天と地と

 第四章  薔薇の茂み




 長い回廊を歩いている。
 遥か高くにある天窓から降り注ぐ陽射しは、暖かな熱を持って届く。昼のこの時間――太陽が頂点を過ぎ、少しずつ傾き始める頃。この時間に届く陽射しが一番心地よかった。
 姉に返す本を抱えたままで、しばしまどろむ。
 白い光に溢れたこの場所は、城の中で一番日当たりがいいのではないだろうか?
「あかねちゃん?」
「東風先生……?」
 振り返ると、そこにはあかねの師が居た。この場所に降る陽射しと同じくらいに柔らかで、暖かな笑みを浮かべた東風が、あかねの許へと歩いてきた。
「いつ帰ってらしたんですか?」
「つい昨日のことだよ。それより、僕がいないからって勉強サボったりしてないよね?」
「もう、そんなことしませんよ!」
 冗談めいて言われ、あかねもまた苦笑を返す。
 あかねに力があるとわかってから、今まで通っていた学舎を止めざるを得なくなった。無用な争いを避けようと父王が判断したせいだ。
 その配慮については口を挟むつもりはない。級友から、同じようでいてもやはりどこか違った目で見られることは、やはり居たたまれない。あかね自身は変わったつもりはなくとも、周りはそうは見てくれないのだ。
 学舎へ通う代わりになるようにと付けてくれた教師が、今あかねの前に居る男・東風だったのだ。元々、この城で侍従として働いていた彼。剣の腕前に加え、医療の知識を有している彼の存在は、父王も高く評価している。多彩な知識や冷静な判断を下すことも出来る東風は、度々父の仕事の一環として城を離れる。今回も約二十日ほどにわたりここを空けていたことになる。
 そんな状態では授業どころの話ではないのだけれど、学舎に在籍していた頃から成績の良かったあかねである。そんな不規則な授業にもきちんとついてくる――東風にとっても彼女は優秀な生徒だった。
「しばらくは城にいらっしゃるんですか?」
「う〜ん、それは早雲様次第だねえ」
「……そうですか」
 そう呟いた後で、ふっといいことを思いついたような顔をして、あかねは東風に言った。
「かすみお姉さまにはもう会いました?」
「――え!?」
「今度の遠征は長いわねえって、言ってましたよお姉さま」
「か、かすみ、様が?」
「はい」
 答えて、あかねは笑いをこらえる。
 いつも紳士然とした東風の一番の弱点が、一番上の姉・かすみであることは、もう周知の事実である。ついさっきまで悠然と構えていたはずの師が、かすみの名を耳にした途端、固まり強張り狼狽する――。久しぶりにみたその挙動がおかしくてたまらなかった。
「……そうだわ。ねえ、先生。この本、ちょうどかすみお姉さまに返そうと思ってたんです。渡しておいてくれませんか?」
「え、ぼ、僕が、かい?」
「ええ、お嫌じゃなければ」
 そう言って抱え込んでいた本を手渡す。狼狽し、うまく受け取れないでいる師の手にしっかりとそれを握らせて、あかねは一礼した。そのまま立ち去ろうとするあかねに、少し落ち着きを取り戻したらしい東風が思い出したように口を開いた。
「そうだ、あかねちゃん。あの四人組は相変わらずなのかい?」
「……ええ、まあ」
 こちらはあかねの方が答えにくい――あまり歓迎しない話題だった。
 相変わらずだといえば、相変わらずだ。
 欠落を埋めた暁には、なんの落ち度もない完璧な人――高名を得る。
 彼らの願いはわからないではない。あかねだって「欠落者」だ。もう情けないくらの不器用さがなくなったとしたら、どれだけいいだろう。
(そうなったらもう、不器用だなんて言わせないんだから!)
 けれど自らがもつ「光明心」というものは、他者に対してのみ有効らしい。己の欠落は埋められないのだ。
 ならば一体なんのための力だろう。
 誰かのための礎でしかないじゃないか。
「光明心」を宿した時点で、あかねは自分のためではなく「誰かのために」生きることを強いられたのと、同じなのだ――

 東風と別れて、途端手持ち無沙汰となったあかねは、そのまま部屋へ戻るのもためらわれて庭へ出る。北へ伸びる道を選び、塔へ赴いた。
 城にはそれぞれの方角に塔が立っている。
 その昔、争いがまだ多発していた頃、戦況を見るための塔として使われていたらしいが、今は単なる物見の塔としての用途が多い。四塔の中でも最も高い場所に位置する「北の塔」が、あかねは一番好きだった。多少荒涼としたところもあるが、それでも下全体を見渡すのには、ここが一番相応しい。
 大きな錠前に鍵を差し込む。随分と長い間北風に曝されているため錆び付いていて、なかなか上手く回らないけれど、あかねは手馴れた様子で錠を外した。コツを心得ているくらいに彼女はここへ出入りしているのだ。
 細く長い螺旋の階段を上っていく時、不思議な気分になる。
 ぐるぐると回って、そしてその先に青く広がる空を見る時、「天」はそこにあるのだと、改めてそう思う。
 天道という名を持っていても、自分たちは所詮「人」に過ぎない。
 自分もまた、天へ続く道を登り続けているだけなのだ。


「あかね殿、このぼくとともに未来へ羽ばたこう」
「貴様、あかねさまに触るなっ」
「あ、あかねさま……、いい薬を調合したんですけど……」
「あかね様、具合が悪いのか?」


 いつも四人まとまってやってくる「欠落者」達のことを思い出すと、また気分が重くなった。
 考えまいとしていること、逃げ出したいと思っていること。そんな自分を彼らはどう思っているのだろうか? 無責任だと内心思っているのかもしれないし、あかね自身のことなどはどうでもいいと思っているのかもしれない。
 選ばれることが大事。
 いずれ城の大臣達も騒ぎ始めるだろう。あかねが選ばすとも、そこで全てが決定されてしまう可能性だってある。そうなると選択権などあかねにはなくなる。自分の意見など、誰も耳を貸しはしないであろうことは、想像に難くない。
(……町へ、行こう、かな……)
 下から吹き付けてくる風に当たりながら、胸中で呟いた。同時に乱馬の能天気そうな顔が頭に浮かんだ。
 なんだか無性に顔が見たくなった。
 そう決めると居ても立ってもいられなくなって、あかねはドレスの裾を翻して階段を駆け下り、その勢いのままで城へ向かい走った。
 もう昼を回っている──いつもよりもずっと遅い時間だ。乱馬がいるとはかぎらないし、今日はもうあかねは来ないと思っているかもしれない。
 会えないかもしれない。
 それでも行くのを止めるつもりはなかった。
 会えなくてもいい。
 会えなければ、捜せばいいんだ。
 脱ぐのももどかしく、いっそこのまま降りていきたい気持ちでいっぱいだったけれど、それを制止する理性は頭の片隅に残っていた。それでも脱いだドレスを寝台に放り出したままでテラスを抜け、滑るように縄を伝い、裏庭を走り抜けた。庭師に見つからないように大きく迂回し、薔薇園をぐるりと回っていくことに焦りを感じた。
 中の町に続く道を駆け下りる。
 中央を通るメインストリートを避けるようにして小道に入る。幾つもの角を曲がり、細い道に入り込み、堀と生垣とを両脇にたたえながら、あかねはただひとつの場所を目指していた。
 秘密の場所──そういうと大袈裟かもしれない。
 それでもあかねにとっては、そうだった。
 初めて乱馬と会ったあの日。
 足の向くまま行った結果、細い道をいくつも通り、辿り着いた場所。
 一見するとただの雑木林にしか見えないけれど、その木々のトンネルを潜り抜けると小さく開けた場所がある。ぽっかりと円心状に広がり、空が見える。隅には小さな祠があり、壊れそうなくらいに朽ちかけていることから、人の手入れがないことが伺われた。こんなところがることすら、もう覚えていないのかもしれない──そんなひっそりとした場所だった。
 走りながら、あの日、帰り際に約束したことが蘇ってくる。


「また明日、あそこで待ち合わせな」


 勝手に決めないでよ──と文句を言ったけれど、乱馬はそれには答えず町へ消えていった。
 翌日、興味半分でそこへ向かい、本当に乱馬がいたことに驚いた。
 相手も同じ気持ちだったのか、目を丸くしてあかねを見ていた。
 それから、ずっとだ。
 町へ降りる時、最初にそこへ向かうようになった。
 約束はないけれど、それでもそこに行くようになった。
 目前に見えた林の中へ飛び込んだ。何度も足を運んだせいで踏み倒された細い道を行く。
 いつもよりも早く走ったせいだろうか。いつになく鼓動が高まった。
 木々の先には明るい光。そこに人影が見えた。
 乱馬だ。
 乱馬がいたんだ。


「乱馬!」


 あかねは走りこんだ。

 その呼びかけに振り返ったのは、一人の少女だった。





 つづく






あかねの孤独。
天道と言う名を持っていても人。
彼女の持つ「光明心」とは何なのか。物語は続きます。
(一之瀬けいこ)











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