるのであろうが、上の二人がいるかぎり、あかねの中で「結婚」の二文字はまだ遠い先のことのように捉えていた。
 身の上を隠す身であるあかねは、その辺りのことは口に出来ず、言葉を探して乱馬に矛先を向けた。
「そ、そういうそっちはどうなのよ」
「おれか?」
「そうよ、人のこととやかく言う前に自分はどうなのよ」
「まあ、おれぐらいいい男だと周りが騒ぐのは当たりめーだけど──」
「──そうね、モテてよかったわね」
 たしかに乱馬は人気があった。
 町を歩いていても、女の子の視線が飛んでくる。愛想がいいので中年女性にも好かれている。こと「食べ物屋」関係は、彼の縄張りのようなものであった。乱馬くん乱馬くんと、黄色い声がかかるのはしょっちゅうで、そのたびにあかねは針のむしろだ。
 彼女達の視線をどう思っているのか、乱馬は素知らぬ顔だ。へらへらと笑っているだけで、まるで真剣味に欠ける。なにも考えていないのは自分の方じゃないのか──と、あかねは乱馬を睨む。
「よかったわね、いっぱい候補がいて。かわいくて、器用な子を選べばいいじゃない」
「はあ?」
「乱馬がいいって言えば、みんな喜んでついてくるんじゃないの? なにしろ随分人気があるみたいだし!」
 一気にまくしたてて、ふんと横を向く。自分でも驚くほどに棘のある口調だった。胸の中がもやもやして、重くて、それでも何故か無性に腹が立った。
 しばらくして自分の言ったことがだんだんと頭に浸透して、ひどい言い方をしたと思うと、ますます乱馬の顔が見れなくなって、あかねは視線を反らし続けた。沈黙の後、乱馬が言った。

「……少なくとも、あいつらと結婚しようだなんて思ってねえよ」
「な、なによそれ!」

 瞬間的にカッとなる。爆発しそうな怒りが込み上げてきた。
 女の子たちの全員が全員そうだとは限らないにしろ、少なくとも一部には真剣に乱馬のことを慕っている子だっているはずだ。時折感じる視線でわかる。そんな娘達の気持ちをまるで解そうとせず「結婚する気もない」だなんて、なんて言い草だろう。
(女の子の心をなんだと思ってるのよ!)
 信じられない、最低、男の風上にもおけない。
 怒りのせいで頭がクラクラした。
 何故こんなにも苛立たしいのか、あかねはわからなかった。もっと真面目に考えなさいよ──と叫ぼうとした時だ。

「気の毒だろ、相手が……」

 あかねが口を開くより前に、乱馬が言う。

「おれみてーな奴の嫁にさせられる子の方がかわいそーだろ」

「────」

 喉の奥で言葉はつまった。
 急速に怒りが冷めていくのを感じた。
 乱馬は笑っていた。
 でも表情とは裏腹に、その言葉はあかねには重く聞こえた。おどけたように言ってみせているけれど、どことなく自嘲したような響きがあるように感じられたのだ。
 なにをどう言えばいいのだろう。謝るべきなのか、同意するべきなのか、それとも──
 かけるべき言葉が見つからなくて、あかねは黙って視線を落とした。
 そんなあかねをしばらく見つめていた乱馬であったが、ふっと息を吐くと言葉をかける。
「ほら、んなとこに突っ立ってっと、通行の邪魔だろーが」
 行くぞ──と、いつもの声でそう言った。
 あかねはそっと目線を移動させ、乱馬の顔を見て、そしてドキリとする。
 気まずい雰囲気を作ってしまって怒っているのかと思っていた。けれど、乱馬の顔には笑みがあった。何度も見ているはずのその笑った顔が、ものすごく優しい顔に見えた。
「なに、ぼーっとしてんだ?」
「……な、なんでもない」
 乱馬の後について、歩き出す。
 あかねの目線のすこし上に揺れるおさげ髪がある。垣間見える横顔から目が離せなくなった。
 意地悪で、いいかげんで、お気楽。不器用な己とは反対に、なんでも軽くこなして威張ってみせるし、口が悪くていつもすぐにからかってくる──それが乱馬。
 だけどその顔の裏側に、さっき見せたような優しい顔があったことに、あかねは初めて気がついた。
 今まで気づきもしなかった。
 そのことが妙に胸を熱くした。


「──ね、あかね!」
「……え?」
「おまえ、ほんとに大丈夫か?」
 熱でもあんのか?──と寄ってくる顔を押し返す。
「平気、だから。ごめんなさい、ちょっと、考えごと……」
「んな考えたところで、そのかわいくねー性格は直んねーぞ」
「かわいくなくて、悪かったわねっ!」
 反射的に牙を向いた。振り上げた手をひょいと避けた乱馬は、一歩二歩、距離をとって、
「へっ、調子出てきたじゃねーか、そうやって鼻息荒くしてる方が似合ってるぜ」
「誰がよ、ばか!」
 逃げる背中を追いかける。
 決して遠くには逃げないことに気がついた。
 常にあかねの手が届くか届かないか、ギリギリの距離をとって逃げていること今、気づいた。


「待ちなさい、乱馬っ!」
「おめーなんかに捕まるかよ、ばーか」



 意地悪なところも、
 天邪鬼なところも、
 口の悪さも、


 本当は全部裏返しなことに、あかねは今、初めて気がついた。



つづく

 原作のあかねちゃんもこの作品のあかねちゃんも、直向なとことは同じですね。
 そういうあかねを、愛しいと思う乱馬の気持ちも変わらないのかもしれません。
 一番近くに居て、それでいて遠いお互いの距離。好きは嫌い、気にしないは気になる。切ない恋であればあるほど、その裏返しの意味するところも大きいような…。





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