天と地と

第五章  ふたつの影



 誰だろう?
 驚いたことと困惑と、二つの感情を抱いてあかねは呆然としたまま少女を見つめていた。
 背丈は小柄。そう高い方ではないあかねと同等か──もしくはほんの少し低い程度。ほっそりとした身体つきをしていて、けれどちっとも華奢な感じがしないという、なんとも不思議な印象を放っている。
 とっさに乱馬だと思ってしまったのはきっと、髪型のせいだ。少女も後ろ髪をおさげに結っている。それに加え、何故か一回りは大きそうな男物の服を着ていた。
「あ、あの……」
 随分長い間呆けていたらしい。
 少女がおそるおそるといった風に、あかねに話しかけてきた。
「あの……えっと──」
「──あなた、どうしてこんな所に?」
「──ああ……、つまり……」
「ひょっとして迷子なの?」
「いや、迷子ってわけじゃ……」
「じゃあなんなのよ」
 どうにも煮え切らない少女の返答に、あかねの声がつい荒くなる。しかしその後で困りきった少女の顔を見て、胸が痛んだ。なにか言いづらい事情があるのかもしれない。「事情」ということにかけては、あかねは他人を責められないのだ。
「……ごめなさい。無理に言わなくてもいいの。ただ、こんな奥に他の人がいるだなんて思わなくて……」
「──ごめん」
「やだ、どうしてあなたが謝るの?」
「いや──、まあなんとなく……」
 口の中でもごもごと、くぐもった声で返す少女の顔を見て、あかねは肩の力が抜けた。少女はというと、居心地が悪そうに、妙にそわそわとしていた。あかねは安心させるように笑みを作ると言った。
「ねえ、あなた、これからなにか用事でもあるの?」
「──え? いや、別に」
「じゃあ、一緒に町へ行かない?」
「へ? あ……いや、でも──」
 出会い頭、初めて会った人にこうやって誘いをかけていることに改めて気づいて、あかねはあわてて手を振る。
「い、いいの。ただ、一人じゃつまらないし、たまには女の子同士もいいかなって思っただけで……」
「おまえ──あ、いや、あなたの方こそ、誰か待ってたんじゃないの?」
「──ううん、いいの。今日はもう、駄目みたいだから……」
 そう言ってあかねは視線を移す。祠──その小さな祭壇の左側に、平らな石が重なって積まれている。少女の横を通り、あかねは祭壇の右側に結わえ付けてある赤い紐を解き、手に取った。そして意識せずに足元から取り上げていたひとつの石をじっと見つめ、迷った末にそこに置く。
 左側──本来ならばそこには黒い紐があるはずだった。黒い紐──乱馬のもの。
 それは二人で取り決めた合図だ。
 もしここへやって来て、相手がいない時。待っていても来ない時。
 その時は自分の紐を外して、石を置く。ひとつ置けば「町にいる」。ふたつ重ねれば「今日は帰る」。
 これならば相手が来るのか来ないのか、それとももう先に来ているのかがすぐにわかるから──。そもそもはあかねが言い出したことだった。乱馬は「面倒くせー」と言いながらも、それなりに合図を返してくれいる。
「……なに、やってるの?」
「ちょっと、おまじない」
 少女の問いかけに、あかねはそう返した。
 石はふたつあった。もう乱馬は居ないのだろう。けれど、なんとなく。なんとなくまだどこかにいるような気がして、あかねは自分の場所に石を置いた。

 あたしは来てるよ。

 そう残すことで、乱馬に会えるような気がした。
 なにか取り立てて用事があるわけではないのだから、別に乱馬に今日会わなかったとしても問題はないはずだった。けれど何故だかそのことが残念に思えて仕方なかった。
 軽く祠に祈りを捧げると、あかねは振り返って少女に言った。
「あたしは、あかね。あなたは?」
「おれは──あ、あたしは、乱……子」
「乱、子、ちゃん?」
「そう。えーっと、えーっと、とにかく行きましょうあかねちゃんっ」
 なにやら誤魔化すようにそう言い切ると、少女──乱子はあかねの腕を掴み、半ば引きずるようにしてその場を離れる。乱子に先導されながら、もう一度振り返った先に見えた祠が、木々の茂みに隠れて消えた。




「ねえ、あなたはこの町の人なの?」
「いや、おれ――あたしは……」
 あかねの問いかけに、少女――乱子が言葉少なに答えを返す。
 乱子の弁によると、父親と共に買出しに来て、混雑ではぐれてしまったということだった。彷徨っているうちに、あの祠の場所へと迷い込んでしまし、そこにあかねが飛び込んできたというのが事のあらましだ。
「じゃあ、お父様を捜さないといけないわね」
「いーよ、別に。……ったく、あのくそおやじ」
「――え?」
「ああ、いや、えっと、お、お父様ったらどこにいるのかしら?」
 慌てたようにそう言うと、おほほほほ、とわざとらしく笑い声を立てた。
 変わった子だ。
 なんだかさっきから言葉使いがおかしい――というか、妙にどもっている。まるで使いなれない言葉を使っているかのような、そんな印象さえ受ける。
(なんだか、男の子みたいね……)
 きょろきょろと辺りを見回しては、ほうぼうの軒先を覗いている姿は、なんだか落ち着きのない行動で、あかねにある人物のことを思いださせる。
 同じくおさげに結った髪をちょこちょこと跳ねさせて走り回っている男の子――乱馬。
 こうしていつもの道を歩いていても、ちっとも姿を見かけないということは、やはり今日はもう会えないのだろう。
 そう思うと、無意識のうちにため息が漏れた。
「どうしたの?」
「……ううん、たいしたことじゃないの」
「んなぼーっとしてっと、どっかにぶつかっちまうぞ」
「失礼ね、そんなにドジじゃないわよ」
「――よく言うぜ……」
「え?」
「あ――いや、ほら、あかねちゃんて鈍そうな顔してるから」
「どういう意味よ!」
「そのまんまー」
 あかねがいつもの条件反射で振り上げた拳を、乱子が笑って避ける。そんなやりとりすら、なんだか乱馬の存在を思い起こさせて、あかねは楽しくなった。考えてみれば、学舎を辞めて以来、こうやって同じ年の女の子と遊んだりすることはなくなってしまったのだ。
 勿論、今までの友人たちと交流がまったくないというわけではない。けれど、相手からすれば「天道あかね」に対して、そう親しみをこめた――いわば馴れ馴れしい態度というものをとることも出来ない。どこかに遠慮という壁が存在し、心の距離というものを感じては哀しくなる。
 もう今まで通りにはいかない。
 そう身構えてしまうと、彼女たちと会うこともどこか億劫に感じるようになり、ますます距離ができているのが現状だ。


「よくわからないけど、それは相手だけじゃなくあかねちゃんの方にも問題あるんじゃないの?」
「――あたしが、なに?」
「距離ってのは出来るんじゃなく、作るもんだ。相手が作る場合もあれば、自分が作ってる場合もある。そりゃ、向こうから勝手に突きつけてくるよーなもん、気に病む必要なんてねーと思うけど、てめーが作ってる分はてめー次第でうめられるもんだろ」
 あかねが漏らした、かつての学友達について、乱子はそう言った。
「そもそもの原因がなんだったのかなんて、人それぞれだから別に無理に訊こうとは思わねーけどよ、仲直りしてーんならそう言やーいいじゃねーか」
「そんな、簡単なことじゃないわ。それにこっちがそう思っても、向こうが――」
「だから、それは言ってみねーとわかんねーだろ。向こうが本当はどう思ってるのかなんてもん、訊いてみねーとわかんねー」
「それは、そうだけど――」
「なまじ駄目だったとしたって、だからってこっちが諦める必要なんてねーだろ」
「――え?」
「仲良くしてーって気持ちは、あかねの気持ち。それを他の誰かがやめさせることなんてできねーんだし、こっちの気持ちを向こうが汲んでくれるかもしれねー」
 乱子の言い分はわかるようで、わからない。
 それはたしかにそうなのかもしれないけれど、でもあかねの立場としては、いくら自分がそう思っていたとしても、周囲には勝てない。「天道」という名がある限り、周囲の目はやはり、違う。
 未だすっきりしない顔をしているあかねを見て、乱子は呆れた顔だ。
「……ったく、女ってのははっきりしねーよな」
「なに言ってるのよ、自分だって女の子のくせに」
「――あ」
「乱子ちゃんって、変わってるよね。なんだかまるで男の子みたい」
「そ、そうかしら?」
「うん、あーあ、あたしもいっそのこと、男の子だったらよかったのに……」
 あかねは言って、哀しげに苦笑する。
「男の子だったらきっと、こんな風に悩んだり苦しんだりしなくて済んだかもしれないのに」
 二人の間を風が吹きぬけた。
 あかねの長い髪がその風に煽られて空へ流れる。髪を正すこともなく、あかねはそれに身を任せる。
 髪は「神」に通じる。
 長い髪には魔力が宿ると称されており、「光明心」を持つあかねはずっと髪を伸ばし続けていた。
 勿論、単なる迷信に過ぎない。けれど、城としてはそのことを重要視しているきらいがある。そういった形が時として大事であることは、あかねにだってわかっている。見えないなにかに期待して、それを崇め、頼るのが人間というものだ。
なにも出来ないのだから、せめてもの象徴として、あかねは長い髪を保っている。
「こんな風に長い髪なんて止めちゃって、なにもかもやめちゃって、全部全部、なくなっちゃえばいいのに――」
「ばかじゃねーのか、おまえは」
 そう言われ、あかねは右隣に座っている乱子を振り向いた。邪魔になる髪を手で押さえて見えた乱子の顔に、どきりとする。
「悩みのない人間なんて、いるわけねーだろ。誰だってなにかしら持って、そんで毎日暮らしてんだ。やめたいなんて言ったって、なんも始まらねーんだよ」
 乱子はまっすぐに前を向いていた。
 遠い空に向かって、なにかに挑むような瞳をしていた。
 不意に立ち上がると、あかねを見下ろし、手を差し出した。
「そろそろ帰るか。もうすぐ日の入りだ」
「――でも、あなたのお父様は……」
「いーよ、居場所の見当はついてる」
「え、じゃあ、どうして――」
 どうして今の時間まで自分に付き合ってくれたんだろう?
 もしかして強引に誘ってしまい、断るの断りきれなかったのだろうか?
 あげくに相談ともつかない己の愚痴をぶちまけて、なんだか怒らせてしまった。
 色々と考えて、あかねは下を向いた。
「なら、早くお父様の所に……。きっと心配してらっしゃるわ」
「なんの心配だかわかんねーけどな」
 乱子は立ち去らない。
 あかねを待っているようだ。
「ほら、行くぞ、あかね」
かけられた声の響きと、見上げた顔が、乱馬のそれと重なって、あわてて目をこする。
どうかしている。
「な、泣くこと、ねーだろ」
「泣いてないわよ、ばか」
 途端慌てた声を出す乱子の様子がおかしくて、あかねは笑った。
 笑顔を取り戻したあかねを見て、乱子もまた微笑む。
 しばらく歩いて、そして二人は別れた。遠ざかるあかねの背中を見送り、見えなくなったのを確認した後、乱子は父親がいるであろう場所へと向かった。
 いくつかある中の町の通りのひとつ。入り組んだ小道を迷うことなく進み、ひとつの小屋の扉を開けた。
「おう、遅かったではないか。どこをほっつき歩いておったんじゃ。先に帰るところじゃったぞ」
「だったら先に帰ってろよ」
「ほう、貴様この父に隠れてこそこそと……、そうかそうか、そんなにいい女でもおったか」
「ば、下種なかんぐりしてんじゃねーや、このくそ親父っ!」
 そう言葉を吐くと、少女は小屋の隅においてある、湯気の立つタライを取り上げ、躊躇いもなくその湯を頭からかぶる。
「ううむ、ムキになるところを見るとますます怪しい。のう、乱馬」
「うるせー!」
 怒声とともに、大きなタライが飛んできて、父親はそれをひょいと避けた。がしかし、時間差で飛んできたもうひとつのタライを避けきれず、撃沈する。
 湯気の中に立つのは、さきほどの姿から一回りは大きくなった体躯。頭を濡らし滴りおちる湯が足元に水たまりを作っていく。張りついたおさげ髪をピンと跳ねさせ、机の隅に水滴を飛ばした。


「……あいつは、そんなんじゃ、ねーや」


 父親の言葉にどこか戸惑いを覚えながら、少女から大きく姿を転じた少年――乱馬は、憮然と呟いた。







あたしの書く「小説」は、妙に説教くさいものが多い。
主張がダイレクトすぎて如何ともしがたいですね。もっと「さりげなく」書ける人になりたいと思います。


乱馬の謎。
女になっても少年の心は少年。らんま作品の根底には、こんな単純明快なテーマも流れているような気がします。
互いに距離を詰めていくことができるのか。あかねの悩みが解決する日が来るのか。
気になる話は続きます。
(一之瀬けいこ)


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